「千歌音ちゃん、スポンジ生地、そろそろ型から出してもいいかな」
クリームを泡立てる私の背中越しに、姫子の嬉しそうな声が聞こえてくる。
「ありがとう、そこのケーキクーラーの上に出してもらえる?」
「分かった」
本当は焼けた生地……ううん、姫子の嬉しそうな顔を見たいんだけど、クリームは
手早さが命。氷がないこの場所では、ぼやぼやしていると温まって、舌触りが
ぼそぼそになってしまう。ちらりとしか見られないのが残念な……
「姫子、鍋掴みしないとまだ熱いんじゃない?」
そう言い終わるが早いか、熱っ、という可愛らしい悲鳴が上がる。ぎりぎり手遅れ
だったみたいだ。
「だいじょうぶ?火傷してない?」
慌てて手を止めて、姫子の方を振り返る。すぐ指を見てみるが、特に目立った
怪我はしていないようだ。良かった……。
「全然平気。でもごめんね、何度も心配かけて、それに千歌音ちゃんにばっかり、
大変なことさせちゃって……」
顔を真っ赤にして、ぺこぺこ謝る姫子。
その仕草が丁寧過ぎて、もっとフランクになれてもいいのにと、少し残念にも思う。
でも、そんな他人への正直な暖かさは、傍にいるだけで優しい気持ちにしてくれる。
礼儀や規則に雁字搦めの『宮様』を、『千歌音ちゃん』にしてくれる。
「気にしないで、姫子。お菓子作りはもともと好きだから、手間だなんて思わないわ。
それに……」
普段とは全然違う、自分でも驚くほどの穏やかな声で。
「今まで、誰かのためにお菓子を作ったことなんて、一度もなかったから……だから
いつもより余計に気合が入っちゃうのよ」
今のは半分は本当で、半分は嘘だった。
今まで何度か、お父様やお祖父様のために、プロに教わりながらケーキを作った
ことはあったし、それは決してつまらない作業ではなかった。
世界一大切な人のため、自分達だけで作るのは、今日が初めてだけれど……。
そんな自分の恥ずかしい、アブノーマルな気持ちを誤魔化すように、私はもう一度
雑念を払いながら生クリームに向かう。
さすがに少し手が疲れてきていたけど、もう泡立ても終盤戦。
早めに終わらせて、姫子と生地を冷ましたり、果物を準備したりしよう。ところが。
「ねぇ、千歌音ちゃん……」
「えっ!?」
「わっ!?!?」
振り返った私が、カメラを構えた姫子に気づく。
それまで考えていたコトを思い出して、つい力加減を間違えてしまったのと、姫子が
シャッターを切ったのとは、ほぼ同時だった。
真っ赤になりながらどぎまぎする私の横で、ボウルの角度がズレてしまって……。
「千歌音ちゃんごめんね、私があんなことしたから、本当にごめんね……」
床や調理台はもちろん、エプロンまで汚してしまった生クリームを見て、姫子は
おろおろしながら平謝りに謝っていた。
折角泡立てたのに、今のでかなり減ってしまったクリーム。節約して使えばどうにか
なりそうなのだけど……。
「そんなに謝らないで。謝ったら、折角のお菓子作りが楽しくなかったみたいでしょ」
「そ、そうじゃないよ、千歌音ちゃんと一緒で、楽しくないわけないよ、でも……」
「ふふっ、分かってるわよ」
笑いかけながら、こぼれたクリームを指につけて、悪戯する子供のように一舐め。
「我ながらいい味。姫子もほら、ちょっと失敬してみたら?」
「え……でも、服も汚れちゃったし……」
「お菓子作りにトラブルはつきものよ。それより、ほら」
まだクリームが残った指を、そっと姫子に差し出す。申し訳なさそうにしながらも、
ぺろっと可愛く味見をしてくれる。
おいしいでしょ、と聞いた私に、姫子は申し訳なさの混じった笑顔だったけど、
うん、と精一杯頷いてくれた。
「実を言うとね、一度、やってみたかったのよ。こうやってクリーム失敬するのって。
ああいう環境だと、そういういたずらとも無縁になっちゃうから。それにね、」
だけど……と続けようとした姫子に、私は心からの笑顔を浮かべて。
「こういうちょっとした事故があった方が、後で振り返った時楽しいのよ」
使用人達に囲まれて、絶対成功する環境で作ったお菓子。
そんなものよりは、自分たちで色々苦労しながら作った、不恰好なお菓子の方が
ずっと心に残るから。
大好きな人と、失敗したり、ちょっと行儀悪いことをしたりしながらのケーキ作り。
こんなに嬉しい時間なんだから、姫子にはどうか、幸せな笑顔でいてほしい。
「でも……」
「しょうがないわね。それじゃあ今回驚かしてくれた埋め合わせに、姫子にちょっと
罰ゲームつけてもいいかしら?それでチャラってことで」
「え、うん、私にできることだったら、何でもするよ」
『何でも』という言葉に、ふとある情景が浮かぶ。私が密かに求めていること。
優しい姫子のことだ。罰にかこつけて求めれば、多分応じてはくれる。
でも、そうしたらきっと、姫子の心はもう届かない場所に行ってしまう。だから……
「ありがとう。それじゃあ……」
落ち込み気味の姫子を、暖めるようにそっと抱いて。
「今度は姫子も一緒に泡立てること。交代で泡立てたり、ボウルを押さえるのを
手伝って頂戴。それと、泡立て中の姫子の写真を、私にもいっぱい撮らせてもらう
こと、今日の写真ができたら、すぐに持ってくること。それと最後に……」
姫子の頭を、慈しむように撫でながら。
「悲しい顔はもうおしまい。『でも』とか『ごめん』も禁止。それでいいかしら?」
「でも……」
「姫子」
「あっ、ごめ……んくださいっ」
「ふふっ、やっぱり姫子は笑顔が一番いいわね。でもさすがに今のは、姫子らしいと
いうか……」
「もうやめてよぉ、自分でも恥ずかしいんだから」
染み付いた口癖に振り回されながら、二人でひとしきり笑ってから。
「さぁ、もう一度作りましょう。姫子、生クリームとお砂糖とキルシュ、また持ってきて
くれるかしら?」
「えっと……うんっ」
お屋敷の中では絶対に見せられないことを楽しみながら、私は密かに思っていた。
もっと失敗して、この『秘密の調理実習』が、長引いてくれてもいいな、と。