月がおぼろに霞む春の夜のことだった。
淡い月光でけぶるような夜道をゆく影が二つある。
「姫子さま…」
「なあに?」
ぶるっと身をふるわせたのは姫子の乳母だ。
「何だかおそろしいような夜ですわね。ご覧なさいませ、
まるで月が泣いているようですわ…」
村外れにある社からの通い慣れた帰り道も、いつもと違うように姫子の眼に映る。
(今宵は何かが起きそうな夜だこと)
しかし不安がっている乳母を怯えさせることはするまいと、姫子は笑顔を向ける。
「大丈夫よ、こんな夜もあるわ。さ、急いで帰りましょう」
足を速めた直後、道の傍らの草薮が音を立てた。
獣が身じろぎしたしたような気配を感じ、乳母は「ひっ」と悲鳴をあげ、
その場に立ちつくしてしまった。
乳母を庇って姫子はその前に立ち、気配のする闇をにらみつけた。
「何者!」
息をつめる二人の前へ、四つ足の獣がゆっくりと歩み出てきた。
そのとき、雲の切れ間から月光が射し込み道を照らし出した。
その獣は人だった。それもまだ子供だ。
男か女かも見分けのつかない顔に清らかな月光が当たる。
汚れ乱れきった髪の間から意外なほど綺麗な瞳が姫子を見つめる。
視線があったとき、姫子の体内のどこか深いところで、火花が散った。
「姫子さま、いけません!」
乳母の甲高い声で我に返ると、姫子はいつのまにかその獣じみた
人間のすぐ前に立ち、瞳をのぞきこんでいた。
「あなたの名は?」
「…………」
言葉を話すことができないのか、黙って見返すばかり。だがその瞳は
知的で穏やかといってもいいほどで、姫子の恐怖心はすっかり消えていた。
「お腹はすいてない?」
相手は相変わらず黙ったまま、うなずいた。
「じゃあついていらっしゃい。私の邸で食べ物をあげる」
「姫子さま、なんてことを」
非難じみた乳母の声をそっと己の唇に指をあてて封じる。
「私が面倒をみるわ」
反論を許さずに歩き出した。振り向くと乳母は諦め顔でついてくる。
その更に後方で、小さな影が夜の闇に紛れるように二人の後を追ってきている
のを確認し、姫子は落ち着いた気持ちで歩き続けた。
何かが起きそうだという予感はどこかへ去っていた。
もうその「何か」は起きたのだと姫子は思う。陽の巫女としての直感だった。
邸につくと、厨へ向かった。夜が遅くとも、姫子の邸では誰かしら起きている。
下女に言いつけて木の鉢に粥を一杯よそってもらう。
外へ出て鉢を地面に置き少し離れて待つと、影が近づいてきた。
姫子から眼を離さないようにしながら、鉢をかかえて直接口を付け
中味をむさぼっている。しばらく経ったあと空になった鉢が地面に落ち、
人影は俊敏な動作で近くの樹の陰に隠れた。姫子は鉢を拾い上げて声をかける。
「夜があけたらすぐいらっしゃい。また粥をあげるから」
そして自身も休むために邸へと入っていった。
翌朝、日の出前に目が醒めた。いつもなら起床をぐずぐずと延ばす姫子にしては
珍しいことだった。昨夜の獣じみた影を思い出し、慌てて着替える。
真新しい単衣と手拭いを持ち、下女に用意してもらった粥を片手に姫子は外へ出た。
待っていたかのようにすぐに汚れてみすぼらしい人影が現れた。
「待たせてしまったかしら? さあまず食べて」
粥の鉢を地面におくと、今度はそれほど空腹ではなかったのか、上品ともいえる
しぐさでそっと粥を口に運んでいる。
身体にまとっているのはボロボロに擦り切れた布一枚。
髪は泥でところどころ固まり、木の葉がついている。
粥を食べ終わるのを見届けると、姫子は「ついていらっしゃい」と話し掛け、
邸の裏手へと回った。裏には清浄な水が流れ、邸のそばで深い水溜りをつくっている。
「ここで身体を洗いましょう。水がまだ冷たいかもしれないけど、今の姿のままでは
お湯を使わせてもらえないから、とりあえずここで綺麗にしましょう」
通じているのかふと不安になって瞳をのぞきこむと、わかったと言いたげに小さく頷いて、
水に入っていった。布を留めていた紐を解くと、裸身があらわになった。
すぐ水の中に身体を沈めてしまったから、姫子が目にしたのは一瞬のことだった。
「あなた、女の子なのね。だからそんなに汚していたの? 野に居たって河も泉も
探せばあるのに何故だろうって思っていたのよ」
傍へ近寄って話しかける。白い手が一心に髪のもつれを解きほぐしているが、答えは無い。
長い黒髪だった。汚れが落ちるに従って、元来の美しさが蘇ってくる。
少女はざっと水飛沫をたて、髪をふりはらった。
「きゃっ」
おもわず腕で飛沫を避けた姫子がつぎに顔をあげたときに目にしたのは
今まで見たこともないほど美しい少女だった。
白い裸身に浮いた水滴は、朝日をうけて輝いている。青味がかって見えるほど
黒々とした髪は豊かに背中を流れ落ちている。
姫子を真っ直ぐ見据える瞳はまるで黒曜石の黒だ。
月がおぼろに霞む春の夜のことだった。
淡い月光でけぶるような夜道をゆく影が二つある。
「姫子さま…」
「なあに?」
ぶるっと身をふるわせたのは姫子の乳母だ。
「何だかおそろしいような夜ですわね。ご覧なさいませ、
まるで月が泣いているようですわ…」
村外れにある社からの通い慣れた帰り道も、いつもと違うように姫子の眼に映る。
(今宵は何かが起きそうな夜だこと)
しかし不安がっている乳母を怯えさせることはするまいと、姫子は笑顔を向ける。
「大丈夫よ、こんな夜もあるわ。さ、急いで帰りましょう」
足を速めた直後、道の傍らの草薮が音を立てた。
獣が身じろぎしたしたような気配を感じ、乳母は「ひっ」と声をたて、
その場で立ちつくしてしまった。
乳母を庇って姫子はその前に立ち、気配のする闇をにらみつけた。
「何者!」
息をつめる二人の前へ、四つ足の獣がゆっくりと歩み出てきた。
そのとき、雲の切れ間から月光が射し込み道を照らし出した。
その獣は人だった。それもまだ子供だ。
男か女かも見分けのつかない顔に清らかな月光が当たる。
汚れ乱れきった髪の間から意外なほど綺麗な瞳が姫子を見つめる。
視線があったとき、姫子の体内のどこか深いところで、火花が散った。
「姫子さま、いけません!」
乳母の甲高い声で我に返ると、姫子はいつのまにかその獣じみた
人間のすぐ前に立ち、瞳をのぞきこんでいた。
「あなたの名は?」
「…………」
言葉を話すことができないのか、黙って見返すばかり。だがその瞳は
知的で穏やかといってもいいほどで、姫子の恐怖心はすっかり消えていた。
「お腹はすいてない?」
相手は相変わらず黙ったまま、うなずいた。
「じゃあついていらっしゃい。私の邸で食べ物をあげる」
「姫子さま、なんてことを」
非難じみた乳母の声をそっと己の唇に指をあてて封じる。
「私が面倒をみるわ」
反論を許さずに歩き出した。振り向くと乳母は諦め顔でついてくる。
その更に後方で、小さな影が夜の闇に紛れるように二人の後を追ってきている
のを確認し、姫子は落ち着いた気持ちで歩き続けた。
何かが起きそうだという予感はどこかへ去っていた。
もうその「何か」は起きたのだと姫子は思う。陽の巫女としての直感だった。
邸につくと、厨へ向かった。夜が遅くとも、姫子の邸では誰かしら起きている。
下女に言いつけて木の鉢に粥を一杯よそってもらう。
外へ出て鉢を地面に置き少し離れて待つと、影が近づいてきた。
姫子から眼を離さないようにしながら、鉢をかかえて直接口を付け
中味をむさぼっている。しばらく経ったあと空になった鉢が地面に落ち、
人影は俊敏な動作で近くの樹の陰に隠れた。姫子は鉢を拾い上げて声をかける。
「夜があけたらすぐいらっしゃい。また粥をあげるから」
そして自身も休むために邸へと入っていった。
翌朝、日の出前に目が醒めた。いつもなら起床をぐずぐずと延ばす姫子にしては
珍しいことだった。昨夜の獣じみた影を思い出し、慌てて着替える。
真新しい単衣と手拭いを持ち、下女に用意してもらった粥を片手に姫子は外へ出た。
待っていたかのようにすぐに汚れてみすぼらしい人影が現れた。
「待たせてしまったかしら? さあまず食べて」
粥の鉢を地面におくと、今度はそれほど空腹ではなかったのか、上品ともいえる
しぐさでそっと粥を口に運んでいる。
身体にまとっているのはボロボロに擦り切れた布一枚。
髪は泥でところどころ固まり、木の葉がついている。
粥を食べ終わるのを見届けると、姫子は「ついていらっしゃい」と話し掛け、
邸の裏手へと回った。裏には清浄な水が流れ、邸のそばで深い水溜りをつくっている。
「ここで身体を洗いましょう。水がまだ冷たいかもしれないけど、今のままでは
お湯を使わせてもらえないから、とりあえずここで綺麗にしましょう」
通じているのかふと不安になって瞳をのぞきこむと、わかったと言いたげに小さく頷いて、
水に入っていった。布を留めていた紐を解くと、裸身があらわになった。
すぐ水の中に身体を沈めてしまったから、姫子が目にしたのは一瞬のことだった。
「あなた、女の子なのね。だからそんなに汚していたの? 野に居たって河も泉も
探せばあるのに何故だろうって思っていたのよ」
傍へ近寄って話しかける。白い手が一心に髪のもつれを解きほぐしているが、答えは無い。
長い黒髪だった。汚れが落ちるに従って、元来の美しさが蘇ってくる。
少女はざっと水飛沫をたて、髪をふりはらった。
「きゃっ」
おもわず腕で飛沫を避けた姫子がつぎに顔をあげたときに目にしたのは
今まで見たこともないほど美しい少女だった。
白い裸身に浮いた水滴は、朝日をうけて輝いている。青味がかって見えるほど
黒々とした髪は豊かに背中を流れ落ちている。
姫子を真っ直ぐ見据える瞳はまるで黒曜石の黒だ。
少女は口を開けて見惚れる姫子に不思議そうな視線を向ける。
「わたし、そんなに変?」
声も綺麗だった。久しぶりに喋ったからか、ぎこちなくはあったけれど。
「いいえ……私はただ、驚いてしまって」
胸に手をあて、やけにときめいている心臓に静まれと念じる。
「おどろいたの?」
顔を上げて姫子は晴れやかな笑顔を見せた。
「そうよ。あなたって綺麗な子ね。本当に驚いたわ」
髪と身体の水を手拭でぬぐっているときに、
姫子は少女の背中を目にして手を止めた。
「この印、これって確か」
つぶやいた姫子を振り向き、少女は眼差しだけで尋ねてくる。
「何でもないの。それよりも寒いでしょう、ごめんなさい」
慌てて単衣を着せかけてやった。
後ろで髪を一本に結うと、どこかの貴族の姫君のような気品がただよう。
「まだ名乗っていなかったわね。私は姫子と言うの。あなた、お名前は?」
共に邸へ戻りながら尋ねた。
「ちかね、と呼ばれてた」
「いい名前ね。どんな字を当てるの?」
「……字なんて知らない。わたし、字をよむこともできないもの」
ぶっきらぼうな言葉だったが、姫子は気にしなかった。
「そうなの。じゃあ私がそのうち教えてあげる」
姫子はくすっと笑った。
「あなたに似合う名前も探しましょう。音はちかねで」
ちかねは何か言おうとしたが、何かに気づいた風で黙った。
姫子はちかねの視線の先を追い、乳母の姿を見つけた。
「姫子さま。その子はいったい…?」
「昨夜の子供を覚えていて?」
不審そうにちかねを見る乳母に姫子は切り出した。
「ああ、あの子ですか。いつの間にか消えていてほっとしましたものを。
まあずいぶんとこざっぱりとなって。姫子さまがなさったのですか?」
乳母はため息をついて、すっかり諦め口調だ。
「まあ、それだけ? この子とっても綺麗だと思わない? 色白だし」
姫子はじれったそうに言う。
「確かに色は白いようですけどね。ひょろひょろして痩せっぽっち、綺麗かと
訊かれましても、私には「はい」とは申し上げられません」
「もういいわよ、お父様に会っていただかなくちゃ」
ぐいっとちかねの手を引っ張って、父親の部屋へと向かった。
戸の前で垂れた布越しに姫子は声を掛けた。
「お父様、起きていらっしゃいますか?」
「姫子か…入りなさい」
姫子が室内にちかねを連れてはいると、敷布の上に腰を下ろして書物を
眺めていた父親はくっと喉をならして笑った。
「お前が起こされぬうちに目覚めているとは珍しい」
「私だって早起きすることもあります!」
頬を赤くして抗議する姫子をよそに、父の眼差しは脇のちかねに注がれている。
「その子は?」
「昨夜出会った子ですが、今朝水浴させていたところ…これを」
姫子がちかねの肩を優しく抱きしめると、緊張して硬くなっていた身体がふっとゆるんだ。
その隙に単衣の後ろ襟をつかんで、薄い肩から布地を落とした。
「この通り、背中に月の刻印を見つけました」
姫子が示す白い背中に浮き出るような三日月の印。
無骨な指がなぞるように触れ、ちかねの身体が一瞬おののいた。
消えないことを確認して指は離れていく。姫子は衣を再び着せ掛け、
髪の乱れを整えてやった。ちかねは目を瞑ってされるがままだ。
「これはまさに月の巫女の証し…」
呟く父の顔は暗く翳っている。
「姫子、お前はどう思う」
陽の巫女として問われていると知り、きちっと座してから答える。
「私もこの子は月の巫女だと思います」
「この子をどうするつもりだ」
「身寄りがないのであれば、我が家で引き取り、
私と同じく巫女として修行をすればよいかと」
言葉が口から勝手に流れ出ていくようだと姫子は思う。
ここまで考えて父に刻印を見せたわけではなかったのに。
「わかった。それでは触れを出そう。誰も名乗り出てこなければ
その娘はここでお前と過ごすことになるだろう」
「有難うございます、お父様」
「もう下がれ」
「はい」
姫子は一礼して、ちかねを連れて部屋を出て行く。
自分の部屋に戻ってはじめて安心することが出来た。
「あー、良かったー…お父様に駄目って言われたらもうどうしようかと思った」
くたっと円座に腰を下ろした。
ちかねは姫子を伺うように見ている。姫子は笑いかけた。
「さっきはいきなり脱がせてごめんなさい。でもね、これで貴女はここに居て
いいことになったのよ。私はどうしてもそうしたかった。だから……」
ちかねの前髪をそっとすくいあげ、瞳をのぞきこんだ。
「まず字を教えてあげるわ。私達、剣も習うのよ。自衛のためと聞かされて
いるけれど、本当は何故なのかしら……ああ、安心したら眠くなってしまったわ」
姫子は小さくあくびをすると、円座の上で猫の子のように丸くなる。
「誰か来たら起こして頂戴」
すぐに寝息が聴こえてきた。ちかねは部屋を見回し、被衣が隅にあるのを
見つけると、持ってきて姫子の身体にかけて隣りに寝転んだ。
太陽のようなこの人は、大人びているが自分とそんなに歳が違わないだろうと思う。
「ひめこ…」
声をかけると、完全に眠っていたように見えた姫子が目を開いた。
「なあに?」
ちかねは恥ずかしそうに顔をそむける。
「何でも無い」
「言ってごらんなさい」
「……わたし、痩せっぽっちでみっともない?」
姫子は慰めるようにちかねの頬を撫でた。
「乳母の言葉を気にしては駄目よ。貴女は私がこれまで見てきた誰よりも
綺麗。そうね、もう少し栄養をつけて…一年も経てば、皆が貴女に見惚れる
ようになるわ。絶対よ。私の予言は当たるのよ」
低い声で言い終わると、姫子は頭を深く垂れた。
名前を呼んでみても、今度は眠りから覚めない。すこし開いた唇から
規則正しい寝息が聴こえてくるだけだ。
(おきたら字をおしえてくれると言った…)
ならば真っ先に知りたいのは、自分の名前にふさわしい字ではなく
顔も覚えていない親の名でもなく。
(ひめこってどう書くのかな)
ちかねの目蓋も重くなっていく。昨夜は眠れなかった。この人が出てきてくれたとき
眠っていて逃すようなことをしたくなかったから。
お腹はほどよくくちていて、部屋は日差しに暖められて温まっている。
ここなら大丈夫。何も心配せずに眠れる。
姫子の手を握っていさえすれば、姫子が起きたとき一緒に起きられる。
握った暖かい手を意識して微笑むと、すうっと息を吸い込んで、ちかねは眠りにおちた。