日付も変わった2月14日。村外れの邸宅の一室に、金属や磁器のぶつかり合う
小さな音が響く。使用人達も眠りについている筈の真夜中、最低限の照明の中で、
私は一人、秘密の作業を続けていた。
普段ならベッドにいる時間に、人目を忍んで厨房で奮闘。その理由は勿論……。
「もうちょっとかしら」
ハンドミキサーで卵黄を泡立てながら、銅鍋のシロップと睨めっこしている。
恋人に贈る、生まれて初めての本命ケーキ。
『手作り』ケーキ自体は、一流パティシエに手取り足取り教わりながら、もう何度も
作ってきた。今回だって、乙羽さんに一言声をかけていれば、プロ監修の下、
ケーキでもボンボンでも、人気店並の品を作ることはできた。
けれどそんなのは御免。大好きな人には、やっぱり本当の手作りを贈りたいもの。
「いけない……」
鍋肌に貼りついた、かすかな焦げ茶色に、思わず小さな愚痴が零れる。
一瞬浮かぶ、恋人の不満げな顔。それを払うように、慌てて刷毛で焦げを拭った。
私は決してお菓子作りは不得手ではない。
誕生日、祝賀会、クリスマス――もう何度も『お手製』を作らされてきたこともあって、
今回のケーキも何とか作れるかなと甘く見ていた。
でも、真夜中恋人や給仕達に気付かれないよう、極力音を立てないように注意しな
がら、薄暗い厨房で一人作業するのは想像以上に大変だった。
オーブンで生地を焼きながらクリームの材料を測り、シロップを加熱しながら卵黄を
泡立てて、時計を見ながら次々に手順をこなし……。
がらんどうの舞台のように広過ぎる厨房。スポットライトのような頼りない照明の下、
歌劇のヒロインのように、たった一人厨房に踊る。
でも、頭に叩き込んだレシピのままに手を動かしながらも、本当は不安だった。
何箇所か少しずつ失敗しながら、ちゃんと美味しく作れるかな、姫子は喜んでくれる
かな、って。
「これでよし、と。次は……」
確かこの後は、『プティ・ブーレにしたシロップを糸のように注ぎ入れながら、
もったりとするまでかき混ぜる』筈……と、そこまで来た所で、手元に鍋掴みを
持って来ておくのを忘れていたのに気が付いた。
鍋掴みはコンロからちょっと離れた調理台。
ぼんやりしていれば、折角頃合になったシロップが焦げてしまうけど、この様子なら
十分余裕がある……そう思って、急ぎ足で台に向かう。ところが。
「わっ」
「えっ……?」
小さな悲鳴と可愛い気配に、反射的に扉の方を振り向く。
「姫子……?」
嬉しいような、気まずいような。自分と同じことを考えた人が、屋敷にもう一人ほど
いたらしい。いつの間にか半開きになっていたドア。そこから、ラッピング用の紙や
リボンを一杯抱えた恋人の顔がちょこんと覗いていた。
「あの……あのね……」
目を合わせた瞬間、悪戯を見つかった子供のように、あたふたと戸惑いながら、
リアクションに困って固まってしまう。
でも、その仕草は反則だ。こんなこと言うと悪いのだけれど、可愛くて微笑ましくて、
見るたびにますます姫子にときめいてしまうから。
「その、ごめんね、千歌音ちゃん……」
本当は朝まで秘密にしておきたかったひと。だけどやっぱり一番会いたかったひと。
「そんな顔しないで。いらっしゃい、姫子」
優しく声をかけると、姫子はばつが悪そうに、でもどこか嬉しそうな様子で、
ドアの隙間から入り込んできた。
「ごめんなさいね、姫子の『秘密』を邪魔してしまって」
「ううん、そんなの全然いいよ。私こそ、千歌音ちゃんのこと勝手に覗いてごめんね」
空いている場所に『荷物』を降ろしながら、反射的に謝ってしまう姫子に微笑む。
「そんなに謝らないで。姫子が来てくれて、凄く嬉しいんだから。でもそんな格好で
覗くのは駄目。風邪を引いてしまうわ」
青ざめた体を引き寄せ、抱き包む。
コンロやオーブンの熱に当てられた体には心地よい、白磁のような姫子のやわ肌。
衣服越しにその感触に酔いながら、甘いキスをかわす。
もう数え切れないほど繰り返している筈なのに、姫子の全身がほんのり蕩けていく
のが分かる。抱き寄せている自分と同じように。
「だめだよ、千歌音ちゃんの暖かいのがなくなっちゃうよ?」
「私にこうされるの、嫌?」
「そんなわけ……」
「なら、姫子が暖まるまで、もう少しだけこうさせて」
淡い狐色の生地、刻んだクーベルチュール、まだ湯気の上がる珈琲シロップ。
たくさんの魅力的な香りに混じった姫子の匂いを吸い込むだけで、陽射しを浴びた
ように体と心が温まる。
「こんなに冷やしてしまって……姫子、結構前からあそこにいたの?」
「うん、ちょっと用事……というか、もうバレバレだけど……ケーキの最後の仕上げを
しようと思って。でもそしたら千歌音ちゃんがいて、お菓子屋さんみたいに格好
良かったからつい見蕩れちゃって、それで……」
「……もうっ」
やっぱり姫子は酷い。些細な動作や言葉一つで、私をこんなに乱してしまう。
どうしてそんなに嬉しい言葉を囁いてくれるの?
私は酔わされたままに、堪らずもう一度舌を絡めようとして……。
「千歌音ちゃん、駄目だよ」
困った、ないし不安げな表情で身をよじる姫子に、私は一瞬で蒼白になる。
ひょっとして強引過ぎた?急いで腕を解いて、姫子に謝ろうとすると。
「姫子、私……」
「そうじゃなくて、千歌音ちゃん、その、お鍋……」
「うん、いい味。コーヒークリームは無事完成ね」
「いいなぁ、千歌音ちゃん、ちょっとだけ私にも味見させて?」
「だーめ。ちゃんと出来上がってプレゼントするまで、姫子にはお預け♪」
ちょっぴりお行儀の悪い恋人を、母親のようにたしなめる。
でも、物欲しげにボウルを見つめる姫子も姫子で、愛用のカメラで私の緩み気味の
お説教顔を、ちゃっかり捕まえていたりする。
誰もいない舞台に、予期せぬ『お客様』がやって来て、まだ30分ほど。
私は『専属写真家』の撮影を受けながら、シロップ作りからリトライしていた。
加熱し過ぎてカラメル化したシロップを処理した後は、魔法のように作業が進んで
いき、今ではもう最後のガナッシュ作りに突入していた。
「姫子、ちょっとわがままを言ってもいいかしら?」
「うん、何でも言って。私にできることなら、どんなことだってするから」
世界でたった一人、『千歌音ちゃん』を曝け出せる、姫子にしか出来ないこと。
「姫子が嫌じゃなかったら……昔一緒にケーキを作った時みたいに、私を写真に
収めて貰えないかしら?」
バレンタインに、秘密で手作りケーキを作る人は沢山いる。
でも、目一杯の想いを込めて料理を作る姿を、大好きな人に写して貰える人なんて
世界にどれだけいるのだろう。
それは本当に素敵なこと、絶対に一生に残る思い出になる。
私のお願いに、姫子はとびっきりの笑顔で飛び上がってくれた。そして……。
「ガナッシュも完成。後は組み立てれば一息つけるわ。でも姫子は……もう眠い?」
「ううん、今日は全然平気。コーヒーの匂いのせいなのかな」
『本命』を作成中の私と、『本命』の仕上げを控えた恋人。二人の視線が絡み合う。
一人の時は、楽しいけれど緊張して、どこか不安だったケーキ作り。
でも今は違う。相変わらず作業は一人でこなしているのに。
理由は……もう言うまでもない。
「……ありがとう、姫子」
想いが形になってゆく手応えを感じながら、私はカメラを構える姫子に笑顔を送る。
月は、太陽があるから輝き、太陽に見て欲しくて輝きを増す。
姫子、あなたが傍に居てくれるから、私はこんなに頑張れるのよ、と。
「今まで食べたケーキで一番おいしいよ!でも本当に、食べちゃっていいの?」
「勿論よ、姫子のために作ったんだから」
「でもやっぱりもったいないから、千歌音ちゃんもこれくらい食べて欲しいな」
幸せ一杯の姫子に、こちらも負けない笑顔を返す。
フォークを持ったままのジェスチャーは、本当は注意する所なのだけれど、姫子の
純粋さのせいだろうか、『はしたない』ではなく『可愛らしい』を強く感じてしまう。
月明かりと蝋燭とに照らされた、秘密のお茶会。
林檎の紅茶の傍で、二人が贈り合ったケーキが、白磁の上で輝いている。
「千歌音ちゃん……今度は、私の……」
お皿に切り取った一切れを姫子が召し上がって、今度は私が楽しむ番。
じっとケーキを見つめる私を、姫子が祈るように見つめている。
いびつだけれど、想いが伝わってくる、姫子のケーキ。
不慣れなチョコペンで、一生懸命名前を入れてくれた、私のためのプレゼント。
「あ、でも、無理して食べなくてもいいよ、だって、千歌音ちゃんのに比べたら……」
もう少し眺めていたかったけれど、姫子が限界なので、仕方なくフォークを動かす。
『ちかねちゃんへ』の文字を壊さないようにしながら、ケーキを一口。
「……とても美味しいわ。ありがとう、姫子」
濃厚なチョコレートの風味に、甘酸っぱいアプリコットのアクセント。形は歪んでいる
けれど、味の方は想像以上に本格的で、生地の歯ざわりも丁度いい。
きっと私が出ている間に、一生懸命作ってくれたのだろう。いや、もしかしたら。
「ひょっとして、私が居ない間、何度か練習したりした?」
「だって千歌音ちゃん、私の作ったものはいつも『おいしい』って、言ってくれるでしょ。
けど、自分では失敗したの分かってるから……だから、頑張ってみたくて……」
そんなこと、しなくてもいいのに。
姫子が頑張って作ってくれる、それだけでも幸せ過ぎるのに。
「姫子、私のために、そんなに……っ」
目頭から零れそうになる涙。それを姫子が、何も言わずそっと拭ってくれる。
私が千歌音ちゃんのハンカチになるから――。
出逢ったあの時も、別れの時も、今も……いつでも支えてくれる姫子。その優しさと
深い愛情に、私は演劇のヒロインのように、胸を幸せで一杯にしていた。
「……ところで姫子、『世界三大オペラ座』って知ってる?」
ひとしきり溢れさせた嬉しい涙を拭って、姫子の贈り物を(ある意味『仕方なく』?)
味わった所で、私はちょっと聞いてみる。
案の定と言うか、何と言うか。どこだろう、と、堪らない可愛らしさで考える姫子。
小首をかしげるその仕草をちょっぴり堪能してから。
「パリのオペラ座、ミラノのスカラ座、そしてウィーンの国立歌劇場の三つなの。
今回私が作ったのは、パリのオペラ・ガルニエに因んだケーキなのだけど、そうし
たら姫子ったら……何でもないことの筈なのに、ヨーロッパを旅してる気分だわ」
我ながら酷く強引なこじつけ。なのに不思議にこんなに嬉しい。
オペラで繋がれた二人――劇的な恋と別れ、そして再会を果たした私達だけに、
こんな風に書くと本当に神話や叙事詩の登場人物に思えてきてしまう。
「ねえ姫子、今度の休み、今言った3大オペラ座、一緒に堪能してみない?」
「駄目だよ、これ以上千歌音ちゃんのお世話になったら……」
「こんなに姫子が好きなのに、二人の思い出を作りたいのに……それでも、嫌?」
「そんな風に言われても、やっぱり駄目だよ。私がお金貯めるまで待ってて?」
もしかしたら誤魔化せるかしら……なんて期待は見事に空振り。
姫子と過ごせるなら時間やお金なんて幾らかけてもいいのだけど、さすがにこれは
敷居が高すぎたみたいだ。
「残念……それじゃあオペラ座巡りは後に取っておいて、今回はスカラ座の代わりに、
さっきのカラメルでジェラートを作りましょう。ほろ苦いジェラートを姫子のトルテに
添えて、暖かい部屋でティータイム……それなら、いいわよね?」
甘いプレゼントを味わいながら、私達は星達が沈むまで、甘い甘い会話を重ねた。
二人で語らう幸せな時間、寝てしまうのは余りに勿体無い気がして。