神無月の恋 その2

神無月の巫女 ハアハアスレ投下もの

神無月の恋 その2

 姫宮邸で一晩を明かすことになり、姫子はお風呂を借りることになった。

「わぁ、広いおフロ」
「そう?」
「そうだよー」

二人は当然のように風呂場に一緒に入ってきた。
どちらかが、一緒に入るように誘ったわけでもない。
姫子も千歌音も、こうするのが自然のように思えたのだ。

湯に入った千歌音は、姫子の胸元をちらちらと見た。
どうしても気になって仕方が無かった。
胸にあるあざが見覚えがあるような気がしてならなかった。

「その胸のあざ……」
「これ? えへへ、火傷の跡みたいでかっこわるいでしょ」

見られた姫子は苦笑して胸のあざを指で撫でた。

「そんなことないわ、とてもきれいよ。実はね、ほら」

千歌音はそう言うと、長い後ろ髪をたくし上げて姫子に背を向けた。

「お月さんの模様……?」

姫子は千歌音の背中を食い入るように見ていた。
千歌音のあざが月なら、姫子のあざは太陽に見えなくもない。
太陽と月。
姫子は大切なことを忘れているような気がした。

「月にしか見えないでしょ? でもこれ、生まれた時からあったそうよ」
「ほんとに? 私もそうなの」

千歌音は髪を束ねていた手を下ろし、姫子の胸を間近で見る。

「姫子のは太陽みたいね」
「私が太陽なんて変だよ」
「ぴったりじゃない。姫子の笑顔はお日様みたいだもの」

その言葉にどきっとした姫子は、瞬く間に頬を上気させた。
頭に引っかかりはあったが、姫子は千歌音の言葉が嬉しくてどうでもよくなった。


姫子と千歌音の恋は、急激に燃え上がった。
真夜中、寝室を別にした二人だったが、どちらも眠れないでいた。
一緒に寝たい。
そう思う彼女たちは、何度も枕を抱えて部屋を出ようとした。
そして、我慢できなかったのは千歌音だった。

「……姫子、起きてる?」

意を決した千歌音が、姫子の部屋を訪れる。
ドアを静かに開け、らしくない気弱な声でベッドの姫子に呼びかけた。
彼女は体を重ねたかったのだ。それが無理なら、せめて同じベッドで眠りたかった。
しかし、千歌音と姫子は女同士。この感情は異常なものだ。
罪悪感もあり、千歌音は思いとどまってドアを閉めようとした。

「待って、千歌音ちゃん」

姫子が千歌音を呼び戻す。
彼女も同じように、身体が火照って眠れないでいたのだ。
彼女たちのその疼きは、生まれる前から刻まれた、身体の記憶からくるものだった。
姫子の声で、閉まる寸前のドアを再び開ける千歌音。
部屋に入って静かにドアを閉め、ベッドに歩みを進める。
そして、布団で口まで顔を隠している姫子と、熱い視線が交わった。

「一緒に寝てもいいかしら」

千歌音が興奮で荒くなりそうな息を抑え、できるだけ優しくお願いする。

「……いいよ」

姫子は潤んだ瞳で千歌音を受け入れた。


同じベッドに入った二人は、ずっと向かい合わせに寝そべって見つめ合っていた。
会話はない。
姫子も千歌音も胸が高鳴り、それどころではなかった。
次第に二人の呼吸が荒くなり、視線が互いの唇に向かう。
ついには、二人の唇の距離が縮まり始めた。
そして、二人は瞼を閉じ、唇で触れ合った。
体中に痺れるような快感が走る。
その直後、姫子に変化が起こった。
暗闇から湧き上がる、忘れていた記憶の数々。
嬉しいこともあった。楽しいこともあった。
でも、悲しいことも多かった。
千歌音の唾液が、血の味に変わる。前世で最後にした口付けの味だった。
その血を出させたのは姫子だった。
千歌音の胴体を刀で一突き。
姫子の手に、臓物を刺す感触が鮮明に蘇る。
姫子は愛する人をその手にかけたのだ。
そして、冷たい月の社に彼女一人だけを残してきたのだ。
口付けをする姫子の唇が震える。
変だと思った千歌音は目を開けた。
眼前の姫子は、大粒の涙で泣いていた。
千歌音はとっさに唇を離す。そして、後悔した。嫌われたと思ったのだ。
泣いている姫子を前に、千歌音は何も言えなかった。姫子にだけは嫌われたくなかった。
呆然としていると、姫子は声を上げて泣き始めた。

「ごめんね、千歌音ちゃん。辛い役を押し付けてごめんね。私が何も知らなかったから……」

泣きじゃくって謝る姫子に、千歌音はどうしていいのか戸惑った。まだ記憶の戻らない彼女は、身に覚えがなかった。
それでも、姫子が苦しんでいることは分かった。
千歌音は姫子を守るように胸に抱き寄せた。
そして、そのまま二人は眠りについた。

  姫宮の屋敷で一晩を明かした姫子は、朝食を頂いてすぐに会社に出勤した。
記憶が戻ったこともあり、千歌音のそばになんとなく居辛かった。
とは言っても、一緒にいたくないわけではない。ずっと千歌音の顔を見ていたいとも姫子は思っていた。
だが、今は心の整理をする時間が欲しかった。陽の巫女の記憶を受け止めるのは、容易ではなかった。
姫子はオフィスデスクに肘を着いて、今朝、姫宮の屋敷を出た時のことを思い出していた。

「千歌音ちゃん、心配そうだったなぁ……」

姫子は千歌音に余計な心配をさせたことに、ため息を漏らした。

「来栖川、仕事をしろ」
「は、はい」

すかさず、上司のお叱りが入り、姫子は机上の書類に向かう。
昨日、無断欠勤したばかりなので、目を付けられていた。


仕事が終わり、会社のビルから出た姫子を待っていたのは大神ソウマだった。

「お疲れ」
「大神君も」

ソウマは姫子の帰りを会社前で待つのが日課になっていた。
べつに、ソウマは姫子と同じ会社に勤めているわけではない。自動車は近くの有料駐車場に停めてある。
彼は今も姫子に惚れていた。
学生のときに一度は交際を断られたのだが、付き合いを絶やさないように努力していた。
容姿端麗、頭脳明晰――言い寄る女はうんざりするほどいるだろうに、姫子以外には見向きもしない、一途な男だった。
それもこれも、いつまで経っても男を作ろうとしない姫子のせいでもあるのだが……。
姫子があんななので、ソウマも諦めがつかなかった。

「どうする? 何か食べていくか」

食事に誘われ、姫子は迷った。
千歌音との出会いがあり、他の人との付き合いが、やや時間が勿体なく感じるようになっていた。
許されるなら、今夜も姫宮の屋敷に押しかけたいほどだった。
それでも、ソウマには前世から助けてもらってばかりいる。
お礼にご馳走でもしようと思い、誘いを受けることにした。

「そうしよっか」

何を食べようか相談しながら歩く姫子とソウマ。
ビルの前に黒い高級車が停められていた。
その自家用車の中から、千歌音が二人の後ろ姿を眺めていた。

 
姫子とソウマは中華料理店で、仕事で空いた腹を満たしていた。

「昨日はどうしたんだ。無断欠勤なんて初めてじゃないか」

ソウマが食事中の会話で、昨日のことを聞く。
彼は昨日も姫子の迎えに行き、空振りを食ったのだ。
会社の前でじっと待っていた時に、彼女の同僚に無断欠勤したと聞いたのだった。
料理に箸を向かわせていた姫子は初め、その質問にたじろいだ。無断欠勤は悪いことだ。
しかし、すぐに満面の笑顔に早変わりした。

「昨日はね、特別な日だったの。何だと思う?」
「えっと、誕生日でもないし、わからないな……」

好きな女の子の特別な日だ。ソウマは真剣に思い出そうとした。
彼の気持ちも知らず、姫子は嬉しそうに答えを教える。

「やっと会えたの。私の運命の人に」

姫子の笑顔と対照的に、ソウマの顔が凍りつく。彼が恐れていた事態が起こってしまったのだ。
姫子が子供の頃から口癖のように言っていた運命の人。
それがついに現れてしまったのだ。
冷静沈着なソウマでも気が動転しかけた。

「誰なんだ、そいつは!」
「そ、それは……」

姫子は答えられなかった。
だが、決して相手が同姓だから恥ずかしいわけではない。
周りにどう思われようとかまわないと、前世で千歌音と約束したのだ。
姫子が気にしたのは、千歌音のことだった。
彼女はまだ、月の巫女の記憶を忘れたままだ。姫子と愛し合う覚悟が絶対にあるとは言い切れなかった。
千歌音の迷惑になるようなことはしたくなかった。
姫子が涙目で困っているのを見て、ソウマは冷静さを取り戻した。

「スマン。ちょっとかっこ悪い所を見せた」
「ううん、ごめんね。大神君には教えてあげないといけないのに」
「そうだぞ。俺をふって選んだ相手なんだからな」
「そうだね……」
「いつでもいいから、今度教えてくれよ」
「うん、必ず」

ソウマはどうにか姫子の笑顔が見られ、ほっと一息ついた。


姫子がソウマと食事をした夜。
千歌音は一人、自室で泣き伏せていた。
姫子が男と付き合っている。
そう思った彼女の胸は、どうしようもなく痛んだ。
姫子とはたった一日の出会いだったのに、千歌音は嫉妬と失恋の苦しみで狂い死にしそうだった。
その原因は前世にあるのだが、彼女は知らない。


千歌音が声を殺して泣くのを、乙羽はドア越しに聞いていた。
そして、千歌音をそうした者に心当たりがあった。
来栖川姫子。
ふらりと乙羽の前に現れ、あっという間に千歌音と親しくなった女。
乙羽は姫子の顔を思い浮かべ、唇を噛み締めた。

千歌音の声が聞きたい。
そう思った姫子は、姫宮邸に何度も電話をかけた。
しかし、一度も千歌音まで繋がらなかった。
取り次ぎに入っている乙羽に何かと理由を付けられて、門前払いのような形になっていたのだ。
乙羽にしてみれば、千歌音を悲しませた彼女を許せないのだろう。
乙羽も千歌音を愛していた。主人と召使いという関係上、その感情を表に出すことはなかったが……。


姫宮の屋敷で一夜をすごしてから最初の休日。
姫子の我慢も限界に達しようとしていた。
千歌音と話したい。
千歌音と会いたい。手を繋ぎたい。抱きつきたい。
眠れない夜を明かした姫子は、天火明村行きのバスに駆け込んだ。


屋敷へと直接出向いた姫子は、乙羽に追い返されそうになっていた。
乙羽が玄関の前で仁王立ちして睨みを利かす。
実際には、来客に失礼なのでそんな態度はとっていないのだが、少なくとも姫子にはそう見えた。

「お嬢様は留守にしております。申し訳ございませんが、日を改めてお越しいただけますでしょうか」
「そうですか。では、明日ならよろしいですか」
「明日も、お嬢様はお忙しくなりそうです」
「では、都合のいい日を教えてくれませんか」
「それはできかねます。何しろ、来年までお嬢様のご予定は密に組まれておりますから」

のらりくらりとかわそうとする乙羽。千歌音が忙しいのは事実だが、半分は嘘だ。
だが、姫子も引き下がれない。千歌音への溢れんばかりの愛情が、それを許さない。

「どうしても会いたいんです。確約は求めません。千歌音ちゃんの時間のある日を教えてください」
「できないものは、できません」

乙羽は姫子の頼みをすっぱりと切り捨てた。とてもではないが、頼みを聞いてくれるような様子ではなかった。
姫子は何をしても駄目だと思い、決心した。

「わかりました。それなら、門の前で待たせてもらいます」
「お帰りは遅くなるそうですよ。もしかしたら、明日になるかもしれません」
「構いません。千歌音ちゃんが帰るまで、私は待ちます」

思った以上に姫子が手強かったので、乙羽は内心でこぶしを震わせる。

「すみませんが、それはご容赦願えないでしょうか。門の前に立たれますと迷惑になりますので」
「それじゃあ、どうしたらいいんですか」

姫子の口調が荒くなる。これには苛立ちを抑えられなかった。
電話をしても繋がらない。
伝言を頼んでも、乙羽ではおそらくムダだろう。
そして、屋敷の前で待つのも許されない。
八方塞だ。

「すみませんが、門の前で待たせてもらいます」
「警備の者を呼ぶことになりますよ」
「何があっても、私は千歌音ちゃんを待ちます」

どちらも譲らず、結局は実力行使になってしまった。
乙羽は諦めの悪い姫子を一瞥して目を閉じると、ポケットの携帯電話に手を伸ばした。


乙羽の連絡を受けて、三人の警備員がものの十秒で飛んできた。
姫宮の屋敷は男子禁制なので、警備員も黒服の女性だった。
玄関前で、姫子は二人の警備員に両腕を拘束された。
「放して! 私は千歌音ちゃんに会いたいだけなの」

姫子が必死に訴えても、警備員は職務を果たそうと、無言で門へと足を進める。
姫子に抵抗する力はない。確実に敷地外へと追いやられるだろう。
その時、玄関の扉が開いた。

「乱暴はおよしなさい」

主人の命令で、警備員は足を止めて姫子の腕を放す。
留守のはずの千歌音が出てきたのだ。やはり、乙羽は嘘をついていた。
乙羽は、千歌音に見つかってしまったことに冷や汗を流す。姫子を遠ざけていたのは、独断でのことだった。

「ごめんなさいね、姫子。今日は屋敷で大事なお仕事があって、皆の気が張り詰めているの。この屋敷に仕えている者を悪く思わないでね」

千歌音は乙羽を責めるようなことはせず、適当な理由を作って謝罪した。

「ううん、こっちこそ、急に来てごめんね。やっぱり、迷惑だったかな……」

姫子は小さく首を振って謝ると、ほんのり頬を染めて、千歌音に歩み寄る。千歌音に会えただけで、機嫌は直っていた。

「少しだけなら時間があるわ。話したいこともあるし、中でお茶でもいかがかしら」
「うん」

姫子は無邪気に喜びながら、屋敷に足を踏み入れた。


姫子と千歌音は、白いテーブルに着いて紅茶の香りを楽しんでいた。紅茶は乙羽が淹れたものだ。

「あなた、恋人はいる?」

おしゃべりの最中、千歌音が唐突に聞いた。
姫子は恥ずかしがりながら頷いた。

「いるよ」

言った後、心の中で「千歌音ちゃんが」と付け足す。
しかし、それが失敗だった。

「そう……」

千歌音は落胆してやや視線を落とす。ソウマと姫子が仲良く歩いていた光景を思い出したのだ。
女同士の会話でなら、恋人の有無は冗談と同じように軽い話題なのだが、千歌音にとっては違った。
この質問の答えによって、姫子との距離を考えようとしていたのだ。
千歌音は身を引く決心をした。姫子が苦しむのが嫌だったのだ。同性愛は、世間からの風当たりが厳しい。
それに、深みにはまる前に終わらせれば、自分も苦しまなくて済む。
千歌音はそう考えた。

「姫子、もうここには来ないで」

急に冷たくされ、ぽかんとする姫子。千歌音にこんなふうに言われるとは思ってもなかった。

「私は姫宮の跡取りなの。あなたのような一般人と付き合えるほど暇ではないわ」

千歌音は拒絶の言葉を続け、姫子に現実を突きつけた。
姫子は驚きのあまり、泣くこともできなかった。
今も、ただ呆然と千歌音を見ていた。

「仕事に戻るから」

千歌音が席を立つ。
別れを行動で示され、姫子は慌てて引き止める言葉を探す。

「千歌音ちゃん……!」
「さようなら」

千歌音は一言で未練を断ち切り、姫子の前から去った。
この別れの夜、二人は同じ思いで泣き明かした。




千歌音に別れを告げられて以来、姫子は自宅に閉じこもっていた。
すでに一週間は会社を無断欠勤している。そろそろ解雇されてもおかしくない。
カーテンは昼も閉じっぱなしで、照明を点けていない部屋は一日中薄暗かった。
姫子は見もしないテレビをつけ、画面だけをぼんやりと眺めていた。番組の内容は、頭に入っていない。
ろくに寝てないのだろう。目の下にはくまを作り、ひどい顔だった。
姫子がここまで自棄的になるのも無理はなかった。
彼女にとって、千歌音は何よりも大切なものだった。それこそ、世界の命運と引き換えにしても、惜しくないほどに。
しかし、皮肉なことに、巫女の二人は世界を救うために何度も引き裂かれていた。
片方の巫女が犠牲になることで、もう片方の巫女が元の世界で幸せに暮らせるために……。
彼女たちは、愛するが故に、自ら生贄となった。
この世界での千歌音との迎合という奇跡に酔っていた姫子は、天国から地獄の気分だった。


「来栖川、居るなら開けてくれないか」

施錠された玄関の外からソウマが呼ぶ。
彼は姫子の異常にいち早く気づき、無断欠勤を始めた日から毎日ここへ来ていた。
しかし、彼女は決してドアの鍵を開けようとしなかった。
姫子が待っているのは千歌音だけだ。
もし、今、玄関の前にいるのがソウマではなく千歌音だったら、姫子は一心不乱に玄関のドアへと駆け出しただろう。

「元気なのか? 顔だけでも見せてくれよ」

ソウマは何度も呼びかけるが、ドアが開く気配は一向にしない。
彼は十中八九、姫子が在宅していると思っていた。閉じっぱなしのカーテンや雰囲気が不自然だったからだ。
それなのに、姫子は出て来てくれない。
ソウマは己の無力さに歯噛みすると、その場を去った。


午後五時を回る頃、姫子が勤めている会社の前に黒い高級車が停まっていた。
その車の持ち主は千歌音だ。
彼女は姫子を自ら遠ざけておきながら、こうして姫子の様子を見に来ていた。
千歌音は姫子を捨て切れなかったのだ。
車内から姫子の姿を捜す。
この前は、偶然にも帰宅する姫子を見かけることができたが、今日は見られそうになかった。

「お嬢様、そろそろよろしいでしょうか」

運転手の男が車を出したがって尋ねる。事情を知らない彼は、無駄な時間を過ごしているようにしか思えなかった。

「いいわ」

千歌音は車窓から視線を前に戻すと、ため息を吐いた。
未練がましい自分に嫌気が差して。そして、姫子のことが気掛かりで……。


別れの日以降、眠れない夜を過ごしているのは姫子だけではなかった。
千歌音は毎晩、ベッドで悶え苦しんでいた。
姫子の顔を思い浮かべるだけで身体が火照り、眠気は消失する。
同時に、姫子を捨てたことを激しく後悔し、胸を痛めた。
愛おしさと悔恨に責め立てられ、気が狂いそうになりながら涙を流した。
千歌音が遠い過去を思い出したのは、そんな夜だった。
記憶は一瞬で取り戻した。
月の巫女である自分を思い出した瞬間で、千歌音はこの暴れる感情の全てを理解した。
姫子が好き。
生まれる前から、姫子が好き。

「姫子、また会えたわね……」

千歌音はベッドの中で、オロチの存在しない世界で姫子と出会えた奇跡に感謝した。
そして、その奇跡を踏みにじった自分を思い出して涙を溢れさせた。
口付けの途中で姫子が泣き始めた時の事が、頭に思い浮かぶ。
あの時に、姫子も陽の巫女の記憶を取り戻したのだと、千歌音は思い返した。
その大好きな姫子に、ひどいことを言って別れたのだ。姫宮は一般人と住む世界が違う、と……。
この夜、乙羽は千歌音が子供みたいに大きな声で泣くのを初めて見た。



姫子が自宅に閉じこもって十日になった。
もう、会社は彼女のことはいない者として考えるようになっていた。
会社は業務をこなすのが最優先だ。一人の社員にかまけてはいられない。
だが、ソウマは違った。
彼は姫子を見捨てるようなことはできなかった。
ソウマは険しい顔つきで姫子の住むアパートの前に立つ。今日は、ドアを蹴破ってでも姫子の顔を拝む決意だった。

「来栖川、今日は開けてもらうまで帰らないからな」

玄関前で早々に宣言する。
だが、ドアが開くことはなかった。これで姫子が出てくるなら、今までの苦労はない。
ソウマは本当にドアを蹴破ろうかとも思ったが、それではあまりに乱暴すぎる。
大声を出したり、ドアを叩いたりしても、姫子と近所の迷惑になるだけだ。
同じ強引にするにも、もっと賢い方法がある。
聡明なソウマは、アパートの管理人の所へと向かった。


ソウマは管理人に最近の姫子の様子を話し、合鍵で開けてくれるように頼んだ。
彼のお願いの仕方は必死だった。彼は本当に姫子を心配しているのだから当然だ。
管理人は、姫子の部屋がおかしいことに気づいていた。
そのこともあり、ソウマを信用した管理人は、合鍵を使うことにした。


管理人の協力で、ソウマは姫子の部屋に入ることはできた。
だが、ソウマが見たのは、床に倒れている姫子の姿だった。
つけっぱなしのテレビの前で、姫子は不自然な体勢で床に伏せていた。手足はだらんと伸び、寝ているような格好ではない。

「来栖川!」

ソウマが大声で呼んで駆け寄る。抱き上げても、目は覚まさない。
管理人は混乱するソウマを宥めながら、電話で救急車を呼んだ。




幸いにも、姫子の命に別状はなかった。
医者には脱水症状と栄養不良による衰弱と診断された。
姫子は水さえも口にしていなかったのだ。
それほどまでに、千歌音との別れは辛いものだった、
姫子は病室のベッドで栄養剤の点滴を受けていた。まだ意識は戻らない。
そのベッドの脇で、ソウマは自分を責めていた。
もっと早く、姫子の助けになってあげることができれば。
そう考えるだけで、ソウマは自分の頬を殴りたい衝動に駆られた。


病院に運ばれて数時間が経過して、姫子が目を覚ました。
薄っすらと目を開けてぼんやりしている姫子に、ソウマが声をかける。

「来栖川、気分はどうだ」
「うん……」

力無い返事だが、姫子が答えたのでソウマはひとまず安心した。


入院して三日が過ぎようとしていた。
だが、姫子の回復は思わしくない。
彼女はいつも天井を虚ろに眺めているだけで、何もしようとしなかった。

「食事を持ってきたぞ」
「ありがとう」

ソウマが食事を持ってきても、姫子は受け取るだけで食べなかった。
食べなくても、体力は点滴である程度は嫌でも戻るはずだ。
しかし、姫子の弱々しい様子は、日に日に増しているようにさえ見える。
彼女が病んでいるのは体ではなかった。
心が弱り切っていた。
姫子は心のどこかで、もう死んでしまいたいと思っていた。
神無月の巫女は転生を繰り返す。
今はオロチのいない世界だが、平和が永遠に続くことはありえない。
オロチは蛇のようにしつこく何度でも蘇る。
だから、神無月の巫女は太古の昔から、オロチの災いをその身を以って鎮めてきた。
次に生まれ変わった時には、千歌音と仲良くなれるかもしれない。
巫女の二人が結ばれるとまではいかなくても、友達にはなれるかもしれない。
姫子はそんなことを、わずかながら考えてしまっていた。

生きようとしない姫子に、ソウマは憤りを感じ始めていた。
入院生活が長引き、彼にも看病の疲れが出てきたのだ。
体力的には大丈夫でも、精神的に参ってきていた。弱々しい姫子を見ているのは辛い。
姫子が食事を少しでも食べてくれれば気が休まるのだが、何も口にしようとはしなかった。
今もベッドサイドに一時間ほど前に持ってきた昼食が手付かずのまま置いてある。
ソウマはごはんが冷めてしまった茶碗を見て、息を一つ吐いた。

「来栖川、お願いだから食べてくれよ」
「ごめんね、お腹がいっぱいなの」

ありえない理由で断られ、ソウマの苛立ちは募る。
それでも、彼は怒りを表に出すようなことはなかった。それだけ、姫子を信用していた。
彼は怒る代わりに、姫子にこうなった訳を尋ねる。今までは、相手が病人なので、理由を聞くのを控えていた。

「なあ、何があったんだ?」

姫子が口を噤む。最愛の人との別離を話すのは辛かった。

「話してくれないのなら食べてくれよ。理由も知らずに、来栖川が痩せ細っていくのを見ていられないから」

さすがにソウマでも、ここで引き下がるほどお人好しではなかった。
彼はお膳に手を伸ばし、茶碗と箸を取った。

「無理にでも食べさせるよ」

箸でごはんを摘み、仰向けで寝ている姫子の口へと持っていく。
箸が唇に触れた時、姫子は話す決心をした。


「私ね、運命の人に嫌われちゃった」

姫子はそう言って笑って見せる。だが、枕は涙で染みを作っていた。
ソウマは慰めの言葉をかけようとして、咄嗟にその言葉を飲み込んだ。
姫子の失恋を喜んでいる自分が、少なからずいたからだ。
今の姫子にやさしい言葉をかけるのは卑怯な気がした。
だから、ソウマは厳しい言葉で姫子を立ち直らせようとした。

「そんなことか」

ソウマが涼しい顔で言いのけた。
姫子の笑顔が一瞬で消える。
どうしようもない怒りに襲われた彼女は、怒鳴る代わりに憤怒の涙を流した。
ソウマは心が痛むのを我慢して、学生の時に姫子にふられて以来ずっと隠していた気持ちを伝える。

「好きなら諦めるな。俺は今でも来栖川が好きだ。たとえ、お前が運命の人を選んだとしても、俺の気持ちは変わらない」

ソウマの瞳は真剣そのものだった。
対して、姫子の瞳は困惑で揺れていた。
一度、ソウマの告白を蹴った時、彼は姫子のことをすっぱり諦めると笑って言っていた。
だから、姫子はソウマの気持ちに気付かなかった。
いや、もしやと思うことは何度かあった。
ソウマはいまだに彼女を作ろうとしなかったし、社会人になっても、姫子と会える距離にいた。
だが、姫子は見て見ぬふりを通してきた。
運命の人への想いは大きすぎた。ソウマのそんな努力も霞むほどに。
ソウマの想いを知った姫子は、彼の瞳をまっすぐに見られなかった。
彼の想いに応えてあげることはできなかった。

「ごめんね。私、やっぱり大神君を選べない……」
「いいさ。それでも俺はお前が好きだから。この気持ちを伝えることができんだから」

二度目の告白が失敗しても、ソウマは笑顔を作って見せた。
その笑顔がやさしくて、姫子の目に涙が浮かぶ。今度の涙は暖かかった。


ソウマの親身な看病のおかげで、姫子は食欲を取り戻した。
朝昼晩と残さず食べるようになった彼女の体力は、順調に回復していった。
ソウマは元気になっていく姫子を見て、いつも微笑んでいた。二度の失恋も忘れてしまうくらい、彼女の立ち直りが嬉しかった。
そして、退院の日がやってきた。
姫子は世話になった看護士に挨拶をして、満面の笑みで病室を後にした。
この笑顔は、心の整理がついた証だった。


姫子は退院して最初にすることを決めていた。
病院から出た足でバスに乗り、天火明村へと向かう。
あの村には会いたい人がいて、伝えたいことがある。
その人は姫子に会ってくれないかもしれない。話を聞いてくれないかもしれない。
だが、姫子に不安や恐れはなかった。
それなら、また会いに行けばいい。
姫子はそう思いながら、バスの車窓に見える山々を眺めていた。


姫宮の屋敷へ来た姫子は正門を抜けて玄関へと向かった。
姫子は閉じられた扉の前で一旦、間を作って意思を固める。何があっても今度は悲嘆に暮れたりしない、と。
その決意が鈍らないうちに呼び鈴を鳴らす。

「また、あなたですか」

出てきたのは乙羽だった。姫子を見て、やや顔をしかめた。しかめると言っても、本当にわずかに唇を動かしただけだが。
歓迎されないのは分かっていた姫子は、怯まずにお辞儀をしてから用件を言う。

「千歌音ちゃんはいますでしょうか。大切なお話があるんです」
「どのようなお話なのですか? もしよろしければ、私がお嬢様にお伝えしておきますが」

乙羽は姫子を千歌音に会わせないつもりでいた。
そのことを姫子は承知していた。
だが、姫子はどうしても千歌音に直接伝えたかった。今生での最後の迎合になるかもしれないからだ。
姫子は、千歌音が望めば、今後一切姿を見せずに生きる覚悟をしていた。
だから、乙羽に負けるわけにはいかなかった。

「これだけは、千歌音ちゃんに会って話したいんです。お願いします」
「そうですか。でも、お嬢様は今、外出しておりまして」

こう言われては、姫子になす術はなかった。屋敷に上がりこんで千歌音を探すわけにもいかない。それこそ、警察沙汰になってしまう。
姫子は「外出は本当ですか?」と聞きたいのをぐっと堪えて笑顔を作った。
何度でも会いに来ればいい。そう自分に言い聞かせた。

「それでは、また来ます」
「申し訳ございません」

姫子がお辞儀をすると、乙羽もお辞儀で返した。乙羽は言葉とは裏腹に、姫子を撃退できたことを勝ち誇っていた。


千歌音は屋敷の二階から、追い返された姫子の背中を見ていた。
まだ姫川の敷地を歩く姫子を見て、引き止めたい衝動に駆られた。
しかし、自分がしてしまった過ちが釘を刺し、千歌音の胸をえぐる。
姫子をどれだけ傷つけたか、千歌音は痛いほど分かっていた。
姫子に同じ事をされたら、千歌音は正気でいられる自信が無かった。
だから、どんな顔をして姫子の前に出ればいいのかわからなかった。
何もできないでいる間も、姫子の背中は遠ざかっていく。

「姫子、行かないで……」

少しでも近くに行きたいと思った千歌音は、窓ガラスに体を預けて立った。
その時、姫子が振り向いた。それは、全くの偶然だったのだろう。
二人の目と目が会う。どちらもしばらく動けなかった。
姫子は千歌音に伝えたいことがあった。
話をするには遠い距離かもしれない。それでも、声が届けば構わなかった。
姫子は千歌音を正面に見据えると、大きく息を吸い、想いの全てぶつけるつもりで声を張り上げた。

「千歌音ちゃーん。私、千歌音ちゃんのことが大好きだから。生まれる前から大好きだから。これからもずっと大好きだから。次に生まれ変わっても大好きだからっ!!」

姫子の声が千歌音の胸に染み渡り、頬に幾つもの涙の筋ができる。
千歌音は堪らず窓を開け放し、大きく息を吸った。

「姫子、私もよー! だから、私のそばにいて。いつも私のそばにいて。何があっても私のそばにいて」

大声で気持ちを確かめ合った二人は、しばらく息を切らしながら見つめ合っていた。二人は自然に微笑み合う。
千歌音は急いで身を翻し、二階の窓際から走り去る。向かうのは、外で待っている姫子の元。
今も玄関で立ち尽くす乙羽の前を通り過ぎ、駆け足で向かう。
大好きな人が待つ場所まであと二十メートル。
十メートル。
五メートル。
姫子が両手を広げて迎え入れる。
千歌音は姫子の胸に飛び込んだ。

「私を見つけてくれて、ありがとう」

神無月の恋は永遠に終わらない。




最終更新:2007年07月02日 21:24
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