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黒く滲む

 最初にアレの存在を視認したのは、もう一週間ほど前のことになる。
 ゆたかと知り合ってから1人でいる時間は激減し、下校時間も例外ではなかった。
 だからその日も私は彼女と談笑しながら――私はほぼ聴き手に徹したが――家路についていた。

 そのとき、ふと、見えた。

 あの何ともいえない第一印象は、私の頭の片隅で圧倒的な存在感を放っている。
 まず、黒い靄が固まっているのかと思った。
 次に、それは黒い制服を着た黒髪――とんでもないボリュームの――少女だと理解した。
 理解したのだが、誰かに無理矢理に納得させられたような、そんな違和感が付きまとう。

「みなみちゃん? どうかしたの?」

 ゆたかの言葉を聞くまで、視線だけでなく意識まで奪われていたことに気がついた。
 あの少女のことで頭が埋め尽くされていた……説明のできない威圧感が、そこにはある。
 私はちょっとした寒気すら覚え始めていた。

「……ううん、なんでもない」

 ゆたかに話してみようか、とも思ったが、気づいていないらしい彼女を無理に怖がらせたくはない。
 このまま立ち去ろうと意を固め、最後にもう一度だけ視線を向けた。

 黒い少女は、確かにこっちを向いていた。

 その次の日も、さらに次の日も、黒い少女は同じ場所に立っていた。
 ゆたかや田村さん、パトリシアさん。そのうちの誰と下校していても、だ。
 そして、私の自意識過剰でなければ、必ずこちらに視線を向けていた。
 さすがにここまでされると気味が悪くなる。
 私は注意を喚起する意味で、一度だけ黒い少女のことを口にした。
「え? それ、なに?」
 ゆたかのその反応が、すべてを物語っていたとも言えよう。
 聞けば、田村さんもパトリシアさんも、それの存在に気づいていないらしかった。

 私にしか、見えない。
 その夜、私はベッドの中で寝返りを打ちながら強引に結論をつけた。
 
 ――あれは幽霊だ。

 オカルトが過ぎるとも思ったが、そんな考えが自然に出るほど常軌を逸した存在感だった。 
 では、幽霊だとしたら、どうなるというのだろう。

 ――もしかして、私が目当て?

 背筋に感じるものがあった。それは黒い少女への純粋な恐怖の他に、友人たちへの恐怖もあった。
 私が狙われているのであれば、当然、友人を巻き込まないために距離を置く必要がある。
 しかしそんなことが私にできるのか? あの温かさを知った私に。
 いや、それよりもそのことが知れたら――彼女らは私と共にいてくれるのか?
 私は自分で立てた仮定を撤回したくて仕方が無かった。

 しかし私の心には、あの少女のように黒い染みが残された。


 SOS団、という部活がある。
 生徒の悩み相談、しかも不可思議な件のみを請け負う謎の団体だ。
 団長の涼宮ハルヒ先輩は……まあ、エキセントリックに過ぎる方なのだが、
 その補佐役に収まっている通称キョン先輩は信用の置ける人だと私は認識している。
 彼なら、大事にすることもないだろう。思い切って、黒い少女にまつわる考察を話すことにした。

「いや、幽霊とかそういう類じゃ……ない」
 少々言いよどみはあったが、キョン先輩はそう言い切った。
「岩崎が言ってるのは、たぶん九曜のことだと思う」
「九曜?」
「周防九曜。俺の知り合いで、れっきとした……人間だ」
 また謎の間があった。しかし私の注意はそれとは別の箇所にいっていた。
 先輩が下の名前を呼び捨てるなんて珍しい。
 私の知る限りでは、双子の柊先輩に対しては区別のために呼んでいる節があるので、
 純粋な意味で下の名を呼び捨てにしているのは涼宮先輩だけのはず。
 周防九曜さんは、先輩の中で涼宮先輩と同じ位置にいる……?
「……どういう関係なんです?」
「いや、だから知り合いだって。しかもどっちかと言うと折り合いが悪い」
 ああ、すべて納得した。
 田村さんが言うところのツンデレ属性である先輩は、そういういがみ合う相手を欲しているのだろう。
 難儀な人だ。一途に尽くしてくれそうな女性は周りに何人もいるというのに。
「ただ……九曜が岩崎に何の用があるのか、気になるな」
 先輩が呼び捨てにしている人から気にかけられている……嫌悪感はなく、むしろ高揚感がこみ上げる。
「うん、今のところは心配しなくていい。まあ、俺の方もいろいろかけあってみるからさ」
 よろしくお願いします、と応えて教室へと戻った。やっぱり、先輩に相談して良かった。


「なんだよ、気味の悪い奴だな――雪女かよ」

 雪女――表情、口数共に乏しく、決して社交的とは言えない私にかつてつけられた仇名だ。
 付き合いは長いはずだが、ずいぶん、久しぶりに聞いた気がする。

 ホームルームが終わって、帰り支度をしていた矢先のことだった。
「こういう寒い日は、小早川みたく保健室でゆっくりしてたいよな」
 悪気はなかった、と思う。でもその男子の言葉は、ゆたかを貶めているような気がして。
「悪気のない一言でも人を傷つけるコトがあるから気をつけた方がいい……」
 それでつい熱くなって、しゃしゃり出てしまった。
 その結果が「雪女」である。
 きっとみんな、普段から私のことをそう見ているのだろう。気味悪がっているのだろう。

 なんだ。
 私だって、あの幽霊のような少女と変わりない……。
 ゆたかだって、きっと迷惑だったに違いない。私が余計なことをしたせいで。

 私のような気味の悪い「雪女」と関わって。

 私の心についた黒い染みは、次第に滲み出して侵食を始める。
 深く、静かに、ゆっくりと広がっていく。
 食い止めようにも、心は氷に覆われていて手出しができなくなっている。

 どうしようも、ない。


「みなみちゃん、ありがとう」

 ゆたか。

「ありがとう、私、すっごく嬉しかったよ」
 その一言は、とても温かかった。本当の雪女のように凍りついた私の心を瞬時に溶かすほど。
「熱い岩崎さんってのもいいもんだねー。おみそれしたっス」
「ミナミは漢【オトコ】でスネ! ユタカは幸せ者ネー」
 田村さん、パトリシアさん。
 ――どうして、私は離れることを考えていたんだろう。こんなに優しい人たちと。
 疑ってしまったことをひどく後悔した。
 みんな、ありがとう。そして、ごめんなさい。

 溶けた氷は温かな水になり、心の黒い染みを洗い流していく。
 途端に、あの少女のことが気になった。
 何故かはわからない、でも、染みが薄まってしまう前に、しなければならないことがある気がした。


 その日は4人でいっしょに下校した。黒い少女はやはりいつもと同じ場所にいて、私にしか見えなかった。
 ゆたかたちと別れたあと、私だけ来た道を引き返した。
 ――私にできることを。

 空は、灰色に覆われていて、ところどころ黒く染まっていた。

 人は見かけで判断してはいけない。
 私は、その教えを絶対に守らなければならない人種だった。だって、私自身が誤解されやすいのだから。

 あの黒い少女――周防九曜さんだって、そうなのかもしれない。

 味方になってあげられるのは私だけ。そんな大層な決意すら抱いていた。
 ゆたかに、田村さんに、パトリシアさんに――友達にしてもらったことを、誰かに返す番だ。
 私にできることは、それしかない。でも、それはきっと最高の方法だ。

 雨の気配が強まっている。自然と、早足になった。

 今にも雨が降り出しそうな天気。それでも、黒い少女はそこにいた。
 雨に濡れたところで滲む気配など微塵も見せない強烈でさえある存在感をまとって。
 決意は固めてきた。あとは、具体的に何をするか、だ。
 ――いや、そんなことに悩む必要はない。
 ゆたかと出会ったきっかけだって、彼女と友達になれるとわかった上でしたことではなかった。
 友達とは「なっているもの」。きっかけに拘り何もしないより――私はとてもシンプルな行動を選んだ。

「周防、九曜……さん」

 その日、私は初めて黒い少女に声をかけた。いきなり名前を呼ぶのは不躾かもしれなかったが。
 黒い少女は、緩慢に動き出す。私に向かって、足を進める。

 


                 ガッ

 

 

 ――ぽつり、と水滴が地面を濡らした。

 

 雨に打たれながら、事態を把握するのに通常より多くの時間を要した。
 真っ先に視界に入ったのは、いつの間にか私と少女の間に立っていた長門先輩。
 そして、長門先輩の右腕を掴んでいる、黒い少女の手。
 ミシッ――通常、人体から聞こえるはずのない音。なのに、それが、長門先輩の腕から。

 長門先輩がいなければ、掴まれていたのは私の腕だった。

 眩暈のような感覚に襲われる。目の前の視界が失せて、立っていられなくなる―――。
 岩崎、と囁く声。気がつけば、キョン先輩が支えてくれていた。
 
「――長門有希……?」
 黒い少女は、私に向けていた光のない瞳を僅かに長門先輩に傾け、
「――間違えた――」

 そう言い残して、少女は私の視界から消えた。

 走り去ったとかではなく、滲んで消えるような、そんな感じで。
 もちろん、そんなことあるはずがない。雨が目に入っただけ、そう結論づけた。

 あるいは、

 私が泣いていたからかもしれない。
 景色はどこまでも滲んで見えた。
 キョン先輩の胸を借りて、私は声を押し殺して涙を流し続けた。


 灰色の空から零れ落ちる水滴がアスファルトを黒く染め上げていく。
 私は教室の窓から、その様子をぼんやりと見下ろしていた。
 雨は昨日から降り続けている。
 あれから、私はキョン先輩と長門先輩に送られて帰宅した。
 先輩たちは、九曜さんについて何も言わなかった。私に気を遣ってくれたのかもしれない。
 私の何が悪かったんでしょうか――そう尋ねたかったけど、許される空気ではないように思われた。

 きっと、私の傲慢さが招いた結果だったのだ。
「味方になってあげられるのは私だけ」――なんて押し付けがましい考えだろう。
 これを見透かしたから、九曜さんは怒ったんだ。そうに違いない。

 心に着いた黒い染みはとっくに淡く滲んでいたが、とれることはなかった。

「ねえ、みなみちゃんてば」
「……ごめん、ゆたか。どうしたの?」
 ゆたかはお弁当を携えていた。もうお昼休みか。午前中の授業はどうしていたか記憶が曖昧だ。
 鞄に手を伸ばし、弁当箱を取り出す。
「食べようか」
「その前に、お客さんだよ?」
 ゆたかが朗らかなのはいつものことだが、今は一段と笑顔に磨きがかかっている。
 どうしたことだろう、と首を傾げるついでに彼女の指差す先を見てみてば、

 キョン先輩が手招きしていた。


 先輩に連れられて来た先は、文芸部室。SOS団の拠点となっている部屋だ。
「岩崎に、どうしても会ってもらいたい奴がいてな」
 乙女回路を起動させれば、この中で待っているのは先輩のご両親ということになるがありえないので却下。
 しかし、常識的に考えても、わざわざ私に会いたいなんていう人がいるとは思えないのだけど。
 先輩がドアを開ける。そして私の目に飛び込んできたのは、

 黒く圧倒的な存在感をまとって、確実な違和感として君臨する、周防九曜さんだった。

 思わず身構える私の肩を、先輩が優しく叩く。
「話があるらしいんだ。聞いてやってくれ」
 失礼な話だが、躊躇してしまった。こちらに非があったとは思っているが、手をあげられたには違いない。
 それでも、部室にはキョン先輩のほかに長門先輩もいるようだし、万が一の事態は避けられそう……。

「……わかりました」

 机を挟んで向かい合う。こうして近くにいると、やはり九曜さんからは人外のオーラを感じてしまう。
 さて、どう切り出すべきか。それとも九曜さんの出方を見るか。
 私は口下手だしできれば相手にすべてを委ねたいのだが、九曜さんはどう見ても饒舌とは思えない。
 これは、八方塞。 
 冗談ではなく無限に思われた沈黙の中、ようやく九曜さんが口を開いた。

「――話がある――」
「……それは聞きました」
「今度は――間違えない――あなたが……それ」
 まるでいちいち口の動きを確かめているようにぎこちない喋り方だった。
 いや、そんなことより。わけがわからなかった。
 助けを求めてキョン先輩を見ると、先輩は「やれやれ」と言いたげに目元を押さえていた。


「つまりだな、九曜は岩崎を長門と間違っていたんだ。本当は長門に用があったらしい」
 現在、見るに見かねたキョン先輩が通訳として絶賛活躍中である。
「でもってあの腕を掴んだ件だが。あれ、挨拶代わりであって悪気はなかったそうだ」
 挨拶代わりで腕を軋まされたらたまったものではないと思うのですが。
 それとも、長門先輩にはあの挨拶をしなければならない掟でもあるのだろうか。
 しかし……私と長門先輩を見間違うとは。確かに似ているところがあるとは思うけど、そこまでは……。
「……先輩、ひとついいですか? 九曜さんは、私にしか見えていなかったようなんですが」
「もともと影が薄い奴だからな。岩崎とは波長が合うなり何なりしたからだろう」
 何だか釈然としない回答だが、信じる他にないだろう。九曜さんは幽霊などではないのだから。
「無闇に怖がらせて悪かったな。許してやってくれ。ほら九曜、お前も謝れ」
 先輩に促され、九曜さんはプログラミングされたような動作で首を縦に振る。
 素直じゃないタイプと仮説を立てていたが、案外従順のようだ。
「あなたの――」
 反省の欠片も見られない、眠たくて死にそうと言いたげな口調だったが、これはこの人の個性なんだろう。
「瞳は……とても、綺麗ね」
「……」
 世界が停止したかと思われた。
 というのは嘘で、あまりの無意味さに私は噴き出してしまっていた。
「わかりました。許します」
 面白い人だ、と思った。いつまでも怖がっているのは損だと割り切れるほどに。
 そして、もっと近い場所でこの人と関わり、ゆくゆくは友達にもなってみたい。
 そのためには、「握手」とか「ごめんなさい」とか、色々覚えてもらうことが多そうですが。


 黒い染みを落とすのは難しい。
 それでも、心に黒い染みがなければ気づけないこともある、救えない人もいる。
 ……私に誰かを救えるなんて大言壮語もいいところだけど。


「みなみちゃん、帰ろっ」
 眩しい笑顔のゆたかに先導され、田村さんとパトリシアさんと連れ立って教室から出た。
 そこで、全員の足が止まった。
 昨日、ゆたかに心無いことを言い、私を雪女と呼んだ男子が目の前に立っていたからだ。
 先頭にいたゆたかは私の背中に隠れてしまい、両隣の2人は威嚇するような視線を送っている。
 いかにも居心地が悪そうに目を逸らす彼に、私は言った。

「昨日はごめん」

 その場にいる私以外の全員が口を半開きにしていた。  
「ばっ……」男子が慌てて言葉を紡ぐ。「ばか言うなよ、悪いのは俺じゃねーかよ」
 その言い方がどうにも子どもっぽく、思わず笑ってしまった。
 他の3人もつられたようでくすくす笑いが漏れ出す。男子だけが真っ赤になって苦笑いしていた。


 黒い染みがあるからわかる痛みもある。かけられる優しさもある。
 でもあった方がいいとは言わない。心に黒い染みを持つことは、辛いことに違いないから。
「着いてしまったら仕方がない、淡く滲ませれば役にも立つ」――そのくらいの気概でいいのだ。


 私は、しばらく心に黒く滲んだ染みを残しておきたいと思っている。

 

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最終更新:2007年10月24日 22:33
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