「ヒメコ、明日はお休みだから一緒に帰ろうっ」
私は残業を終えるといつものように駐車場に隅に置いてあるペット用のキャリーバックの元へと走った
このバックが普段のヒメコの「猫小屋」になっているのだ
会社が休みになる前の日には、このままアパートにこっそりと持ち帰って束の間時間を過ごす
「あっ…」私の体は瞬時に固まった
ヒメコを抱きかかえたままゆっくり振り返るその人は…
(千歌音…ちゃん…)
そう、私の愛しい人、姫宮千歌音その人…
私たちは距離を縮めることなく、暫くその場に佇みお互いを見つめ合っていた
「会いにきたのよ…この子に」やがて口を開いた彼女は私に近づいてきた
「契約…解除されちゃったでしょ?」
私は何も答えられなかった
心臓がギュッと締めつけられるような痛み…眩暈さえ感じていた
「家まで送るわ…」
彼女は私にヒメコを渡すと近くに停めていた車に向かった
「乗って…」彼女はエンジンをかける
「あの…」躊躇っている私に彼女は「早く」と一言だけ告げた
私はその乗り心地の良い高級車の助手席に座りながら、彼女の横顔を盗み見していた
白くその整った美しい横顔は何だか怒っているようにも見えた
(ヒメコの事で怒ってるのかな…何だか怖い…)
彼女は真っ直ぐに前を見据えたまま何も喋らなかった
気まずいような重い空気が車内に流れているようだった
ヒメコだけが無邪気に腕の中ではしゃいでいた
「あ、あの…」
その時、私は車がアパートとは反対方向に進んでいるのに気がつきハッとした
「あの…こっちじゃないんで…その、反対方向なんです…うちのアパート…」
「知ってるわ」
「えっ?じゃあ、何で…」
「もう少しで着くから…」彼女は何をしようとしているのだろうか?
私は不安になった
やがて車は高台の上に最近出来たばかりのマンションの駐車場へと入っていった
それはいわゆる高級マンションといわれる部類のもの…私もチラシで見て知ってはいた
セキュリティーの高さと眺望の良さを売りにしている
(…何でここに?)
「降りて…一緒に来て」
私は彼女に促されるままにそのマンションの中へと入っていった
エレベーターに乗り最上階まで上がる
彼女は一番角の部屋の前に来ると鍵を開けた
「さあ…どうぞ」
(わぁ、凄い部屋…)玄関から続くリビングに通された私は心の中で軽く衝撃を受けていた
姫宮邸の豪華さには慣れていたものの、まだ新築の香りが漂うこの部屋も十分素敵に見えた
ここは自分の住んでいる安アパートの何倍の家賃を払うのだろうか?などとぼんやり考えてみる
「はい、これ…」突然、彼女が私に鍵を渡した
「えっ?…」
「ここは今日からあなたの部屋よ…」
「?」
彼女は窓辺に行きレースのカーテンを開けた
街の夜景が一望出来る程の風景が目に入ってくる
「いい眺めでしょ…色々と探したけれどここに決めて良かったわ」
「あの…何を?」私は混乱していた
手元の鍵と彼女の顔を交互に見比べてみる
「私ね…」彼女はゆっくりと喋りだす
「あの日、交差点であなたに逢った時から違和感を感じていたの」
「これ…」
彼女は貝殻のペンダントを差し出して私に見せた
「これは私が物心ついた時から…私の手元にあったのだけれど…どういう経緯で私が所持していたのかもわからないのだけれど」
「普段は引き出しの奥にしまってあるのに、あの日は何故か…これを着けてみようと思った」
「婚約者の彼と待ち合わせにあの場所を選んだのも不思議…いつもは家まで迎えてきてもらうのに…あの日は何故か私はあの場所を指定していたわ」
「…」
「そしてあなたに逢った…あの日からずっと…心の中に違和感があった」
「あれって偶然じゃなくて…必然の出逢いだったんでしょ?」
その言葉に私の体は震えた…心臓が早鐘のように鳴る
「崩落事故があった日…私は乙羽さんからあなたが握り締めていた古い巻物を見せられた…そこには…私たち二人の巫女が延々と繰り返してきた転生のことが記されてあったわ」
ああ…私の目からは涙がこぼれ落ちる
彼女は私に近づいてきた
「乙羽さんが全てを話してくれた
…私はあなたが探していた…千歌音… そうなんでしょう?」
(ああ…乙羽さんは知っていたんだ…)
彼女の白い手が優しく私の頬に触れた
「私の記憶はまだ確かじゃない だから…確信したいの」
彼女の綺麗な顔が近づく
「キスして…キスして思い出させて ね、お願い」
「ちかね…ちゃん…」
(ああ、千歌音ちゃん…)
私は彼女の腕の中に飛び込んだ
柔らかく暖かな感触…懐かしくて愛しいこの感触
私は顔を上げて彼女の艶やかな唇にそっと自分の唇を重ねた
唇を触れ合うだけの数秒間のキス
顔を離した私に彼女は微笑んだ
「ね、もう一度…」
顔から火が出そうな感じ…だってこの世での私にとってはファーストキスなのだから…
私は再び唇を重ねた
今度は最初より少し長めに…けれども触れ合うだけの幼いキス
「キスは…初めて?」
少し頬を赤く染めた彼女は私の顎に手をかけた
私は黙って頷く
「そう…ありがとう」彼女が微笑む
「でもね、キスはもっと情熱的な方がいいわ…姫子」
「!?」
強く抱きしめられて唇が重ねられた
彼女の舌が私の唇を割って入ってくる
息をするのも苦しくなるような熱いキス…私はただ彼女を受け入れていた
「姫子…」荒い息遣いの中でなんども繰り返されるキス
私は全身の力が抜けていくようだった
「ごめんね…私、嘘ついてるの」もう何度目か数え切れないキスの後、ようやく私の唇を解放してくれた彼女は潤んだ目をして囁いた
「本当はね、あの巻物を読んで乙羽さんから話しを聞いて…あなたが病院のベットの上で意識を失っている姿を見て、前世の記憶は全て覚醒していたの」
「ほんとう?」
「ええ…」彼女は私の髪を優しく撫ぜた
「ただ不安だった…記憶を取り戻せなかった私をもうあなたが諦めちゃったんじゃないかって…たまらなく不安だった
だから…あなたの気持ちを試すようなことしてしまって…ごめんね、姫子」
ああ、神様…
「千歌音ちゃん、千歌音ちゃん、千歌音ちゃん…」私は何度も彼女の名前を呼ぶ
あなたは再び私に明るい月の輝きを与えてくださった…
「探してくれて…見つけてくれてありがとう…長い間、待たせてしまってごめんね」
「またいっぱい泣かせてしまって、いっぱい悲しませてしまってごめんね」
彼女も泣いていた
私たちはお互いの体が折れてしまいそうなくらい強く抱きしめあった
「ただいま…姫子」
「おかえりなさい…千歌音ちゃん」
それからの私たちはソファに腰を掛け、お互いの手を絡ませもう決して離れまいというかのように体を密着させていた
「私ね…姫子があのまま死んじゃったらどうしようかって…三日三晩ずっとあなたの側で泣いてたわ」
「側にいてくれたんだ…じゃあ、あの時感じていた匂いも声も千歌音ちゃんだったのかな…」
私は心がすうっと軽くなるのを感じていた
「目を覚ました時…千歌音ちゃんの姿がなかったから…本当は凄く悲しかったんだ」
「あの時、大神くんや早乙女さん達が来たから席を外して廊下に出てたの あの人達の記憶は覚醒していないから、私がつきっきりで側にいると知られたら不自然に思われるかなって…
乙羽さんにも倒れちゃうから少し休んでくださいって言われてたし…本当に間が悪かったわね、ごめんなさいね」
彼女は言葉を続けた
「あなたの意識が戻ったと知ってすぐにでも会って話をしたかった…でもね、その前に私にはやらなきゃならない事があったから」
「…?」
「私が本当の姫宮千歌音に戻る為に…両親の元に行って決着をつけなければならない事があったから」
「それで…アメリカに行ってたの?」
「ええ、そうよ 婚約を解消してもらう為…私のこれからの生き方を認めてもらう為」
「婚約…解消したの?」
彼女は頷きニッコリと笑った
「だって、これからはあなたと共に生きていくから…ここで私と一緒に暮らしましょう、姫子…」
「千歌音ちゃん…嬉しいけど、でも…でも」
私は彼女が背負っている社会的立場のことを考えていた
「この街に居ても姫宮の仕事はこなせるわ…いいえ、ちゃんとこなしてみせる
二人で誰にも恥ずかしくないような生き方をしていれば、いつかはきっと解ってもらえるはずよ」
「だから…ずっと私の側に居て…私と共にこれからの人生を生きて欲しいのよ、姫子…愛してるから誰よりも」
「千歌音ちゃん…」
「そう思える相手とパートナーとして生きていく事が幸せだって、あなたが教えてくれた事でしょう?」
「うん、うん」私は言葉にはならずにただ頷く
「神無月はもう終わる…オロチの現れていないこの世界では私達を縛り付ける鎖もないわ
でも、それでも私達の記憶は覚醒した…あなたが求めてくれたから、私が強く望んでいた事だから…
きっと、ふたりの強い思いを神様が認めてくださったからだと思うの 神様からの最高の贈り物…
だから私達は…幸せになれるはず…きっと、そう信じてる」
私達はまた熱い唇を重ね合わせた
orz~エピローグ~orz
私が二人の新居を訪ねた時、あの娘は満面の笑みを浮かべて私に飛びついてきた
「ありがとう、ありがとう乙羽さん!!」
私は少々戸惑ったが、それでも心は暖かくなれた
結局、私はこの娘が好きなんだ
純粋で素直で優しい、周囲の人間の心を暖めてくれる春の陽だまりのような娘…
お嬢様が好きになるのも理解出来る
私は絶対この娘には敵うはずはない…今は素直にそう思えるようになった
「ご主人様と奥様から、時々は様子を見てやってほしいと頼まれましたので…」
「もう子供じゃないのだから大丈夫よ、乙羽さん」
お嬢様は困ったように笑っていた
「ふたりでちゃんと生活していくから心配しないで…乙羽さんには天火明村での仕事もあるのだから
無理しなくてもいいのよ」
「…」ここではやっぱり私は邪魔な存在なのですね…少し気分がへこむ
「でも…でも、私は時々は乙羽さんに来てほしいな」
あの娘は小型犬のごとく潤んだ目で私を見る
「乙羽さんに料理とか教えてもらいたいし…乙羽さんみたいにきちんと家事をこなせるようになりたい
だから…時々来てほしいな…」
「姫子が…そうしたいのなら」お嬢様は相変わらずこの娘の言う事なら聞いてしまうらしい
甘い…この娘が作る卵焼きよりも甘い…
「乙羽さんの負担にならない程度でなら…いらしていいわ」
「かしこまりました…」
その言葉を聞いてニコニコと太陽のごとく笑顔を向けるこの娘、来栖川姫子…
私は首筋に見えたキスマークの跡に一瞬殺意を覚えたが、
でもやっぱりこの娘が好きだ
本当に好きになった…
楽しみが増えた
この不器用な娘をお嬢様の側に置いておいても恥ずかしくないように私がしっかりと鍛えてみせる
長年のメイドの意地と誇りにかけて…
何だか姑になったような気分だ
自然と笑みが湧いてくる
こんなふうに穏やかな気持ちで二人の生活を見守っていくのもいい…
それも私のひとつの幸せの形だと思えた
いつの日か、この二人にはみんなに認められ祝福される日が来るであろう
私はその日までずっと陰ながら支え、応援していこうと心に誓った
「では、来栖川…いえ、姫子さん」
「これから正しい卵焼きの作り方でも伝授しましょうね」
その日は神無月の最後の日だった
空は高くどこまでも穏やかな一日であった
~END~