朝鮮戦争下の韓国軍の慰安所は固定式慰安所と移動式慰安所の2つの形態がありました。


固定式慰安所については、naver007氏の名作スレッドで後方戦史の翻訳がされており、の概要がつかめたかと思います。
日本側:http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=91768
韓国側:http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=91768



それでは、移動式慰安所の実態はどのようなものであったのか、この点について調査してみました。

移動式慰安所は部隊内に付属し部隊の移動とともに同行する慰安隊と専用の慰安隊を持たない部隊に派遣される慰安婦との2種類があり、その慰安婦たちは、将校用と一般兵士用とに別れていたと推定されています(朝鮮戦争と女性 金貴玉)

では、その移動式慰安所の実態とは如何なるものであったのか、軍出身者の回顧録から拾い集めてみましょう。


蔡命新の回顧録『死線幾たび』より(1994年毎日経済新聞社)
当時我が陸軍には士気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安部隊を3,4個運用していた。そのため予備部隊として(前線から)抜けることになれば師団の要請によって全ての部隊が慰安部隊を利用することができた。であるから、第5連隊も例外ではなく、予備隊として抜ける前から将兵たちの話題は全て慰安部隊の件であった。


車圭憲の回顧録『戦闘』より(1985年兵学社)
(1952年)3月中旬の気候は春を妬むかのように寒かった。……敗残兵を完全に掃蕩した後、予備隊となって部隊整備を実施している時、師団恤兵部から将兵を慰問すべく女子慰安隊が部隊宿営地付近に到着したという通報があった。中隊人事係の報告によれば彼女らは24人用野戦テントにベニヤ板と雨合羽で仕切りをした野戦ベッドに収容されているといい、他の中隊の兵士達は列をなしてまで多く利用したという事だった。しかし我が中隊兵士達の間では戦場で女と親しくすると縁起が悪いという噂が広がって大部分の兵士は積極的でなく慰安目的の達成にさして貢献したようではなかった。


金喜午の回顧録『人間の香り一自由民主/対共闘争と共に歩んだ人生歴程』より(2000年元珉)
(江原道)首都高地戦闘も忘れられ、逃亡兵の発生も一段落していった。
これからFTXに本格突入するための小火器および装備の点検、補給品整備などの真っ最中のある日の朝のことだった。
連隊一課から中隊別の第5種補給品(軍の補給品は1~4種しかなかった)受領指示があり、行ってみたところ我が中隊にも昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれてきた。
これは過去、日本軍従軍経験のある一部連隊幹部らの部下の士気高揚のための発想で、わざわざ巨額の厚生費を投じてソウルから調達してきたのである。
しかし私は白昼に多くの人が行ったり来たりする中、列を作って分隊のテントを利用する事だとか、また道徳的にであるとか、良心の上で疑わしくもあって今一つ惹かれなかった。
まず小隊に2人が割り当てられ、そのうち1人が最初に小隊長のテントにあてがわれてきた。私は出身環境など二言三言言葉を交わし、とりたてて助けてやる方法がなく、この間集めておいた乾パンー包みを先任下士官に渡しておいた。



余談ですが、ここで面白いのは、前2作では慰安部隊が当然のこととして書かれているのに対し、2000年に発表された金喜午の回顧録では、全く無関係である日本軍の名前を出し、さりげなく日本の責任のような書き方がされている点である。
2000年には、後方戦史が発表されており韓国軍の慰安婦が公然としていたのであるから、これの言い訳といったところであろうか。しかし、後方戦史で明らかとなったのは、固定式慰安所だけであり 氏の告白している移動式慰安婦は明白ではなかったことが皮肉である。
また、金喜午は「道徳的にであるとか、良心の上で疑わしくもあって今一つ惹かれなかった」と自己保身をしており、しかも最終的には利用したのか利用しなかったのかも不明という韓国人らしい困惑が見て取れるところが笑えるのである。



さて、上記予備役将軍たちの証言によれば軍部隊にいわゆる「第5種補給品」という名目で慰安婦があてがわれて来、移動式テントが慰安所として仮設(車圭憲回顧録)されるか分隊の幕舎を代用した。利用する時間は、最前線での交戦と対時の後、後方での休息の際に軍慰安隊をあてがうケースがある事から見て、一定の利用時間を決めておいて運営されていたように思われる。運営方式は証言によって異なっているようだが、蔡命新の回顧録によれば、前線での慰安部隊への出入りは「チケット制」で運用するようにしていた。しかし、誰にでもチケットが与えられるわけではない。戦場で勇敢に戦い手柄を立てた順序に従って分配された。
勿論、勲章を受けたとすれば当然優先権があり羨望の的である。手柄の程度によってチケットの数は変化するという。

その内、金貴玉氏が2000年1月に聞き取り調査した匿名の予備役将軍の証言はこれとは異なっている。
一線への軍慰安婦の登場は例外的な出来事であったが、1952年、戦争が小康状態に入った時のことであった。連隊長の命令で正体不明の女性30人程が軍用トラックに乗って連隊に入って来、一個中隊に5,6人程があてがわれ、与えられた約8時間の間、中隊員たちが利用できるようになっていた。勿論チケットのようなものはなく、希望する軍人が無料で利用できるようになっていた特に士官級の下級将校たちが多く利用した。女性たちは大抵ソウルの私娼街で買い入れてきたものと推定されるが大部分が貧しい女性たちであった。女性たちに対する代価は連隊人事処か師団恤兵部で支払った。



上記の通り、韓国軍には固定式慰安所のほかに巡回慰安システムと臨時慰安婦の採用の形態があったのである



参考・出典
朝鮮戦争と女性 金貴玉
死線幾たび 蔡命新
戦闘 車圭憲
人間の香り一自由民主/対共闘争と共に歩んだ人生歴程 金喜午

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慰安婦
最終更新:2007年11月02日 20:39