ある夜、一人の少年が月明かりを浴びながらベッドの上に寝転んでいた。
うつらうつらとしながら、次第に心地よい眠りに落ちていく少年。
寝返りをうち、偶然にも窓の方を向いたその時、開いていた窓に見える白いもの。
ねぼけまなこを擦りながら、窓に近づくと、はっきりと正体がわかった。
それは、一匹の猫。
体には黒い縞があり、ふさふさとした毛はぬいぐるみのように柔らかそう。
猫は机の上に座り、金色の目で少年を見ている。
月明かりの夜に迷い込んできた猫。
それは少年を幻想的な世界へと導いているかのようだった。
だが、少年は次の瞬間にその境界を越えた。
「初めまして!」
思わず頭が真っ白になり、目を見開く少年。
なぜならば、今、確かに猫が口を動かし、喋ったのだ。
夢?
そう考え、頬をつねってみる、と、同時に走る熱い痛み。
では、目の前のことは現実なのだ。
「怖がらなくてもいいのにゃあ。あたいの名前は白虎。
西を守護する聖獣にゃ!」
突然のことに、少年はわけがわからなくなった。
構わずに話を続ける猫。
「君は選ばれたのにゃあ、雷の巫女『ホーリーライト』に。
まあとりあえず、案ずるより生むが安し!」
猫が言葉を終えると同時に、少年は白い光に包まれた。
と、同時に体が変化を起こし始めた。
次第に丸みを帯び、華奢になっていく体。
肌理細やかになり、月明かりのような透明度を増していく肌。
元々耳にかかる程度長めだった髪は、艶やかに柔らかになる。
胸の部分には柔らかな2つの膨らみが形成される。
その他の変化が終わり、完全に少女となった少年。
あまりのことに、少女の頭の中は真っ白になる。
「にゃはは! 力は女の子しか使えないにゃあ。平和になるまで、女の子ライフを楽しむにゃあ!」
笑う猫。
それをただただ見ていることしかできない少女。
だぶだぶとなったパジャマがずり落ちた。
「と、まあこんなところかな。
あいつ、かなり厳しくて、私生活も女のまま過ごせって言うんだ。
口裂け女を追っていたっていうのもあるけど、知り合いがいないここに転校した方がいいと思ってさ」
その長く、白い足を椅子の上で組むショートカットの少女「
卜部秋綺」。
短パンからのぞく大胆にも組まれた椿の花弁のように白い足に思わず目をそらす眼鏡の少年「
碓氷冬雪」。
話し終え、机の上にあったジュースを飲み干す。
ここは秋綺の家。
口裂け女と戦った次の日、つまり土曜日に、冬雪達3人は最後の仲間である秋綺と共同戦線の話をしにきたのだ。
彼女らは噂から生じた「アヤカシ」と戦う「
ホーリーメイデンズ」。
ホーリーメイデンズは、四神をその身に降ろす巫女であり、女にしかできない仕事だ。
したがって唯一の男である冬雪の体は変身した時、女性化する。
だが、どうやら男だったのは冬雪だけではなかったようだ。
「なるほど、あんたも苦労してるのねぇ」
と、大げさにうなづくオレンジのカーディガンにミニスカートのポニーテール少女「
坂田夏月」。
適度に日焼けした健康的な肌が彼女に活発な印象を与える。
秋綺はいつもの無表情で言葉を返した。
「まあ、苦労ってほどじゃないけどクラスメイトの好奇の目にさらされたり、
トイレはどっち使えばいいかわからないし、
銭湯で女湯入るとクラスメイトがいてキャアキャア言われるし、
俺の元友達は『なあ、女の体ってどうなのか見せてくれよ。ハァハァ』なんて屑野郎だし」
「要するに、苦労だらけってわけね。」
「僕、ちょっとトイレ……」
元同類として、聞いているのが辛くなった冬雪はその場を抜け出した。
「はぁ……」
トイレから出ると、大きなため息をつく冬雪。
その横から、春花が現れた。
「どうしたんですか?」
にこやかに微笑みかける、蓬色のワンピースを着た三つ網の少女「
渡辺春花」。
穏やかで物腰の柔らかなその笑顔は、まさしく春の花。
そういえば、春花と一対一で話すのは初めてだ。
だが、今の冬雪にとって、これ以上本音を溜め込むのは限界だった。
「僕って……本当に必要なのかなあ?」
「え?」
キョトンとする春花。
「マッドガッサーの時も、口裂け女の時も、僕はなにもできなかった。
戦ったのは、夏月や卜部さんだよ。
練習はしてるけど、術だって全然使えない。
僕に期待してくれてる玄武にはこんなこと言えないし。
こんなんじゃ仲間なんていえない、ただの足手まといだよ……」
全てを吐き出した。
でも、ちっともすっきりしない。
却って、情けないやつと思われたかもしれない。
そう思って、上目遣いで春花を見る冬雪。
その肩に、春花はその百合のように白い手を置いた。
「私だってそうでした。最初は夏月ちゃんの役に立とう役に立とうと思って、夢中で敵に攻撃を仕掛けていました。
ですが、そのうち気づいたんです。
私は風、夏月ちゃんを優しく守るのが仕事だって。
それからです、私が防御や回復に徹し始めたのは。
これまでは、冬雪君の力を生かせる機会がなかっただけです!
これからきっと来ますよ、そういう場面が。
あなたの属性は、火や雷でなく、水なんですから。」
そう言って、優しい微笑を向ける春花。
それに応え、冬雪は笑顔を作る。
「……ありがとう。もう、大丈夫。心配かけてごめん。」
だが、その表情とは裏腹に、冬雪の心は少しも晴れない。
今の冬雪には、どのような言葉も同情にしか聞こえなかった。
同時刻、中学校の体育館ではバスケット部の練習試合が行われていた。
結果はこちらの圧勝。
眼鏡をはずし、満足そうに汗をタオルでぬぐうユニフォーム姿の「桃ノ木三四郎」。
他のメンバーと一線を画した長身と日焼けした肌は普通ならば女子を夢中にさせる。
だが、あることないこと吹聴するその性格が災いして、告白されたことは一度もない。
その横から、スポーツドリンクを差し出す小さな手が現れた。
「お、ありがとう終里ちゃん。」
手の主を見て、礼を言う三四郎。
それは、まるでリスやハツカネズミのようなつぶらな目と二つに束ねられた絹糸のような髪を持つ小柄な少女だった。
マシュマロのように柔らかそうな手足がその少女を一層可愛らしく彩っている。
バスケ部の庶務で一年生の「
源終里(みなもとおわり)」だ。
「お疲れ様、桃ノ木先輩。大活躍だったね。」
「いやあ、僕なんて大したことしてませんよ。」
そう言いながらも、三四郎は悪い気がしない。
入部したての頃から自分を慕っていてくれた終里。
それを三四郎は、まるで妹のように可愛がっていた。
上目遣いで三四郎を見て、無邪気な笑みを浮かべる終里。
天使のようなあどけない顔に、三四郎は思わず思わず見とれる。
終里はその小さな唇を動かした。
「先輩。今日も新しい噂、仕入れてきたよ。」
そう、終里は大切な後輩であると共に、噂の情報源でもある。
それが、終里を可愛がっている要因の一つだ。
三四郎はスポーツドリンクを半分ほど飲み干し、終里に目を向けた。
火照った体が、胃の辺りから急激に冷えていく。
「いつもありがとう。今日はどんな話?」
「『仮死魔』って話。
昔、この辺りで有名な美人がいた。
だけど、ある日彼女は通り魔に襲われ、両手と両足を傷つけられちゃった。
医者の宣告は残酷なもので、四肢が壊死していたらしいの。
絶望した彼女は雨の降りしきる晩、橋の上から身投げを……。
以来、彼女は自分の体を元に戻すため、女の人を食べる怨霊になった。
丁度、彼女が死んだような雨の降りしきる日に、這い回る肉塊となりながら」
口の端を三日月のように歪める終里。
その姿に、三四郎は背筋が寒くなる。
終里は、すぐにその顔を天使に戻した。
「それから、気をつけてね。
仮死魔はこの噂を聞いた人のところに必ず来るから」
「で、でも、その怨霊、女の人のところにしか来ないんですよね。
終里ちゃんこそ気をつけないと」
三四郎はなにより、男に生まれてよかったと心から痛感していた。
そう思うと、気が楽になってくる。
「ありがとうございます、早速広めてきますね!」
バスケ部の面々の方へ走っていく三四郎。
「クス、がんばってね先輩。いつものように……」
終里の呟きは、今の三四郎には聞こえなかった。
次の日、教室では仮死魔の噂で持ちきりだった。
「ねえねえ、仮死魔って……」
「来るんでしょ、噂した人のところ」
「雨の日に」
外は黒々とした雨雲に覆われ、それが噂に一層の拍車をかける。
それを深刻な表情で見つめる夏月と春花。
「これは……」
「確実に出ますね」
そんな状況にも関わらずすまし顔の秋綺に、冬雪は近づく。
「ねえ、ちょっといいかな?」
立ち上がり、廊下を顎でしゃくる秋綺。
「たぶん、聞かれたらまずい話だろ? 廊下の隅でもしよう」
そう言ってさっさと出て行く秋綺の後を、冬雪はついていった。
「実は、術のことなんだけど……」
うつむき気味に話す冬雪。
「なるほど、同じ男の俺ならなにかヒントがつかめるかもって思ったわけだな」
腕組みしながら壁に寄りかかる秋綺。
こうして見ると、彼が本当に元男なのか自信がなくなってくる。
長いまつげ、少しきつめだが涼しげな目、透けるような白い肌、メリハリのはっきりとした体つき。
そして小枝のような指と膝まである紺色のハイソックスに覆われた華奢で長い足。
夏月や春花の可愛らしさとは違う、まるでモデルのような美しさだった。
「……おい、聞いてるのか?」
思わず見とれていた冬雪は、秋綺の言葉により現実に引き戻される。
「ホーリメイデンズがなんで女でなければいけないか。
それは、この国では女は穢れた存在、つまりアヤカシに近い存在だとみなされていたからだ。
だから、境界人である女でなくては聖獣をやどせない……ここまでは知ってるよな?」
こっくりうなずく冬雪。
秋綺はふと、その百合の花弁のような手を見る。
「まあ、この体になってしばらくしたころかな。見えるようになったのは」
淡々と語る秋綺。
「ある日急に、目の前に電気が見え始めるようになったんだ。俺の目だけに見えるみたいで、他のやつらは全然気づいてない。
術ってのは、それを手にとって、武器の形を創造する感じ……かな」
そこで秋綺は顔を上げ、冬雪の顔を見た。
「あんま参考にならなかったかも……悪い」
冬雪は慌てて首を振る。
「そ、そ、そんなことないよ!! う、うん、こつはつかめた感じ!」
どもりながらまくしたてる冬雪に対し、秋綺は微笑みかける。
その顔を見て、少し感心する冬雪。
こんな顔もできるんだ。
それは、秋綺の第一印象からは想像出来ないものだった。
「よかったじゃん、女にならなくてもつかめて。お前の場合、好きな人がいるからな」
「な!?」
思わず大声を出し、顔を紅潮させる冬雪。
黒い瞳を細め、いたずらっぽい笑顔を浮かべる秋綺。
「わかりやすいやつ」
冬雪は頬を膨らませながら、秋綺をにらみつける。
この女、やっぱり最悪。
そう思い、角を曲がろうとする冬雪の耳に、なにかが倒れてくる音がした。
廊下の角には、ドミノ状になって倒れている同級生達。
「あ、ごめん!」
「こっちは気にしなくていいから、続きを!」
「碓氷君って、卜部さんが好きだったんだぁ」
「てっきり坂田さんかと思ってたよね」
ひそひそとささやく同級生。
普段想像できないような満面の笑みを浮かべながら、オーヌサステッキを出現させる少女。
「丁度いいや、こいつらで見せてやるよ。力の使い方」
「あわわわ! 駄目駄目!!」
冬雪は秋綺のか細い腕をつかみ、必死に制止する。
丁度同時刻、職員室でもその噂で持ちきりだった。
「仮死魔? ああ、三四郎のやつがまたそんな噂を……」
苦笑する、音楽教師の「小向進介」。
大体幽霊や妖怪というもの自体信じられない。
聞いた人のところに来る。
それは、不幸の手紙の変形パターン以外の何ものにも聞こえなかった。
職員室を出て、音楽室まで歩いていく小向。
音楽室まで着き、扉に手をかけたその時、中からピアノの音が聞こえてきた。
途切れ途切れに鳴り響くピアノの音は、小向に不快感を与える。
誰かが好奇心で弾いているのかもしれない、授業で使うからという名目でやめさせよう、
聞いているだけで胸がむかついてくる。
そう考え、小向は扉を開ける。
気持ちが現れているせいか、扉の開け方も荒々しい。
だが、小向を待っていたのは静寂だった。
辺りには誰かいた形跡すらない。
首をかしげる小向。
と、その時、再び鳴り響くピアノ。
思わず目を移し、悲鳴を上げそうになる。
度重なる年月のため黄ばんだ鍵盤の上には、赤紫のどろっとした液体が大量に散りばめられていた。
液体は鍵盤を滴り落ち、床にまで垂れている。
途端に、轟音が響き渡り、勢いよく破れる天井。
穴からは片栗を水で溶いたような粘性を持つ液体が滝のように流れていく。
それは、一気に小向を飲み込んだ。
息苦しさと混乱により、手足をバタつかせる小向。
全く状況がつかめず、錯乱している。
その体に、変化が訪れる。
髪がだんだんと伸びていき、手足がより白く、華奢になっていく。
中のシャツは白いブラウスに変化していき、胸の部分が競りあがっていく。
袖が短くなっていくセーター。
短くなり、次第にひとつになっていくズボンの裾。
女音楽教師となった小向は、ゼリー状の物体の中で意識を失っていった。
辺りに悲鳴が響き渡り、玄関へと走っていく生徒達。
「やっぱり出たようだな……。変身するぞ」
純白のオーヌサステッキを掲げようとする秋綺。
それに対し、素っ頓狂な声を上げる夏月。
「え、ここで!? あれは誰もいないからできたけど、あんな恥ずかしい格好クラスメイトに見られたら……」
「お、俺だって嫌だよ! 特に、俺なんて元男だし……」
秋綺はそう言って、恥ずかしそうに顔を桃色に染める。
その時、奥の方の廊下から声が響く。
顔をそちらに向けると、翡翠の袴状のミニスカートと鶯色の着物に身を包んだ春花がいた。
「なにしてるんです! 早く戦わないと!」
そう言って、音楽室の方に駆けていく春花。
「なあ、あいつって度胸があるのか? それとも羞恥心がないのか?」
「たぶん後者」
苦笑しながらステッキを構える二人。
その後ろで冬雪は、静かに決意を固めていた。
――今度こそ、みんなの役に立つ。
今回が最後の機会だと心に決め、碧いオーヌサステッキを掲げる冬雪。
「古(いにしえ)は天地未だ剖れず、陰陽(めを)分れざりし時、
渾沌(まろが)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。
……時に、天地の中に一物生(ひとつのものな)れり。
伏葦牙(かたちあしかひ)の如し。すなわち神となる。国常立尊と号(もう)す」
言霊を唱え、意識を集中させる。
途端に、冬雪の周囲は海のように蒼い光で満たされる。
絹のような柔らかさを持つ髪が腰までふわりと伸びていき、頭には大きく蒼いリボンが現れる。
元々少女のような顔には耳までを覆うゴーグル。
手足がどんどんと白く、華奢になり、その小さな手には白い手袋がはめられる。
学ランは浅葱色の着物に変化していき、小さいながらも胸にふくらみが出てくる。
ズボンの裾は一体化していき、蒼いミニスカート状の袴となる。
無駄な肉付きのない小鹿のような脚を、柔らかな白いストッキングが覆っていく。
最後に蒼いブーツが足に現れ、変身は完了した。
側には、似たような格好となった夏月と秋綺がいる。
もっとも、夏月は紅、秋綺は黄色を基調とした衣装だが。
「ハァ、さっさと終わらせよう……」
疲れたような表情をしながら、夏月達は春花の後を追った。
音楽室の手前で暴れている赤紫のスライム「仮死魔」はすでに大量の人間を飲み込んでいた。
ゲル状の体内には、うっすらではあるが、飲み込まれた人間がぷかぷかと浮かんでいる。
そのどれもが女性、いや、女にされた男もいる。
女しか飲み込まない――つまり、男を飲み込んだら女にするということ。
犠牲者達の黒髪はまるで海草のように揺らめいている。
それを前にし、たじろぐ春花。
これでは、うかつに攻撃できない。
相手を貫通する風の刃では、中の人間を傷つける恐れがある。
「春花ぁ!」
ようやく、夏月たちが現れた。
思わず安堵の表情を春花はこぼす。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!! 燃え上がれ聖焔剣!!」
夏月が九字を唱えた途端、ステッキは炎を纏った剣となる。
剣を振るい、仮死魔に切りつける夏月。
火葬場のような臭いがし、一部が焼き尽くされる。
「キュキュキュ!」
奇妙な鳴き声を上げる仮死魔。
だが、決定的なダメージとは言えない。
夏月の前に進み出る秋綺。
「今度は俺が行く。……雷槍!」
たちまち、雷を纏った槍に変化するステッキ。
轟音と共に、辺りは閃光に満ちる。
光が止み、仮死魔の姿が見えた。
敵は全くの無傷だった。
「こいつ……雷を吸収する」
顔をしかめる秋綺。
「あたしの剣でちまちま攻撃してても決定打にはならない……か。
そうだ、春花! あんたの風で炎を拡散して!」
「は、はい!」
急いでステッキを構える春花。
その時、仮死魔の体に変化が起きた。
なんと、中の人間が表面に顔を出し始めたのだ。
「な!? これじゃあますます攻撃できない……」
唇をかむ夏月。
その間にも、仮死魔はじわじわと迫ってくる。
それを夏月は小出しに炎で攻撃する。
まさに、一進一退の攻防だ。
そんな中、次第に冬雪は絶望に支配されていく。
攻撃型の夏月や秋綺が敵わない敵……役に立たないどころかやられてしまうのではないか。
冬雪の柔らかそうな頬に、冷や汗が一滴流れる。
その戦いを、陰から見ている者が1人。
セーラー服を着た小柄な少女……終里。
終里は押し殺したような笑いを上げながら、手元の木の筆箱を弄んでいた。
「クスクス、今回の能力は集団性転換能力か。
力も上がってきているわね。
じゃあ、ここらへんで止めを刺そうかな?」
そう言って、筆箱の中から付箋紙を出す終里。
そこには1枚1枚、ミミズがのたくったような朱文字が書いてある。
それを5枚取り、その小さな手に乗せる。
「木火土金水。行け式神」
終里が呪文を唱えると同時に、紙は動き出し、まっすぐホーリーメイデンズの方へ飛んでいく。
「クスクス、それじゃあがんばってね。食べられないように」
そう言って、終里はほくそ笑んだ。
ただ1人がんばっていたが、次第に疲れが見えてくる夏月。
肩で息をし、額には汗が滴る。
春花は印を切り、ステッキを夏月に向けた。
「癒しの風よ!」
たちまち薫風が吹き、夏月の体を包み込む。
汗がすっかり引き、体力を回復した様子の夏月。
「サンキュー春花!」
「安心するのはまだ早いです。どっちにしろ、ちまちまやっていては勝てません」
厳しい表情の春花の横で、突如目を見開く秋綺。
「そうだ! 碓氷、お前ならやつを倒せる」
突如名指しされ、冬雪はその丸い肩を震わせる。
「ぼ、僕が?」
うつむく冬雪。
そんなこと言われても、できるはずがない。
確かに、コツのようなものは秋綺に聞いた。
だが、練習を重ねないでいきなりできるとは、とても思えない。
そのようなことを考えていると、突如何か白いものが上の方から飛び掛ってきた。
慌ててしゃがみ、それをよける冬雪。
「な、なにあれ!?」
夏月が指差した方向には、白いドレスを着たフランス人形が浮かんでいた。
その無表情な青い瞳から、感情らしきものは読み取れない。
「ワタシメリー! イッショニアソンデヨ」ナイフを振りかざし、再び飛び掛る人形。
「雷槍!」
槍を振り回し、秋綺は人形を焼き払おうとする。
次々と炎上し、落ちていく人形。
そのうちの1体が、冬雪にナイフで切りつけてくる。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
それをステッキで必死に捌く冬雪。
そのうち、人形に隙が出来る。
やるなら今しかない。
「えい!」
両腕に力を込め、思い切りステッキを振り下ろす。
瀬戸物が割れる音がし、人形は地面に落ちる。
ヒクヒクと痙攣し、やがて1枚の付箋紙となる人形。
冬雪の顔に感激の色が思わず浮かぶ。 ――やった、自分1人でも倒せた。
例え小さな敵でも、倒せたことには変わらない。
その時、冬雪は足になにか奇妙な感触を得た。
足下を見て、声も出ないほど驚く。
仮死魔のゲル状の体が、冬雪の華奢な足を覆っているのだ。
慌てて抜け出そうとする冬雪。
だが、ネバネバとした赤紫の糸を引くだけで、一向に抜け出せない。
まるでゼリーのような仮死魔は、徐々に足を這い上がっていく。
ストッキングに染み込んでくるゲル状の物質。
その冷たくねっとりした感触に、冬雪は思わず叫ぶ。
「な、夏月いいい!!」
仲間が目を向けた時には、もう胸の部分までが覆い尽くされていた。
「碓氷!!」
急いで冬雪の手をつかむ秋綺。
顔をゆがめ、精一杯力を入れるが、少女一人の力ではどうしようもない。
その時、突然仮死魔の飲み込む力が強くなった。
一気に2人は、スライム状の体に全身を飲み込まれてしまった。
「冬雪!! 秋綺!!」
「冬雪君!!」
冬雪の耳に届くくぐもった声。
赤紫一色の視界に映るたくさんの人間。
肌を絶えず刺激する粘りつくような感触。
そして、徐々に奪われていく酸素。
――もう駄目だ、今の自分にはここから抜け出すなんてできない。
ちょっと油断するとついこの様か。
しかし、まさかこんな死に方をするとは。
以前、夏月を守りたいと言っていたことが遠い昔のように思えてくる。
むしろ、役立たずの自分はここで死んだ方がいいのかもしれない――
そう思うと、この息苦しさも心地の良いものになっていく。
次第に遠くなっていく意識。
「さよなら、夏月……」
そのように動かしたさくらんぼのような瑞々しい唇に、なにかが押し当てられる感触がした。
うっすらと目を開ける冬雪。
目の前には、秋綺の端正な顔が、腰にはその細い手が回されている。
つまり唇に感じる、この柔らかい感触は……。
「がぽっ!?」
思わず冬雪はその大きな目を見開き、顔を上気させる。
酸素が気泡となり、口から漏れ出る。
完全に正気に戻った。
唇を離し、そのまま細い四肢を投げ出す秋綺。
どうやら気を失ったようだ。
次第に早まる心臓の鼓動。
自分の、微量だが確かな柔らかさを持つ胸に手を当てる。
――ど、どうしよう、初めてのキスだよ! しかも男と……いや、でも今は女の子同士だし……
にしても、卜部さん僕のことを? とにかく、夏月が見てませんように――
すがるように祈っているうちに気づく。
そういえば、息苦しさが先程より和らいでいる。
ようやく秋綺の奇行の意味に気づく冬雪。
「やれやれ、自分の酸素を全部あげてまで君を助けるなんて、余程期待しているんだね」
頭の中に突如響く声、四聖獣の玄武だ。
冬雪の頭に浮かぶ秋綺の言葉。
「碓氷、お前ならやつを倒せる」
思わず拳を握り締める冬雪。
――そうだ、秋綺が自分を犠牲にしてまでとった行動だ、無駄にしてはいけない。
冬雪の目に、決意の光が宿る。
「君には本当に失望したよ、ボクが受け持った中で一番の駄目さだね。
自分で見つけるのが本当は一番なんだけれど、ボクが今から言う言葉に従ってね」
時間はあまりない――全神経を冬雪は玄武の言葉に集中させる。
「いいかい、君は水の戦士ホーリーアクアだ。4人の中で一番の冷静さ、水の冷たさを持つ。
だから、冷たい水を想像するんだ。君は今、水に体を浸かっている」
「水……冷たい水」
目を閉じ、頭の中に流れる水が浮かぶ。
体の芯から、急激に冷えていくような気がする。
水の匂い、流れる音、そして冷たい感触。
次第に頭が冷え、冴え渡っていく。
「さあ、頭も冷えただろう? 今の君なら、水をどのように使えばいいかわかるよね」
うなずく冬雪。
大気中の水分が、冷え、仮死魔に張り付いていく像が頭に浮かぶ。
「さあ、それだけでは技にはならない。君が技に名前を与えることで、初めて意味を成す」
「わかった……」
ステッキを前に構え冬雪は目を見開く。
その碧玉のような深さを持つ瞳は、凛とした力強さを持っていた。
「玄冬陣!!」
外でなにかが軋むような音がした。
途端に、仮死魔は真っ白く凍りついていく。
ものの数秒で、完全に氷漬けになる仮死魔。
その様子は、まるで雪山のようだ。
「氷……冬雪が!」
ぱっと明るくなる夏月の健康的な表情。
「これなら、私でも倒せますね」
ステッキを前に構え、春花は呪文を唱える。
「奏でよ風の協奏曲……疾風!」
途端に広い袖や艶やかな髪をなびかせながら放たれる風。
容赦なく、仮死魔を粉々に吹き飛ばす。
中からは、飲み込まれた人間、それに冬雪と秋綺が飛び出してきた。
「けほっ、けほっ!!」
「こほっ! こほっ!!」
床にしゃがみこみ、咳き込む二人。
その二人に、夏月と春花は駆け寄る。
「冬雪!!」
心配そうな夏月に、冬雪は笑顔を向ける。
「ハァハァ、中の人……凍傷になったりしてない?」
苦しそうに息をつきながら聞く冬雪。
「大丈夫、凍ったのは一瞬だから」
「はぁ……けほっ、よかったあ……」
安堵し、目を瞑る冬雪。
「うん、本当によかった……」
冬雪が生きていて。
思わずにじんでくる涙。
心配ばかりかけられるけど、この安堵感はなにものにも変えられない。
「やりましたね、冬雪君。今日、みんなの危機を救ったのは紛れもなくあなたです」
その下がり気味な大きな瞳を小さくウィンクさせる春花。
「お礼なら、卜部さんに……」
そう言って顔を秋綺に向けた途端、冬雪は顔を桃色に染める。
同じくらい顔を紅潮させながら、顔を背ける秋綺。
2人の奇妙な態度に、夏月は首を傾げるばかりだった。
その様子を陰から見ていた終里は、こっそり人形を付箋紙に戻した。
途端に、筆箱の中から顔を出すなにか。
それは、金色の体毛を持つ1匹の狐だった。
狐は底意地の悪い笑みを浮かべ、終里に嫌味を言う。
「へへ、どうやら今回も失敗のようだな。俺達十二神将もこれで3人死亡。あーあ、しっかりしてくれよ終里く」
「黙ってろ」
まるで刃物のような声に刺される狐、思わず口をふさいでしまう。
一転して笑みを漏らす終里。
「クスクス、アヤカシの力は強くなっている。
こんな雑魚、いくらいなくなっても構わないわ。
大丈夫、成功するわよ。こっくりの目的も、終里の目的も……」
不気味な笑みだけを残し、終里はどこかへ去っていった……。
最終更新:2007年03月11日 19:44