長崎県のカトリック史

 日本におけるキリスト教は天文18年(1549年)、聖フランシスコ・ザビエルによって伝えられました。

キリシタン大名、大村純忠によりイエズス会に寄進された長崎は、日本におけるキリスト教布教の中心

となりました。教会や関連施設が建てられ、キリシタン文化が華開きます。

 五島に宣教師が最初に訪れたのは永禄9年(1566年)。その契機となったのは宇久氏18代領主純定

の要請でした。自らが信仰を持ってのことでも、布教させる目的でもなく、純定の長子民部の病を西洋

医学で治療させたいためでした。西洋医学の心得のある宣教師を派遣してくれるなら、領内に教会を

建立し、キリシタン信仰の布教に協力を惜しまないといったものでした。しかし人手不足のため純定の

要請に応えられぬまま民部は死亡してしまいますが、続いて純定自身が病床につき、日本人医師の

ディエゴが派遣され、純定は数日で全快しました。

 永禄9年(1566年)、修道士ルイス・アルメイダと修道士ロレンソにより五島の布教が始まりました。

ロレンソは半盲目の琵琶法師でしたが弁舌爽やかで教理にも精通していたらしく、日本人最初のイエ

ズス会の修道士として信長や秀吉の前でキリシタンの教えを説いたとも言われています。

 その後豊臣秀吉は、「伴天連追放令」を発し、長崎を直接支配しました。慶長2年(1597年)には宣教師

等26人を処刑し(26聖人殉教)、続く徳川幕府も慶長17年(1612年)に禁教令を発し、弾圧が本格化。

当時長崎にあった教会も全て破壊され、寛永14年(1637年)の島原の乱後鎖国が完成します。

 日本のキリスト教は根絶したと考えられていました。しかし信徒たちは弾圧で教会もなく、神父も

いない中、潜伏し信仰を守り続けました。なかには信仰のため、海を渡り五島列島に移住するものもいました。

寛政9年(1797年)大村藩家老片山波江の指揮により外海地方黒崎、三重の両村から108人が出帆し、

福江島六方の浜に上陸し、平蔵、黒蔵、楠原などに住みつきました。福江藩主の五島氏は土地開拓に

人出が必要であったため、大村藩との間で「千人貰い、千人養い人」の要請を行ったからでした。結果的

に3,000人ほどのキリシタンが仏教徒を装って五島列島に移り住むことになったといいます。

 寛永6年(1853年)ペリーが来航し、やがて開国。パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎の居留地

に慶応元年(1865年)大浦天主堂献堂。浦上の信徒がプチジャン神父に信仰を告白します。これが世界

宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。禁教から250年もの間信仰は守られていました。

 しかし、明治政府も禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧が起こります。明治6年

(1873年)、ようやく禁教の高札が撤去され、やがて県内各地に教会が建てられました。

 

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最終更新:2014年09月24日 12:39