それはいつの間にか忍び込み、私を苛み続けている寂しさ。姫宮の家に生まれて、
こんなに恵まれた環境にいる筈なのに、本当に大切なものが欠けている違和感。
はっきりとは分からない。それが何なのかも知らないけれど。
きゅうっと、まるで見えない宝物を抱きしめるように、両の手を胸へと押し当てる。も
っと温もりを求めるように、心にぽっかり空いている穴を、覆い隠すように。だけど、
とくん、とくんと指先に伝わる鼓動からは、決して悲しみの音は消えなくて……。
まほろばの屋敷から、プラネタリウムの星空を見上げる。あまねく星々を従える、さ
やけき月の光。それは酷く切なく、満たされない自分を照らしている。
かつてない心の揺らぎ。幼い頃に海外へ渡ってしまった私には、幻のような思い出
しか残っていない筈のこの村に来た時から、不思議な想いに囚われている。
とりとめもなく切なくて、涙が溢れてきそうで、なのにそれと同じくらい……。
偶像のように人々に慕われる自分。飾り立てた言葉を慌しく捧げられる晩餐会。虚
像の笑顔を浮かべて、家族とでさえも英語で言葉を交わす日々。
だから嘘には慣れていた。言葉でも、心の中でも、常に演技を続けてた。なのにず
っと続けていた生活を、今更辛く思うのは何故?夜空を照らす孤高の月を見上げ
て、物思いに耽っているのは何故?
気の迷いとか、精神疲労とはちょっと違う。これはそう、思い出したい大切な『何か』
があると分かっているのに、何を忘れているのか分からない、そんな不安だ。
付きまとう不思議な感情。神無月の始まりを告げる月が、それを浮き彫りにする。
いつもとは違う色の月。まるで自分を、此処ではない何処かへと誘うような光。眠っ
ている無意識が、魂の奥底の何かが、さざ波のようにゆらゆらと震える。
ただならざる、運命という言葉さえ浮かぶ物思い。今夜は眠れそうになかった。
そして、夜が白み始める更に前。私は一睡も出来ないまま、コートを羽織って村外
れの田舎道を歩いていた。戻って来たばかりで、殆ど知らない筈の里。
なのに、月と星の明かりの中を、妙に慣れた足取りで進んでいく。世界を包む虫達
の歌をBGMに、一人秘密の村巡り。冷たく静まり返る無人駅、凛と佇む大神神社
に、村を見下ろす丘の御神木。そして……。
深い記憶に動かされるように、私は気付けば此処に来ていた。急階段の上に佇む、
いつもの賑わいとは全く別の顔をした学園。
雑談や歌声は勿論、朝練の声すら早過ぎる学び舎には、当然自分しか居ない。
草木のざわめきと明け方の風以外何もない、訪れる価値のない筈の場所。それな
のに来てしまった。月が沈む頃に、まるであらかじめ約束されていたように……。
中にそっと忍び込む。はしたない振る舞いだけど、身体が自然に動いていた。
甘い恋、部活動、教室での勉強――どうしても実感できない単語たち。
いつも英語の授業を受けて、家でも家庭教師に縛られて。美人令嬢と騒がれても、
実感も喜びもない。『姫宮の宣伝』という義務を果たす、仮初の充足に満ちた日々。
ふっ、と羨望混じりの悲しみが過ぎる。教室、テニスコート、弓道場……。米国に渡
っている間も、茶華道に弓道、テニスに乗馬、ピアノ等々、姫宮家のPRのため
とはいえ、多彩な習い事をさせられていた。
身も心も疲弊する中、寝る時を除けば唯一独りで過ごせた趣味の時間。家の期待
を裏切らない技量になった頃には、練習だけが私の娯楽になっていた。
委ねられた中で、箱庭の中で、孤高に輝く自分。部活動で、友達と一緒に練習を重
ねたり、励まし合ったり。そんな毎日、私も経験してみたかったわね……。
ただ漠然と、そんな由無い事を考えていた時。
登る太陽に、白み始めた南東の空――その淡い水色の光を浴びて、美しく咲き誇
る薔薇垣が、視界に飛び込んできた。歩みを速めて、そこに近寄る。
太く、でもしなやかに柵を伸びた、瑞々しい蔓。熱心に手入れされているのだろう、
陽の出前の空の下、何種類もの薔薇が甘い芳香を漂わせている。
のんびり朝を迎える村の中、此処だけ場違いに西洋的で、でも不思議に懐かしい。
迷い込むようにやってきた場所で、どうしてそう思ったのか?その理由は分からな
いけれど、私はそこに『既視感』以上の何かを感じていた。
偶然辿り着いた場所。初めて訪れた筈の場所。なのにふと気付けば、私の足は自
然と園の外縁を周っていた。妙に慣れた足取りで、あっさり園の扉の前に来る。
はっきりとは分からない。中が気になったのか、小さな冒険を求めていたのか……
秘密基地に出入りする子供のように、そうっと閂を外して、格子を推す。
かすかな金属の軋みに2、3度手を強ばらせながら重い門扉を開いて、その隙間
に身を滑り込ませた。
使組まれた『何か』に導かれるように、園の真ん中に立つ木へ歩く。そのまま腕を
組んで、大きな幹に背中を預けて、目を閉じて深く息をする。
まるであつらえられたように自分を包み込む樹皮、私のためにプロがブレンドしてく
れたような、爽やかな朝風と薔薇の香――私へのプレゼントのような箱庭。
ただ、寂しい。こんなに居心地のいい場所なのに、私一人には広過ぎる気がする。
いつからか感じていたこと。大切なピースを欠いたパズルのような違和感。私をず
っと悩ませている感情が酷く強さを増して、心臓を早鐘のように鳴らす。
それは苦しくて、切なくて、だけど……。
必然のように、習慣のように、朝露に濡れる芝生に座り込む。気だるげな目蓋を自
然に閉じかけたその時。『千歌音ちゃん』……そう呼ぶ声が、突然聞こえた。
目の前に、一人の女性が微笑んでいる幻を見て、はっと意識を引き戻す。シルク
のような紅茶色の髪、全てを包んでくれる、暖かいお日様のような笑顔。
前に出逢った気がして、追いかけるように立ち上がって辺りを見回す。けれどそこ
には当然、ただ無数の薔薇が咲き誇っているだけ。でも。
「今のは……」
晒された不覚に、切なく、どうしようもなく胸が高鳴っていた。
さぁっ、と頬に朱が差していくのが分かる。唇は動いていなかった筈なのに、突然現
れた『誰か』の言葉がはっきり聞こえたから。『もうすぐ見つけに行くから』……と。
ただの夢では終わらない――私は託宣を受けた巫女のように、そう直感していた。
不思議に溢れ出る涙を拭ってから、高い空を見上げる。どこまでも澄き通る、目が
覚めるような真っ青な空。屋敷を抜けてきた頃にはあんなに輝いていた月も、朝陽
に照らされて消えようとしている。
歪んでいた視界を、物足りなかった気持ちを涙と一緒に拭って、私は自分を取り囲
む薔薇の壁から、深呼吸一つして外へ出た。
感情を乱して、微かに頬を腫らした、でも今までの作り笑いよりもずっといい笑顔。
情動の跡を残し、園を後にする私。その耳に、私を探す侍女長の声が響いてきた。
泣き腫らした跡も消えた頃、私は侍女長に、あの庭のことを色々と尋ねていた。
「けれど本当に、どうして私があそこに居ると分かったの?」
「なんとなく……メイドの勘ですね。それに……ずっと昔、お嬢様はあの薔薇の園で、
いつも親しい人と待ち合わせをしておられた噂を、耳にしたことがあるんですよ」
「……待ち合わせ?私が?」
越せない時間の壁。私がまほろばに戻ったのは十年ぶりだ。そんな私が待ち合わ
せをしていた……そんな記憶は無い筈なのに、でも……?
「なかなかお友達がお出来にならなかったお嬢様が、その人とはすぐに打ち解けて、
いつの間にか毎日あそこで、一緒に昼食を取るようになっていたそうです。
……それ以上のことは、私も伺っておりませんが……」
解けない謎かけのような不思議な言葉。それはまるで私ではない誰かの、私の知
らない遠い世界の話。普通なら軽く流しているだろう噂話の筈だった。
なのに鼓動はこんなに強く、全身を微熱で満たしている。その理由は、きっと。
「いつかまた、『その人』に逢いたいわね」
「……そうですね。もう一度、お友達になれるといいですね……」
結末がどうなるか、もう何となく知っていた。
未来にもう一度、薔薇の園で夢見たあの人と、再会するということを。お日様のよう
な笑顔と、目の前で柔らかく香るミルクティのような髪の彼女と。……そして私は
どうしてか、部屋の片隅の引き出しから、あるものを取り出していた。
何の変哲もない、桜貝のネックレス。一度も開けていない引き出しなのに、何故其
処にあると分かったのだろう。姫宮の装飾品としては余りにもシンプルで、他の私
へのプレゼントに比べて明らかに浮いているのに、それは切ない位、いとおしい。
行ったことのない筈の海岸の、潮風と涙の匂いを思い出させる桜貝。
この貝は、どうして此処にあるのだろう。何処で入手したのか分からない、時の向こ
う側から突然流されてきた、魔法のような存在。でも、本当にどうしてだろう。
とても……懐かしい。
もう覚えていない過去に誘われて、私はそっと、片割れの貝をつけてみる。
たった一組しかない、この世で一組しかない、互いにぴったり重なり合える二枚貝。
だけど、一組は絶対にある。それは、人と人もまた同じ……。
君だけを護りたくて、決して届かぬ想いに身を焦がし続ける、片割れの姫……いつ
だったかすら思い出せないほど昔に聞いた、そんなお伽話。
けれどそれは、今此処に居る私と、不思議に重なって見える。かけがえのない何か
を失くしてしまった物悲しさは、まさに寂しい貝殻だったから。
護られて、躾けられて、背負わされて。やがて満天の星空を照らす月のように、光
り輝くようになった私。それなのにどうしても、どこか満たされなかった私。
ただ我武者羅に努力を重ねて、姫宮の家に恥じない実力も身に付けたのに、寂し
くて、空虚で……でも、今はそれが嘘のように前向きになってる。何となく見につけ
てみた貝殻が、幻に見た大切な『誰か』を、引き合わせてくれるような気がして。
逆らうこともせず、『地位』や『責務』にある意味流され続けてきた自分。小さな頃か
ら遠い異国の地で、厳重な管理の中で純粋培養されて、お陰で友達も作れず、ず
っと孤独に囚われて……今までずっとそうして生きてきた。でも、これからは変わっ
ていける気がする。かつて大切なひとと過ごした、このまほろばで。
いつかきっと、出逢える。自分を『姫宮の娘』ではなく『千歌音ちゃん』として見てくれ
る、そんな素敵な誰かに。
「今日はこれで街に出ることにするわ。折角服を用意してくれた乙羽さんには悪いの
だけれど、今は何となく、この色を選びたいの」
けったいなドレスや、高級過ぎる服の代わりに、私が選んだ衣装。
……それは、あの桜貝の薄桃色に良く調和する、真白のワンピースだった。
過去にもこまめに足を運んでいたという乙橘の学園、そして美しい薔薇の園。過ぎ
去った日々の記憶は無いけど、それでも心に残っている懐かしさ。
だから今日の服は、ずっと憧れていた、あの制服の色にしたい。特に理由はない
けど、そうすると何か嬉しい事件が起きるような気がする。
……そんな、占いめいた予感がしたから。
つかの間の休日。監視も束縛も無い街での時間に、何だかどうしようもなく胸が騒
ぐ。それはきっと、遠足の前の日の子供のような気分。
「なかなか珍しい光景ですね。お嬢様がそんなに頬を緩めているなんて」
うふふ……と、意味ありげに胸元を見やる侍女長に、私も迷いの無い笑顔を返す。
未来は誰にも分からない。幸せなニュースが飛んで来るかも知れないし、不幸な出
来事や、悲しい運命が降ってくるかも知れない。
だけど今は不思議と、辛いことや苦しいことが起きる気がしない。神無月初日の抜
けるような空と眩い陽射しの中、私は最高の笑顔で、姫宮邸を後にした。
救われることなき運命を、幾度となく繰り返してきた二人。
えいえんにも等しい輪廻の中に訪れる、優しい世界の中で幸せになれる、抱き合え
る瞬間。そして、余りにも残酷な別れ。それでも二人は、悲しみの狭間に訪れる束
の間の幸せを求めて、悲しい転生を続けてきた。
ならばこそ、今こうして願いが通じようとしているのだろうか。それまでのシナリオか
ら外れた物語。前例の無い『世界』の中で、同じ空には昇らない筈の太陽と月が呼
ばれた奇跡。そして。
涸れ果てる気で、体も心も裂かれる覚悟で、大切な笑顔を護ったひとがいた。報わ
れない恋に泣いていたひとの、清濁全てを受け止めたひとがいた。
果てなき輪廻を超えて、幾つもの障害を越えて、口づけを交わして、夢を語り合っ
て、そして……。姿も記憶も関係ない、きっと見つける――薔薇の園で交わされ
ていた約束と、あり得ない筈の思い出の品が導く先は、勿論……。
消えてしまった筈の恋人が残してくれた、懐かしい髪留めの色に飾ったお日様。憶
えていない筈なのに、世界にただ一組の桜貝と、遠い昔には毎日ように着こなし
ていた、懐かしい制服色の服を選んだお月様。
もう、今度は迷わない。巫女の宿命も、悲しい別れもないこの世界の交差点から、
いつまでも、どこまでも幸せになる。
いとおしいひとを、痛みを重ねても、記憶が消えても、ずっと思い続けた二人。姫子
と千歌音、神無月の太陽と月が、もうすぐ、また恋に落ちる。