で、PCR というのは、いわゆる「DNA 鑑定」をするときにも使われるわけです。
ところが、「その DNA の分析が間違っていた」という話がある。いちおう理工系の人間としては、「間違っていたら修正しないといかんのではないか?」と思う。
だから、「酸素」「水素」「窒素」とかいう名前を見ると、「ごめんなさい。勘弁してください。町がってました」と土下座したくなる。本当だったら、「酸素」と「水素」の名前は入れ替えたいところだし、「窒素」というのもなんかしら別の名前にしたい部分があるのだが、いまさらそういう訳にもいかないという世界的な事情があったりするので、世界中の化学者は「見なかったことにする」「聞かなかったことにする」ということにしている。「オキシ」「ヒドロ」「ニトロ」と他所事(よそごと)的に謂っているのが現状だ。
で、「クロマトグラフィ」というのがある。「クロマ」というのは「カラー」と同源で、「色」だ。「グラフ」は「描く」という意味だ(ちなみに「書く」は「グラム」。だから「ステレオグラム」は正しくは「ステレオグラフ」なんだけど、出版関係者(小学館と講談社とインプレス)には、軒並みスルーされた)。
なお、「そんな、誰でも知ってるようなことを上から目線で言われたくねぇよ!」という方は本 WebLog には大勢いらっしゃるだろうけど、そういう人ばっかりがこの WebLog を見てるわけではないので、いちおう解説まで。
そんなわけで、濾紙(丸いものだけじゃなくて、長方形のものも売っている)を細長く帯状に切って、そこいらの食い物をアルコール浸出して、その溶液で濾紙に線を引いて端っこのほうを水に浸して放っとくと、色素が帯(バンド)状に現れる。これを「ペーパー・クロマトグラフィ」という。このあたりは『暮しの手帖』が、食品に色素を添加しているのをペーパークロマトグラフィで見破った、という記事で知った。
で、ここから派生した「カラム・クロマトグラフィ」他の各種技術が生まれて、現在の「DNA 鑑定」につながっている。つーても、「カラムのどこの成分が生化学的に効いているのか?」という話はあるので、そのあたりは人間による官能検査で見当をつけるという。これを「鼻リシス」とか「ペロリシス」「ベロメーター」とか云うらしいと聞いた。
うん。中二でも分かる理屈だよね?
ところが、「分離できる」だけでは一致するの不一致だのとかは謂えませんよね? だいたい人間のゲノムとかいったらどのくらいの長さになるのよ。新型コロナウイルスだって三万程度なんだぞ? 全体の長さを比べたところで、長さが一緒だったら比較できねぇじゃん!
そこで、制限酵素(昔は「切断酵素」と言われていました)というので、「しかるべき場所でゲノムを切断して、その断片をそれぞれを比較する」、というコトになったわけですよ。
とはいえ、それをやっても「切断された破片」に関する相互関係がわかるだけで、そうしたら「1-3」「2-4」「3-5」…は、「ぜんぶ同じ」ということしか謂えないわけですよ。
「それは困る」というので、「比較用のものさし」というものが DNA 鑑定では重要になるわけです。
『殺人犯はそこにいる ― 隠蔽された北関東幼女誘拐事件』のp.147 では、ペーパークロマトグラフィの濾紙の短冊に相当するポリアクリルアミドゲル(要するに、アクリルアミドを重合したらゲル状になった、というだけの話です。高校生だったら理解できる程度の話です)に、「123 塩基ラダーマーカー」、つまり「123」な、「アルカリ性(塩基性)」の、「ラダー(梯子)」の、「マーカー(標識)」を一緒にして、「電気泳動」(要するに、「濾紙の下のほうを水に浸して、上から引っ張り上げる」というのを、電圧をかけることで代替したということです)させたところ、「信州大学の研究者たちの実験で、この123 マーカーとゲルの組合せには問題があることがわかった。」という話になりました。
「贔屓の引き倒し」にならないように言っておきますが、p.147 の「123 マーカーは、物差の目盛が荒すぎたんです」とかいった説明は乱暴すぎます。大森近辺では、「 1mm 単位の金属尺で、百分の一単位を測る」という人はゴロゴロいらっしゃいます。 0.1 mm まで読むのは工学屋の常識、「二十分の一ミリ」くらいでフツーの職人。「0.01 mm」とかいうと、「マイクロメーターでも怪しい」くらいの精度なんですが、軸受とかだとやっちゃう人がいる。まぁ、「現物合わせの一発勝負」のときに「最近は、面白い仕事がねぇ」とかいって不貞腐れている親方が「こんなものは暇潰しだ」とかいって出てくるような仕事なんですけどね。その手の『七人の侍』まと武勇伝は、町工場街では好きなだけ拾えます。
つーワケで、「123 マーカーは、物差の目盛が荒すぎたんです」というのは、「マーカーの精度が低すぎて、何で何を測っているのかがあやふやだった」というコトだろうと推定されるわけですよ。つまりは、「物差の目盛が、狂っていた」ということです。
ですから、『殺人犯はそこにいる ― 隠蔽された北関東幼女誘拐事件』のp.148 の「123 塩基ラダーとシータスアレリックラダーとは、ポリアクリルアミドゲルの移動に規則的な対応が認められることから」云々という「科警研」(科学捜査研究所。警察庁に所属。全国の自治体の「科捜研(科学捜査研究所)」は、名前は一緒ではあるけれども、警察相には逆らえないので「科捜研<科警研」という序列がある)という話には、なる。
うん、それって「比べてみたら、それぞれの物差で「十メートルのほうが一メートルより大きかったんで、単位変えちゃいましたー、あはははははぁ」っつー話ですよね? いや、片方が対数目盛でもう一方が等間隔目盛だったらどうすんのよ、という話です。
ふざけんじゃねぇよ。古代バビロニアの時代、メソポタミアでは「千分の一」の精度を実現しようとして苦労してたんだぞ?
つまり、科警研は、「精度とか有効数字とかわかんないもんね~、あっはっはっはっはぁ~」と言い放って、「そんなの誰も気にしないじゃん」と思っていたのではないか、という話になります。
いちおう理工学系の人間からしてみれば、「それは科警研の本意ではなかった」と思いたくはないので、「警察庁から執拗な圧力があったので、そう発表しちゃった」という、まさに「やってもいないことを、証言させられた」ということになります。
となると、「科警研の S 女史」に、「ごめんなさい」を言わせる機会を失わせてしまった、という点では、司法・行政と著者の双方に責任はありそうな気はします。
で、裁判所は「有罪ありき」で上がってきた物的証拠に基づいて判決を出したわけで、後から「証拠の採否は裁判官の裁量」とか言われて叩かれた句もないわけです。「だったら、出てきた証拠をちゃんとチェックすりゃあいいじゃん」という話がありますが、捜査権があるのは検察と警察だけであって、どっちも「有罪ありき」だから不都合な証拠は出したくない。要するに、裁判官は「警察と検察の手品ショーを見せられている」わけです。
著者が男性であり、「科警研の S 女史」が女性だというのが、(双方の)思いこみとして災いしたのかもしれません。そういう意味では、森・元総理に対する批判には、けっこう認知バイアスがかかっているように思います。
『殺人犯はそこにいる ― 隠蔽された北関東幼女誘拐事件』に関していうと、「自分というものに、ちゃんと向きあわないと、後生が悪いぞ?」に尽きます。
『殺人犯はそこにいる ― 隠蔽された北関東幼女誘拐事件』(新潮文庫)では「S女史」と仮名になっているが、p.462 に、その「S女史」の著作が引用されていて、書名と出版社が書かれている。
おそらく確信的に行われたことだろう。
坂井 活子『血痕は語る』だ。出版年は二〇〇一年なので、現在のようにインターネットの商用利用は行なわれていなかったと思う。いまや「ネット社会」と言われているんだけどね。
「S 女史」には、「『ごめんなさい』が言えなくてどうするの」「さっさと吐いて楽になりなさい」と申し上げたい。
「足利事件」は1990年5月に起こった事件。2000年7月、最高裁が菅家利一さんの上告を棄却。
『血痕は語る』の出版は二〇〇一年。たぶん、満を持しての出版だったろうと思う。
ところが、2013年に『殺人犯はそこにいる ― 隠蔽された北関東幼女誘拐事件』が出版された。
「上層部に強要されて証拠を捏造させられました! 私は被害者なんです!」とかいうのも一つの手だとは思います。
うちらはそんなに器用な性格じゃなかったので、けっこう悲惨で残酷な運命を歩んできましたが、まぁ、ブラック企業の経営者みたいに「世の中は金がすべてだ」みたいに居直ることもできない小心者ではあるし、のうのうと経営哲学を語るほど厚顔でもありません。
『血痕は語る』とか言われると、「お前が騙ってるんだろう」という感想しか、ない。
最終更新:2024年01月22日 16:48