「ほらほら~、手が止まっていてよ?早くしないと姫様がお戻りになってしまいますわ」
「は、はい。今すぐ…!」
来栖川邸んの下女の詰所。
爪を研ぎながら言うイズミに急かされながら千歌音はせっせかと机を拭いたり椀を揃えていたりした。
「もう本当にとろいんですから」
「本当姫様がお優しいから良いものの、困ったものですわ」
姫子も真琴も乙羽もいない今をチャンスとばかりに罵るイズミに続けと近くにいたミサキやキョウコにも口々に言う。
そのいつもの嫌がらせに千歌音は何も言い返す事が出来ないでいた。
「全く、少しばかり姫様に目を掛けてもらってるからって良い気になってるんじゃございません?」
「……っ!」
しかしついに耐えかね、悔しくて唇を噛み締めイズミ達の顔を見ないように足早に詰所を出た。
聞こえるイズミ達の笑い声に涙が止まらない。
とにかく1人になりたくて声が聞こえぬところまで逃げるようにその場を離れた。
渡り廊下まで出た途端、下を向いてたせいで目の前に人がいたのに気付かずドン!と思い切りぶつかってしまった。
小さく悲鳴をあげ反動で尻餅をつきにそうになるが、それよりも先にぶつかった相手にさっと腰を抱えられた。
「ご、ごめんなさい…!」
抱きとめられたような体勢になり慌てて謝ると、ぶつかったその相手はレーコだった。
瞬間千歌音の体が固まる。
オロチであるレーコには近づくなと姫子からきつく言われている。
同じ屋根の下に勝手に居座ってしまってるからだいぶ無茶な話だとは思うが、千歌音は言われたとおりレーコに出来るだけ近づかないよう避けていた。
そのレーコと初めて向き合ってしまい、驚いてしまって流れていた涙も引いた。
しかしそんな千歌音とは対照的にレーコは特に驚いた様子も無く一つも表情を変えない。
「…怪我は?」
「え?あ、大丈夫です…」
「そう、ならいい」
無表情のままそう返すと千歌音を解放してやる。
相変わらず無愛想なレーコなだけに実際心配してるのか怒っているのかは声や表情では読み取れないが、今の千歌音にはそんな事関係なかった。
「すいません…!」
ぺこりと頭を下げ目元の涙を拭いながら申し訳なさそうにレーコの脇を通り抜けようとした。
「気にしない方がいい」
「…え?」
不意に言われた言葉に振り返るとレーコは顔だけこちらに向いていて、目はまっすぐ千歌音を見ていた。
「ああいうのを真に受けても疲れるだけよ」
「……さっきの会話、聞こえてたんですか?」
千歌音の問いにレーコは頷きもせず無言で見つめることでそれに答えた。
眼鏡の奥にある瞳は「聞こえていた」と答えている。
聞かれてたんだ…。
耳を覆いたくなるような罵り。
イズミ達に言われた言葉を思い返すと恥ずかしさで俯いた。
また目に涙がこみ上げてくる。
「あれは、私がいけないんです…」
皆よりも要領が悪くてとろいのは事実。病気がちで出来る仕事は限られている。
きっと、うじうじしてるのも気に食わないのだと思う。
それを含めて姫子の事にしたって周りから嫉まれても当然。愛し合っているなんて口が裂けても言えない。
だから、全部自分がいけないんだ…。
「私がもっとしっかりしていればあんな事…」
言われないんじゃないかと最後まで口に出す事が出来ず、悔しさとやるせなさで口を固く閉ざし、ぎゅっと胸元を掴んだ。
「…………」
黙りこくってしまった千歌音を、レーコはそのまま黙って見つめていた。
「――そんな事ない」
しばらくの沈黙のあと、そっとレーコが口を開く。
淡々と言うそのいつもの口調が今はとても柔らかく聞こえたような気がして、ふと顔をあげるとレーコと目が合った。
姫子や真琴と違い感情の起伏に乏しいレーコだが、その余り開いていない目はどこか穏やかに見えた。
「月の巫女は、今のままでいい」
「――――っ」
真っ直ぐ自分を見据えるレーコの言った言葉に、押さえていた胸の奥がドクンと跳ねた。
オロチって皆ニノ首みたいな人ばかりだと思ってたけど…。
この人は、何か違う…。
飾り気の無いレーコの言葉に否定しようとしていた自分自身を救われた気がした。
春を告げる優しく暖かな風が吹き、千歌音の心までも暖かくなっていく。
「なに?」
「っ!…ご、ごめんなさい!何でもないです///!」
呆然とレーコを見つめていると首を傾げられ慌てて我に返り首を振った。
でも何だかレーコの顔を直視できなくて視線を逸らした。
あれ?ど、どうしたんだろ、何だか顔が熱い。
それに、何だか胸がドキドキする…!
口元を押さえながら困惑していると、今度はレーコが千歌音をじっと見ていた。
「ねえ、月の巫女」
「は、はい…///?」
レーコに呼ばれドキドキしたまま上擦った声で顔を上げると、レーコはさっきよりも真剣な顔をしていて千歌音の体が思わずピキンと緊張する。
や、何でこんな緊張してるの…!?
不自然なほどに顔が赤くなっているだろうとは分かっているものの、全身が金縛りにあったように動けなかった。
そして、レーコの口がゆっくりと開いた。
「千歌音ー?どこにいるの?」
「ぁ……」
「………」
しかしその時玄関の方から外出から戻ってきた姫子の声がし、その声にレーコの紡ごうとした言葉は遮られた。
どうしようかと千歌音は困ったように玄関の方と同じく声のした玄関のほうを見ているレーコを交互に見た。
まだレーコとの話は終わってはいないが、ここでレーコと一緒にいる事が知れると姫子がまた気分を害してしまう。
「ご、ごめんなさい。私行かなくちゃ…!」
早口で言い、踵を返し急ぎ足でぱたぱたと廊下を走っていった。
「………」
その千歌音の後姿を、曲がり角を曲がり見えなくなっても、レーコはずっと見つめていた。
玄関へ向かう途中、角を曲がってすぐのところで千歌音は歩く速度を落としていた。
やだ、どうしよう…まだ胸のドキドキが収まらない…。
緊張が解け胸に手をあてて何とか気持ちを落ち着かせようとその場で足を止めた。
ついさっきのレーコとの会話が頭から離れない。
『月の巫女は、今のままでいい』
何であんな事いってくれたんだろう…?
表情に変化がない人だから今までどんな人なのか今いち良く分からなかったけど。
でも単純に……優しい人なんだって、そう思った。
姫子は近づいてはいけないって私に言ったけど、あの人はオロチなのにそんな悪い人じゃないような気がする。
そう思うと胸がまた――。
何だか分からない収まる気配の無い感情に両の手で胸を押さえつけた。
でも、そう言えば最後に何を言いかけたんだろう?
どうにもこうにも気になってしまって思わず歩いてきた廊下を振り返った。
「千歌音どうしたの?」
「///!!?」
もの凄く近い距離で聞こえた姫子の声に驚き、振り返るとすぐ目の前に姫子が不思議そうな顔をして立っていた。
「詰所にいるって聞いたんだけど、大丈夫?顔が赤いわよ?」
「え!?そ、そんな事ない、です///!」
「?」
火が出るほど真っ赤な顔でカッチンコッチンに固まりながら言う千歌音に姫子はますます首を傾げるのであった。
「…………」
その姫子と千歌音のぎこちない会話をレーコはその場に立ち尽くしたまま動かず黙って聞いていた。
オロチの力で通常の人間よりも五感が長けているのか、はたまた地獄耳なのか分からないがその声もまたレーコには丸聞こえだった。
全くその表情からは何を考えてるのか読み取れはしない。だが、しばらく2人の姿の見えない廊下を見つめていた。
そして、はじめここで涙で声を震わせていた千歌音の声がぎくしゃくしながらも変わったのが分かると、そっと溜息をつき瞼を落としてくるりと背を向けた。
「さて、あの3人を懲らしめにでもいきますか……」
そう呟いて、ゆっくりとイズミらのいる詰所へと歩いていった。
了