五島におけるキリシタンの歴史

 日本にキリスト教が伝来したのは、フランシスコ・ザビエルによる1549年のことです。
翌年の1550年にフランシスコ・ザビエルが平戸に上陸したのが、長崎におけるキリシタン
の歴史の始まりだと言われています。
 1566年、五島藩の第19藩主 宇久純尭(すみたか)公の庇護の下、布教活動が進められ、
五島における信者の数は二千人を超えたと言われます。
 領主純尭公は、夫人とともに洗礼を受け、キリシタン大名となっています。
 しかし、1587年に豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって、五島の教会が閉鎖されます。
 1614年には江戸幕府によって禁教令が発布され、五島にも弾圧の手が伸びてきます。
 以後、信仰は地下へと潜伏し、潜伏の時代として長い年月を生きていきます。
 この潜伏期の1797年、五島藩の要請を受け、大村藩外海地方(現長崎市外海町)のキリシ
タン農民第一陣、108人が信仰の自由と安住の地を求めて、五島各地に移住してきます。
 その後、その数は三千人以上に達します。
 しかしながらご覧のように、上五島地区は、土地は山の傾斜が急で、平地が少なく、開梱
して畑を拓くのは並大抵の苦労ではなく、厳しい弾圧の中、信仰だけが日々の救いであった
と言われております。
 さらに禁教令が解かれる寸前、1867年長崎の浦上に始まった弾圧の嵐(浦上四番崩れ)が
ご当各地でも吹き荒れ、数百人の信徒が殉教しています。
 特に、五島崩れと言われる五島市・久賀島の弾圧では、久賀島の宗徒200名近くが6坪の
小屋に押し込まれ、8ヶ月にも及ぶ期間監禁され、39名の方が牢屋で殉教したとされ、今
では牢屋の窄殉教地として、記念碑と記念聖堂が建てられております。
 こうした迫害は五島全島に及び、ここ上五島でも各地でキリシタンへの迫害が相次ぎま
した。
 改宗を迫るため牢に入れられ、毎日、算責めや海中への逆さ吊り等の拷問が行われたそう
です。
 こうした迫害の嵐が収まりかけた1870年の1月24日の夜には、有川の郷士4名が鯛ノ浦
(鷹ノ巣)地区の寅吉方を襲い、寅吉の一家六人を斬るという、惨殺事件も起きております。
 このような信仰の自由のない日本の実情が外国から非難を受け、1873年(明治6年)ついに
禁教令が解かれます。
 1879年(明治12年)パリ外国人宣教会のマルマン神父によって、福江島の堂崎後に仮聖堂が
建てられ、ここを弾圧後の五島における宣教活動の拠点として、次々と五島の各地に教会堂
が建てられていきました。
 現在五島には、49もの教会が活動しており、上五島にはそのうち29(そのうち、長崎県内
で使われている木造教会としては最も古かった江袋教会が平成19年2月の火事により消失。
現在は復元されています。)の教会があり、島の人口の約23%・約5800人の方がカトリック
信者として信仰を守っております。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年09月13日 09:56