「マコちゃんに会ってほしい人がいるんだけど、連れて行っていいかな。」
連日暑い日の続く夏の、ある日の夕方、陸上部の強化合宿からやっと部屋に帰って
きた私の携帯にかけてきた姫子はそう言った。
----私と姫子は現在大学三年生。
高校卒業後もこの地を離れたくないという姫子が選んだのは地元の神屋楯大への進
学だった。
私はといえばインターハイの実績を買われ幾多の大学から誘いを受けていたのだ
が、姫子の進路を知って迷わず同じ道を選んでいた。
「マコちゃん、何でもっと陸上の強い学校に行かないの?」
「私はね、強いところに行くんじゃなくて強い相手に勝ちたいの。それにあそこは
陸上部の先輩も大勢いるしね。」
進路を決めた時の姫子からの問いかけに、私はうまく答えられただろうか。胸の内
に秘めた想いを悟られることなく・・・。
そして今私たちは天火明村からほど近い地方都市に二人で部屋を借り、高校時代の
寮生活の延長のように暮らしていた。----
何だろう。今まで姫子が私たちの部屋へ誰かを連れて来たことはなかった。それに
声の様子がいつもと違うように感じるのは携帯の受信状態のせいだろうか。しかし
そんな小さな疑念を振り払うように私は明るく言った。
「もちろんだよ。あんたと私の部屋なんだからそんなこと断らなくてもいいってい
つも言ってるじゃん。」
しかし今まで現実のこととして考えたことのない、いや、あえて考えようとしな
かった事柄が、心の中で頭をもたげてくるのがわかった。考えまいとしても無意識
下で常に恐れていたことが。
私は時々夢を見る。いつか姫子のたった一人の大切な人が現れて、手を取り合い笑
いながら私の前から去ってゆく日のことを。どんなに泣き叫んで手を伸ばしても届
かずただ二人を見送るしかない、そんな日を。そしてその度に、目覚めるとすぐ隣
のベッドに眠る姫子をさがして嗚咽を聞かれなかったことに安堵する私がいた。
その日姫子が私に紹介したのは私たちと同年代の女性で、彼女は長くつややかな黒
髪と涼しげな瞳が印象的な美人だった。
「マコちゃん、こちら、姫宮千歌音ちゃんていうの。」
その時私は初対面のはずなのに、彼女のことを知っているような不思議な感覚に囚
われた。
「あの、失礼ですがどこかでお会いしたがことがありますか。」
その女性は少し寂しげに微笑んで小さく首を横に振った。
「マコちゃん、これ見てほしいの。」
そう言って姫子が差し出したのは高校時代から大事にしていたアルバムで、姫子は
いつも一人ぼっちの写真を見ては涙を流していたものだった。
しかし驚いたことに姫子が一人で写っているはずの写真には、どれも一人の美少女
が姫子とともに微笑んでいた。その少女は紛れもなく目の前の美しい女性の高校時
代と思われる姿だった。
「これって一体・・・?」あまりの衝撃に私はその人を不躾に見つめてしまった。
と、その時だった。彼女と目があった瞬間、私の中のどこか深いところで白くまば
ゆい光が弾け、私の全身を貫いた。
「み・・や・・・さま・・・?」私の唇は自分でも耳慣れない言葉で彼女をそう呼
んでいた。
「マコちゃん?もしかして何か思い出したの?マコちゃん!」姫子がそう叫ぶのを
聞きながら、私は今までに経験したことのない奇妙な感覚に襲われていた。
彼女とは初対面のはずだ。確かにそのはずだ。しかし乙橘学園で同じ時を過ごした
記憶もまた確かにある。その中の彼女は学園でまさに至高の存在だった。相反する
二つの事実、その両方が私の中に等しく存在している。
軽いめまいを感じ、その場に膝をつきそうになったところを姫子に支えられた。い
ろいろな想いが頭の中を渦巻くがどれも言葉にならず、ただ混乱していた。
「大丈夫?」
「うん、平気。でも分からない。何で私はその人のことを知っているんだろ。うう
ん、そうじゃなくて何で宮様のこと今まで忘れていたの。全然分かんないよ。」
「私、千歌音ちゃんの大切な日々が無かったことになるなんてそんなの堪えられな
くて。でもマコちゃんは思い出してくれて。ほんとにありがとう!」
「えっ?それじゃあ、もしかして、宮様が・・・。」
「見つけたの。やっと会えたの。」
「・・・そっか、よかったね姫子、よかったね。」
泣きじゃくる姫子を抱きしめて言う私の言葉は決して嘘ではない。姫子が今までど
んな気持ちで探し続けていたか痛いほど知っていたから。姫子の喜びが私の喜びそ
のものなのだから。でも頬をぬらす自分の涙が祝福のものではないことを私は知っ
ている。そしてそれだけは絶対に姫子に知られたくないことだった。
気持ちを奮い立たせて顔を上げ、姫子を離して手の甲で涙を拭うと悲しげに私を見
つめる宮様と目が合った。
「早乙女さん。」
「ご、ごめんなさい。わたしったら。」
「違うの、早乙女さん。私、あなたに感謝の気持ちでいっぱいよ。でもあなたを見
ていたら上手く言葉が見つからなくて。ごめんなさい。」
「感謝なんてそんな。私別に何もしてないし、自分が好きでやってただけだし。」
「いいえ、あなたが姫子を支えてくれなかったらきっと私、姫子と会えなかった
わ。それなのに私・・・。」
「いいんです、そんなこと。私はこの子の願いが叶ったことが何よりうれしいんで
す。それより二人のこと、よかったら話してもらえませんか。」
すると泣きやんだ姫子が横から言った。
「うん、私もマコちゃんに知ってもらいたいの。いいよね、千歌音ちゃん。」
「ええ、姫子がそう思うのなら。」
それから彼女たちは全てを話してくれた。
薔薇の園での出会い、惹かれ合う心と心、ゆっくりゆっくり友情を育んだ穏やかな
日々。
そして動き始めた運命の時。二人の十六歳の誕生日の朝に空を染めた黒い太陽・邪
神ヤマタノオロチの復活、それを封じる月と陽の巫女としての覚醒、剣神アメノム
ラクモ復活の儀式、オロチの者でありながら陽の巫女を護るために戦ったジン様こ
と大神ソウマ君のこと、月の巫女の哀しい決意、たった一人でアメノムラクモを蘇
らせた陽の巫女の勇気、破壊された世界を元に戻すための最後の儀式、通じ合った
二人の想い、そして生木を引き裂くような別れの時・・・。
この途方もない物語を、しかし私は一片の疑いもなく現実のものと理解した。全く
疑いも持たずに受け入れることのできる自分がむしろ不思議だった。それよりそん
なつらい経験を心の奥に抱えたまま今まで暮らしてきた姫子を思い、私は何の力に
もなってやれなかった自分の無力さに打ちのめされた。
「・・・宮様は姫子と再会するまでどうしていたんですか。」
「私、今から二十一年前にまた姫宮の家に生まれたの。それで六歳まで天火明村の
邸にいたんだけど、その後はずっと両親と一緒に東京とパリを行ったり来たりだっ
たわ。でもこの春邸にお一人でいらっしゃったおじい様が亡くなって、だから邸の
管理も兼ねて私一人こちらに戻って来ることになったの。大学も飛び級で昨年卒業
していたし。」
「じゃあ姫子とは再会するまでは本当に一面識もなかったんですか。」
「ええ。それに私は姫子のように記憶が残ってなかったの。だから早乙女さん、私
も一週間前に姫子と出会った瞬間は、突然二回の人生が頭の中で交錯してひどく戸
惑ったわ。さっきのあなたと同じ。しかも交差点の真ん中で。」そう言ってフフ
フッといたずらっぽく笑った。
姫子は宮様の隣でにこにこしながらそんな会話を聞いていた。私の向かい側に並ん
で座る二人、その二人の首に掛かったおそろいの小さな桜色の貝殻のペンダント
が、二人と私との間の隔たりを示すようでつらかった。そんな気持ちを切り替える
ために、お茶のお代わりを入れるといって私は立ち上がった。
その後私たち三人、正確には宮様と私の二人はお互いの高校時代の姫子にまつわる
話で盛り上がった。笑い話の肴にされている姫子は赤くなったりちょっとふくれた
り、でもとても楽しそうだった。
「宮様とずっとそんな仲良しだったなんてあんた私に一言も言わないで、水くさい
わね。」
「ごめんね、マコちゃん。でも千歌音ちゃんに迷惑掛かっちゃうかもって思っ
て。」
「違うの。私が姫子に迷惑が掛からないようにって思って内緒にしようって言い出
したの。まさか早乙女さんにまで黙ってるなんて思わなくて。ほんとうにごめんな
さい。」
「じゃあここは宮様に免じて許すとしますか。それにしてもお昼時になるといつも
宮様はどこかへ消えてしまうってみんな言ってたけど、そうか、あんたが独り占め
していたのか。ばれたらあんた、きっと学園中の嫉妬の的で大変だったよ。」
「うん。だから千歌音ちゃんと二人だけの秘密だったの。」
屈託無く姫子は笑う。
「でもね、早乙女さん。」と微笑む宮様。
「今だから言うけど、私はずっと早乙女さんに焼き餅焼いていたのよ。」
「わ、私に?」
「ええ。だってあなたは一日中姫子を独り占めしてたから。私が姫子と会えるのは
お昼の短い間だけ。だから出来ることなら早乙女さんになって毎朝姫子の寝顔を見
たいって本気で思っていたわ。」
「な、何を・・・。私はあの、姫子とはそのルームメイトだし、別にその、姫子の
寝顔を見たいとか見たくないとかそういう訳じゃ、って何を一体・・・。」
姫子の目の前で心の奥を言い当てられてしまったようで、赤くなったり青くなった
りしている私に、姫子は真顔で
「マコちゃんがそうやってずっと私を支えてくれたから今の私があるんだよ。千歌
音ちゃんと会えたのだってマコちゃんがいつも励ましてくれたからだよ。」
「馬鹿ね。私は何もしてないよ。姫子が一人で見つけ出したんじゃない。あんたが
こんなに強い子だったなんて知らなかったよ。・・・それより私、姫子にひどい事
してたんだよね。」
「え?何のこと?」
「怪我をして入院した私をお見舞いに来てくれた姫子につらく当たっちゃって。」
無かったことになっていた時間に犯していた罪を思い出し、私の心は沈んだ。
「ううん、マコちゃんはちっとも悪くないよ。それに。」クスッと笑って言った。
「そのことはもう仲直りしたじゃない。」
「うん、そうだったね。」
暗く沈もうとする気持ちを明るく照らす姫子の微笑みは、お日さまそのものだっ
た。
「いけない。すっかり遅くまでお邪魔してしまって。」
腕時計を一瞥した宮様は立ち上がり、
「早乙女さん、今日はお会いできて本当にうれしかったわ。」
そう言って握手を求めてきた。その手を握り返して
「良かったら晩ご飯食べていきませんか。たいしたことは出来ないけど、姫子も料
理上手になったんですよ。」
「ありがとう。でも今夜はどうしてもはずせない用事があるの。ごめんなさいね。
それにおしゃべりが楽しかったからすっかり忘れていたのでけれど、一言ご挨拶を
してすぐに帰るつもりだったから、下に車を待たせておいたままだったの。」
「そうなんですか、残念です。でも私も宮様と会えてうれしかったです。」
その言葉は社交辞令なのか本心なのか、言った自分でもよく分からなかった。
姫子が私に何か言って宮様と出て行く姿をドアの前で呆然と見送り、私はただ馬鹿
のように突っ立っているだけだった。
来るはずがないと思いたかったこの日が、とうとう来てしまった。しかし劇的なこ
となど何もなく二人は当たり前のように出て行き、自分もまた当たり前のように見
送っていた。まるで心が止まっているようだった。
どの位そこに立っていただろうか。目の前のドアが突然開いて姫子が入ってきた。
「ただいまぁ。あれ、マコちゃん何してるの?」
「何って、あ、あんたこそ何しに来たのよ。」
「ひどぉい。私さっき『下まで送ってくるね。』ってちゃんと言ったよ。マコちゃ
んも『うん。』って返事したじゃない。」
「えっ?そんなこと言ったか?」
「さてはマコちゃん、合宿で相当お疲れだね。じゃあ今日はお風呂の後でマッサー
ジしてあげるね。」
ああお腹すいたぁ、と言いながら奥へ入っていこうとする姫子の腕を捕まえて、
「あんた宮様と行ったんじゃないの?」と私は間抜けな質問をしていた。
「ううん、だってここが私の家なんだもん。」
「でも。」
「私千歌音ちゃんと話し合ったの。それでね、お互い今の生活のペースを崩さず、
ゆっくりつき合っていこうって事にしたの。だからこれからもここはマコちゃんと
私の家だよ。あ、もしかしてマコちゃん、何か考えがあったのかな。もしそうなら
遠慮無く行ってね。」
「別にそんな、何も考えてなんか無いけど、あんたはそれでいいの?」
「う~ん、ほんとは千歌音ちゃんと一緒にいたい気もするけど、千歌音ちゃんのお
邸ってすごく広くて、メイドさんとかすごくたくさんいて、千歌音ちゃんには内緒
だけどほんとはちょっと落ち着かないの。だからね、私がお願いして今まで通りに
してもらったの。」
「ふぅん。ま、あんた達がそれでいいんなら好きにすれば。」
「うん。これからもよろしくね。」
素っ気なく振る舞う私に姫子は明るく言った。
いつまでもそんな状態が続くわけがないなんて、ちょっと考えれば分かることなの
に、現金な私の心は姫子が戻ってきたことで再び動き始めたようだ。その時はま
だ、これが新たな苦しみの始まりだとも気づかずに。
「ただいまぁ。」
姫子が宮様との逢瀬から帰ってきたのは、夜の七時を十分ほど回った頃だった。
「おかえりぃって、あんたね、中学生の初めてのデートじゃないんだから、もっと
ゆっくりしてくれば?毎日言ってるけどさ。」
「うん、でも今日は晩御飯の当番だから。」
「そんなこと気にすることないのに。愛しい姫君が十二時どころか七時にご帰館
じゃ、王子様もさぞがっかりだろうね。」
「でも千歌音ちゃんも結構忙しいみたいで、いつも無理して時間作ってくれてるみ
たいだからあんまり遅くまではね。」
「やれやれ、身分違いの道ならぬ恋も結構大変そうだね。」
「フフフッ。」
「おっ、余裕だねこの子は。このこのぉ。」
「いひゃいよぅ。ほっぺが伸びちゃうよ。」
私は柔らかい姫子の頬から手を離して、
「それじゃあ夕飯の手伝いでもするとするか。ほんとはもう腹ぺこでさ。」
「あれっ?今日は走りに行かないの?」
「うん。実は今日練習中にちょっと足首ひねっちゃってね。」
そう言って右足首の白い包帯を見せた。
「えっ、大丈夫なの?」
「大したことないんだけど二、三日様子見って事で練習も休み。だからちょっと
ラッキーかな。」
私が体を動かすことが何より好きなことを知っている姫子に対して、最後の一言は
余計だったかなと思ったが遅かった。
「マコちゃん、もしかして私のせい?」
「何でそこであんたが出てくるのよ。姫子のせいのわけないじゃない。さっ、それ
よりご飯ご飯。」
キッチンへ向かいながら、図星を突かれて顔に出なかったかどうか不安だった。
以前は練習中に他の事を考えることなどなかった。それが今では昼といわず夜とい
わず、何をしていても気がつくと姫子のことを考えている。捻挫もそれで集中を欠
いたためだった。
先日帰宅してきた姫子の首筋に、よく気をつけなければ見逃してしまうような、小
さな小さな赤いあざのようなものを見てしまった。二人は女の子同士だが恋人でも
あるわけだから、何があっても不思議ではない。むしろ何もない方が不自然という
ものだろう。頭でそう分かっていても、実際にその印を見てしまうとこんなにも
ショックを受けるものなのか。それはいずれ訪れる姫子との別れをはっきりと突き
つける印のようで、以来私の心は一時たりとも安らぐことはなくなった。
夜、明かりを消してベッドに入っても、私には安息の時は訪れない。
いつか姫子は出ていってしまう。そして私の事などすぐに忘れてしまう。運命に
よって結ばれた二人の絆に比べて、私との絆のなんてか細いことか。深く愛し合っ
ている二人の前では、わたしの想いはただの横恋慕でしかない。二人が再会して以
来、私は二人の間にあるただの障害物だ。それもその気になればすぐにでも取り除
ける小さな小さな障害物。
自虐的になっていると分かっていても負の連鎖は止まらない。
もう姫子に笑顔を与えられるのは私じゃない。姫子の笑顔が私を暖める日は二度と
来ない。それならいっそ、宮様と再会できずに一生泣いて暮らす姫子とずっと二人
でいたかった。宮様など現れなければよかった・・・。
そこまで思い至って愕然とし、涙があふれてきた。
これまで姫子のためなら何でもしてきた。姫子の笑顔は私のものだった。その自分
が今、姫子が最も望んでいるものを否定している。姫子の笑顔を呪っている。この
手に出来ないものならいっそ無くなってしまえとまで思っている。
『私、一体どうすればいいの・・・。助けて、姫子・・・。』
明け方になっても眠れず、静かにベッドを抜け出した私は、明かりもつけずにリビ
ングのソファで顔を覆って泣いていると、気配を察して姫子が起きてきた。
「泣いてるの?マコちゃん。」
「んっ、ああ、ちょっと傷がね。」
「そんな泣くほど痛いの?ちょっと見せて。」
「もう平気。大丈夫だから。」
「でも一応湿布を貼り替えておこうね。」
救急箱を持ってきた姫子は私の足下に跪いて、右足首の湿布と包帯を取り替えてく
れた。そして右足を捧げ持つようにしたかと思うと、包帯の上からそっと口づけを
した。
「姫子・・・。」
「ウフフッ。早くよくなるようにっておまじない。」
以前と少しも変わらず優しい姫子。そんな姫子を、このままではいつか自分のエゴ
で傷つけてしまう。でもそれだけはしてはならない。そんなことで幸せだった姫子
との日々を終わらせることなんて、私には絶対に出来ない。しかしそれを避ける術
はもう、一つしか思いつかなかった。
その日の夕方、いつものように帰ってきた姫子に「ちょっと出かけてくるから。」
と曖昧な言葉を残して、宮様に会いに天火明村へ向かった。そして通された客間で
挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「何で姫子は毎日帰ってくるんですか。」
「落ち着いて、早乙女さん。おっしゃっている意味が分からないわ。」
「ですから、どうして姫子を連れて行かないんですか。」
「早乙女さん。」しばらく黙ったまま私を見つめていた宮様の瞳は、深い哀しみを
たたえているかのようだった。
「姫子とはいつでも会えるから。それにね、早乙女さん。お会いして分かったこと
があるの。あなたはかつての私と同じよ。同じだと分かるから、あなたから姫子を
奪うなんて私にはできないわ。」
そう言う宮様の瞳の奥に宿る憐憫は私に対してなのか、それとも往時の自分に対す
るものなのか。
「でも。」言いかけた私を制して宮様は続けた。
「それよりこの間お会いした時、あなたに言わなかったことがあるの。」
「?」
「姫子ね、あなたのことが本当に好きよ。」
「!」
「あなた達のお部屋を訪ねた前の日に私、姫子に言ったの。うちの邸に来てくれな
いかって。そうしたらあの子なんて言ったと思う?あなたを残して出て行くなんて
絶対に出来ないって。泣きながら、でもきっぱりと言ったわ。まるで私の方が振ら
れたみたい。」
小さく笑って宮様はそう言った。
記憶を消されてもなお探して、探して、探し続けてやっと巡り会えた二人は、本当
は片時も離れたくないはずなのに、それなのに二人とも私のことを気遣ってくれて
いる。それに引き替え私は、自分が作り出した悪夢に怯え、自分のことしか考えて
いなかったのだ。私は自分が恥ずかしかった。だから私は決心した。二人の気持ち
に報いるために、今こそ姫子の背中を押してやろうと。これまでずっとそうしてき
たように。
帰宅後、夕飯の後片づけが済んだところで、意を決して私は姫子に切り出した。
「姫子、ほんとは宮様のところに行きたいんだろ。もし私に遠慮してるのなら気に
すること無いんだよ。」
すると悲しげな目で姫子は言った。
「私、マコちゃんを置いてなんて行けないよ。」
「でもずっとずっと探し続けて、やっと見つけた大切な人なんだろ。宮様だって
ずっとずっと姫子を待ってたんだろ。」
「私ね、ほんとはマコちゃんの気持ちに気づいてた。マコちゃんの気持ちを受けと
めたいってずっと思ってた。でも一度受け入れてしまうとマコちゃんの優しさに埋
もれて、大切な誰かを捜すことをきっと諦めちゃうんじゃないかって、それが怖く
て、それだけはどうしてもできなくて。ごめんね。マコちゃんはずっと私を支えて
くれてたのに、その間私はマコちゃんのために何にもしてあげられなくて、ごめん
ね。」
私はこらえきれなくなり、涙が頬をつたい始めた。
「いいの、もういいの。私は今まで姫子からたくさんのものをもらったんだよ。だ
からもういいの。今本当に一緒にいたいのは私じゃないでしょ。」
姫子も大粒の涙をこぼしながら
「でもマコちゃんだって大事だよ。」
「馬鹿!本当に大切なものを手に入れるためなら、誰かを傷つけることを恐れて
ちゃだめだよ。・・・例えそれが私でも。」
「私と千歌音ちゃんが陽の巫女、月の巫女じゃなかったら私きっとマコちゃんを一
番好きになってたよ。」
「・・・姫子!」
「ほんとだよ、マコちゃん。ほんとだよ。」
それは嘘をつくことの出来ない姫子がついた優しい嘘だ。でもそんなことはもうど
うでも良かった。ただその心根が切なくて涙が止まらなかった。
泣いてしがみつく私を姫子も泣きながら優しく抱きしめてくれた。そしてその日姫
子は初めてのキスと、最初で、最後の夜をくれた。その時姫子の心は確かに私だけ
のものだった。
翌朝、部屋を出て行く姫子を見送る時に私はドアの前で努めて明るく言った。
「もうどんなことがあっても宮様の手を離すんじゃないよ。」
「うん。」
「何かつらいことがあって、でも宮様には言えないようなことがあったらいつでも
私のところにおいで。私はいつだって姫子の味方だから。」
「マコちゃん!」
「ほら泣かないの。最後は笑顔を見せて。」
姫子は涙を浮かべたまま無理に笑顔を作り、
「私たち、これからもずっとずっと友達だよ。」
そう言って私の手を強く握った。そして振り返りドアのノブに手をかけた。その瞬
間私の心は『行かないで、姫子!』と叫んでしまった。まるでその叫びが聞こえた
かのように、ドアを開ける姫子の動きが止まりこちらを振り返ろうとしたが、今度
は声に出して叫んでいた。
「振り向くな、姫子!そのまま行きなさい!」
姫子の出て行ったドアを見つめたまま私はずっとそこに立ちつくしていた。目の前
が滲んで見えなくなってもずっと。
夕焼け空の下、海岸通りの堤防の上で膝を抱えて座っていると背中から「早乙
女。」と呼び止める声が聞こえた。姫子が私の元を去ってから今日で丸一月、黄昏
時から夜更けまでここでこうしているのが、いつの間にか日課になっていた。
「なんだ、ジン様か。」
「なんだとはご挨拶だな。それとジン様はやめてくれよ。」
私の隣に座り、しばらく黙ってオレンジ色の空と海を見つめていた大神君はポツリ
と言った。
「来栖川、会えたんだな。たった一人の大切な人と。」
「うん。」
「早乙女も姫宮に会っていろいろ思い出したんだろ。」
「うん。」
「この間二人がうちに来てさ。兄さんは前から何か知っていたようだけど、俺も姫
宮と目が合った瞬間、何もかも思い出したよ。この俺がロボットに乗って戦って、
その挙げ句にヒーローになりそこなってたなんてな。思い出すんじゃなかった
よ。」
苦く笑って大神君は言った。そしてまたしばらくの沈黙の後、
「来栖川、姫宮のところに行ったんだってな。」
「うん。」
「会ってないんだろ。それから。」
「会えないよ。会ったら私・・・。」
「強いな、早乙女は。」
「・・・強くなんか・・、私、強くなんかない。姫子が出て行ってから今日まで、
その間あの子のことを思い出さない日なんて一日もなかったよ。宮様のところへ行
けなんて強がり言わなければよかった、ずっと私の元にいてって言えば良かったっ
て、そんなことばかり考えているんだよ。今までずっとがんばれ、私はいつでも応
援してるよなんて言っていたくせに。私は、私は弱虫で嘘つきの卑怯者な
の。・・・こんな私なんか、いらない。もう、消えていなくなってしまいたい。」
姫子と宮様のことを知る自分以外の人に初めて会い、それまで抑えていた心の叫び
が堰を切ったように涙と共にあふれ出してしまった。
「俺も同じさ。」黙って聞いていた大神君は言った。
「俺は来栖川に振られた後、何度もいろんな娘とつき合おうとしたけど気がつくと
いつも来栖川と比べていて、そんなの自然に相手にも分かってしまうからその度に
相手にいやな思いをさせてしまって、その繰り返しさ。俺、ずっと思ってたんだ。
たった一人待っている人なんてどこにもいやしない。現実に目の前で待っている俺
にどうして気づいてくれないんだって。一途な来栖川がそんな簡単に諦めるわけ無
いって分かっているのにな。・・・ほんと、いつまでも未練がましくて、どうしよ
うもない大馬鹿だよな。」
「大神君。・・・ありがとう。私が落ち込んでるって知ってわざわざ探して慰めて
くれたんでしょ。」
「俺も聞いてもらって少し楽になったから。こんなこと誰かに話したの初めてなん
だ。」
そう言って彼は笑った。
「そろそろ帰ろうか。部屋まで送るよ。」
大神君は立ち上がり私の手を取った。
私を部屋まで送り届け、「じゃあおやすみ。元気だせよ。」と明るく言って去って
行こうとする大神君の背中に、私は思わず言った。
「待って、行かないで。」
「早乙女・・・。」
「一人になりたくないの。お願い、私を一人にしないで。」
無理を言う私に大神君はただ微笑んで頷いた。
一月前に姫子が一夜をくれたベッドに今、私は大神君といる。
何でもいい、とにかく今は全てを忘れたかった。あの夜のことも、記憶の中の姫子
の笑顔も全部消してしまいたかった。それだけがこの行き場のない哀しみから逃れ
られる術だと思ったから。
だが薄闇の中、大神君はただ静かに私の隣で添い寝をするだけだった。
「大神君・・・。」
「ん?」
「いいよ・・・、しても。」
少しの沈黙の後、大神君は私の髪に優しく触れると静かに言った。
「どうしようもないくらい辛い時はさ、ほかの痛みで忘れるんじゃなくて、我慢し
ないで素直に泣いた方がいいんじゃないか。」
そして続けて
「俺で良かったら、ずっとそばにいるから。」
その言葉は凍りついていた私の心をまるで魔法のように溶かし、溶けだした氷は涙
となって溢れてきて、ついには大神君の胸で大声を上げて泣いていた。
「私、好きだったの。姫子のこと、ずっとずっと好きだったの!」
「ジン様、優しいね。これじゃモテるわけだ。」ひとしきり泣いて落ち着いた私
は、泣いたまま笑って大神君を見ると、彼も静かに微笑んで私を見ていた。その時
私は彼の目の端にわずかに浮かぶ光るものに気がついた。そう、彼も傷つき、でも
我慢していたのだ。私と同じかあるいはそれ以上に。私のように泣くこともでき
ず、声も出さずに痛みをこらえて。
「大神君。」
鏡に映った自分のような大神君が、私はどうしようもないくらい悲しかった。そし
て気がつくと彼の片腕をぎゅっと抱きしめていた。
『私がついててあげるよ。だから泣いたっていいんだよ。』心の中でそう繰り返しな
がら。
その夜、私たちは寄り添い互いの温もりを感じながら眠りに落ちていった。まるで
恋人同士のように。互いの心を慈しむように。
次の朝、姫子が去ってからずっと絶えていた朝食を大神君と共にした後、彼を見送
る時にドアの前で「あの・・・!」と二人の声が重なった。
「な、なに?」
「早乙女こそ。」
「あの、あのね、もし迷惑でなかったら、また会ってもらえないかなって、そ
の・・・、」
「・・・俺も同じことを言おうとしたんだ。先に言われちゃったな。」
少し照れたように笑い、大神君はそう言った。
「会いたくなったら遠慮無く言えよ。俺もそうするからさ。」
「うん。私もジン様から連絡もらえるのを待ってるよ。」
そうして私たちは握手して笑いあって別れた。
人を思いやるということがこんなにも素敵なことだと、知らぬ間に無くしてしまっ
たこの心地を、彼から教えられるとは思ってもみなかった。
大神君が出て行ったドアを、一月前に姫子を見送った時と同じように見つめていた
私の視界は、今日は滲まなかった。
本当に手にしたかったただ一つのものを失った、この痛みは多分一生消えることは
ないだろう。
でも大神君とならきっとお互いの心を温め合っていける。私にはそう思えた。
大神君とは恋人同士というわけではない。
今は同じ痛みを共有する同志というだけの関係に過ぎない。
ただ昨日の夜、大神君が私の心を包んでくれたように、私も大神君の心を包んであ
げたい。
そしていつかこの痛みを胸の奥にそっとしまっておけるようになった頃、二人で姫
子と宮様に会いに行こう。
行って、もう私たちのことは心配いらない、私たちはもう大丈夫だって笑って言お
う。
いつかきっとそんな日が来る。私は今それを強く信じられた。
END