あの交差点での再会から私たちの恋はまた始まるはずだった…
私の記憶はあの瞬間から覚醒した
「見つけてね、きっと!!」愛してやまなかった人との約束をやっと果たしたというのに…
私の想い人の記憶は蘇らなかった
「千歌音ちゃん!!」涙が頬をつたい、熱く焦げるような思いに駆られて私は目の前に佇む人に抱きついた
「…」
強く抱きしめ愛おしい人の胸に顔をうづめる
「…何?…あなた…誰?」
戸惑い私の体を引き離そうとするその美しい人
「わ、わたし姫子…姫子だよっ 千歌音ちゃん、思い出してよ!!」
明らかに私を警戒しているその人
「人…違いをしてるんじゃなくて?」困った様に周囲に目をやり、私から離れる
「千歌音ちゃん…」
私はこの瞬間に思った
神様は新たな試練を私たちに与えのだと…
シグナルが点滅した
それに気づいた私の愛おしい想い人は、私の存在など無視するかのように足早に横断歩道を渡っていく
「ま、待って!!」
私も慌てて彼女の後を追った
「千歌音ちゃん!!」
彼女は交差点を渡りきったところで振り返った
明らかに困惑している表情だ
「あの…あなた、失礼だけれどお名前は?」
「姫子…来栖川、来栖川姫子です!!」
「来栖川…姫子?」
「千歌音ちゃん…お願いだから思い出して!」
私はその美しい人の白い手をギュっと握りしめた
「約束したじゃないっ きっと見つけるって 姿も記憶も関係ない!私には千歌音ちゃんがわかるの」
「…」
「やっと、やっと逢えたのに…こんなにも長い間探し続けてたのに…」
涙が後から後から溢れてくる
「あなた…アメリカに滞在してた事ある?」
唐突に出た彼女の言葉
「えっ、アメリカ?」
一瞬、私の頭は混乱した
「私ね…つい二週間程前にアメリカから帰国したばかりなの」
私の想い人は溜息まじりに語り始める
「私の両親は仕事の関係でずっとアメリカに滞在してたの それで私はそこで生まれたのよ 22年目にして初めて日本に来たの」
「だからね…あなたがアメリカに居た事があるならともかく…私にはこの日本には知り合いなんてほとんどいないのよ」
「…」
「私のアメリカでの記憶にはあなたは居ないわ」
目の前の美しい人はキッパリと言い切った
「ごめんなさいね、だからきっと人違いよ」
「ただ…」フッと彼女の口元が緩んだ
「千歌音という名前は一緒ね…フフフ、そんなに平凡な名前だとは思わないけれど、同名の人っているものなのね」
私は言葉を繋げる事が出来なかった
言いたい事、伝えたい事は果てしなくあるのに大きな悲しみが私の言葉を飲み込んでしまったように…
「違う…違う、あなたは」
ようやく絞り出すように発した言葉
私の手は自分の胸元の貝殻のペンダントへ伸びていた
「私と…同じ…このペンダント、あなたも持っている」
一瞬、彼女の顔がハッとした
「こ、これは…」
彼女も自分の胸元で揺れるペンダントを手をやった
「偶然ね…まるでお揃いみたい…」
二人の間に沈黙の時が流れる
プップー!!
沈黙を打ち破るように響くクラクション
路肩に止まった一台の黒塗りの高級外車が合図を送ったようだ
「あっ…私、行かなくちゃ」
彼女は外車に向かって小さく手を振った
運転席から身なりの良さそうな若い男が笑顔で応えている
「ごめんなさいね、もう行くわ…」
彼女は私から目線を外したまま呟く
緑の美しい黒髪を翻しながら去っていく、私の愛しいただ一人の人…
「ま、待って!!千歌音ちゃん!!」
私の吐き出すような言葉にも振り向く事なく、彼女は車に乗り込んでしまった
胸を突くような再会から
時間にしてほんの数分の出来事
一人取り残された私はただ呆然と去ってゆく車を見送るしかなかった
あの悲しい別れの時から6年の歳月が流れている計算になる
今の私の存在する世界では、あのオロチとの闘いの時間と姫宮千歌音という人の存在だけがすっぽりと抜け落ちて続いてるようだ
私は転生の仕組みを全部理解出来ているわけではない
オロチ亡き後の世界の再生がどのように行われているのかも実のところは良く理解出来てはいない
だから何故、16の時に月の社に閉じ込められた千歌音が転生をした後、現在の自分と同年であるのかも不思議な話だ(彼女は22年ぶりに帰国したと言っていたから)
自分が強くそう望んでいたからだろうか?それとも彼女がそう望んだから?
これは神様からの贈り物?
でも…私はギユッと拳を握り締めた
でも残酷な贈り物だ
神様は彼女の記憶から私の全てを消してしまったようだ
辛い…せっかく逢えたのに、ずっとこの日が来るのを待っていたのに…心が潰されていく思いだ
彼女は…その格好からして所作からして相変わらず良家のお嬢様として生まれてきたらしかった
良かった…それは心底そう思えた
幸せに何不自由なく生きてきたのならそれでいい
おそらくあの車に乗っていた男はきっと彼女の恋人なんだろう
そう…転生した彼女には新しい世界があって新しい生活があるのだ
あの日あの時約束した、私たちの未来は訪れなかったのだ
でも…でも、それでもいい
彼女は生きている
ちゃんと物質的肉体を持って今の時代を生きている
あの月の社でひとり寂しい時間を過ごしているわけではないのだ
幸せそうに輝いて生きているのだ
それならそれでいい…幸せに生きているのならそれでいい
前世に私の為に全てを擲って私を守ってくれた彼女
ただ私の幸せを考えて自分を犠牲にしてくれた彼女
溢れる愛情で私を包んでくれた彼女
なのに私は彼女の為に何もしてあげる事が出来ずに別れてしまったのだから
そう、今度は自分の番だから
前世で彼女に哀しい想いをさせた分、今度は私が我慢しなければ…
私は自分にそう言い聞かせる
その日の夜、私は狭いアパートの一室で泣き明かした
愛しいただ一人の人の幸せを願いながら…
酷い顔をしていると自分でも呆れた
昨日、一晩泣き明かしたせいで目が腫れあがってしまっていた
何だか頭も痛い
でも…仕事を休むわけにもいかず、私は重い足取りで向かう
私は乙橘学園を卒業した後、系列の短大に進学した
大親友のマコちゃんは陸上の実績を買われて、スポーツで有名な大学へと進学した
大神くんは東京の大学へと進学し、それぞれ皆がバラバラになった
もう、あの天日明村での思い出も消えかかっている
私は短大卒業後、天火明村からそう遠くない町の小さな出版社に就職する事が出来た
小さな出版社だからひとりで雑用から何からこなさなくてはならなかったが、それでも私は今の仕事に満足していた
なぜなら大好きな写真の撮影も任せてもらえる時もあるからだ
そう…大好きな写真
あの昔に大好きだった人と「本当」を残す為に写真を撮ったものだった
しかし、アルバムには私しか映っていない写真が何枚もある
埋まりきれなかったアルバムが哀しい
そしてそのアルバムが再び埋まる事が無いと私は昨日思い知らされたのだった
涙が再び込み上げてくる
我慢しよう、我慢しなくっちゃ…
「来栖側くん、天火明村に取材に行ってくれないか?」
突然の編集長からの言葉に私の心は揺らいだ
電車とバスを乗り継いで約二時間
私は久しぶりにその懐かしい村に降り立っていた
「各地の伝承や伝記に関して取材して欲しい」
編集長からの突然の言葉に正直私は戸惑っていた
「手始めに天火明村なんていいんじゃないか?そんなに遠い場所じゃないし、古くて歴史のある村だから
それになんたって天下の「姫宮家」のお膝元だ
面白い話のひとつやふたつ出てくるだろう?
それに君はあそこの学校の出身らしいじゃないか
里帰りだと思って気楽に取材してくれればいいから」
編集長は「これご褒美のつもりだから」と笑って言ってくれた
前号の仕事での私の頑張りを認めてくれたからだそうだ
その気持ちは凄く嬉しかったのだけれど…
前世の記憶の殆どを覚醒した今の私にとっては、天火明村での出来事は決して楽しいものばかりではない事も知っている
でもそれでも私は「姫宮」の言葉を聞いた瞬間、背中を押されたように会社を飛び出していた
記憶が覚醒する前は「姫宮」の家に特別な関心もなかった
ただ「乙橘学園」の創設者で大変な富豪である事、主一家が海外に滞在していて長らく留守にしている事くらいしか噂では聞いていなかった
村外れにあるその場違いともいえる大きな屋敷は今も使用人達によって厳重に守られているらしい…
(でも…今はきっと千歌音ちゃんが帰ってきてるんだ…)
記憶が覚醒したからこそ言える確かな想い
「やっぱり…逢いたいよ、千歌音ちゃん」
今すぐにでも姫宮の館に行きたかった
しかし例え彼女が居たとしても、昨日の今日でどう理由をつけて逢えばいいのだろうか?
延々と前世の記憶を語り理解してもらえばいいのか?
いや、きっと頭のおかしい娘だと思われるに違いない…
私はこの村で唯一の理解者であってくれるはずの大神カズキさんを訪ねてみる事にした
大神神社の宮司であってソウマ君のお兄さん、前世では私たち巫女の手助けをしてくれた頼れる人
彼に会えば何かが変わるような気がしたから…
「久しぶりだね、来栖川くん」穏やかな微笑みをたたえてカズキさんは私を迎えてくれた
「ご無沙汰しています ごめんなさい突然押しかけてしまって」
「大歓迎ですよ 何たってあなたはソウマがずっと好きだった子なんだから」カズキさんはそう言って笑った
「ソウマが喜ぶよ あいつは今ね、この村に帰ってきてるんですよ」
「えっ…大神くん、戻ってきてるんですか?」少し心がざわついた
「ええ、乙橘学園で産休の先生の代わりで臨時の教師やってるんですよ 全然知らなかったかな?」
「そうなんですか…ここ数年は年賀状のやりとりくらいしかしてなかったから」
そうして私たちは暫くの間、ソウマくんの事や私の近況等で盛り上がっていた
「しかし君が編集者になっていたとは驚きだが…で、この村の伝承とかを知りたいわけだよね?」
「はい」
「古い村だからね、色々な歴史的逸話は無いわけじゃないが…特集するようなものはあるかどうか…」
「あの、例えば…」私の声は一瞬震えた「オロチ…オロチ伝説とかは…」
「オロチ伝説?さぁ聞いた事は無いが…」
ああ、やっぱり…カズキさんの記憶、いやこの村の記憶からもオロチの事は消え去っている
「巫女…の事も…ですか」
「?」カズキさんは何の事だろうか?というように首をひねった
陽の巫女、月の巫女の存在…私と彼女を結ぶ鎖さえも断ち切られていたというのだろうか
(もう…本当に私と千歌音ちゃんを繋ぐものは何も残されていないんだ…)
「良かったらソウマに逢ってやってくれないか?夕方には戻るから」カズキさんのその言葉にどう答えたのかも覚えていない
私は大神神社を後にした
それから私はあてもなく村のあちこちを歩いた
穏やかに静かに時が流れているようなこの村、あの昔とは少しも変わらない風景、何も変わらない時の流れ
そう、変わってしまったのは私と彼女の運命だけ…
オロチの居ない優しい世界、オロチの居ない正しい世界
それは私たち二人の巫女が強く願った世界の再生
これが本当の世界なら、もう二度と巫女の手によって巫女を供物として世界の再生を行うなどという悲劇は起きずに済むのだ
哀しい輪廻転生は終わったのだろうか?
私と彼女の運命を分かつ事で輪廻の輪は終焉したのだろうか…
それからどこをどう歩いたのか、私はいつしかあの姫宮邸の前に立っていた
「千歌音ちゃん…」
この門の向こうには数え切れないくらいの彼女との思い出がある
楽しかった事ばかりでは決してない、けれども彼女との大事な大切な思い出
もう二度と還るの事のない…
ポタポタと涙がこぼれ落ちた
昨夜あれだけ泣いたのにまだ涙が流れてくる
このままじゃきっと体中の水分が全部無くなるよ、と自分でも情けなく思った時
「あの…どちら様で?」ふいに門の向こう側から声を掛けられた
「あっ」慌てて涙を手で拭った
門の向こうには懐かしい人の顔が…メイド姿のその人
「乙羽さん!!」ふいに出た言葉に相手は目を丸くしている
(そうか…乙羽さんもやっぱり…)
気まずい空気が流れた
私は考えるよりも先に一枚の名詞を出していた
「あ、あの、この天日明村の取材をしてるんです…決して怪しい者では」
「岩戸出版…来栖川姫子…さん?」
乙羽さんは名詞と私の顔を交互に見比べながら言った
「それで何かこの館に御用でも?」
「い、いえ…あの、このお宅が…とても古い名家だと聞きましたので…それで」
混乱する頭の中を必死に整理しながら答える
「天火明村の…伝承や伝記について取材しているんです…その…何かお話を聞ければと思いまして…」
私はとことん嘘が下手だと思った
こんな時にもっと気のきいた事が言えればいいのに
「あの…すみませんでした」居たたまれなくなった私は頭を下げてその場から立ち去ろうとした
「わかりました」思いもかけない返答
「只今、この館の主に伺って参ります 暫くお待ち下さい」
「えっ?」
「取材が可能かどうか確認を取って参ります」
戸惑う私を尻目にきびきびとした態度で乙羽さんは館の中に消えて行った
そして数分後、再び館から出てきた乙羽さんは頭を下げてこう言った
「お入りください お嬢様がお会いするそうです」
「!?」思いもかけない展開
(うそ…千歌音ちゃんに逢えるの?)心臓が早鐘のように鳴る
門が開き私は震える足で敷地内へと一歩踏み出した
ほどなく私は姫宮邸の見慣れた客間に通されていた
まるで時間があの日に戻ったかのような錯覚さえした
「暫くお待ちください」
広すぎる客間でひとりどれくらいの時間を過ごしたであろうか?
その間私の心臓は破裂してしまうのではないかというくらい激しく鼓動を続けていた
(どうしよう…会って何と言ったらいいんだろう?何を話せばいいんだろう…)
「お待たせしました」乙羽さんが扉を開け入ってきた
そしてその後には…「あなた…やっぱり昨日の…」
硬直して動けなくなってしまった私の目の前にその人は美しい姿を現した
姫宮千歌音…記憶を亡くした前世からの私のただひとりの愛する人
「名詞の名前見て…もしかして、と思ったのよ「来栖川」って結構珍しい苗字ですものね」
「あなたとは何やら…つくづくと縁がありそうね」彼女は困ったように笑うとソファに腰を下ろした
乙羽さんはお茶の準備をしてそれぞれの前に出すと頭を下げて居間から出て行った
「あのぅ、」声が震えているのが自分でもわかった
「昨日は…失礼しました…」私は沈黙が怖くて喋り続ける
「私の…思い違いなんです…許して…ください」
「迷惑かけるつもりも…困らせるつもりもないんです…だから…ごめんなさい」
私は一体何を言ってるんだろうか?目の前にこんなにも愛して止まなかった人がいるというのに何を言ってるんだろう…
ポタリ…膝の上で握り締めていた拳の上に涙が落ちた
「どうしたの?大丈夫?」驚いて身を乗り出す彼女
ああ、やっぱり駄目だ
優しい声、その澄んだ眼差し、彼女から漂ってくる甘い香り…全てが私を追い込んでいく
(あぁ…千歌音ちゃん…)
「泣かなくてもいいのよ、そんなに気にしないで」
気がつくと彼女は私の隣に座り白いハンカチを差し出してくれていた
「少し驚いたけど…気にしてなんか無いから大丈夫よ だからもう泣かないで」
「!?」
「フフフ、子供みたい」彼女は優しく笑いながらそのハンカチで私の涙を拭ってくれたのだ
顔から火が出そうだった
「す、すみません」
「お茶でも飲んで落ち着いて」
私は震える手をカップを持ちながら遠い記憶を呼び覚ましていた
(私が千歌音ちゃんのハンカチになるって…言ったのに これじゃ逆だよ)
「あなたの探してる「千歌音」さんに…早く会えるといいわね」
「…はい…」
「大事なお友達なのかしら?」
「…」残酷な質問だ
どう答えていいのかわからなかった
「あっ、ごめんなさいね あなたのプライベートな事だものね 私ったら何を言ってるのかしら…」
彼女はしまったという表情をして話題を変えた
「で、天火明の事を取材したいそうね?」
「あっ、はい…」
「自慢するわけじゃないけれどこの家は1000年続く旧家なの だから古い文献やら古書は沢山あるわ
私はずっと海外に居たものだから詳しいことなんてわからないけれど、それらを見れば何か取材の役に立つかも」
「…」
「図書室があるの 腐る程の古い書物があるの もしよろしかったらそこ見てみる?」
私は暖かい温もりに包まれていた
(姫子…)優しく天使のように微笑みかけてくれる私の愛しい人
何もかもが前世のままで私をいいようのない幸せに包んでくれる
(ごめんね、千歌音ちゃん…私もっと早く千歌音ちゃんの想いに気づいてあげれば良かった)
(そうだったら私たちの未来は少しは変わっていたのかも知れないのに…)
あぁ、千歌音ちゃんの匂いがする…甘くて暖かい香り…
ぼんやりとした意識の中、私は自分がいつしか寝てしまっていた事に気がついた
「あれ…?」周囲を見渡すとそこは本に囲まれた部屋の中
そうか、私は図書室に招かれた後、いつの間にか本と格闘としいるうちに眠ってしまっていたのだった
情けない話…窓の外はもう陽が落ちかかっていた
ここは前世でも何回か立ち寄った事のある姫宮家の図書室
学校の図書室並みの蔵書を誇る場所だ
もっとも前世の私は漫画にしか興味がなかったから、あまり縁のあった場所ではないのだけれど…
「これは…千歌音ちゃんの…」
いつの間にか肩に掛けられてあったカーディガン
紛れもなく彼女の匂いがした
「やっぱり…優しいんだ」ふっと笑顔になってしまう
コンコン
ドアがノックされ乙羽さんが顔を出した
「来栖川様…お目覚めですか?」
「あっ、はい…すみません、私、いつの間にか寝てしまって…」
「お嬢様が夕食をご一緒にいかがですか、とおっしゃられてますが」
「えっ…でも、そんな迷惑かけるわけには…」
私は慌てた
「お嬢様の…お気遣いです、どうか…」乙羽さんは頭を下げた
私は恐縮しながら階下の食堂へと向かった
そこには既に席に着いている彼女がいた
「あの…これ」
私は顔を赤くしながらカーディガンを彼女に差し出した
「ありがとう…ございました」消え入るような小さな声
「どうか気になさらないで…さぁ、どうぞ」
彼女はごく当たり前のように私に着席するように勧めてくれた
前世には何度も繰り返された彼女との食事の時間
暖かくとても楽しい時間だった
椎茸づくしのメニューだった時にはさすがに閉口したものだけれど…
「うっ…」やっぱり今日のメニューにも椎茸が…
「何?」彼女が不思議そうな顔をして私を見る
「ううん…何でも…何でもないです!!」私は慌てて手を振り答える
彼女がそんな私を見てクスッと笑った
「あなたって…可愛いわね」
カーッと胸が熱くなった
それと同時に私は背後に殺気を感じた
(乙羽さん…やっぱり私の事…嫌いなんだ)ガックリ…
「お口に合わなかったかしら?あまり手をつけてらっしゃらなかったわね」
食後のお茶を飲みながら彼女が言った
「いえ…そういうわけじゃ…」
彼女と向き合う食卓
懐かしくもあり、切なく流れてゆく時間
胸が一杯で食事なんてまともに喉を通るはずもない
「あまりお腹がすいてないんです…ごめんなさい」
本当は眩暈を感じる程、空腹だったはずなのに…
「あの、そろそろ私…」
沈黙の時間が怖かった
このまま、黙ったまま彼女の美しい顔を目の前にしていたら、理性なんて保てる自信なんてない
「失礼します…あの、色々と…ありがとうございました」
私は立ち上がり頭を下げた
「そう…もうすっかり外は暗くなったわね」
彼女は立ち上がり窓の外を眺めた
「雨…降ってきたわよ あなた帰りはどうするの?」
いつの間にか降り出していた雨
バスの時間何時だったっけ?電車は間に合うかな…ぼんやりとそんな事を考えていた時
「うちの車で駅まで送らせるわ…」
「ねぇ…まだ時間が大丈夫なら少し私に付き合ってくださいません?」
どうして断る事が出来なかったのだろうか
このまま彼女といても切なくて苦しくなるだけなのに…
私は今、彼女の弾くピアノの音色に耳に傾けている
優しく優雅に彼女の指から奏でられるその音色に私の心は不思議と落ち着いてゆく
「お近づきになれた記念に一曲どうぞ」
優しい彼女の心遣い…
ほんのりと明るいだけのこの部屋
テーブルの上のキャンドルが時おり揺れた
ここは…この部屋は…
そう、あの日、「オロチになった」と彼女から告白された部屋
そして私が彼女に襲われた部屋…
死の招待状を渡される前の日に、二人だけの演奏会を開いた場所…
怖くて哀しかったけれど、あの日、二人だけの特別な時間が確かにそこには流れていた