「行くぞ、渡辺!」
 「はい!!」
 秋綺と春花は、同時にオーヌサステッキを振り下ろす。
 「鳴り響け、怒りの閃光!!」
 「吹き荒れろ、青き風!!」
 「『青嵐陣』!!」
 二人が言霊を唱えた瞬間、巨大な竜巻が辺りを包み込む。
 身を捩じらせ、旋風は砂嵐を辺りに撒き散らす。
 青白い雷をまとい、ゴウゴウと轟く様子は、まるで龍虎の咆哮。
 木々を、地面を、アヤカシを、次々と食い散らかしていく。
 嵐が止むと、そこには、なにもなかったような静けさが。ただ、無数の残骸が散乱するのみ。
 「キャ――! 初めての合体技、大成功ですね!」
 春花は秋綺に抱きつき、頬をスリスリとこすりつける。まるで、羽毛布団のように柔らかな感触が、秋綺の全身へ。戦いがひと段落したこともあり、全身の緊張が緩む。
 ――碓氷も、こんなに柔らかいのかな……って、なに考えてるんだよ、俺!?
 「あれ、顔が真っ赤ですよ? もしかして『碓氷もこんなに柔らかいのかな』なんて考えていたんですか?」
 思わず、秋綺はカァッと顔を赤らめる。
 「なんでわか……いやいや、そんなんじゃないから、マジで」
 顔を離し、秋綺は顔を離す。横目で見た春花の口元には、黒い笑みが。
 多分、全部お見通しなのだろう。悔しい。
 その時。
 「春花さん、秋綺さん!!」
 昇降口から、少年の声が響く。目を移すと、そこには三四郎が。背中には、変身が解けた終里を背負っている。
 「三四郎さん!! 無事だったんですね!!」
 春花は、安堵の笑みを浮かべ、駆け寄る。
 「ええ、そちらもご無事で何よりです!」
 「ふふ、あんなアヤカシくらいに苦戦する私たちじゃありませんよ。ねえ、秋綺ちゃん?」
 「だから、その名前で呼ぶなって」
 そう言いながらも、秋綺の顔は、自然とほころぶ。どうやら、八岐大蛇復活を阻止できた様子。先ほどの妄想を忘れ、秋綺はその豊かな胸を撫で下ろす。
 「それで、夏月ちゃんと冬雪ちゃんは?」
 瞬間、三四郎の笑顔が凍りつく。背中の終里は、気まずそうに顔を背ける。
 不意に、秋綺の心を不安が駆り立てる。この二人の様子は、一体なんなのだろう?
 「ねえ、どうしたんですか? 終里さんが帰ってきたということは、夏月ちゃんたちもいるはずですよね?」
 両者とも黙りこくったまま、決して口を開かない。その表情は、この空のように暗く、沈んでいる。
 「ねえ、二人はどうしたんですか!?」
 血相を変え、春花は三四郎を揺さぶる。見かねた秋綺は、急いでそれを引き剥がす。
 「おい、やめろって」
 秋綺が春花の顔を覗き込むと、その大きな瞳は潤んでいる。
 「だって……だって、さっき戦ってる最中、とっても嫌な気分になったんです。まるで、二人が遠くに行っちゃうような……」
 春花の言葉に、愕然とする秋綺。
 それは、自分も同じ。丁度あの時、なんとも言えない悪寒が体を駆け巡った。心の中に、暗雲が立ち込める。もしかして、冬雪になにかが。
 秋綺が思考を巡らせていた時、校舎の中から、紅い影が飛び出す。息を切らせたその姿は、紛れもなく夏月。


 「夏月ちゃん!!」
 パァッと顔を輝かせ、春花は夏月の手を取る。
 春花……また会えて嬉しい。夏月は心の底から思う。だが、今はそれどころじゃない。
 「ごめん春花、こいつを治してあげて!!」
 夏月は、急いで冬雪を背中から下ろす。変身が解け、ところどころ緋色に染まったブラウス。その表情は、先程より蒼白い気がする。
 「冬雪ちゃん!?」
 春花はその翠がかった瞳を、一杯に見開く。
 「碓氷……嘘だろ?」
 呆然とした表情で、ふらふらと冬雪に近づく秋綺。冬雪の側に座り込み、その顔を覗き込む春花。二人とも、目の前のできごとが信じられないよう。
 「冬雪ちゃん……死んだら駄目ですよ。一生のお願いです、目を開けてくださいよ。冬雪ちゃん!!」
 「ったく、バッカじゃねえの? 坂田が帰ってきたのに、お前がいなくなったら、意味ねえだろが。なあ……なんとか言えよ」
 肩を震わせ、うつむく秋綺。地面には、雨でもないのに数滴の雫が。その背中に、三四郎は声をかける。
 「落ち着いてください!!」
 キッと顔を上げ、秋綺は三四郎に食いつく。
 「これが落ち着いてられるかよ!! お前だって、碓氷のことが好きだったじゃねえか!! なのに、なんで落ち着いていられるんだよ!!」
 「冬雪、生きてるよ!!」
 必死の表情で、夏月は叫ぶ。春花はハッと顔を上げ、その耳を冬雪の胸に押し当てる。
 「……動いてます。冬雪君、生きてます!!」
 興奮した表情で、春花は叫ぶ。
 「お願い春花、早く治して!! じゃないと、本当に手遅れになっちゃう!!」
 「は、はい!!」
 春花はオーヌサステッキを構え、言霊を唱える。サァッと、絹糸のように柔らかな風が頬をなで、冬雪を包み込む。傷や血、服の裂け目が、まるで、時間を巻き戻すかのように引いていく。
 その傍らで、秋綺は、三四郎の背中にいる終里に詰め寄る。
 「おい、碓氷をこんな目に合わせたの、お前か?」
 元々きつめな目を一層吊り上げ、声を震わす。そこには、押さえきれない怒気が込められている。それに対し、終里の口元には自嘲的な笑みが。
 「あーあ、碓氷先輩が受け入れるなんて言ってたけど、結局それ? くす、殺したいなら殺せばいいよ。アヤカシとも手を切っちゃったし、もう、疲れた」
 「そんなこと言わないで下さいよ、終里ちゃん!! 秋綺さんも、怒りを納めて下さい。冬雪君を刺したのは、こっくりっていうアヤカシで」
 「関係ねえよ。そのアヤカシ操ってたのはこいつだろ? 桃ノ木、さっさとその女降ろせ」
 「降ろしません!!」

 「やめて!!」

 夏月は、堪らず叫ぶ。口論を止め、一斉にに顔を向ける秋綺たち。
 辺りは、静寂に包まれる。そこには、物音一つない。
 骨が砕けんばかりに、夏月は、両手の拳をギュッと握り締める。

 「確かに……終里はダークメイデンだった。アヤカシを操ってたのも、この娘。だけど、あたしがあんなことしなければ、ここまでやらなかったかもしれない。それに……それに、冬雪だって……」
 再び視界がぼやけ、目から熱い思いが溢れ出す。唇を噛み締め、夏月はそれを押しとどめようとする。
 ダークメイデンとはいずれぶつかる。それは、夏月にもわかっていた。しかし、結果は違っていたかもしれない。みんな無事で、またいつもの日常が。だけど、もうそれは、過ぎ去ってしまったこと。
 「おい……わかるように、きっちり話せよ」
 秋綺は、極めて冷静な口調で、夏月に詰め寄る。
 「夏月さん、いいんですか?」
 心配そうな顔をする三四郎に、夏月はぎこちない笑顔を向ける。
 「うん。あたしが黙ってたからこうなったんだもん。ちゃんと話す」
 もう、誤魔化しきることなんてできない。自分のまいた種は、自分で刈り取らないと。たとえ、そのために嫌われたとしても。
 覚悟を決め、夏月は口を開く。

 夏月の口から事実が飛び出すたびに、春花と秋綺は驚きを露わにする。
 冬雪に昔、怪我を負わせてしまったこと。
 終里をいぶりだすため、三四郎を利用しようと考えていたこと。
 そのために、春花を騙したこと。

 話し終えた夏月は、二人の顔を、まともに見れない。我ながら、本当に最低なことをしたと思う。
 春花と秋綺は、相変わらず押し黙っている。多分、その目線は、軽蔑に満ちているだろう。それも、自分のしたことから考えれば、当然のこと。
 だけど、できれば……できることなら、もう少しだけ、友達でいたかった。
 夏月が、そのような考えを巡らせていた時。
 「碓氷先輩!」
 終里の驚いたような声が、耳に飛び込む。思わず、夏月はバッと顔を上げる。視線の先には、むっくりと起き上がった冬雪が。
 「冬雪!!」
 肩まであるポニーテールを揺らし、冬雪に駆け寄る夏月。そのまま力いっぱい抱きしめる。本当によかった、冬雪が生きていて。自分には、冬雪のいない世界なんて、想像もつかない。
 「ごめんね、冬雪。あたし」
 「あなた……だれ?」

 ――え?

 思わず耳を疑う夏月。
 冬雪は、不思議そうに顔を傾けている。邪気が感じられないその表情は、赤ん坊のよう。瞳には光がなく、とろんとしている。
 「おい、碓氷。こんな時に、冗談は止めろよ!」
 秋綺の言葉に構わず、冬雪は辺りをキョロキョロと見回す。
 「ねえ……わたし、なんで、こんなところに?」
 わたし? これまで女の子になった時、一度も「わたし」なんて言ったことはない。一体、冬雪に何が……。
 「これって……呪い」
 「正確には違うけど、こっくりの仕業であることは間違いないね」
 冬雪の背中から、ピョコッと何かが顔を出す。メロンパンのようなふわふわとした甲羅、ビーズのような瞳を持つ聖獣「玄武」。
 「冬雪が死なないよう、なんとかカバーしたつもりだったけど、失敗したよ。まさか、心を壊されるなんて。そうだろ、アヤカシの巫女?」
 玄武はそう言って、顔を上げる。その視線の先には、終里が。
 「おい、源。どういうことか、説明しろよ?」
 グィッと終里の胸倉をつかむ秋綺。終里は、セーラー服の襟を両手で握り締めながら、ポツリポツリと話す。
 「アヤカシ十二神将、筆頭『こっくり』は、唯一終里が生まれる前にいたアヤカシ。だから、その能力は、性転換じゃなくて、心に関するもの。心を、自在に読み、相手の心を、九本の尻尾で、まさぐる」
 「じゃ、じゃあ、冬雪ちゃんは、そのこっくりっていうアヤカシのせいで」
 終里はうなずく。
 「今の性格は、自分の体を見て、再構成されたものにすぎない。記憶や性格が、完全に破壊されてる。ホーリーアクアに変身できないだけじゃない。男だったことや、その感覚、先輩たちのことだって。ううん、自分のことだって、忘れてるはず……」
 夏月は、終里の前に割り込む。
 冗談じゃない。そう簡単に、忘れられてたまるもんか。
 「ねえ、終里! 治す方法はあるんでしょ?」
 「そうです! 確か、私と冬雪君が入れ替わった時も、一日くらいで元に戻りました。こっくりを倒したんですよね? だったら、そのうち元に戻るはずです!」
 しかし、終里はうつむきながら、ゆっくりと首を横に振る。
 「残念だけど、無理だよ。一度壊れたものは、二度と元には戻せない。たとえ巫女の力を取り戻したとしても、その時の記憶がない限り、男には戻れない」
 夏月は、底が見えないほど深い暗闇に、叩き落される。そこには、光が全く見えない。目の前の少女は、冬雪であって冬雪でない。つまり、いなくなってしまったんだ。冬雪は。結局、守れなかった。あの日、誓ったはずなのに。

 その時だった。空気が、ピンと張ったテグスのように張り詰める。

 顔が自然と強張り、瞳には緊張の色が浮かぶ。体は、まるで氷にでも閉じ込められたかのように、ピクリとも動かない。

 オォォォォォォォォォォォンン……

 ビリビリと体を震わす雄叫びが、旧校舎から聞こえる。地の底から響くような声は、まるで亡者の断末魔。
 ジットリと、夏月の体全体から、暑くもないのに汗がにじむ。心臓の鼓動は早まり、自然と息づかいが荒くなる。恐らく、ヒグマと遭遇したとしても、これほどの威圧は感じないだろう。
 刹那、夜の闇でさえ敵わないほどのどす黒い闇が、昇降口から噴出する。その勢いは、まるで、噴火口から際限なく湧き出すマグマのよう。ボコボコと泡立ち、ヌルリと漆黒の蛇が鎌首を持ち上げる。

 オォォォォォォォォォォォンン……

 再び吼える大蛇。身の丈は、約十メートルほど。その目は闇の中で紅々と輝く。大木のような八つの首からは、黒い粘液が絶えず滴り落ちている。
 「や、や、八岐大蛇!!」
 三四郎は、大きくのけぞる。秋綺は大声で怒鳴る。
 「一旦引くぞ!!」
 その声を聞くや否や、夏月は冬雪の手を引き、校門まで走る。


 「ハァ……ハァ……」
 夏月は電柱に手をつき、息を切らせる。
 ついに、蘇ってしまった。最強のアヤカシが。初代が苦戦したほどの強敵。一体、どれほどの力を秘めているのだろう。
 夏月は、旭小学校の方へ目を移す。そして、思わず、自分の目を疑う。
 月光を浴び、大蛇の首がスルスルと、まるでろくろ首のように伸びていく。ガパッと口を大きく広げ、家の瓦を喰いちぎっている。いや、家ではなく空間ごと。無残にも剥ぎ取られた場所には、ポッカリと漆黒の空間が広がっている。
 「マジかよ……あいつ」
 「八岐大蛇は人間のあらゆる闇を司る存在。光を食み、永遠の夜を作り出す」
 秋綺の言葉を受け、終里は淡々と解説する。
 「黄泉比良坂はそんな大蛇が作り出した暗黒の世界。光は月明かりだけで、時間の進み方だって現実より遅い。ほら、先輩たちが黄泉比良坂に入ったのは昼時なのに、今は深夜の二時くらい」
 「要は、竜宮城みたいなものですね?」
 三四郎の問いに、終里はこっくりうなずく。
 「だけど、黄泉比良坂と現世は統合され始めている。見て、校舎が未だに旧校舎のままでしょ?」
 言われて目を移す。確かに、相変わらず木造校舎が静かにたたずんでいる。それに、ゲートは零時でなければ現世と繋がらないはずなのに、自分たちは出ることができた。
 「大蛇が全ての光を喰らったら、陽は永遠に射さないよ」
 「あ、あいつ、そんなに危険なんですか!?」
 素っ頓狂な声を上げる三四郎。秋綺は、冷ややかに答える。
 「まあ、五人の巫女が苦労して封印したやつだ。それくらい当然だろ?」
 「どっちにしろ、早く対抗策を考えないと」
 「でも、冬雪君が……」
 三四郎がそう言った時、夏月はすっくと立ち上がる。冬雪の側を離れ、ブーツの向きを校門へ向ける。
 「おい、坂田。どこにいくんだよ?」
 「決まってるでしょ。大蛇を……倒す。あたし一人でね」
 夏月は、ギュッと唇を結ぶ。琥珀色の瞳には、覚悟の光が。
 終里の言った通り、八岐大蛇は強大。一人では敵わないかもしれない。だけど、冬雪を守るのは自分の役目。心が死んでも、せめて命だけは守らなければ。それに、これは全部自分のせい。責任を、果たさないと。
 「大丈夫、あんたたちには迷惑かけないから。だけど、せめて冬雪の側に」
 「いい加減にしてください!!」
 背中に、怒声が突き刺さる。ビクッと体を震わし、夏月は振り向く。そこには、厳しい視線を向ける春花が。
 「なんでそうやって、なにもかも背負い込もうとするんです!! 三四郎さんに嘘吐いたこともそうです。そんなことしなくたって、私たちに相談してくださいよ!! 夏月ちゃん、冬雪ちゃん、秋綺ちゃん、私の四人で、ホーリーメイデンズじゃないですか!!」
 夏月の脳裏に、初めて出会った頃の春花が蘇る。ひとりぼっちで、他人と馴染めない、どことなく冬雪に似ている少女。だけど、今の春花からは、それが感じられない。その様子は、しなやかで力強い、風そのもの。
 そのようなことを考えている夏月の肩に、ポンと白い手袋を穿いた手が置かれる。秋綺だ。
 「坂田。碓氷も渡辺も、本当に変わったよ。もう、お前に守られるだけじゃねえ。だから、もっと俺たちのこと頼ってもいいぞ?」
 呆けた表情で、夏月は口を開く。
 「あたしのこと……怒って、ないの?」
 「怒ってますよ、ものすごく! だけど……夏月ちゃんがいなくなるのは、もっと嫌です」
 ふわりと、夏月を抱きしめる春花。耳元で、小さくささやく。
 「この戦いが終わったら、みんなで縁日に行きましょう。ここにいる六人で。勿論、夏月ちゃんも付き合ってくれますよね?」
 あの時の冬雪に感じた暖かさ。どんどん重い荷物が崩れ落ち、体が軽くなっていくのを感じる。春花も冬雪も……本当に強くなったんだ。
 「春花……ありがとう」
 夏月は体が震え、それしか言えない。こんな自分を許し、また受け入れてくれるなんて。自分には冬雪しかいないと、ずっと思っていたのに。
 それを見て、秋綺は口の端を吊り上げる。
 「それじゃあ、反撃開始と行くか」
 一同は、大蛇の方へ顔を向ける。八本の首は濁流のようにくねり、空間を貪る。星空に、家々に、山に亀裂が走り、バラバラと硝子のように崩れる。確かに、急がなければならない。
 「じゃあ、俺と渡辺で大蛇抑えとくぞ。ちっと辛いと思うけど、さっきの延長戦だ。その隙に桃ノ木と源は、五芒星を東西南北にそれぞれ書く。丁度、大蛇を囲むようにな」
 秋綺はそこで、夏月に目を向ける。
 「そして、坂田は碓氷についてやってくれ」
 夏月は、冬雪に目を向ける。冬雪は脚を投げ出し、その場に座り込んでいる。その視線は虚ろで、ボゥッと宙を見つめている。
 確かに、今の冬雪は心配。だけど、これ以上、みんなに甘えてなんかいられない。
 夏月は顔を上げ、大きく首を振る。
 「あたしだって戦う!! みんなががんばってるのに、やだよ!」
 それを、秋綺は制す。
 「坂田、無理するな。お前、体中ボロボロじゃねえか」
 確かに秋綺の言う通り、テケテケとの戦いで体中は切り傷だらけ。だけど。
 「それに、碓氷はこの戦いに必要だ。メイデンズ全員が揃わなきゃ、大蛇は倒せねえ。その碓氷を引き戻せるとしたら、お前しかいないだろ。お前と碓氷の絆は誰よりも強い。そこに俺や桃ノ木が入るスペースなんてねえよ」
 「あれぇ、三四郎さんはともかく、なんで秋綺ちゃんが入ろうとするんですかぁ?」
 「う、うるせえんだよ、お前はいちいち! 例えだよ、例え」
 そんな春花と秋綺のやり取りを尻目に、終里は夏月に目を向ける。
 「坂田先輩。碓氷先輩、言ってたよ。『このまま戻れなくなったとしても、夏月のことを好きでいられると思う』って。本当に、坂田先輩のことが好きだったんだと思う。碓氷先輩はこの戦いに必要。あの人を連れ戻すのは、立派な義務だよ」
 夏月は、うつむきながら、彫像のように黙りこくる。
 しばし沈黙が続いた後、夏月は顔を上げる。その表情は、先ほどとはうって変わり、闇を照らすほど明るい。それはさしずめ、真夜中の太陽。
 「わかった。だけど、死んだりしないでよ! あたしが、このバカの目覚ますまでさ!」
 自分には、冬雪を呼び戻す責務がある。それが、自分にできる償いなら、願ってもみないこと。
 「ほんじゃ、行ってくる。桃ノ木、小便ちびってないよな?」
 「大丈夫です! 驚きすぎて、出そうと思っても出ません!」
 秋綺、春花、終里、三四郎は、それぞれの持ち場へと走っていく。それを目で見送り、夏月は小さく呟く。
 「がんばって……」
 それは、聞き取れないほど小さな声。だけど、心には届いたはず。

 「冬雪……」
 夏月は、そっと冬雪の前に座り込み、その目を見つめる。しっとりと濡れた瞳は、相変わらず視界が定まっていない。
 「あたしが知らない間に、いっぱいいっぱいがんばったんだね」
 今でも信じられない。あの冬雪が。だけど、開かずの間で見せた優しい目線。あれが、全てを語っている。本当に、冬雪は強くなったんだ。
 「ふゆ……き。それが、わたしのなまえ?」
 「うん、そうだよ。そして、あたしは夏月。あんたの幼馴染」
 キョトンと、冬雪は不思議そうに首を傾げる。こうしていると本当に、ただの女の子にしか見えない。
 「それじゃあ、あなたとわたしはおともだちだったの?」
 そっと、夏月はその艶やかな髪を撫でつける。ふわりとした柔らかな感触が、手に返ってくる。
 「驚かないで聞いてよ? 覚えてないかもしれないけど、あんたはあたしのこと好きだって言ってくれた。……本当は、男の子だったんだよ」

 サァッと、駆け抜ける夜風。月明かりを反射し、長い髪はサラサラと流れる。その様子は、空に架かる天の川のよう。

 「わたしが、おとこのこ?」
 力なく、冬雪は笑う。
 「おもしろいじょうだん……いうね。みてわからない? わたし、りっぱなおんなのこだよ」
 その言葉は、吹雪のような冷たさを帯び、夏月の胸に突き刺さる。ぐらぐらと、揺らぐ心。どんどん今までの記憶が、遠くへ霞んでいく。ひょっとしたら、冬雪は最初から女の子だったのでは? 今まで見ていたのは、長い、長い夢……。

 夏月は、自分の両頬を、手のひらで思い切り叩く。

 いけない、なに考えているんだろう。そうだ、夢で終わらせるもんか。冬雪と過ごした十四年間だけじゃない。それは、春花や秋綺と出会ったことをも否定することになる。
 「ううん。あんたは間違いなく男だった。いい、最初からよく聞いて?」
 夏月は、白樺の小枝みたいに細い冬雪の両手を、握り締める。
 絶対、思い出させてやる。冬雪には、まだ言っていないことがある。そう、大事な大事な秘密が。


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最終更新:2007年03月20日 20:13