(なんて無様なカッコで走っているんだろう!この自称一流アイドルのコロナ様が!)
今日は、ほんとはアタシの華麗なステージになるはずだった。
やっぱ、しけたド田舎のガッコの学園祭なんて舞台に選ぶんじゃなかった。
力の限りアタシは迫り来る、ソイツから逃げた。
ソイツは余裕綽々の笑みで、息一つ乱さずに猛然と追いかけてくる。
喉も鍛えて肺活量もあるアタシが、こんなぜーぜー、いってんのに。
ココ最近はライブもなく体力も衰えていたし、それに元から基礎的な運動能力の差
ってヤツなのか?
(ちくしょー、七の首とのバトルで体力消耗したのが、まずかった)
絶体絶命の大ピンチ。
愛機ファイナルステージさえあれば、追っ手は簡単に捻り潰せる。
けれど、ここは狭い学園でロボバトルには地理的に不利。ターゲット一人のために
無駄な破壊工作は行わないってのが、悪の組織のお約束。それに今日はもともと肉
弾戦という条件付で出撃許可が下りたんだから、勝手に予定変更したら二の首ミヤ
コの大目玉くらっちゃう。そんなこんなで尻尾巻いて逃げまくってりゃ、そのうち
諦めるだろうってタカを括っていた。
かなり学内の外れまで駆けて来ると、舗装された通路からうっそうと雑草の茂る
一本の脇道が見えた。振り返ると、敵の姿はもう消えていた。どうやら、やっと
引き離したらしい。アタシは少し歩を緩め、肩で呼吸を整えながら、蛇のように
うねったその道を辿る。視界に飛び込んできた古寂びた教会へ、誘われるように
逃げ込んだ。
ここは確かシスターの管轄領域。扉に鍵が掛かっていなかったのなら、シスター
がいるはず。もう安全だと胸を撫で下ろす。
不気味にステンドグラスから洩れる光を頼りに、薄闇の中をそろそろと歩む。こ
んなとき、あのバカ猫ナースみたいな眼がありゃ便利なのに、なんて考えるほど
心に余裕もできた。
壁伝いに進んでゆくうちに暗がりに目が慣れてきたのか、この空間の一角に壮麗
なつくりのパイプオルガンが見えた。
そして、それに腰掛けている長髪の女の後姿も。
アタシはもはや安心しきって、ゆっくりとその人影に近づく。
「二の首いたの?巫女抹殺の任務はさ、あと一歩のとこで果たせなかったけど…
次にこの落とし前きっちりつけるつもり。派手にロボで暴れてないから、アンタ
のこの教会も巻き添え食らってないし……」
正面切って弁解すんの恐かったから、アタシは二の首が振り向く前に、オーバーな
身振りで悔しがってみせ、ごたくを並べはじめた。
無言のまま二の首は、おもむろにパイプオルガンを奏ではじめた。空気を震わすよう
に重厚な楽の音が闇へ広がってゆく。畳み掛けるようなパイプの音色に口を閉ざされ、
耳を傾けていると、どんどん不安が渦巻いてきた。
「…ねえ、ちょっと怒ってんの?二の首。返事くらいしたらどうよ」
アタシは無視されるのが大嫌い。おまけに宗教音楽なんてアタシの耳にそぐわない
モン聴かされて、少し苛立っていた。
一楽章ほど演奏を終えて、再び堂内にしばし静寂が戻る。ほどなくして凛とした女
の声がその小休止を破った。
「このパイプオルガンは調律が全くなってないわね。鍵盤が重くて弾きにくい…」
「アンタ、一体、誰よッ?!」
予期しない回答、そして余りにも低い声に、背筋が凍りつきこめかみに汗が流れた。
「ごきげんよう。お待ちしていたわ、売れない歌姫さん」
暗闇から浮き上がるように現われた人影は、アタシのよく知っている褐色の肌の修道
女じゃなかった。その正体は、雪女みたいにぞっとするほど白い肌で、ミヤコよりも
はるかに潤いのある豊かな漆黒の髪をもつ少女。誰もが認める学園のアイドル、姫宮
千歌音――ソイツはアタシが今、一番会いたくない人物だった。アタシよりいい意味
で目立つこの女、最初に見かけたときから気にくわず、アタシは密かに闘争心を掻き
立てていた。
「主題や旋律が次々と各声部に現われ、追いかけるように進行するバッハの小フーガ
(遁走曲)、私たちの逃走劇に幕を下ろすにはぴったりの名曲ね…お気に召したかしら?」
月の巫女は学園服のスカートの襞を乱さないように、お上品ぶって椅子から立ち上がった。
「――なッ?!月の巫女!どうして、ここに…?!」
「今日は学園祭でたいていの建物は開放されている。貴女の逃げた方向で普段から
人気がなく、何もイベントが催されていないのはこの教会しかない。だから、裏手
の出口から侵入して先回りしていたのよ。オロチの不穏な気配も残っていたし、巫
女としての直感がここへ導いたのかもね」
取り澄ました微笑みが浮かべ、月の巫女は澱みなく言葉を連ねた。
見事な推理力と嗅覚だわって、感心してる場合じゃない。ハードな追いかけっこで
身も心もクタクタだったのに、またここでガチンコするわけ?もしかしたらケリを
着けるため、わざとここへ追い込んだのか。だったらヤツの手出しできない人ごみ
に紛れ込んで学外に逃げた方が良かった。
アタシは舌打ちした。
「アンタ、相当しつっこいわね。アタシ、アンタに用なんてないわよ?」
「オロチ四の首、貴女は私の一番大事なものに傷をつけた…許さない!」
月の巫女は穏やかな口調から一転、ふつふつと怒りを露わにした。
鋭く射抜くような眼差しは、アタシに焦点を合わせている。
突然のことでアタシは身が竦んで、足が石になったように動かない。
月の巫女の深海の底に眠る黒真珠みたいな瞳から、白銀の光が放たれた。その煌き
に一瞬目が眩んで瞼を閉じてしまう。
ヒュン!と空を切る音がして、アタシの頬を何かが掠めた。
月の巫女の目線と平行にして飛んできた矢は、闇の中へすぐさま吸い込まれていった。
数秒遅れてはるか背後の壁に、物が深く突き刺さる音がした。恐ろしい飛距離と風圧
だけで肌を切る威力に、アタシは直立不動のまま戦慄していた。
やっとのことで一筋の赤い線が走った頬に手を当て、痛みの元を指先のぬめりで再確
認して顔をしかめる。
(くそ―ッ、アイドルは顔が命なのに、アタシの珠のお肌に瑕をいれやがって!)
一本目は脅し。二本目から確実に命を狙われる。
アタシはごくりと唾を飲み込んだ。
弦をかき鳴らすような鮮やかな手つきで、次々に矢を番えては打ってくる月の巫女。
アタシは反撃の隙も与えられず、狩りの獲物にされた野兎みたいに逃げ回るしかない。
反対側の壁際まで追い詰めた月の巫女は、悠然と弓を構えアタシの喉元に矢尻を突き
つけた。万事休す。
床にへたり込んだアタシは、右掌を軽く振って矢尻を制して降参の素振り。
「ちょ、ちょーっと、タンマ。今日はアンタと七の首の主演する芝居だったんでしょ?
せっかくの晴れ舞台、ぶち壊しちゃって悪かったと思ってるわ。でも、言い出しっぺ
はアタシじゃなくて三の首なのよ」
バカ筋肉のヤツは図体でかい癖して、やたら逃げ足だけは感心するほど速い。まあ、
あのこわーいシスターのお仕置きに小さい頃から逃げ回ってたら、当然なんだけど。
最初に学内荒らし回ってたのはアイツなのに、結局最後まで孤軍奮闘したの、アタシ
じゃないの。ま、独壇場だったから嬉しいんだけど、調子こいてたらアタシひとり逃
げ遅れた。
「そりゃ、おふざけが過ぎたと思うけど…アンタの王子様役をたらし込んだりしたし。
でもアレ、本気じゃないのよ?坊やだから、ちょっとからかってみただけなんだから。
それもアタシ乗り気じゃないのに、二の首に無理矢理指図されて…」
両掌を頭上で合わせてひたすらペコペコ。ついでに瞳うるうるの演出もサービス。
悲しいかな、「長い物に巻かれろ」な芸能界の処世術がしっかり身についてる。
我ながら名演技だと内心自分を誉めてやりたい、そんなアタシの必死の哀願に、
さすがの月の巫女も心打たれたのか、弓を取り下げた。不敵な笑みは浮かべたまま、
でも心なしか表情が少しだけ緩んでいる。
泣き落とし作戦成功。嘘の泣きべそかきながら、アタシは心の中で舌を出した。
「油断したな!」
アタシは脚を振り上げて、月の巫女の腕から弓を蹴飛ばした。月の巫女が手首を押さ
えて怯んだ隙に、落下した弓へ跳びついて思いっきり踏んづける。弓はあっけなく二
つに折れた。
「ざまぁみろ、飛び道具さえ封じりゃ、こっちのもの……」
勝利の笑顔で振り向こうとしたアタシは再び凍りつく。首筋に当たる刃物の冷たくて
鋭利な感触。アタシの頚動脈へぴたりと懐刀を突きつけながら月の巫女は、相変わらず
余所行きなスマイルを絶やさない。
「貴女、大根役者ね。声だけで演技してるわ、少しも心が篭もっていない…」
「な、なぁんですってぇ~ッ!!アンタこそ、トーシローでしょ?たかが高校の演劇
程度でちやほやされて、思い上がってんじゃないわよ!」
猿芝居が見抜かれて悔しかったので、吠え面かいてみせる。
「別に私は今回のお芝居に入れ込んでいたわけではないのよ。不本意な出演だったの
だし、むしろ貴女たちが邪魔してくれたことに、せいせいしている…。本番よりも台本
の読み合わせの方が大切だったのだから」
「な?どういうことよ、ソレ?」
だったらアタシやられ損じゃない。それに、多くの照明と注目浴びるヒロイン役なんて
誰でもできるわけじゃないのに。こぎれいな顔立ちしてんのに練習程度で満足だなんて、
おかしなヤツ。
「四の首。貴女の本当の罪を教えてあげましょうか?」
口の端を吊り上げて悪魔のような笑顔を零した月の巫女は、アタシの口元を片手で
掴む。顎を上向きにさせられ、言葉が言いづらい。骨が砕けそうなくらいの余りの
力強さに唇の形が歪んだ。
アタシはとっさにショートパンツの後ろポケットを探った。
あった、口紅ミサイルの最後の一本。それを掌で覆い隠すように取り出し、この女
の背中から狙い撃ちしようとした――が、それも手刀であっけなく落とされる。
ついでに数回頬を平手打ち。天井が高く、広い物静かな聖堂内の空気を震わすほどに、
アタシの肌を打つ音は冷たく響いた。
月の巫女は床に転がった口紅を拾い上げ、疎ましそうに眺める。
「こんな品の悪い色の口紅では、キスの味なんて分からないでしょう?それに騙され
る男は愚かだわ」
「ふん、七の首は失敗したけど、アタシの色仕掛けで落ちないオトコはいないわ。
アタシの熱いキスでもっと迫れば……」
「本当に愛しい人との口づけは、甘い蜜の味がするの」
月の巫女は頬をいくばくか紅潮させ、何かを思い出すように目を伏せた。
こんな時に自分の言葉に酔いしれて、センチメンタルに浸らないでよ。
アタシは口で言い負かす戦術に出てみた。
「アタシが恋も知らないお子ちゃまだって、馬鹿にしてんの?もう立派に大人の
オンナ。何人ものオトコと寝たことあんだから…」
見得を切るためとはいえ、自分で古傷に塩を塗ってしまう発言をしてしまい、胸が
えぐられたように痛む。舌戦ってのも案外難しい。言葉はカミソリで、一歩間違う
と自傷になる。
「身をひさいで…生活しているなんて……」
「アンタみたいなお嬢様に、アタシの苦労の何万分の一でも分かるかっつーの!売
れる為にはどんな手段も選ばないのがプロってものよ。夢が果たせるなら、悪魔に
魂売り渡したって構わない!」
「その根性と覚悟だけは認めるわ。……それで、オロチの手先となった貴女は、果
たして成功を手に入れたのかしらね?こんなところで油売っている場合?」
「ぐっ!」
憐憫と軽蔑とをないまぜにした面持ちで、アタシを見つめてくる月の巫女。
これだから、口の達者なヤツは嫌だ。口喧嘩では一生勝てっこない二の首も苦手だけ
ど、コイツは汚れていない分もっと嫌。
仕返ししてやりたいけど、何をしても相手が一枚上。
圧倒的に形勢不利な状況に、アタシは睨み返すぐらいしかできない。
月の巫女は同じ目線に屈みこんで、アタシの敵意の視線を真正面から受け止めた。
「そんなに膨れっ面をしていては、アイドルとして形無しではなくて?」
いきなり月の巫女がアタシの口へ唇を寄せようとしたので、慌てて顔を背ける。
「やだぁ!女同士でなんて……助けて、レーコ…」
なぜかこんな時に、いつも憎まれ口の漫画家先生の顔が思い浮かぶ。
アタシの声を耳にして、月の巫女は驚いたように目を見開き、ふふっ、と小気味
よく笑う。からかわれたのだと気づいて、アタシは頭に血が上り、頬は赤く染まる。
「…欲しいものは未だ手にしていない。貴女も私も似た者同士だったということね。
安心して。命までは奪わないわ……」
アタシを突き飛ばして月の巫女は、懐剣を振りかざした。
一閃のもとに、これまでの格闘でボロボロに擦り切れていたアタシの衣装は、細かい
布切れとなって紙吹雪のように散る。
「いっそのこと、大神ソウマを誘惑してくれれば良かったのに…オロチはオロチ同士
仲良く手を携えていればいいのに…」
さも口惜しそうな顔で、恨めしげな声でアタシを見下ろして呟く。
アタシは慌てて裸になった胸を両腕で隠した。いつも露出度高いけど、アタシだって
人並みに羞恥心は持ち合わせている。恥ずかしさで気は動転し、相手の真意が測りか
ねて混乱した。
「な、なに言ってんの?!アイツはアンタと陽の巫女を救っている恩人でしょ?なん
で七の首のこと嫌ってんのよ?恨みでもあんの?」
「オロチの貴女にその理由を教える必要はない……ただ、私の大事な姫子を苦しめた
こと、泣かせたことの償いはして貰うわ」
(そうか、コイツの弱点、陽の巫女なんだ。だったらドールでもう一度陽の巫女の
分身作って油断させれば、こっちのもの…―。)
アタシは片腕で胸を覆ったまま後ろに飛び退いて、月の巫女との間に十分な距離を
つくった。
アタシの策を先回りして読んだ月の巫女は、鼻であしらう様に笑って釘を刺した。
「貴女の手は全てお見通しなのよ?さっき、無数のあの子の贋物を見破ったのは誰か
忘れたのかしら?お芝居の下手な人は、人真似も下手なのね」
「な、ナニよ。あんな犬っころみたいな平凡な小娘、アタシのお得意分野じゃないん
だから、出来が悪いの当たり前……ぎゃっ!」
アタシの文句が終わらないうちに、間合いを詰められ、左頬に張り手が炸裂する。
喉元に両掌を当ててギリギリと締め上げられた。とても普通の少女の、いや人間の力
とは思えない。
鬼気迫る表情で月の巫女は、腹の底から力を込めた声で言い放つ。
「たとえ姿形はそっくりでも、貴女なんかに真似できるわけない…!!…姫子の良さが!
私の好きなところが!あの優しい光が……!」
七の首はアタシの術に戸惑っていたけど、月の巫女にとって陽の巫女のドールは踏み絵に
ならないらしい。それに今じゃ本体いないしコピーで騙せるヤツじゃないってとこまで、
考えが及ばなかった。とはいえ、月の巫女が抱く特別な感情についてのアタシのアテは
外れたわけじゃない。お惚気話はたくさん!って言い返してやりたいけど、首が圧迫され
て言葉が出ない。呼吸も苦しくなる。
(このまま喉を潰されたら、歌手人生おしまいだ。そうなったら、もう生きている意味
なんてない――)
アタシは必死にもがいた。やっとのことで月の巫女が頸を絞める手を外すと、アタシは
うずくまって喉を押さえ、ゴホゴホッ、とみっともないカッコでむせた。
週末には新曲のレコーディング予定だったのに、おじゃんだ。
首には赤い痣が浮いていた。
「本気で人を好きになったら判るでしょう?何処が好きなのか?」
アタシの左胸に手を当てて、リンゴを片手で握り潰すみたいに乳房を鷲掴む。
その意外な温かさと鼓動とに、月の巫女はおや?という顔をした。
「オロチはもはや心のない人外の者だと思っていたのに…ちゃんと血は通って
いるのね」
「アタシだって元は人間だったんだから。ガラクタ人形じゃないわよっ」
「そう…なら、それなりに痛みも感じるわね。愉しませてくれそうだわ」
冷酷な笑みで口元を結ぶ月の巫女。アタシを床に押し倒して、体重を乗せて動き
を封じた。アタシの首筋に舌を這わせて鎖骨まで下ろすと、肩に大きく噛みつく。
万策尽きたアタシは、もはや抵抗を忘れて身を任せるしかなかった。逆らったら
殺しはしないが喉を潰す、という暗黙の脅しがアタシを縛っていて逃げられない。
身体をいたぶられているうちに、アタシのおぞましい記憶が甦る。
こんなふうに、自分の歌手生命を守るために愛もなく男と一夜を過ごした昔。結局、
一時的にはヒットしたけどあれからさっぱり。あのあとプロデュサーにも捨てられて
……アタシの心は荒み、闇に堕ちオロチの一員となって、世界への復讐を誓ったのだ
った。
月の巫女の手は下半身へ伸び、アタシを最後に覆っていた一枚の上へ辿り着く。
閉じようとしたアタシの片足を膝で踏みつけて、強引に股を開かせた。布越しに
刳り型へ指を添え、焦らす様に強弱つけてなぞり出す。
アタシは思わず呻き声に近い音を洩らした。
「フフフ…貴女、いい声出すのね…もっと啼いて貰おうかしら」
嗜虐することに快楽を覚えた月の巫女は、アタシを攻撃する手を休めなかった。
絶対にコイツの愛撫で気持ちよくなってやるもんか、歓喜の声なんて叫んでやる
もんか!って、必死に歯を食い縛って耐えていたのに。
男の乱暴な手つきとは違って月の巫女のそれは、うっとりするほど優しくて。
アタシの身体は意に反して、腰を弓なりに反らしたり、艶っぽく喘いでみたり、
まんざらでもないという反応を伝えてしまう。甘い疼きが脳を刺激して、アタシ
の興奮は高まる。じわりと淫らな液体が窪みから滲み出て、それがさらに相手の
愉悦を引き出している。
月の巫女は例の口紅を再び手にして蓋を開け、アタシの顔に近づけた。
企んだような眼つきで、リップをくるくる回して出し入れしている。
「ねえ、やはり、この色は貴女の唇にはふさわしくないわ……もっと、いい場所
につけてあげる」
月の巫女はアタシのパンティーを剥ぎ取って、あろうことかオンナの部分にリップ
を押しつける。もちろん粘液でべとべとになっていて、うまく塗れるわけない。
蝋を引いた紙の上に水彩絵の具の色を置いてるようなもんだ。
外陰部をそうやって何も描かずに動いていたリップは、アタシの奥へと侵入してくる。
月の巫女は襞の抗力をものともせず、一気にそれを中へ突っ込んできた。
「いやぁ!…ああッ!……痛ッ!」
アタシの下腹部に凄まじい痛みが走る。悲鳴に近い叫び声が響く。
もはや我慢する余裕なんかなかった。
大粒の涙が堰を切ったように、瞳から溢れ出る。
月の巫女は容赦しない。口紅を持つ手首をくるくる旋回させたり、あちこち角度を
変えて、刺激を与え続ける。
アタシはさんざん泣き喚いた。
リップは最大限の長さまで伸びて、アタシの一番奥の壁にぶち当たった。執拗に内部
を責め苛んだ末に、口紅の武器を月の巫女は乱暴なやり方で取り出そうとする。
アタシの肉壁はその異物を捕らえて離そうとしなかったので、リップは中で途中から
折れてしまった。
中に残ったリップが意思を持ったように蠢いて、まだアタシを犯し続けている。体内
に埋め込まれた弾丸みたいに、アタシを鋭く貫いて全身を痺れさせる。アタシは身悶
えしながら床の上をのた打ち回る。
月の巫女はルージュの大きく欠けた口紅を満足気に眺めて、放り投げた。
妖しい微笑みは決して崩さない。小意気に折り曲げた指に顎を乗せて、アタシの演じる
痴態を、愉快そうに見下ろしている。
「フフフッ…滑稽な姿ね。いい見せ物だわ」
侮蔑の眼差しと甲高いせせら笑いは剣先となって、アタシの心をズタズタに切り裂いた。
壷口から滲み出る蜜とともに異物は流れ出てきそうで、出てこない。そのもどかしさ
がアタシの不快を強くする。
アタシは余りにも気持ち悪くて、自分で指を突っ込んで取り出したい衝動に駆られる。
が、これでは敵前で自慰をお披露目してるようなものだと、思い留める。
それを見咎めた月の巫女は、下腹へ伸ばしかけたアタシの手を導いて、揃えた二本の
指先を捩じ込んだ。飢えた鯉の口みたいに、アタシの下の口は指に吸いついて奥へ飲
み込んでゆく。
「ほら遠慮しなくていいわ。さあ、もっと踊り狂ってごらんなさい」
月の巫女はアタシの掌に膝頭を当てて、時には揉むように、時には蹴り込むように
何度も押した。
一押しごとに中を穿たれ、アタシの身体は激しく狂おしく揺れた。リップの欠片と
自分の指との二重の蹂躙は、苦痛を恍惚へと変えて、アタシを快楽の極みへと押し
上げた。
指の栓が抜かれた時、アタシの中で醗酵したいやらしい液体が床を濡らした。
自分の手を殆ど汚さずにアタシを陵辱し、視姦し尽くした月の巫女は、アタシを
お仕置きから解放すると勝ち誇った笑みを浮かべる。
「今日は楽しませて貰ったわ。これに懲りて、陽の巫女に手出しはしないことね」
意識が朦朧とする中で、月の巫女がアタシから遠ざかる靴音が、耳にはしっかり届いた。
アタシは悄然と床に這いつくばって、それでも負け惜しみだけは忘れない。
「……くっ…今度は月の巫女、アンタを泣かしてやる……憶えてろ」
聞こえないように声を潜めたつもりだったが、地獄耳の月の巫女は歩みを止めた。
背を向けたまま顔の4分の1程度分こちらに見せて、涼しげにアタシの毒吐きを受
け流す。
「ぜひ、そうしてちょうだい。それと…名女優は迂闊に涙を流さないものよ。感情
を抑えるのに慣れてしまうと、本当の涙さえ見せ辛くなってしまう、大好きな人の
前ではね」
どこまでも冷静な口調が小憎たらしい。
けれど、この月の巫女の陰りある笑みや冷酷さに、アタシは不思議と親しみを覚えた。
聖壇の前で立ち止まった月の巫女は、制服のスカートのポケットから髪留めを取り出し
て掌の上で転がし、思いつめた顔をして握り締めた。
「これは罪の証……私が姫子に初めてついた嘘……姫子、ごめんなさい…」
その拳に空いた方の手を重ねて、許しを請うように両膝を突き、深く頭を垂れた。
ステンドグラスからは月光が降り注ぎ、懺悔する少女を明るく温かく包む。
「私の本当は誰にも教えない。私はあの子の為に笑顔の仮面を被り続ける。この先、
どんなに闇を背負っても……あの子を抱く手を血に染めても……」
月の巫女はキリストの磔刑像を眺めて、真顔で自分に言い聞かせるように独り言を洩
らした。
それから最後にマリア像みたいな優しい顔つきを残して、踵を返す。
仰向けに寝転んだままのアタシは、瞬きひとつせずに、その後ろ姿を見送った。
窓枠が描く十字型の影が貼りついたその背中には、明らかに今宵の満月よりも大
きく欠けた光るものが昇っていた…――。
月の巫女が静かに扉を閉めると、アタシはどんな光も射さない暗黒の淵沼のような
空間に呑み込まれた。
敗北感と極度の疲労とで打ちのめされたアタシは、堂内にじっと横たわっていた。
頭の中にいろんな考えが駆け巡る。
(月の巫女は最初からここに来る予定だった?
そういえばアタシ、なんで学内でぐずぐずしてたんだろ。
ロボで学園破壊しなかったのも、アイツがどっかに居たから?別に落ち合う約束
なんてしてなかったけどさ……)
こんなカッコじゃうっかり外に出歩けない。何て惨めなアタシ。
わずかでも明るい所を求めて、聖壇の前まで這っていったのに、窓から望む月は
すでに黒雲に隠されていた。
一筋の光さえ、アタシを照らさない。闇に堕ちても救いの光は与えられない。
一点の黒点でも宇宙全体の暗黒で被い、開いた傷口には別の血で洗い流す、それが
オロチの悲しい性。
寝そべったまま見上げた天井は異様に高く感じられる。
世界はアタシを拒んでいる。
空を掴むように手を差し伸ばしながら、アタシにはいくらあがいても、届かない物が
いくつもあるのだと思い知らされた。
不意に悔しさなのか、寂しさなのか分からない感情が湧いてきて。
それは怒涛のように胸をつき上げ、瞳から赤黒く滲んで、零れ落ちた。
涙が床に水溜りつくるほど、アタシは背を丸めてひたすら嗚咽を洩らし続けた。
涙目を覆っていた腕を下ろすと、アタシの上に何かが影を落としていた。
目が乾くにつれて、その輪郭がくっきりしてくる。
「――…随分…こっぴどくやられたのね……」
聞き覚えのある掠れがちな女の声。
丸縁眼鏡で伸びきった流行遅れなセーターを着込んだ少女が、秋物のコートを腕に
かけ、物憂げに佇んでいる。レンズが曇っているので、余計に無表情な印象を与える。
「…加勢にくるの遅い……」
アタシは真っ赤になって顔を背けた。泣きっ面とあられもない姿が恥ずかしくって、
まともに目なんて合わせられない。八つ当たりだと分かっていても、嫌味をいう自分が
我ながら情けないったらありゃしない。
「サイン会……思ったほど人がいて……それに編集から電話……」
アタシの恨みがましい小言も軽くかわして、レーコは淡々と単語を並べる。
こーゆう、漫画の吹き出しみたいな短く区切ったような説明不足の喋り方、何とかなら
ないかねって、いつも思う。まともに一般人と会話成立しないし、ヲタクが喜びそうな
お約束のセリフと妄想でしか、コミュニケーションとれない人種。絶対、アタシはそっ
ちの世界には縁遠いって思っていた。
けれど、今はただレーコの寡黙さがありがたかった。
いつも毒舌家なのに、こんなレーコは珍しい。
ほんのり嬉しいイレギュラーだ。
レーコは屈み込んで、アタシの臍から下にかけて手を当ててさすった。
「ちょっ…と、ナニすんの?!」
アタシはぴくりと震えて、とっさに身構えてしまう。
辱めれた身体はちょっとした刺激にも敏感になっていた。
「……無理に取ろうとすると、傷つけるから……私のマンションのお風呂で……
湯水の中なら出すの…痛くない……」
一糸纏わぬ姿に近いアタシを安心させるように肩を抱き、背中からコートを掛けて
くれた。丁寧にボタンを掛けて、秋の冷気を締め出すように上から抱き締める。
レーコの腕の輪と体の内側から込み上げてくる喜びとで、アタシの胸は締めつけら
れる。冷たくてドス黒いものに染まっていたアタシに、温かい血が流れた気がした。
アタシはレーコの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。
最初は悲しくて、けれどそれを上回るほど嬉しくて。久しぶりに瞼を熱くして心から
流したアタシのきれいな涙だった。
「……今度戦うとき…二人で……原稿依頼断るから……」
目頭を拭いながら、アタシはうんうんと頷くしかない。
はっきりと口にしないけれど、一人で戦わせて悪かった、駆けつけられずにごめん
って意味なんだろう。
アタシはこういうレーコの曖昧な言葉を補うのが、実は好きだ。簡潔なセリフの中
に読み込まれた心をいい当てっこするのが、わくわくする。それで、さんざん喧嘩
もしてきたけど。
子供を宥めるように、レーコはアタシの頭を撫でてくれた。
右側のツインテールはゴムが緩んで、解けかかっている。毛先は涙で濡れて
埃を吸っていた。いつもは神経質なくらい鏡の前で結わえ直すのに、今は気
にならない。
レーコは優しくアタシの髪に触れ、重く垂れた右の髪束に指を通し、指で摘ん
でテールを作った。後ろで一本に括るしか能がないレーコがやってくれても、
きっと左右アンバランス。でも怒る気になれない。
アタシはコートの襟を立てて首を隠そうとした。レーコはアタシの手を優しく
払って襟元を広げ、赤く腫れた喉を軽く撫でて、子猫の舌みたいに舐めてくれた。
ちらりと覗いた首の付け根の歯型の痕にも優しく口づける。
「ここ、…ホワイトかけて消す…?」
「その冗談、あんまり笑えない」
わざと拗ねてみせたのは、内心照れ臭かったから。
アタシはもう確信している。
今晩はレーコがペンだこだらけの指で、気だるそうだけど熱い吐息で、柔らかい唇
で、アタシの瑕を癒してくれるんだと。
レーコは眼鏡の鼻止め部分を指先で押し上げた。
度数のきつい厚めのレンズに隠されていた大きな瞳が、アタシを捉えていた。
それが分かるほど顔が近づいて、アタシたちは唇を重ねていた。
(口紅ひいてなくて良かった――。)
ほろ苦い涙で濡れていた素肌の唇には、レーコの口づけはなおさら甘く蕩ける
ように感じられた。
【完】