――目を閉じると、決まって蘇るのは、あの光景。

 ところどころひびの入った、コンクリートの階段。ザラメのような砂利の散らばった、アスファルト。そして、それらを紅く染め上げる、夕陽。
 その真下で、幼稚園ぐらいの少年が、赤黒い液体に身を沈めている。それは、冬雪。どうやら、階段から転げ落ち、頭を打ったらしい。
 オレンジの光線が、冬雪の小さな体を包み込んでいる。まるで、そのまま溶かしこもうとするように。
 「冬くん!! ねえ、しっかりしてよ!! 冬くん!!」
 夏月が、その小さな手で冬雪を揺さぶる。声は震え、視界はいくら目をこすっても歪む。
 そんな夏月に、冬雪は優しい微笑を向ける。その目は、焦点が定まっていない。しかし、それは、普段の冬雪から想像もつかないほど、優しく、澄んだ笑みだった。
 「ふふ、夏っちゃんって……なきむしなんだね」
 今にも消え入るような声。それから冬雪は、そっと夏月の髪を撫でつける。
 「ほぅら……なんにも、こわいことなんて、ないからね。ボクはだいじょうぶ。だからさあ……なかないで、夏っちゃん。いい子だから……」

 ――あれは、あたしのせいだった。
 ――お母さんや冬雪のおばさんから「遊ぶなって」言われていた階段の上で遊んだから。
 そう、全部自分のせい。
 階段から落ちそうになったのも、自業自得。
 なのに、そんな夏月を抱きしめて、冬雪が身代わりに。
 その時、頭を強く打ちつけ、冬雪は失明寸前になった。
 今でも眼鏡をかけているのは、その名残。

 ――なんで、あんな顔ができるのだろう。
 ――いつも泣いてばかりいるのに、こんな時に限って、冬雪は泣かない。
 ――あの時は、本当にいなくなってしまうんじゃないかと思った。

 夏月は、このことを忘れないよう、絵に描いた。
 線の一つひとつ、絵の具の一筆一筆を加える度、針で刺されるような衝撃が襲う。
 こうして完成した絵に、夏月は誓う。
 これから、冬雪に降りかかる火の粉を、全て払い落とすと。
 ホーリーメイデンズを続けるのも、アヤカシから冬雪を守るため。

 だけど、冬雪が自分と同じ、巫女だったなんて。
 しかも、元から女である夏月と違って、技を使えないとは。
 マッドガッサー、口裂け女、仮死魔――何度もピンチにあった。
 仮死魔の時、コツはつかんだらしい。
 なのに、いくら自分が技を教えても、うまく形にすることができない。

 ――このままじゃあ、またあんな目に。
 ――今度こそ、消えちゃうかもしれない。
 ――冬雪が。
 ――あたしの冬雪が。
 ――どうすれば。
 ――どうすれば……。


 机に伏し、頭を抱え込む夏月。その様子が、終里の持つ手鏡の中に映し出されている。
 「くすくす、何度見ても滑稽だね。笑っちゃう」
 終里は、裂けんばかりに、口の端を歪める。

 そこは、漆黒の世界。始まりも終わりもない。上下も左右もない。ただ、音もなく、夜より深い闇が、無限に続くのみ。

 そんな中、傍らにいる夏月は、ゴツゴツとした石の十字架に、磔となっている。体が鉛のように重く、動く気力さえ起きない。暑くもないのに、汗が次々と体を滴る。
 夏月の耳元に、終里はそっとささやく。
 「碓氷先輩を必死に守ろうとしたのは、そういうわけだったんだね。でもねえ、お前がやったことは、結果的に終里達に力を与えた。大蛇復活に必要な闇の力も、お前のを吸い取ったら、終わり。残念だったね、キャハハハハハハハ!!」
 嘲笑を含んだ終里の声。明らかに、夏月を見下している。
 こんなやつになめられてたまるもんか。なめられて。
 「ハァ……ハァ……、うるさい……この、カマ!!」
 喉から声を絞り出す。肺が潰れてしまいそうなほど、苦しい。思わず、咳き込みそうになる。
 ギンと目を見開く終里。同年代の人間とは思えないほど鋭い視線が、夏月の体を鎖のように縛り上げる。心臓が、胸を突き破らんばかりに、激しく高鳴る。
 「言うじゃない……このアマ。今まで生かされていたとも知らずにさ」
 終里は、血のように紅い舌を出し、夏月の首筋をなめる。
 「うぐっ!!?」
 冷たく、ぬめりとした感触。瞬間、夏月の全身に悪寒が走る。
 「柔らかく、なめらか……こんな肌に、昔は憧れてたかなあ」
 小さく呟き、終里は夏月から身を離す。
 「アヤカシを認知させるだけなら、メイデンズはいらない。本当の目的は、お前らの闇をもらうこと。強力な霊力を持つお前達は、それだけ強力な闇を抱えるほどの器を持っている。だから……後押しさせてもらったよ。くすくす」
 目を見開く終里。その瞳は、完全に瞳孔が開ききっている。
 「安心して。いつも一緒がいいんでしょ? 全員から、闇を搾り取ってあげるから」

 全員――……冬雪も?

 途端に顔を上げ、夏月は声を限りに叫ぶ。
 「お願い!! 冬雪には、冬雪には手を出さないで!! 闇はあたしだけで十分なんでしょ!?」
 「多いに越したことはないよ」
 「駄目え!! 冬雪は見逃してよ!! お願いだからあ!!! 冬雪は!!  冬雪だけは!!!」
 喉が張り裂けんばかりに夏月はわめき散らす。その表情には、太陽のような明るさは微塵もなく、悲痛な涙で溢れている。それはまるで、切れ目の無い暗黒の空。


 そんな夏月の顔を満足そうに眺めながら、終里は血色の唇を、ペロリと舐める。
 「そうそう。そうやって、闇に堕ちていきなよ。お前たちホーリーメイデンズも、終里やアヤカシと同じ――化け物なんだからさ」
 今の夏月には、そんな終里の呟きは、聞こえる由もなかった。



 白い太陽の光が降り注ぐ、昼時。そんな時間に、三人の少女と一人の少年が、道を連れ立って歩いている。
 「冬雪ちゃん。目の下にクマができてますけど、大丈夫ですか?」
 「夏月さんのことが心配で、眠れなかったんですね。僕の胸でよければ、貸しますよ」
 「あはは……遠慮しとくよ」
 鶯色のワンピースを着た三つ網の少女「渡辺春花」と大きなリュックを背負った長身の少年「桃ノ木三四郎」は心配そうな顔をする。
 それに対して、背中まである長い髪に桃色のリボンで留めた少女「碓氷冬雪」は、ただ渇いた笑い声を上げる。普段は、しっとりと濡れたスミレ色の瞳も、赤く、腫れぼったい。

 ――なにやってるんだよ、決戦前なのに。

 思わず心の中で呟き、小さく溜息を吐く、ショートカットの少女「卜部秋綺」。その服装は、檸檬色の短パンTシャツといった簡素なもの。
 だけど、不思議だ。臆病で、優柔不断で、おどおどとしているはずなのに、冬雪なら大丈夫という確信に似たものが持てる。うまく口では言えないが、そう思えてしまう。
 その一方で、秋綺の心には、不安がある。

 顔を上げ、秋綺は、チラッと冬雪の姿を見る。
 昼時の太陽を受け、まるで雪面のような肌は、きらきらと光を反射している。春花から借りた淡い水色ブラウスと蒼いロングスカートを纏った様子は、白い肌と相まって、まるで雪の妖精。

 出会った時から女みたいだと思ってはいたが、最近、仕草や言葉遣いの一つひとつが、どんどん女らしくなっている。恐らく、本人や周りは気づいていないだろう。だが、同じ立場である自分だからこそわかる。どんどん遠くなっていくのが。もしかして、冬雪はこのまま、完全に女に。

 「どうしたの、秋綺?」
 ふと我に返ると、キョトンとした表情の冬雪が、秋綺の顔を覗き込んでいる。純粋で、この世の穢れというものを知らないかのような表情。
 「な、なんでもねえ……」
 秋綺はプイと顔を背け、その豊かな胸を押さえる。手には、柔らかな感触と、トクントクンという心臓の高鳴りが。
 ――本当に何なんだよ、この気持ち。
 秋綺には、それが、男としてのものなのか、女としてのものなのか、わからない。
 その時、秋綺の耳に、三四郎の声が飛び込む。
 「つきました……旭小学校です」

 夏場のためか、暑い太陽の光によって、旭小学校の鉄筋校舎はゆらいでいる。丁度、給食時だろう。校門の前からも、児童達の賑やかな声が聞こえてくる。

 「もうすぐ、正午です。28、27、26、25……」
 時計を見て、秒読みを始める三四郎。その横で、三人はオーヌサステッキを構える。
 「14、13、12……」
 三人は声を合わせ、言霊を唱える。
 「古(いにしえ)は天地未だ剖れず、陰陽(めを)分れざりし時、渾沌(まろが)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。……時に、天地の中に一物生(ひとつのものな)れり。伏葦牙(かたちあしかひ)の如し。すなわち神となる。国常立尊と号(もう)す」
 瞬間、周囲は三色の光に包まれる。
 「3、2、1、今です!!」
 叫ぶ三四郎。
 と同時に、四人は校門へ、一気に飛び込む。


 三四郎がうっすらと目を開けると、そこは夜の世界だった。空には月明かりだけが灯り、涼風が、秋綺の髪をサラサラと揺らす。辺りには墨をこぼしたような闇だけが、辺りに深い静寂を落としている。

 「な、なんで夜に!?」
 三四郎は狼狽し、辺りをキョロキョロと見回す。さっきまで、日の光という白が支配していた場所を。
 「ここはアヤカシの世界、なにがあってもおかしくねえ」
 秋綺は、きつい目つきを一層鋭くし、辺りに注意深く気を配らせている。冬雪や春花も、落ち着き払った様子。
 これが……ホーリーメイデンズ。
 話だけなら昨日説明してもらったが、とても信じられなかった。しかし、この異常事態に物怖じしない様子は、同年代の女子に見えない。ここで初めて、現実に直面した気がする。
 そのような考えを三四郎が巡らせていた時、冬雪が奥を指差す。
 「ねえ、あれ」
 その方向には、黒々とした魔王の影が。巨大な「それ」は、秋綺達を飲み込まんばかりに、立ちはだかっている。思わず、三四郎は息を飲む。
 「木造校舎……ですね」
 「うん、僕が通ってた校舎」
 「あそこが、恐らくアヤカシの本拠地だな」
 「な、なんか……帰りたくなってきたんですけど」
 引きつった笑いを浮かべ、三四郎は先ほどから泣き喚く心臓を押さえる。額からは、際限なく冷や汗が。
 正直、覚悟はしていたつもりだった。しかし、いざ目の前にすると、体の芯から震えが伝わってくる。

 刹那。

 「ふぇっふぇっふぇっ、逃がしゃせんよ」
 前方から聞こえる、しわがれた声。同時に、微かな月明かりの下、小さな影が浮かび上がる。
 それは、小豆色の着物を着て、首に赤いマフラーを巻きつけた、老婆顔や腕には、細やかなしわが刻まれ、煙のように真っ白な髪はザンバラ。口には薄笑いが浮かび、所々抜け落ちた黄色い歯が見える。
 「当然、八岐大蛇様の所にもいかせん。このアヤカシ十二神将が一人『四次元婆』がな」
 白濁した目で三四郎達を見つめ、四次元婆は、足下まであるマフラーをはずす。
 「おいおい、四次元婆。抜け駆けはやめろよ」
 「俺達にも」「私達にも」
 「やらせてくれるのが筋でしょう?」
 「あー、みんなやる気満々だね。兄チャン」
 木陰から、砂場から、校舎から、わらわらとアヤカシが。
 「我々はアヤカシ十二神将、八岐大蛇親衛隊です。先に逝った六人の敵を、今ここで取らせていただきます」
 自信満々な態度で、シルクハットの怪人「赤マント」は言い放つ。
 それを尻目に、秋綺と春花は冬雪に目配せする。こっくりとうなずく冬雪。次の瞬間、三四郎の手を引き、一気に駆け抜ける。手袋越しに伝わる細い指の感触に、三四郎は一瞬ドキリとする。
 「ぬっ! 行かせるかあ!!」
 四次元婆は、マフラーを冬雪に向かって投げつける。まるで、鎌首をもたげた毒蛇のごとく、迫るマフラー。

 ――危ない!!

 そう思った時には、三四郎は冬雪を地面に押し付け、鞄の中の物を投げつけていた。それは、肌色に塗られた石。そのまま放物線を描き、マフラーと接触する。
 次の瞬間、蒼白い火花が。
 四次元婆は、慌ててマフラーを手繰り寄せる。
 額に浮かんだ汗をぬぐい、三四郎は大きく溜息を吐く。
 「ふー、四次元婆は肌色の物が苦手なんですよ。効いてよかった」
 そう。好きな女の子のために、動くことができた。三四郎にとって、それが何よりも、誇らしい。
 「ちょっと……」
 真下から、迷惑そうな冬雪の声が聞こえる。ヒョイと目を移した瞬間、三四郎は、顔をゆでダコのように赤くする。
 地面に押し付けられた冬雪は、目に涙をにじませながら、三四郎を睨みつけている。蒼い袴はめくれ、サラサラとしたストッキングに包まれた、無駄な肉付きのない太ももが露わに。微かなふくらみのある胸の上には、三四郎の手が。
 「え、いや、違うんです!! これは男の甲斐性、じゃなくて!!」
 手に残る柔らかな感触に、酔いしれそうになりながら、三四郎は必死に言い訳をする。
 次の瞬間、浅葱の袖が舞う。気づいた時には頬に冬雪の張り手が。
 「ぶっ!!」
 熱い痛みが走り、三四郎は思わず頬を押さえる。
 「うわぁぁぁぁぁぁん!! 汚された!! 汚されたよお!!」
 「え、ちょ、汚されたって、助けたのにそれはないですよ!! 冬雪君!! 冬雪くぅん!!」
 両手で顔を押さえ、校舎へと走っていく冬雪。それを慌てて追う、三四郎。秋綺やアヤカシは、それをポカーンと眺めているのみ。


 骸骨ライダーは、ハッと意識を取り戻し、昇降口へと目を向ける。
 「な!? に、逃がすかあ!!」
 すぐさま獣のような唸り声を上げる、バイク。煙を鋭く突き上げ、校舎に突っ込もうとする。
 が、それをいくつもの矢が襲う。
 骸骨ライダーは、大きくバイクを旋回させ、電ノコのような車輪で、それを叩き落す。
 校舎の入り口に目を移すと、そこには春花が。
 「ここから先は、一歩も通しません。私と戦う、覚悟はおありですか?」
 春花は、にっこりと笑う。まるで、百合のようにしなやかな笑み。だが、そこには力強さが。
 つられて、秋綺も口の端を歪める。
 「そうだな。俺たちの役目は、こいつらの足止め。いや、」
 ヒュンッと空を切る純白のステッキ。瞬時にそれは、細身の槍へ。
 「あいつらが戻ってくる前に、全員ブッ潰してやるよ」
 轟音と共に、紫電がほとばしる。闇を切り裂く白き閃光に彩られ、秋綺は言い放つ。その瞳は、どんな敵をも寄せ付けない、自信に満ちている。

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最終更新:2007年03月11日 19:52