何度も躊躇っていた この電車に乗ってしまえば、もう二度と天火明村に帰って来れない気がしていた
でも…姫子は思う 今の自分の存在は、周りに居る大好きな人達の迷惑にしかならないと…
逃げ出したかった、この辛い現実に立ち向かえる程、自分は強い人間ではないのだから…
流れていく景色…穏やかに時が流れていた平和なこの村も、今はあちこちにオロチ襲撃の傷跡が残されていた
胸が締め付けられる想い…これも自分がオロチに狙われる「陽の巫女」であるからが故
関係の無い人々を巻き込んで傷つけてしまった責任は拭えはしない
体が震えていた 恐怖だけではない、孤独、寂しさ、絶望…全てが姫子の体を鎖のごとく縛り付けていた
行くあてなど無かった
自分は天涯孤独…帰る実家も無ければ頼れる親戚も無い
幼少時、一時期、里子に出されていた家では少なからずの虐待を受けていた
あんな養父母の元に帰るなんて事はあり得ない話しだ
そんな不遇の扱いを知って助け出してくれた父親の友人で後見人でもある弁護士にも家庭があり、子供もいる
両親の残してくれたお金を管理し、姫子が生活出来る様にサポートしてくれている人にこれ以上の迷惑なんてかけられない
そう、結局自分はひとりなんだと姫子は改めて思い知った
気がつくと電車は終点の駅についていた
日がもう傾きかけていた
誰も知る人のいない小さな港町…お金もお小遣い程度しか所持していない
どうしよう…姫子は無人駅のベンチに座ったまま途方に暮れていた
…もしかしたらこのまま自分の存在をこの世から消してしまった方が良いのではないかという考えさえも頭の中を過ぎっていた
「千歌音ちゃん…」そんな事を考えていたら、ふいに千歌音の顔が浮かんできて涙が溢れていた
「千歌音ちゃん、心配してるかな…」
駅の近くで見つけた公衆電話
千歌音に連絡しよう…でも…受話器を持ち上げてもダイヤルする勇気が出なかった
何度か挑戦したものの、結局は出来ずに姫子はとぼとぼと歩き出した
潮の香りが強くなってくる
この道の先にはきっと海が広がっているはず
…幼い頃のひと時の幸せな思い出が甦ってくる
父母と海岸で一緒に遊んだあの日…優しくて心が暖かくなれる数少ない思い出
姫子はそんな思い出を確かめるかのように歩き続けた
静かな波音をたてている夕凪ぎの海
ここはオロチの存在など微塵も感じさせない穏やかな場所だった
「このまま…こんな静かな誰もいない場所で暮らしていけたらいいのに…」
姫子は海岸に座り、沈んでいく夕日を眺める
「綺麗ね…」ふいに背後から聞きなれた声がした
「千歌音ちゃん!!」
振り返るとそこには千歌音が立っていた
「姫子…探したわよ」優しく微笑み手を差し伸べてくる千歌音の姿が涙で霞む
「駄目だよ…」姫子は首を振った
「私がいたらみんなに迷惑をかける…千歌音ちゃんにもいっぱい迷惑をかける
私なんて…居なくなった方がいいんだよ」
「姫子が居なくなったら…」千歌音は姫子の隣りに座ると肩を抱き寄せた
「私が悲しいわ きっと…悲しくて悲しくて…生きていけないと思う」
「千歌音ちゃん…」
「あなたのせいなんかじゃない オロチが現れたことも村が破壊されたことも怪我した人の事もあなたに責任があるわけじゃない
だから気に病むことなんてないのよ」
「でも、でも…」
「巫女の運命だって…あなたが悪いわけではないわ そんな運命の為にあなたが悲しまなくちゃならないなんて私は許せない」
千歌音の手が優しく姫子の手を包んだ
「姫子は…どうしたいの?このまま私の前から居なくなっちゃうつもり?」
「…」
「私は…姫子がどこに行ってもついていくわよ それが例え世界の果てであってもね」
「千歌音ちゃん…」
「このまま…ふたりで誰もいない場所に行きたいわね…ねぇ、行っちゃおうか?」
千歌音はフフと笑った
「だ、駄目だよ…千歌音ちゃんは私と違うもの 千歌音ちゃんが居なくなったらみんな困るし、悲しんじゃうよ
私なんかと一緒にしちゃ駄目だよ」
「私にとってはね」千歌音は一瞬フッと視線を外した
「大事なものなんて…姫子以外にないわ 欲しいものも…」
「えっ…」
冗談ともとれるその言葉に姫子は何故かドキドキしてしまっていた
千歌音の表情は長い髪に隠れてしまっていてよくわからない
「ねぇ…姫子」暫しの沈黙を破った千歌音の言葉
「ふたりだけのバカンスしてみない?いいところに連れて行ってあげる」
千歌音に促されて港へ向かった
少し待っててね、と千歌音は言いどこかに電話をかける
千歌音は一体何をするつもりなのであろうか?
何箇所かに連絡を取った後、桟橋へ移動した
「さあ、これに乗って」千歌音は一台のクルーザーを指差して言う
港湾関係者の何人かが慌しく出航の準備をしていた
どこに行くつもりなの?姫子の問いに千歌音は微笑みながら手を差し出した
「ふたりっきりになれるところよ」
クルーザーは今、明るい月明かりの下飛沫をあげて疾走している
港を出港してからどれくらいの時間が経ったであろうか?時折遠くに見える漁火以外には何も見えない海原をただ進んでいく
「姫子…そろそろよ」千歌音は姫子をデッキへと誘った
「あそこよ」千歌音は前方に姿を現した、小さな島を指した
「あれは?」
「姫宮が所有している島よ 父がね釣りを楽しむ為だけにあそこにログハウスを建てて…普段は誰もいない…無人島」
「無人島?」
「そう…誰もいない 本当にふたりっきりだけになれる場所…」
クルーザーは島に着くと、ふたりと幾つかの荷物を置いて戻って行った
「これで本当にふたりだけ…」クルーザーを見送った千歌音は姫子の手をしっかりと握る
「ここで嫌な事も忘れて、いっぱい楽しみましょう」
「千歌音ちゃん…」
「心配しないで…例えオロチがまた襲ってきても…私が絶対に護ってあげるから」
千歌音の強く握りしめてくるその手の温もりが心強かった
「さあ行きましょう」二人は寄り添うようにして浜の側に建つログハウスへと歩いた
ログハウスはこじんまりとしていたが快適な造りだった
「生活に必要なものは揃ってるから心配ないわよ…姫子が望むなら…ずっとここに居てもいいのよ」
「でも…それじゃ千歌音ちゃんが…」
「言ったでしょ…私は姫子がどこに行ってもついていくって…」
千歌音はどうしてこんなにも自分の為に尽くしてくれるのであろうか…姫子は少しの戸惑いもあったが、それ以上にその限りない優しさに感謝していた
「綺麗だね…」軽い食事を終えてシャワーを済ませた後、ウッドデッキに出て夜空を見上げる
満天の星が輝いていた
本当にこれがオロチのいる世界なのかと疑ってしまうほどの穏やかな静寂さ
「ここにいるとオロチの存在なんて嘘じゃないかって思えてくるね」
「そうね…」
「あのね…千歌音ちゃん」姫子は夜空を見上げながら言う
「もしも…またオロチが襲ってきたら、千歌音ちゃんは逃げて…私のことならいいから…
千歌音ちゃんは…」
「姫子」姫子の言葉を遮るようにして千歌音は言った
「これを見て…」千歌音は突然、背中を向けるとシャツをずらして素肌をあらわにした
姫子はその行為に一瞬、胸がドキッとした
白く美しい背中にくっきりと浮かぶ証…月の紋様だった
「そ、それは…」
「私は…あなたと対をなす存在の月の巫女 あなたと運命と共にするもの 共にオロチと闘い滅ぼす使命を与えられたもの…」
「だからね…私達は離れてはいけないのよ、姫子 絶対に」
「千歌音ちゃん…」ふたりは生まれながらにして同じ運命を背負っていたということだったのか…正直、姫子は驚いた
ふたりが出逢ったのも、ふたりが近づいたのも偶然ではなかったという事なのか…
「姫子…」千歌音は姫子を抱き寄せた
「私はあなたがしたい事を決して止めたりはしないわ だから…これから本当はどうしたいのか、よく考えて…私はあなたの出した答えについていく」
「千歌音ちゃん…」
「焦らなくていいから…この島にいる間にゆっくり考えてくれればいい」
姫子はベットの中で考えていた
自分に課せられた運命…そして今、千歌音も同じ運命を背負っていると知らされた
このまま何もせずに逃げていて良いのであろうか?
逃げたところでその先に一体何が待っているというのだろうか?この世の崩壊…
何もしないことによって自分の命が狙われるだけならいい…でも周りの人々、特に…千歌音の命が危険に晒されるなんて絶対に嫌だ…
姫子は思った
自分はか弱く何の力も持たないけれど、それでも出来る事はしなければならないんだと
「眠れないの?」隣りのベットから千歌音が声をかけてくる
「…うん…色々考えてたら寝れなくなっちゃって…」
「怖いの?」
「…怖くないっていったら嘘になる…でもね、千歌音ちゃんが一緒なら…大丈夫って思えるようになったの」
「そうよ…何があっても護ってあげるから安心して」千歌音は手は伸ばし手招きをする
「こっちにいらっしゃい…一緒に寝ましょう」
「う、うん…」何だか少し恥ずかしくて躊躇ったが、千歌音の温もりが恋しくて姫子は枕を抱えてベットにもぐり込んだ
「千歌音ちゃん、窮屈じゃない?」
「全然」千歌音は包み込むようにして優しく抱きしめてくれる
「あったかい…」その伝わってくる温もりが姫子には嬉しかった
(千歌音ちゃん…いい匂いがする…何だかすごく安心できるよ…)
程なくして姫子は今まで寝付かれないでいた時間が嘘のように、深い眠りへと誘い込まれていった
姫子の軽い寝息を確認した千歌音は、その花の蕾のような唇にそっと自分の唇を重ねた
「おやすみ…姫子」
差し込む明るい光を受けて姫子は目覚めた
まだ瞼は重かったが、いつもとは違う様子に意識は否応無く覚醒した
すぐ目の前には、ごく至近距離で千歌音の顔があったから…
「おはよう、よく寝れた?」優しく微笑む千歌音
「お、おはよう…」何だかとても照れくさくなって布団で顔を隠す
「姫子ったら寝相が悪いのね」千歌音がクスクスと笑った「あれじゃひとりで寝てたら風邪ひくわね」
「私ね…小さな子供を持つお母さんの気分が味わえたわ」
「ひどいよ…」二人は顔を見合わせて笑う
いつもとは違う朝だった
ふたり以外誰もいないこの島
静かに流れていく時間
何か娯楽があるわけでもなかったが、ふたりは退屈することなどは無かった
砂浜で波と戯れ、貝を拾い、走り、疲れたら木陰で昼寝をする
ただそんな事でさえ楽しかった
久々に心から笑えた
「あのね…」木陰で一休みしながら姫子は言った
「私…今、自分が出来る事、しなきゃならない事をやってみるよ ただ…逃げてるだけじゃ駄目だってわかったから…」
「…そう」
「千歌音ちゃんと一緒なら…頑張れるから だから…天火明村に帰ろう」
「姫子なら…きっとそう言うと思ってた だからね、もう手配はしてあるの…午後には迎えの船が来るわ…それで帰りましょう ただね…」
千歌音はふと寂しそうに笑った
「このまま…ずっとここに居たいって…そう言ってくれることも期待してた」
「千歌音ちゃん…」
「だって…すごく楽しかったから 姫子とこうして過ごす時間がとても…私にとっては」
「私だってそうだよ 凄く楽しい…だから出来るのならずっとここには居たいけれど、でも、でも…」
「…あなたが戻らなかったら大神さんも早乙女さんも心配するものね…悲しむわ、きっと…」
千歌音はどうしてこんなにも悲しげな表情を見せるのだろう?姫子はたまらなくなって千歌音の手を握る
「また来よう…オロチの問題が片付いたら…そうだ、夏! 夏になったらまた来ようよ 夏なら泳げるしもっと楽しいはずだよ…来年の夏、絶対に来よう」
「…来年の夏…来れるかしら?」
「来れるよ…だからそんな悲しそうな顔しないで 私まで悲しくなってくるから…」
姫子は千歌音の胸に飛び込むようにして抱きつく
「姫子…」千歌音の長い指が姫子の髪を優しく撫ぜていた
「カメラ持って来れば良かったな…」日暮れ前、桟橋で迎えのクルーザーを待ちながら姫子は言った
「千歌音ちゃんとのここでの思い出の写真、いっぱい撮りたかったのに…ほら、楽しいこととか、綺麗なものってすぐに消えてしまうでしょう?…なんだかこれも夢だったのかなって、思っちゃう…」
「…そうね、夢だったのかもしれない」遠くにクルーザーの影が見えてきた
「本当にもう少しで終わっちゃうわね…私が願っていた…夢が」
…千歌音にはこの時既にわかっていたのかもしれない
自分には「来年の夏」が訪れないことを…
けれども今の姫子にはそんな事は知る由もなかった
ただ繋がる手の温もりに夢の続きがあると信じて疑わなかった
短すぎるふたりだけのバカンスは終わりを告げた…
END orz