Episode 1: Rebirth Kiss
秋晴れの青空の下、河原に仲良く腰掛けている制服姿のカップルがいる。
一人は、すみれ色の大きく澄んだ瞳がひときわ愛くるしい女の子、来栖川姫子。
紅茶色の長い髪にしつらえた、ひときわ大きな赤いリボンがチャームポイントだ。
彼女の傍らにいるのは、幼馴染みで、凛々しく端整な顔立ちで清潔感がある
黒髪の少年、大神ソウマである。
二人は今、ランチボックスを広げて、お弁当を美味しそうに頬張っている。
姫子は、お手製のおにぎりをおいしそうにぱくつくソウマの口元を眺めながら、
自分の唇にそっと手を当ててみる。
昨日の彼との、甘酸っぱいファーストキスの余韻に耽りながら。
傍目から見れば、ごく普通のさわやかな青春真っ盛りの恋人どうし、の光景である。
もしもうひとりの主人公の存在をここに加えなければ、この世界の物語は、悲しく、
苦しく、切なく、だからこそ美しい恋の結末を辿ることはなかったに違いない。
それでも、いま幸せそうにくつろいでいる少女たちの命運と、世界の行く末を握る鍵は、
おそらく、もう一人のヒロインに委ねられていた。
そう、大木の陰からこの幸せそうな男女の歓談を、じっと息を潜めて見つめている、
一人の女の子―姫宮千歌音の登場を。
千歌音は、腰まで伸ばした美しい翠の黒髪をたなびかせ、ひっそりと、
そこに佇んでいた。
色白で痩身ではあるが、女性にしては凛とした物腰と、優しく、時には鋭い眼光を
備えた切れ長の瞳の持ち主である。
この聡明そうな少女も、河原にいる少女と同じ学園の衣装を着ている。
河原のすぐ後ろがなだらかな斜面をもった土手で、千歌音が身を隠している楠は、
そこに生えていたのだった。
千歌音はやや斜め後ろに位置してはいたが、二人の様子の全貌を俯瞰することができた。
「おいしかったよ、ごちそうさま。来栖川って料理上手なんだな」
「喜んでくれてうれしいな。あっ、でも、ほんとは千歌…じゃなくて
宮様に教えてもらったの」
時折漏れ聞こえる男女の明るい笑い声。
それにあわせて、身を寄せる大木の幹を掴む、千歌音の手に力がこもる。
寂しげな表情を浮かべる木陰の少女。
この構図は、明らかに両想いの恋人の語らいに嫉妬する片想いの少女、
というベタベタなシチュエーションに違いない。
しかし彼女の物憂げなコバルトブルーの瞳に映るのはまさしく、
少年ではなく少女、の方なのであった。
そして見つめられる乙女は、未だ見つめる乙女の存在に気づいてはいない。
容姿端麗、品行方正、才色兼備、文武両道…といった
ありとあらゆる四文字熟語の賞賛が似合う裕福なお嬢様、姫宮千歌音の行くところ、
常に黄色い歓声とうっとりとした羨望の眼差しとがつきまとう。
学園のアイドルであり、お屋敷のメイドたちには畏敬の女主人であり、
社交界でも花形スターである彼女。
万人の視線の対象である彼女、だが当の本人の眼中には、
たったひとりの平凡な少女しかいないのだ。
誰もが目で追わずにいられないほどの、並々ならぬ存在感を放つ
千歌音の身を隠すのに、この一本の巨木や木の葉のざわめきでさえも、
いささか役不足にも思われる。
だが千歌音は、自分の纏う光輝くオーラを打ち消す術を身に着けていた。
なぜなら彼女こそが、光の満ち欠けによって人の目に出没を繰り返す
「月」の巫女なのだから…。
千歌音の憂いを少なからず滲ませた、愛でるような眼差しの行き先には、
姫子の屈託のない笑顔が、そしてもっとその先には、
記憶の中の美しい人の最期の微笑がある。
全身全霊で瞳の中の少女を愛したい。
抱きしめてキスしたい。
その衝動を、千歌音はひたすら厳しい理性と哀しい記憶とで抑えていた。
それでもやり場のない情動が溢れ出しては、彼女に樹幹を抱擁させ、
やるせなさで張り裂けそうな胸を押し付けさせ、内股を擦り付けさせている。
んんっ…ひ、姫子…大好きよ…。
声を押し殺してはいたが、自分の淫らな想像のなかの姫子のイメージと
じっとりしてきた下半身に、覚えてしまった罪悪感。
気を取り直して、千歌音はいつもの冷静な自己を取り戻す。
そして今はひたすら、目で愛撫することに集中しようとした。
ふと見ると姫子は、横で寝そべったソウマではなく、
何かあらぬ方向を見つめていた。
千歌音も姫子の目になったつもりで焦点を合わせる。
川岸には浮き沈みを繰り返しながら、流れていくダンボール箱。
こちらからははっきりと見えないけれど、中からかすかに
くぅーん、くぅーんと動物の鳴き声が聞こえる。
仔犬だわ!
と千歌音が判断するまもなく、姫子はすでに一目散に箱のほうへ駆け出している。
慌てて後を追ったソウマが追いつくも間もない。
彼女は、勢いよく履いていた靴とハイソックスを脱ぎ捨てると、
スカートを膝上まで捲り上げながら水中を目標に向かって、おずおずと、
しかし着実な足取りで進んでゆく。
見ているこちらがまどろっこしく、はらはらする。
秋とはいえやはり水はひんやりと冷たく、昨日の雨で水かさはやや増していた。
幸いなことに川底は思ったほど深くはなかった。
姫子は水面が腰の高さになるところで、仔犬を拾い上げることができた。
そして笑顔をふりまきながら、膝丈まで浸かったソウマのところへ戻ってくる。
「来栖川、無茶するなよ!俺に任せてくれたらよかったのに」
「えへへ、私だってやればできるもん。ほらみて、このコかわいいでしょ?」
抱きかかえた仔犬をソウマに手渡して、姫子は小さな命の救助成功に、
得意満面の笑みを浮かべる。
にっこりと笑いあう二人。
思わず川岸まで駆け寄っていた千歌音は、姫子が事無きを得ていたので、
そのままその場に立ちすくんでいた。
向かい合う男女に、ちくりと胸に棘が刺さる感覚。
覗き見をしていたと感づかれないだろうか?
都合よく場に居合わせた理由を聞かれたら何て答えようか?
そんな当惑が、彼女の歩みを止めさせる。
しばしの逡巡の後、二人に気づかれないうちに立ち去ろうと、
千歌音はくるりと背を向けた。
ソウマは左腕で仔犬を抱きかかえながら、空いた右手で姫子と手を繋ぎ、
さぁ、帰ろうかと促す。
姫子はソウマに先導され、少しふらつきながら歩み始めた。
ふと遠方に、見覚えのある人物の後姿が目に止まる。
あれっ…千歌音ちゃん…?
姫子がぼんやり脇見していると、ソウマとの手が自然に離れた。
前に引っ張る力がなくなった反動に足場の悪さが加わって、
姫子の体は大きくぐらついた。
苔むした石に足を滑らせて、思いっきり仰向けになって倒れこむ。
こんなときでさえ姫子は、「普段から何もないところでも一人で勝手に
躓いてコケてしまう特技」を発揮してしまった。
ばっしゃーんっ!
と派手な水音が辺りに響き渡って、川面に何重にも大きな波紋が広がる。
驚いて振り返るソウマ、そして千歌音。
「お、おいっ?!大丈夫かっ、来栖川!!」
「姫子!!」
すでにもう川岸近くまで来ていて水深も数十センチなのに、
姫子は水の中で上向きに臥したままだ。
自力で起き上がらない。
それもそのはず、ひっくり返った拍子に、後頭部を川底の石に思い切りぶつけ、
気を失っていたのだ。
ソウマは急いで仔犬を河原へ降ろすと、すぐさま引き返して、
水中から姫子を助け起こした。
その場で上体を抱えながら、肩を揺さぶってみるが、依然として姫子の反応はない。
その時、矢も盾も堪らず、千歌音が息せき切って駆けつけてきた。
肩で大きく呼吸を整えながら、衣服が濡れるのも構わず姫子の側にしゃがみ込む。
掌で姫子の頬を軽くぱしぱしと叩く。
「来栖川さんっ…ねえっ、姫子、姫子!どうしたのっ?!しっかりなさい!!」
「姫宮、ちょうどいいところに来てくれた!来栖川が大変なんだ、手を貸してくれ!」
いくらスポーツ男児のソウマでも、制服が水分を一杯含んでいて重くなった姫子の身体を、
一人で持ち上げるのは至難の技だった。
ソウマが後ろから姫子の両脇の下から支え、千歌音がくの字に折り曲げた両膝を
抱えるようにして、慎重に持ち運ぶ。
河原に敷きっぱなしのランチシートの上に、振動を与えない程度に、
仰向けにゆっくりと姫子の身を横たえた。
姫子は糸の切れた操り人形のように、未だ身じろぎひとつしない。
顔色がどんどん悪くなっている。
心なしか全身の肌が不吉な土気色に染まり、唇も紫色に変化しているようにみえた。
千歌音は全身から血の気が引いてゆくような悪寒を覚えた。
姫子の口と鼻とに、すぐさま手をかざしてみる。
息 を し て い な い …。
千歌音は急いで、姫子の制服のボタンを外し、襟元を緩めてブラウスの前を開いた。
レースの白いブラが見えたので、ソウマは思わず赤面して顔を背ける。
千歌音は姫子の胸元に耳を当てて、心拍の有無を確かめてみた。
今にも止まりそうな、聞き取れるか、取れないかのか細い心音。
完全に停止したわけではないが、いつ何時、危険な状態に陥るかわからない。
一縷の望みはある、しかし予断を許さない状況だった。
「大神くん、貴方は救急車を呼んできてちょうだい。応急処置は私に任せて。多少なりとも医学の心得はあるから」
「ああ、分かった。後は頼んだぞ」
姫子の側を離れるのは忍びなかったが、今の自分にはなす術がないのだ。
そう言い残してソウマは、その場を後にした。
遠ざかるソウマの足音を背に、千歌音は悲痛な面持ちで、姫子の蒼白な顔を一瞥した。
そして意を決して、姫子のうなじの下に手を入れて、咽喉をぐっと上方に突き出すようにさせた。
気道から肺にかけて一直線の通路を確保するためである。
鼻をつまんで自分の唇で姫子の口をぴったりと塞ぐと、
ふーっと生命の息吹を送り込む。
と同時に定期的な心臓への刺激も忘れない。
「貴女」をもう二度と失いたくないの…。
千歌音は必死だった。
幾度か人工呼吸と心臓マッサージを繰り返すと、姫子の硬直していた右手の指が、
微かにではあるが動いた。
千歌音がその兆候を見逃すはずはなかった。
いまや藁をも縋る想いの千歌音にとって、
それは生還への道標であり、希望の光であると思われた。
姫子の右手をぎゅっと握り締めながら、切羽詰った形相で
かけがえの無い友人の魂に呼び掛ける。
「姫子、ひぃめこおぉーっ、お願いよ、戻ってきてぇーっ!!」
生ける少女の絶叫は、瀕死の少女の意識に届けられたようだ。
姫子の指からの断続的に握り返される確かな手応えを、千歌音の手は感じとった。
おもむろに姫子の眉がぴくりと動いたかと思うと、小さな口から
コポッと川の水が吐き出された。
次第次第に姫子の身体には血の通った温かさが満ちてきて、
柔肌が生気のある色を帯びてくるのがみてとれる。
千歌音は、息を吹き返したばかりの少女の上体をそっと起こして優しく抱擁した。
何度も姫子の胸に顔を埋めては、その鼓動を確認する。
とくん、とくん、とっくん…。
「姫子、動いている…生きているのね」
千歌音は、その目覚めを今か今かと待ちわびながら、
腕の中の眠り姫の顔を飽くことなく見つめている。
千歌音の中で、記憶がフラッシュバックする。
物悲しい別離のシーンが脳裏を掠めて、千歌音の目頭は熱くなる。
堪え切れない悲哀と歓喜とがない交ぜになって、ほのかにしょっぱい液体が、
瞳から分泌される。
頬をつつーっと一筋の涙が伝わってゆく。
自分が今抱きかかえているのは、
「息絶えてゆく少女」ではなく「生まれ変わってきた少女」、
なのだ。
おぞましいアクシデントも時間が経てば、笑いとばせる思い出に変わるであろう。
姫子の復活した今日という日を特別な記念日にしよう…。
だから姫子が覚醒してから最初にかける言葉も、千歌音はこのとき心に決めていた。
姫子はまどろみの中で、自分の意識が朦朧としてくるのを感じていた。
聞き覚えのある二人の声が、必死に自分の名を叫んでいるのを尻目に。
その二つの声に応えたくても、手足が鉛のように重く、思うように動かせない。
そのうち呼び声もか細くなって、ぷっつりと途切れてしまった。
完全に無音で暗闇の世界に、ひとり取り残されている。
あたし、このままどっかに行っちゃうのかな…。
ふわりと軽くなったような気がして、精神だけが上へ上へと連れて行かれそうだった。
もはや何も口にすることも考えることもできない。
しかしその刹那、何か得体の知れない意志の力が働いた。
昇天を遮られて、姫子の魂が自らの来し方へと引き摺り戻されてゆく。
最も身近で聞き慣れた人の叫び声が、耳元でこだましているのが、
だんだんはっきりしてくる。
懐かしく、愛しい、綺麗で透き通った、この声…。
千歌音の溢れ出す涙はとどまることを知らず、ぽたぽたと姫子の顔に浴びせかけられる。
姫子は瞼に熱い雫が当たったのを感じ、花弁が開くかのように、
ゆっくりと眼を見開いた。
目の前には、懐かしい人の泣き崩れた顔。
目を真っ赤に泣き腫らした彼女の、その瞳がみるみるうちに微笑んで、
その口元がにっこりと綻んで、こう呟く。
「姫子、ハッピー・リバースディー」
生まれてきて、おめでとう。生き返ってくれて、ありがとう。
感謝の言葉を口にした艶のある唇が、やさしく、優雅に、接吻を施す。
姫子の乾きはじめた唇に潤いを与え、愛でるように慈しむ。
姫子は、未だ意識があやふやで、時おり後頭部の痛みと眩暈を覚えつつあった。
それでも心地よい唇の感触に、言いようのない安らぎを感じつつあった。
ああ…なんか、これ、気持ちいい…。
瞼が再び重くなってくる。
姫子の首が、がくっ、と千歌音の胸元へうな垂れた。
千歌音は一瞬どきりとした。
が、その杞憂もすぐさま安堵に取って代わる。
姫子がすーすーとかわいらしい寝息をたて始めたのだ。
再び眠りについた麗しの姫君を、大事そうに一段と強く千歌音は抱きしめる。
彼女の存在の重みと復活の喜びとを、一身に噛み締めながら。
そして、再び嬉し涙に打ち震えつつも、自分がこの、
とてつもなく、大きな、大きな命を、今まさに全力をかけて救ったことに、
今まで生きてきたなかで最高の満足げな笑みを浮かべながら…。
いつの間にか例の仔犬が近寄ってきて、姫子の足にじゃれついている。
遠くからは、救急車のサイレンが鳴り響いてきた……。
【続く】