「あの…いま何とおっしゃったのですか?」
「おめでたですよ、おめでとうございます。」
「おめでた…って、妊娠とゆうことですか…?」
「はい、これからは定期的に来てください。それから…」
突きつけられた現実に、千歌音は戸惑いを隠せなかった。
医師の話も耳に入っていないようだ。
(あれは…やはり夢ではなかったの…)
千歌音の頭の中にある出来事がよみがえった。
事の発端は数週間前にさかのぼる。
「ここは…どうしてまたここに…?」
千歌音は眠りから覚め、横たわっていた身体を起こし辺りを見渡すと、そこは千歌音と姫子が前世で最後に過ごしたあの場所だった。
美しく幻想的だが、誰一人も居ないその花畑は千歌音に寂しさと不安を与えた。
「これは…夢なの…?」
これは夢なのだろうか?
それとも月の社から解放され、生まれ変わって姫子と過ごしたあの日々の方が夢なのだろうか。
千歌音はどちらが現実で夢なのか分からなくなっていた。
その時だった。
どこからともなく声が聞こえてくる。
(…月の巫女よ…)
「…!」
突然、聞こえてきた声に千歌音は驚いて、俯いていた顔を上げた。
「その声は…アメノムラクモ…」
聞き覚えのあるその声は、千歌音と姫子に残酷な運命を与えた神、アメノムラクモだった。
「私は、どうしてここにいるのですか?生まれ変わり転生したはず…まさか!?」
千歌音はハッとした。
最悪の出来事が頭をよぎる。
「またオロチが…復活したのですか!?」
(心を静めなさい…月の巫女、貴女をここに呼んだのは私です…)
声を荒げる千歌音をなだめるように、アメノムラクモは静かに話し始めた。
「なぜ…私を…?」
(貴女をここに呼んだのは、貴女の決意を確かめる為…そして…)
「決意…?」
(貴女が前世で月の社に封印される時、我が問いかけた言葉を覚えているか‥?)
それは社へ封印される時、アメノムラクモが千歌音に問いかけた選択の事だろうか。
輪廻転生から外れ、無の安らぎに身を委ねる事も出来るのだと‥。
だが、その選択を千歌音は選ばなかった。
たとえどんなに残酷で辛い運命が待ち受けていても、愛するたったひとりの運命の人と巡り会うため、千歌音はその宿命を受け入れた。
(転生したいまでも、その決意が揺らぐ事はないか…)
「何度聞かれても、私の気持ちが変わる事はありません。」
千歌音が発したのその言葉には、強い決意が満ち溢れていた。
(そうか…ならば、もう聞く事はない…)
「アメノムラクモ…ただそれだけの為に、私をここに呼んだのですか?」
千歌音にはただそれを確かめる為だけに、ここに呼ばれたとはとうてい思えなかった。
(確かに、貴女を呼んだのはそれだけではない…貴女にある力を授ける為…ここに呼んだのだ…)
「力…?」
(この力は、我ら神のみぞ与えられる新たな命を造りだす力…貴女の決意が変わらない物ならば、与えようと…決めていた…)
「命…いったい何の話しです!力とは何なのですか…!?」
(月の巫女‥よ、新た‥に生まれ‥てくる命…を大切に…するが‥よい…)
アメノムラクモの声は段々と空の向こうへと遠ざかるように、小さくなっていく。
「お待ちください!まだ、聞きたい事が…っ!」千歌音が立ち上がり、空に声を投げかけた瞬間、強い風が吹きあげた。
たくさんの黄色い花びらが、空へと舞い上がる。
「いったい何なの、力とは…アメノムラクモは私に何を伝えたかったの…」
千歌音の心は、アメノムラクモの言葉によって不安でかき立てられていた。
「姫子…私…どうしたら…」
千歌音は孤独と不安からか、不意に愛する人の名前を口にした。
『…か‥ね‥ちゃん…』
「…!」
幻聴だろうか?
微かに姫子の声が聞こえたような気がした。
「まさか…姫子がここにいるはずなんて…」
呼ばれたのは自分だけだ。
姫子がここにいるはずがない、そう自分に言い聞かせ自分の耳を疑った、だが…。
『ちかね…ちゃん‥』
「……!いまのは…姫子?」
その声はこちらに近づいてくるように、徐々にはっきりと聞こえてきた。
「姫子…どこ!どこにいるの…!?」
千歌音は辺りを見回し、ふと後ろを振り返えると遠くの方で巫女服を着た女性が立っているのが見えた。
「姫子?姫子なの…!?」
千歌音は急いで駆け出した。
段々と見えてくるその女性は、ゆっくりと両手を広げ千歌音を優しく受け入れるように微笑んでいる。
『ちかねちゃん…』
その胸の中に飛び込んだ瞬間、千歌音は温かなお日様のような安らぎに身を包まれていた。
「ちか…ねちゃん…」
「ん…‥」
「千歌音ちゃんっ…」
千歌音が瞳を開けると、目の前には姫子が心配そうに千歌音を覗き込んでいた。
「姫子…?」
「大丈夫?千歌音ちゃん、ずっとうなされてたから‥」
「……!」
千歌音はハッとして、勢いよく飛び起きた。
「ど、どうしたの、千歌音ちゃん…きゃっ!?」
「姫子‥よかった、夢ではないのね‥」
突然千歌音に抱きしめられた姫子は、頬を染めながら驚いていた。
結婚してから、こうして朝食を2人っきりで食べるのは何回目だろうか?
テーブルの前には、トーストやサラダ、目玉焼きなどのシンプルな朝食が並べられている。
ただいつもとは違って、今日は2人の間に会話が飛び交わない。
いつもは何気ない食器の音やカップを置く音が、やけに響いて聞こえる。
それがなおさら2人を沈黙にさせた。
(…何て言ったらいいのかしら…)
千歌音はコーヒーに口をつけながら、今朝の夢の事を姫子にどう言い出そうか迷っていた。
姫子に余計な心配はさせたくはない。
あれがただの夢ならそれでいいのだが、姫子にはもう隠し事はしないと約束している。
(やっぱり…姫子に…)
千歌音はコーヒーカップを置いて、意を決した。
「姫子あのね…」
「千歌音ちゃんあのね…」
千歌音が決心して出した声は、姫子が出した声と同時に重なった。
「…えっ?」
「あ…な、何…千歌音ちゃん?」
「い、いいえ、姫子から…」
2人はしばらく互いに譲り合っていたが、千歌音の方が先に折れようやく話しを切り出した。
「あのね今朝…私、夢を見たの。」
「夢って…じゃあ、今朝うなされてたのは…」
「私ね…夢の中でアメノムラクモに会ったの…」
「……!」
「夢の中でアメノムラクモが言っていたわ。私の決意を確かめる為に呼んだと…そして…」
「もしかして…力がどうとかって…?」
「えっ…!?」
姫子は俯いて、コーヒーカップに中に映る自分の顔を見つめた。
「やっぱり…千歌音ちゃんも、あの夢を見たんだね…」
「私もって…もしかして、姫子も見たの?あの夢を‥」
「うん、夢の中で私に言ってた。力を与えに来たって‥」
再び2人の間に沈黙が流れた。
姫子は俯いたまま顔を上げようとはしない。
「千歌音ちゃん‥また私達、巫女として目覚めるのかな‥?」
「姫子‥」
見ると姫子の声と手が微かに震えていた。
「またあんな思いしなきゃいけないのかな‥」
姫子が弱々しく、顔を上げるとその瞳から今にも涙が零れ落ちそうだった。
千歌音は席を立ち、姫子の隣へ座った。
「姫子、きっと大丈夫よ。アメノムラクモはオロチが復活するとは、言わなかったわ。」
千歌音は震える姫子の手を包み込む。
「でも…もしも、またオロチが復活したら…千歌音ちゃんとまた離ればなれになるなんて嫌だよっ…!」
姫子の頬に大粒の涙がつたった。
「姫子…」
「千歌音ちゃんっ…」
千歌音の胸に飛び込んでくる姫子を抱きしめながら、内心は穏やかではいられなかった。
オロチ復活はいつ起こるか、自分達にも分からない。
またあの辛い運命がいつ待ち受けているか予測なんて出来ないのだから。
「姫子、私はね‥たとえどんな運命が待ち受けていても平気よ。」
千歌音は姫子の頭を撫でながら、優しい眼差しを姫子に向ける。
「千歌音ちゃん‥?」
「だって姫子が教えてくれたじゃない。どんな永遠にだって神様にだって負けない。2人の気持ちは繋がっているって‥」
あの別れの時、姫子が千歌音に言ってくれた言葉。
あの言葉があるから、千歌音はいつだって強くなれた。
たとえどんな残酷な運命が待ち受けていても、いまの2人なら乗り越えられる、千歌音はそう信じられる。
「だから心配しないで。たとえ何があっても姫子は私が守るわ。」
「だ、駄目だよっ、今度こそ私が千歌音ちゃんを守るんだからっ…」
泣いていたはずの姫子は、千歌音の言葉を聞いたとたんに強い口調で言い返した。
「ふふっ…ほら、もう泣き止んだ。」
「えっ…?あ…」
千歌音の言った通り、先ほどまで流れていた姫子の涙は嘘のように止まっていた。
千歌音を守りたい、その想いだけで姫子はこんなに強くなれる。
互いに想い合う2人ならどんな運命も恐くない。
そんな気持ちにさせた。
「千歌音ちゃんごめんね‥千歌音ちゃんだって不安なのに私ばっかり泣いて‥」
「そんな事ないわ、姫子がこうして側にいるだけで、私は安心できるもの‥」
2人は互いに見つめ合い、微笑み合った。
「でも…アメノムラクモが言ってた力って、何の事なのかな?」
「さぁ…新たな命がどうとか言っていたけれど…」
「……!?」
「ど、どうしたの姫子?」
姫子は何かに気づいたように、千歌音の腕から離れた。
「ね、ねぇ…千歌音ちゃん‥まさかと思うけど…」
「何?」
「あ、あの…あのね…」
姫子はなぜか、頬を赤らめて口ごもっている。
「姫子?」
「あ‥その…でも、違ってるかも…しれないし…」
「それでも構わないから、話してみて‥ね。」
「う、うん…」
千歌音に優しく促され、姫子はコクリと頷いた。
「その…アメノムラクモが、新たな命を造り出す力を与えるって言ってたの‥後、その命を大切にしなさいって…」
「ええ、確かに私にもそう言っていたけれど…」
「……それって‥あ、赤ちゃんのことじゃないのかな…」
「……え?」
「ご、ごめんねっ!も、もしかしたら違うかもしれないし…」
姫子は顔を真っ赤にして、慌てふためいている。
その様子を見て、姫子の言葉を理解した千歌音は顔を真っ赤にした。
「あ…」
「ごめんね‥変な事言って‥」
「そんな事…ないけれど…」
2人の間に気恥ずかしい空気が流れる。
確かにアメノムラクモは、新たな命を造り出す力と言っていた。
神だけが与えられる力、だとすると姫子の言っている事も、あながち外れていない気もする。
普通の人なら、ただの夢だと片づけてしまうだろうが、姫子と千歌音は巫女だ。
いまは巫女の力を失っているものの、神に仕えていた唯一の存在。
2人にはただの夢だと思えなかった。
たとえ、もしそれが本当だとしたら、なぜアメノムラクモは私達にそんな力を与えるのだろうか?
「千歌音ちゃん…いま言った事忘れて。きっと私の勘違いだと思うから…」
姫子は俯いて、恥ずかしそうにそう呟いた。
寝室の明かりも消して、ほんの少し眠りかけていた千歌音の耳に姫子の小さな声が聞こえる。
「千歌音ちゃん…もう寝ちゃった?」
「いいえ…どうしたの、眠れない?」
千歌音は、隣のベッドに寝ていた姫子の方へ振り向く。
「…うん。」
「よかったら、一緒に寝る?」
「いいの…?」
「どうぞ。」
ベッドから出てきた姫子は、自分の枕を抱え千歌音のベッドに潜り込んだ。
「あったかい…」
千歌音の温もりに安心したのか、穏やかな表情を見せた。
「千歌音ちゃん…」
「なぁに?」
「忘れてって言ったけど、今日私が言った事…まだ覚えてる?」
「ええ…」
「…もし、あの夢が本当なら…千歌音ちゃんは、赤ちゃんが…欲しい?」
「姫子…?」
「私は…千歌音ちゃんの赤ちゃんが欲しい。」
姫子は真っ直ぐな瞳で、千歌音を見つめた。
「ひ、姫子…」
いつもとは違って、大胆な姫子に千歌音はドキリとした。
「もしね…そんな力があるのなら、私は千歌音ちゃんの赤ちゃんを産んであげたい。千歌音ちゃん…だから、確かめて欲しいの。」
「……っ!」
姫子は千歌音の胸に、すがりついてくる。
「ま、待って姫子…」
姫子のあまりの大胆さに、千歌音は戸惑った。
まだあの夢が確かなのか、分からないのだ。
千歌音は慌てて、姫子を引き離した。
「あ、千歌音ちゃん…い、嫌だった…?」
「そ、そうではないの…ただ…」
もしその力が与えられたとしても、どうやってやるのか見当がつかない。
普通の男女なら、身体を重ねればいいだけだが、2人は女同士だ。
本当に子作りなんて出来るのだろうか?
「それに…私だって、姫子の子を産んであげたい…」
そう言って普段の凛々しい千歌音とは違う、可愛らしい表情で呟いた。
「千歌音ちゃん…」
どうやら互いの気持ちは同じらしい。
愛する人の子供を産んであげたい。
そう思うのは自然だった。
「それに姫子に、あんな辛い思いさせたくないもの。」
きっと、お産の事を言っているのだろう。
もし妊娠した時の事を考えたら、姫子には辛い思いをさせたくない、千歌音はそう思った。
「もし産むのだとしたら、私が姫子の子を産みたいの…」
千歌音の強い意志を、姫子は拒めなかった。
「う、うん…分かった…」
そう言ってもどちらが妊娠するかは分からないのだが…。
「千歌音ちゃん…」
姫子は千歌音の身体を抱きしめた。
「本当にいいの…?」
「ええ…姫子になら…」
「ありがとう、千歌音ちゃん…」
そう言って姫子は千歌音の上に覆いかぶさった。
(まさか本当に妊娠するなんて…)
千歌音は帰り道、自分のお腹をさすりながらどう姫子に話そうか考えていた。
きっと姫子は喜んでくれるだろうが、千歌音は少しばかり不安だった。
ちゃんと子供を育てていけるだろうか、母親しかいない家庭でいじめられたりしないだろうか、様々な不安がよぎったが…。
(でも…姫子と私の子供だもの…きっと強い子に育つはず‥)
千歌音の心はすでに、母親のような強い意志に変わっていた。
《数ヶ月後》
「ねぇ、千歌音ちゃん。どっちがいいかなぁ?」
姫子は両手に色違いのベビー服を持って、こちらを振り向いた。
「姫子が選んだのなら、どちらでもいいと思うけれど…」
千歌音は少し大きくなったお腹を抱えて、姫子の側に寄った。
「う~ん…どっちがいいかなぁ…こっちもかわいいし‥」
どうやら黄色にするかピンクにするか悩んでいるらしい。
千歌音は姫子のそんな姿が可愛らしくて、つい微笑んでしまう。
「あ‥千歌音ちゃん。ほら、ベビーカーもあるよ。」
ようやく服を決めた後も、姫子は次から次に子供用の服やオモチャなどに目移りしていた。
今日は休日のためか、まだ小さな赤ちゃんを連れた夫婦や、お腹の大きい妊婦などが店を訪れている。
千歌音も今日は身体の調子が良かったので、姫子と2人でもうすぐ産まれる子供の服などを買いに、店へやって来ていた。
「たくさん買っちゃったね。」
姫子は嬉しそうに、商品が入った紙袋を千歌音に見せた。
「ふふっ‥姫子ったら、結局全部見て回るんだもの。」
「だ、だって…全部可愛かったんだもん‥」
千歌音に笑われて、姫子は照れくさそうにはにかんだ。
私達はもうすぐ親になる。
あの日、病院から帰ったあと子供が出来たと姫子に話すと最初は驚いていたが嬉しそうに喜んでくれた。
あれから数ヶ月、千歌音のお腹も少しずつ大きくなり、もうすぐ親になるのだと日々実感している。
買い物を済ませ、家に帰る頃にはもう夕暮れ時になっていた。
見慣れた街並みが夕日に染まっていく。
ふと、2人が公園の前を通ると子供連れの親子が3人で手を繋いで歩いている。
「…千歌音ちゃん。」
それを見ていた姫子は、千歌音に空いていた方の手を差し出した。
「姫子?」
「手、繋いで帰ろ?」
「…仕方ないわね、はい。」
そう言いながらも千歌音は微笑んで、姫子と手を繋いでくれた。
「そうだ、今度はミルクも買わなきゃ。」
「そうね、あとオムツも。」
2人で新しい家族を迎えるため、きっとこれから忙しくなる。
でも新たに産まれてくる命に、姫子と千歌音の心は毎日幸せでいっぱいだ。
「綺麗だね、夕日。」
「ええ、とても。」
きっといつか親子3人で手を繋いで、この帰り道を歩く日が来るだろう。
もうすぐ実現する、夢見ていた日々を心待ちにして2人は我が家へと向かった。