晴れた空の来栖川の屋敷の一角で苦しげな咳が響く。
「ごほっ…!ごほっ!」
生まれつき体の弱い千歌音は昨日から体調を崩してしまっていた。
「大丈夫?」
持ってきてくれたお粥を食べてる最中、口元を押さえて咳き込む千歌音のすぐ横で見舞いに来た姫子が心配そうな顔で見ている。
「はい、大丈夫です…」
ぜえぜえと息を吐き弱弱しい笑顔。姫子に心配かけまいと無理してるのが伝わる。
何とかしてあげたい…。
そう思っても姫子には苦しそうな千歌音の背中を擦ってやることしか出来なかった。
「…ご馳走様でした」
姫子に見守られながら時間を掛け何とか千歌音はお粥を全部食べ終えた。
椀を下げ薬を飲ませようと姫子が準備していると、千歌音を寝かせている部屋の外から真琴の声がした。
「姫さまー!早く遊びに行きましょーよお!」
その声に「あ…」と、姫子は手をぴたりと止めた。
そういえば今日は真琴達と町へ遊びに行く約束をしていたのをすっかり忘れていた。
しまった~とばかりに頭を掻いてると千歌音が話しかける。
「いいんですよ、姫様。遊びにいってきて下さい」
驚いて振り返り千歌音を見ると彼女は笑って「私は大丈夫ですから」と付け足した。
「でも……」
千歌音が心配な姫子が口を開くとまた外から「姫さまー?」と姫子を探している声がする。
「ほら、みんなが姫様を待っています」
姫子は優しい。
明るく元気でこの村の村長の大事な一人娘の姫子は非の打ち所がなく皆から慕われている。
その姫子を本来ならば自分は仕える身であるのに、体が弱いがために看病までしてもらいその上独占などしてはいけない。
「だから私に構わず行って来て下さい」
傍にいて欲しいだなんて、口に出してはいけない…。
だから、行くか迷ってる風の心配性な姫子の背中をそっと後押しした。
「……分かった」
しばらく考えた後これ以上引き下がっても逆に千歌音を困らせるだけだろうと分かった姫子は頷いた。
立ち上がり、襖を開いて「今行くから少し待って」と外にいる真琴らに告げ再び千歌音の元に戻り薬を飲ませた。
とても苦い薬が口に広がる。
眉を顰めるが千歌音はそれに耐え飲み込んだ。
口元を拭き、ゆっくりと姫子に支えてもらいながら布団に横たわった。
「ちゃんと休んでね」
頭を撫でながら言う姫子に千歌音はにっこりと微笑んだ。
その笑顔に姫子も笑顔を返し盆を持って立ち上がった。
「じゃあ、行って来るね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
スゥーっと襖が閉まり、姫子の足音が遠ざかっていった。
目を閉じてしばらく耳を澄ましていると外にいた真琴の声もいつしか聞こえなくなっていて姫子達は出掛けてしまったのだなと思う。
耳にはもう屋敷に残った下女達がせっせと働く音だけしか聞こえなくなっていた。
それが分かると眠れなくてぼんやりと目を開き天井を見た。
今頃皆で町へと歩いてるのかな?一体何を話してるのかな?
…本当は自分も一緒に遊びに行きたい。
だからこそ、こんな時体が弱い自分自身を疎ましく思う。
何だか仰向けに寝るのが苦しくなって、もぞもぞと横向きに寝返りを打った。
「ごほ、ごほ…っ!」
静かになった部屋に空しく響く咳。昨日から咳きが止まらなくて背中が痛む。
だけど、もうさっきその背を優しく擦ってくれた人はここにはいない。
大丈夫かと、声を掛けてくれたあの人はもういない。
胸が、痛い…。
「姫子……」
誰にも聞こえないように小さく名を呼んだ。
しかしその名前を出すと気を紛らわすどころか余計に切なくなる。
せっかく笑顔で見送れたのに目頭が熱くなってきて千歌音は隠れるように布団をばさっと頭からかぶった。
そして、声が漏れないように枕に顔を押し沈めて声を押し殺し、誰にも知られることなくただただ泣いた。
薬が効いたのか、それとも泣き疲れたのか分からないが気が付けば眠ってしまっていた。
でもやけに静かな屋敷の気配に随分長い間眠っていたのだと思う。
体が酷くだるくて動かない、瞼も重い。だけど、体がとても暖かくて微かにだが姫子の匂いがする。
どうしてだろう…?そんな訳ないのに。
そう思いながらゆっくりと重い瞼を開いた。
「え…?」
はじめ自分が寝惚けてるのだと思った。
1本の蝋燭の灯りだけが揺らめく薄暗い室内で、自分と同じ布団の中で姫子が隣に寝ていたのだ。
自分と向き合うような体勢ですうすうと気持ち良さそうに寝息をたてている。
一つの布団で誰かと一緒に寝ることなんて生まれて初めてで、その相手がまさか姫子だなんて。
もの凄く驚いたが、何で?いつから?と思うよりも先にあまりにも可愛らしい姫子の寝顔に見入ってしまい考えられなかった。
体が妙に熱くなったのは自分を苦しめてる熱のせいじゃないのだと気付く訳もない。
すると至近距離で見つめるその視線に姫子は気付き、ゆっくりと目を開いた。
「…目覚めた?」
開口一番、微かに微笑みながら聞いてきた。
声が出ず、こくんと不器用に頷くと姫子は嬉しそうに笑った。
「もうとっくに夜中よ」
姫子が出かけたのが昼近くだからそんなに長いこと自分は寝ていたのかと思うと少し恥ずかしかったが、妙に体がだるいのも納得できた。
「で、でも、どうしてここに姫様が…?」
うまく舌が回らぬ口で聞くと「心配で部屋から抜け出して来ちゃった」とあどけない笑顔であっさり答えた。
それってだいぶ問題があるのでは…?
それにこの事が他の皆に知れたら…。
そう思うがそれを口に出す前に「咳も止まったし、少しは良くなったのね」と嬉しそうにぎゅっと抱き締めてきた。
その瞬間ドキンと胸が大きく疼く。
しかし千歌音は慌てて離れようと姫子の肩を掴み引き剥がそうとした。
「どうしたの?」
「いけません、熱が移ってしまいます…!」
一緒の布団で寝てる時点で、もう移してしまったかもしれないが。
それでも咳が止まったとは言えこれ以上接近しては間違いなく移ってしまう。
それに…只でさえ危ういのにこれ以上ドキドキしては自分の胸の内がバレてしまう。
真っ赤な顔で必死に止める千歌音だが、姫子は気にもせずにっこりと笑い千歌音の髪を撫でた。
「私に移してしまえばいいわ」
「え?」
「だって、そうすれば千歌音はこれ以上苦しまなくて済むでしょ?」
「っ!」
姫子の優しさに頭の中が真っ白になった。
もう何も言い返すことが出来なくてまた目に熱いものがこみ上げていくのが分かる。
でも今度のは淋しくではなくて、嬉しくてこみ上げる涙。
涙がぽろぽろと零れ目の前が霞んでしまい姫子の顔がぼやけていく。
「だから私にも分けて」
涙を拭ってやりながら最後にその言葉を付け足してくれたとき、堰を切ったように千歌音の体が勝手に動いた。
「…姫子!」
姫子に抱き締められたときよりも強く抱き締め、そのまま勢いで姫子の唇に自分のを重ねていた。
「ん…!」
瞬間、強く押し付けられた口付けに驚いて姫子の体が強張ったのが分かり、千歌音も自分がしでかした事に気付きぱっと口を離した。
「っ……///!」
心臓が早鐘を打ち、かぁーっと耳まで赤くなるのが分かる。
姫子を離し口元を押さえ、とてもじゃないが顔が見れなくて姫子から顔を背けた。
一体私は何を……!?
混乱する自分の心とは裏腹に室内に恐ろしいほどの沈黙が流れる。
「千歌音…こっち向いて」
驚きのあまりだろうか、それとも呆れたのか。自分を呼ぶ姫子の声がやけに覇気がない。
密かに望んでいたはずの姫子との接吻。
無意識だったとは言え、抑え切れなかった自分の取った行為に後悔した。
屋敷を追い出されてしまうのではないかと思うと肩が小刻みに震える。
動かぬ千歌音の肩に姫子がぽんと手を乗せると千歌音はビクン!と過剰に反応してしまい、恐くなって「ご、ごめんなさい…!」目を固く閉じて謝った。
しん…と再び2人の間に沈黙が流れる。
「…違う、そうじゃなくて」
そっと言った姫子の声も千歌音と同じくらい震えていた。
その声に恐る恐る姫子を見ると、姫子は笑いながら泣いていて、その頬はのぼせてしまったかのように朱に染まっていた。
熱っぽく涙で潤んだ瞳で見つめられ動けないでいると頬に姫子の暖かな手が添えられた。
「もう一度、口付けしてもいい…?」
甘えるように訊ねる姫子に再び千歌音の目からも涙が零れ、視線を合わしたまま小さく頷くと姫子はゆっくりと顔を近づけてきた。
そっと姫子が瞼を閉じていくと唇に暖かな吐息を感じて千歌音も瞼を落とすと口に柔らかな感触を感じた。
さっきは分からなかったけれど、そっと重ねられた柔らかな姫子の唇はとても柔らかくて涙の味が分からなくなるほど蜜のような甘い味がした。
さっきの勢い任せのキスとは違い、ゆっくりと何かを確かめ合うような長いキス。
初めてのはずなのに、初めてじゃないような。
なぜか懐かしいと思ってしまうような。
そんな体が溶けてしまいそうなキスに2人はどちらともなく互いの体を抱き締めた。
静かな夜に初めて交わした2人の秘密のキス。
その日から、2人の関係は特別なものになった。
了