訃報日記2002:04月〜06月

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&counter() -------- **【柳家小さん】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 16日(木曜日) 人間国宝・柳家小さん死去。87歳。芸としては好みではなかったものの、その存在が重石として、ありとあらゆる落語界の問題の噴出を上から押さえ込み、何とか安定させていたことは確か。さて、その重石が消失した今、その混沌の中から何が飛び出してくるか? それはそうとその死去を報じたスポニチアネックスの記事の“人情ばなしを得意とした”ってのは何だ、と首をひねる。大物落語家が死ねば必ず“人情ばなしを得意とした”と書くもの、と思いこんでいたのではないか? すぐその後に“長屋ものや職人ものを得意とした”とも書いてある。落語に対してあんまり知識がない記者が書いたのか、それともよほど混乱して書いたのか。まあ、他の誰かの訃報記事からのコピペをもとにしたものであろう。 芸能プロダクション時代、うちのような弱小に使えるレベルでない大物ではあったが、それでも思い起こせば2回ほどお仕事をさせていただいたことがある。横浜そごうホールでの寄席興業のとき、当時小野栄一の弟子で漫才をやっていた東野しろうという男が、自分は落研出身で太鼓の叩き方から仕込まれていると日頃自慢していて、じゃアと楽屋の名前札を書かせたら、“林家小さん”と書いて出しやがった。本人の入り寸前に同じく漫才で出演していた笑組さんが気がついて教えてくれてことなきを得たが、すぐその場でクルリときびすを返して帰られても、文句の言えない失態である。人を信じるもんじゃないな、と青くなって書き換えたのを思い出した。もう一回は平成三年の、これも横浜の教育会館寄席。入りが遅れるから、と電話があり、やがて入ってきたのを見たら、マネージャーの女性(生代子夫人亡き後の内妻だったというウワサがあったが)ともども、喪服姿だった。その朝、春風亭柳朝師匠が亡くなったのであった。 不思議と、楽屋での小さん師匠の姿というのは覚えていない。教育会館のとき前方をつとめ、袖に降りてきた花緑(当時は小緑)に、“おまえ、何演ったンだい”と訊いて、その口調が祖父のそれと師匠のそれとが微妙に混淆された自然な感じで、実によかったことを覚えているのだが、さて、本人が何を演じたかも覚えていない。一緒に仕事した芸人さんの高座はたいてい記憶しているのだが、小さん師匠のときだけ、袖でマイク調節しながら大いに笑ったのは確かだが、後は空白である。私の中にある噺家の美学(文楽、志ん生、圓生を頂点とする)に合わない人だったからなのだろうか。“芸人は色っぽくなくっちゃいけねえ”という基準からすると、やはり小さんという人は武骨に過ぎた。もっとも、それだけに子供にはわかりやすくて、私が落語を聞いて大笑いした最高記録は小学生のとき、この師匠の『浮世根問』において、である。あの時は笑い過ぎて死ぬかと思ったものだった。落語という遊蕩芸術がテレビにのることが危険視されずに家庭にとけ込めたのは、この人の存在が大きかったのだろう。話の時代背景を微妙にぼかすのがクセで、『道具屋』の“ライスカレーはさじで食わい”とか、『強情灸』の“アイスクリームみてえなのこさえちゃったナ”とかいうクスグリがいかにもとぼけた落語調で、九代目文治の“蕎麦をクーデター”とか、圓生の“わいろ、袖の下、コンミッション”などという英語使いの、そこだけ際だたせる方式とは違って、江戸情緒の中に自然にそういう言葉が入ってくる、不思議な味を出していた。 円丈の『御乱心』に、圓生脱退騒動のときの小さんの態度を弟子の夢月亭歌麿が絶賛するシーンがある。包容力があり、あわてず騒がず、落ち着いてはいるがここ一番でピシリと最も効果のある手を打つ。ここらへんは軍隊経験がものを言っているのであろう。あるいは武道をやっていたことからくる不動心か。芸至上主義の圓生と違って若手の自由な発想の高座を大いに認めていた(川柳川柳こと三遊亭さん生の芸を最初に認めたのは師匠の圓生ではなく小さんだったという)ことも小さんの考え方の柔軟性を物語る。ただし、落語協会に問題が多発しだしたのは、圓生から小さんに会長がバトンタッチしてからのことだ、ということも見逃してはいけない。柔軟性故に大量真打ち昇進、試験制度などという、そもそも落語界の体質に合わない制度を取り入れたことで、混乱は解決するどころか、さらに拍車がかかった。人の意見をよく聞くのはいいが、人の意見に態度が左右されがちだったという弱点もあった。圓生のように、最も芸の上手い人間が独裁制を敷く。はっきり言えばこれが団体を円滑に運営していくベストの方法なのである。しかし、時代の流れと小さんの性格は、そのような方式を受け入れられなかった。落語というものの存続に対する小さんの苦悩は、そのまま、現代の落語というものの抱える苦悩である。 -------- **【スティーヴン・J・グールド】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 21日(火曜日) 講談社の大麻事件やミスドの添加物もみ消し事件などをネットで追っていたら、スティーヴン・J・グールド死去の報あり。60歳。顔写真には口ひげがあるが、確か若い奥さんもらって、彼女にヒゲはイヤ、と言われて剃っていたのではなかったか。再婚相手に引っ張り回されるようになると早死にをするな、やはり。果たして彼の一生はワンダフル・ライフであったか。ミスター高橋『プロレス至近距離の真実』(講談社文庫)を読む。例の『流血の魔術 最強の演技』の大ヒットで前著が文庫化されたのであろうが、私にとってはこちらの方がショッキングな本だったように思う。殺されたブルーザー・ブロディをリングの上での天才と認めながらも、あれほどトラブルメーカーだった男はいないとし、その天才ならではのエゴで、いかに同業者に憎まれていたかを書く。彼がプエルトリコで刺されて血の海でのたうち回っているとき、周囲のレスラーたちは誰も助けようとせず、指さしてゲラゲラ笑っていたというのが(著者も伝聞で書いてはいるのだが)一番ショッキングだった。まあしかし、ここまで憎まれるのもさすがというくらい、彼の一種アブない(興奮剤をやっていたらしいが)レスリングは魅力的だったなあ。昔、ブロディのレスリングを評して村松友視が“談志の落語”と言っていたが、確かにむちゃくちゃに相似形であった。ハンセンが志ん朝(わかりやすい名人芸)でブロディが談志(わかりにくい名人芸)、かつての われわれは談志志ん朝の二人会を毎度見ていたわけだ。なんたる贅沢! ---------- **【清川虹子】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 25日(土曜日) 昨日、清川虹子死去。86歳。晩年は『ねじ式』『ガメラ3』『平成たぬき合戦ぽんぽこ』とすっかりカルト女優になっていた感あり。もっともガメラ関係の掲示板で“あのお婆さん誰?”みたいなことを言っているもの知らずもいたが。サザエさんのフネ母さんを今のファンはアニメの麻生美代子の上品な声でイメージしているだろうが、私らにとってはフネは江利チエミのサザエさんにおける、波平を尻に敷いているガラッパチな下町のお母さん、清川虹子であった。潮健児とは肝臓病仲間であって、東映の極道シリーズなどでさんざ共演した大先輩。潮さんの出版記念パーティでも発起人代表、また葬儀のときも委員長を務めていただいた。天下の清川虹子に“あら、あなたが潮ちゃんの社長さん? いい男だわねえ”と感心されたのは自分の容貌に関する、私の数少ない勲章のひとつかも知れない。もっとも伴淳を亭主にしていた人ではあるが。とにかく、本当にいい人だった。ただ、潮さんが清川さんを敬愛するあまり、私にも自分と同じ尊敬と親愛の情を彼女に抱くよう強要してきたのが、当時の私にはちょっと煙たかった記憶がある。潮さん一人で手一杯状態だった若輩者の私に、清川虹子は大物すぎた。結局、その気分を引きずったことで、清川さんと私の関係は潮さんの死で途切れてしまった。それがなければ私のような昔好きにとって、ロッパ一座などを肌で知っている彼女との付き合いは宝の山であったろうが。 --------- **【村田英雄】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 13日(木曜日) なにか訃報日記みたいなおもむきだが、村田英雄氏死去。73歳。ライバル三波春夫に一年ちょっと遅れての死。70年代末に、NHKの番組『この人』(だったか『二人のビッグショー』だったか)で、犬猿の仲と言われたこの二人を共演させて歌謡ショーを実現させたことがあった(ディレクターは二人の登場カット数を合わせたりするのに死にそうな苦労をしたことだろう)この番組は他にも片岡千恵蔵・市川右太衛門のショーをやったりして、NHK全盛時の底力を見せていたと思うが、なかなか内容も感動的であった。 三波「戦後すぐに行われた、全国浪曲コンクールで、すでに少年浪曲師として一世を風靡していた村田英雄さんが優勝されました。もちろん、わたくしも出場しておりましたが、優勝は村田さんでした。その、底深い力にあふれた声に、わたくしは負けてさえ、なおほれぼれとする気持ちで聞き入っていたのでございます」 村田「浪曲が下火になり、田舎回りをしていたわたくしの耳に、三波さんの、東京での大活躍の報が届いてまいりました。矢も楯もたまらず上京し、そのステージを見に行ったわたくしは、その、浪曲の常識を破って縦横無尽、融通無碍に歌う華やかな舞台姿に魅せられ、ああ、この人は本当の天才なのだと感を深くいたしたものでした」 といった、わざとくさいライバル賞賛も、これくらいの大物同士だとピタッとイタにつくのである。もっとも、やはり村田英雄は不器用すぎ、三波春夫は器用すぎというのが持ちキャラで、その後で見せた二人浪曲でも、三波が大石内蔵助役を村田に譲り、自分は吉良上野介をいやらしく楽しげに演ずるという腹芸を見せていた。オタク世代にとって、三波春夫に『ルパン音頭』あれば、村田英雄には『真田十勇士の歌』あり。この二曲を両方とも入れているX2000は本当にエライ。文化勲章でもやりたいくらいである。 ------- **【室田日出男】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 17日(月曜日) 室田日出男死去、ムラタヒデオの5日後にムロタヒデオが死んだのである。これもコクトーの言う、多少調子の狂った秩序。たぶんこの中間の3日間にムリタヒデオとムルタヒデオとムレタヒデオが日本のどこかで死んでいるのではないかと思われる。 冗談はさておき、64歳とは若い。川谷拓三が呼んだか。 若いころのこの人は立っているだけで怖い役者だった。この怖いは、天本英世が怖いとか、汐路章が怖い、というのとはちょっと違った怖さで、中学生くらいの私はこの人に、“近寄ったら意味もなく殴られるのではないか”という本能的な暴力に対する恐怖を、スクリーンから受け取った。役者としての作られた人格を超えた、リアルな怖さをかもしだしている人だった。いわば、映画という虚構からハミ出すリアルさで、石井輝男が彼を徹底して嫌ったというのも(『星を喰った男』に出てくる、『網走番外地』の看守役でロケに行ったときに監督が彼を嫌い抜いて、とうとう彼を降ろして、照明のおじさんをその役で使ったというエピソードのMという役者は室田氏である)わかるような気がした。映画は監督によるアーティフィシャルな完結した作品であり、そこを役者のリアルがハミ出して壊してしまってはまずいのだ。 そのリアルさを実録モノという新分野で上手く使いこなしたのが、深作欣二監督だろう。彼が松竹で撮った『恐喝こそわが人生』(1968)は、知的コン・ゲーム映画みたいに痛快に始まって、最後は暗ぁく主人公(松方弘樹)が殺されて終わり、という、日本映画の困った部分が強く出たような作品だったが、ここで最初、主人公のブレーンの一人として仲間になっている室田日出男は、中盤から旗色が悪くなると、“オレ、怖くなったからオリるわ”と、さっさと一人グループを抜けてしまって、後からまたからんでくるかと思ったらそれきりで、以降出てこない。この、映画っぽくないヘンにリアルな退場が、室田日出男の持ち味なのかも知れなかった。だから、この人がリアル感を排除しないと成り立たない特撮モノとかに出ると、いや、似合わなかった似合わなかった。『ジャイアント・ロボ』のブラック・ダイヤも『バロム1』のミスタードルゲも、今イチ印象が薄かったし、『イナズマン』のキャプテンサラー役は抱腹絶倒の珍演に見えてしまっていた。『宇宙からのメッセージ』のウロッコ役(志穂美悦子の従者)は例の不祥事で降ろされ、佐藤充が代役になったが、むしろ結果的にはよかったのではないか(まあ、彼が出ないでもあの映画はどうしようもないものではあるんだが)。要するにケレンの出来ない人、マジな演技しか出来ない人という印象で、そこらへん、ケレンたっぷりの安藤三男や吉田義夫、潮健児などの俳優が山のようにいた60年代の東映で、長いことくすぶっていたのも無理はないと思える。いま、追悼映画を選ぶとしたら、後年の枯れてからのもので『ドグラ・マグラ』と『眠らない街・新宿鮫』、怖いころので、しつっこく念を入れて殺されていた『0課の女・赤い手錠』か。あ、監督とケンカして途中でオリてしまい、撮り直す金がないので映画の中盤から同じ役で役者が代わってしまう(しかも女性に)という、『てなもんやコネクション』なる珍物もあったな。 -------- **【山本直純】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 19日(水曜日) 5時半、新大阪着。降りてキオスクの新聞見出しを見たら、山本直純死去の報。 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 20日(木曜日) 山本直純死去のこと。この人で思い出すのは昭和四十七年の札幌オリンピック。佐藤勝がテーマ曲として『交響曲札幌オリンピック』を作曲していたが、それよりも、山本作曲の入場行進曲『白銀の栄光』の方がずっと躍動感にあふれ、耳に残る名曲だった。当時を記憶する札幌市民はほぼ全員がこの曲を口ずさめるはずである。それにしても、昭和四十二年の“大きいことはいいことだ”でのブレイク以来、山本氏はテレビにラジオに出ずっぱりの売れっ子。その合間を縫って、どうやってこんな大曲を作曲できたのか。斎藤秀雄門下の後輩の小沢征爾に“お前は頂点を目指せ、俺は音楽の裾野を広げる”と言ったという、まさにその言葉を裏切らぬ八面六臂の活動であった。そして、こういう人ほどコケたときの衝撃も大きい。昨日も金成さんと話したが、人気絶頂時にこの人、無免許運転で事故を起こし、しかもそれを開き直って、一斉にマスコミからホサれたことがあった。それ以降急速に体調を崩したようで、最後に顔を見たのは数年前、飼っている犬が人を噛んだニュースがワイドショーで取り上げられ、そのときも(何かしぼんだような顔で)テレビに出て、開き直ったようなことを言っていた。痩せ具合から糖尿か肝臓の病気だと判断したが、肝臓病の場合、妙に怒りっぽくなる場合があるから、それなのかしらん、と思った。小沢征爾の追悼コメントを新聞で読む。以前、小沢征爾物語をたのきんトリオの野村義男主演でテレビ化したとき、山本直純役は山口良一で、徹底して小沢を引き立てるコメディリリーフにされていた。やはりこれも笑って見ていたんだろうか、それとも怒ったか、山本氏は。私は怒ったものだった。 -------- **【パンチョ伊東】 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 05日(金曜日) パンチョ伊東氏死去の報。棺の中をのぞきこんで髪の毛を引っ張ってみたい、という裏モノは多かろうなあ。パンチョという名は当然パンチョ・ビラから来ていると思われるが、あのメキシコ革命の英雄は本当にデブだったんだろうかな。デブでヒゲのパンチョはウォレス・ビアリーの『奇傑パンチョ』(1937)が定着させたイメージだが、古すぎてこれがストレートに日本人のパンチョイメージだとは考えにくい。ペキンパー脚本の『戦うパンチョ・ビラ』ではユル・ブリンナーが痩せたパンチョを演じていたし。だいたい、メキシコではパンチョというと口ヒゲがシンボルらしいが、伊東氏にはヒゲがなかった。ヒゲ+デブで日本で有名だったのは、『ピンキーとキラーズ』のパンチョ加賀美氏か? そう言えば、日活無国籍アクションの極致とも言うべき宍戸錠主演『メキシコ無宿』では藤村有弘がデブ・ヒゲ完備で中国系メキシコ人(凄い設定)の殺し屋を演じていたが、この役名がもう、当然という感じでパンチョ・サンチェスであった。 ------ **【ジョン・フランケンハイマー】 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 09日(火曜日) 昨日の日記で書き忘れていたが、映画監督ジョン・フランケンハイマー死去。何と言っても『フレンチ・コネクション2』(75)。あのラストの大追跡は映画史上に不滅の輝きを残す。安達Oさんの日記にもある通り、『大列車作戦』のようなスケールの大きいアクションの名人であったが、個人的には『終身犯』(61)の、刑務所の独房の中に限定されたドラマをじっくり見せた手際が感服ものだった。テレビ東京でやってたコメディ番組『ソープ』で、刑務所に入れられたチェスター(ロバート・マンダン)が“この独房はひどい。小鳥も飛んでこない”とボヤいていたのはこの映画のことを踏まえたギャグである。……しかし、基本的には70年代までの人だったかと思う。79年に撮った“カイジュウ”映画『プロフェシー/恐怖の予言』はお笑い草だったし、マーロン・ブランドがモロー博士を文字通り怪演した『D・N・A』(96)も、やる気のなさアリアリのダメ演出で、逆にそのためにカルト映画になってしまった作品だった。ケレンのない硬派な人に、SFとかホラーの演出はむかんのである。遅まきながら本人もそれに気がついて、正統派アクションにロバート・デ・ニーロ主演の『RONIN』(98)で復帰したときにはすでに往年の才気も失せ、まったく見どころのない映画になっていたのは無惨だった。報道によれば、70年代のフランケンハイマーはアルコール依存症に苦しんでいたが、80年代にそれを克服したんだそうな。依存症時代の方がいい映画を撮れていたというのは皮肉である。酒はやはり飲んだ方がよろしい。 --------- **【ロッド・スタイガー】 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 11日(木曜日) ロッド・スタイガーが9日に死去とかや。巨体にどこか幼児的ダアダアな顔が乗っかっている俳優、という印象である。そのタイプの役の代表作は『ラブド・ワン』における、マザコンのエンバーマーの神経症的演技だろう。ハリウッド嫌いであまり映画に出ない俳優、というイメージだったが、出演歴を見るとそれどころか、つい最近まで、ほぼ一年一〜三作の割で出続けていたのであった。大スターにしちゃ仕事好きの方であろう。 http://www.fmstar.com/movie/r/r0035.html -------- **【林美雄】 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 15日(月曜日) 林美雄氏死去の報、58歳。私の高校時代は当然のことながら深夜放送が受験勉強の友で、クラスはだいたいニッポン放送オールナイトニッポン派とTBSのパックインミュージック派に別れていて、私はタモリを擁するオールナイトニッポン派の切込隊長的な立場だったが、それでもときどきこっそりとTBSも聞いており、野沢那智と白石冬美、小島一慶などと並んで、林美雄の声から東京の香りを雪深い北海道で受け取っていた。彼ら四人の歌っている“ヤバド、ヤバドヤバドバ、たまんないな〜”という歌『赤頭巾ちゃん気をつけろ』の録音テープ、まだ押入のどこかにあるはずだ、探してみよう。 ------- **【佐伯清】 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 17日(水曜日) またまた訃報、佐伯清監督死去。『昭和残侠伝』シリーズを創始した、という一事で映画史にその足跡を残した人。映画作家としては天才・マキノ雅弘に一歩を譲るが、しかし娯楽作品とは“定番シーンの組み合わせにある”ということを、徹底してよく心得ていた職人監督であった。変に新しいことをしたがる(新しいことしかしたがらない)坊や監督たちにツメのアカでも煎じて飲ませたい。今の時代からは考えられもしないが(私の時代ですら一種異様に思えた)、その演出する義理と人情の古くささを強調した世界に、時代の変革を求めた70年代安保世代が熱狂したのである。佐伯清自身が作詞した『昭和残侠伝』の主題歌、“背中で泣いてる唐獅子牡丹”の歌詞をもじって橋本治が“背中の銀杏が泣いている”とやったのはまさに時代の叫びであった。 ------- 日記 :: 2002年 :: 07月 :: 23日(火曜日) しばらくネットで資料集め。自分の以前書いた筈の文章などを探すのがおかしい。ちゆ12歳で話題にされていた、読書感想文の書き方のページ『読書感想文は一行読めば書ける!』が面白い。読書感想文の課題で夏休みが陰鬱なものになった小中学生時代を送ったものには溜飲が下がるサイトだろう。実際、これは文章の鍛錬によろしい。江國滋が俳句の練習に新聞の訃報欄の、会ったことも名前を聞いたこともない人の訃報を読んで、その追悼句を作るということを勧めていたが、あれに通じるものがある。ただし、惜しいのは、このサイトでその実例としてあがっている例文が、どれもあまり面白くないことだ。発想の飛躍に欠けるというか。ロバート・ベンチリーのエッセイに、橋のかけ方を土木の知識も建築の知識もない人物が大まじめに解説するというナンセンスなものがあった(早川書房『ユーモア・スケッチ傑作選1』所収)が、あのシャレっ気を少し学んでいただきたい気がする。短いものだし、別に感想文を書くわけでもないから、これは通して読んでも無駄にはならないと思う。 http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/index03_kansou.htm ------ **【藤本敏夫】 日記 :: 2002年 :: 08月 :: 01日(木曜日) 新聞に藤本敏夫死去の報。ただ、“歌手・加藤登紀子さんの夫”とだけしか書かれていない。かつての全学連のヒーロー、反帝全学連委員長ももはや遠い々々過去の話か(ATOK12では全学連という単語も学習させないと出ない)。Googleで検索しても、出てくる記述の四分の三が、加藤登紀子との獄中結婚のことである。ところで、肺炎で死去と出ていた。58歳という若さで肺炎とは、と思いネットで調べると(最近、フレッシュアイの機能が変わって使いにくくなったのは困ったもの)、肝臓ガンが肺に転移し、治療中に肺炎を併発したとあった。抗ガン剤、または放射線療法による治療で免疫力が低下していると、通常は無害であるグラム陰性桿菌等によって肺炎になる場合がある。これを医学用語で“日和見感染”という。全学連の先頭に立つ闘士であった人物が“日和見”で死亡とは、あまりに。 ---------- **【レオ・マッカーン】 日記 :: 2002年 :: 08月 :: 23日(金曜日) ネットで、昨日話題に出たレオ・マッカーンのことを調べたらちょうど一ト月前、7月の23日に亡くなっていた。オーストラリア出身だということは初めて知った。シェイクスピア劇の俳優として著名で、『ロミオとジュリエット』の神父役のスチールを見たことがあるが、なるほど適役だ。モンティ・パイソンのギャグの中に、歴史上の人物のデタラメ紹介で“父親はレオ・マッカーン”と言うのがあったから、イギリスではポピュラーな名前だったのだろう。歴史劇からコメディ、SF(『スペース1999』にゲスト出演していた)まで、イギリスの役者らしくありとあらゆる役を楽しげに演じていた。映画の代表作は昨日も書いた『HELP! 四人はアイドル』の他、『わが命つきるとも』では策士のクロムウェル(あの清教徒のクロムウェルではない)を演じ、直属のボスであるウルジー枢機卿(オーソン・ウェルズ)を追い落として自分がヘンリー8世(ロバート・ショー)の腹心となり、その再婚に反対するトマス・モア(ポール・スコフィールド)を反逆罪で死刑に追い込む。スコフィールドとマッカーンの法廷対決が、この役者の顔ぶれ以外は非常に地味な映画の、クライマックスになっていた。その他『レディホーク』の神父(あきらかに『ロミオとジュリエット』の神父役をイメージしたキャスティング)とか、『プリズナーNO.6』のNO.2(もっとものこの役は出てくるたび違う役者が演じている)とか、『新・シャーロック・ホームズおかしな弟の大冒険』のモリアーティ教授とか、とにかくこの人が出てくるとテレビであれ映画であれ、その達者な演技で作品に幅が出て、大したことのない作品でも楽しく見られたものである。英国映画界にはこういう、悪玉だろうが善玉だろうが何でもこいで演じわける、芸達者な名優たちが実に豊富にいたものである。ロバート・モーレイとか、ピーター・ブルとか、クライブ・レビルとか、コリン・ブレイクリーとか、ロイ・キニアとか、フレディ・ジョーンズとか、ジェイムス・ロバートソン・ジャスティスとか、ストラトフォード・ジョーンズとか、英国のこういう万能俳優たちについて語らせてくれる本を、どこかで出さないかなあ。 ------- **【テッド・アシュレー】 日記 :: 2002年 :: 08月 :: 27日(火曜日) 夕刊を読む。昨日脚本家(ディーン・ライズナー)の死が報じられた『ダーティ・ハリー』の、今度は配給会社ワーナーの会長、テッド・アシュレーが死去。経営難に陥ったワーナー・ブラザーズ再建に取り組み、ダーティハリーシリーズをはじめ『時計仕掛けのオレンジ』『スター誕生』『エクソシスト』『スーパーマン』等をヒットさせ、見事成功させた映画界の功労者。……この時代はまだ、ヒット作と傑作が(まあ、『スーパーマン』はともかく)シンクロしていたのだな、と思う。『エクソシスト』なんて公開当時は大ゲテ扱いされていたが、改めてみると文芸映画なみの質の高さをさすがフリードキン、維持していたことがよくわかる。……ところで、私はダーティハリーを、と、いうかイーストウッドの映画を、『ダーティハリー3』以降、一本も観ていないのだった。もちろん、『マディソン群の橋』も『スペース・カウボーイ』も観てない。まだ学生時代に『ダーティハリー3』を観て、あんなにけなげで可愛いタイン・デイリーをラストで殺しやがったことに腹を立て、“もう、こんなヤツの映画なんか二度と観るもんか”と、心に誓ったのであった。 ------- ---------
&counter() -------- **【菊池章子】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 08日(月曜日) 朝刊に菊池章子死去の報。78歳。小学生の頃、『懐かしのメロディー』でこの人が『星の流れに』を歌ったのを聞いて、母が“やっぱり本人の歌は違うわねえ。この歌は演奏からほんの少しはずして歌うところが、いかにもやさぐれた女の歌って感じがしていいのよ。若い歌手が歌うときちんと歌おうとするんで、ムードが台無し”と言った。それを聞いて感心した私は、たまたま家にあった『戦後歌謡ヒット集』というレコードで彼女の歌を繰り返し聞いて、そのやさぐれた女らしい歌い方をマスターした。あの当時の小学生で『星の流れに』を、ちゃんと“やさぐれた女の感じで”歌うことのできた小学生はたぶん日本で私一人だったろう。もちろん、その出来を人に聞かせて感心させるチャンスはなかったが。今でも私にはカラオケで、この歌を若い女性が“きちんと”歌うと、“ああダメダメ、この歌はね”と注意したくなってしまう悪癖があるのである。 -------- **【額田やえ子】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 14日(日曜日) ゆうべの夕刊を読んだら、額田やえ子死去の報があった。刑事コロンボシリーズがやはり代表作か。それまで、外国テレビ番組の、声優は話題になることがあっても翻訳家が話題になることなどまずなかっただけに、コロンボと言えば額田やえ子、となったのはその大胆な話し言葉のくだき方がよほど印象的であったのだろう。外国モノで刑事が死体を“仏さん”というのも考えてみれば度胸の要る訳し方である。“ウチのカミサン”がなにより有名だったが、この人の好んで使う言い回しに、“よござんすか”があった。原文は“You see”だと思うのだが、コロンボも使うし、高慢な女性(たいてい被害者)が特によく使う。このシリーズに限らず、吹き替えで“よござんすか”が出てきたら、ああ、額田さんか、と思ったものだった。 ------- **【デーモン・ナイト】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 20日(土曜日) 留守中に訃報のあった有名人、それほどなし。デーモン・ナイトが死んだくらいか。 -------- **【ワフー・マクダニエル】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 23日(火曜日) 昨日の朝刊を読んでいたら、ワフー・マクダニエル死去という報。写真入りの扱いなのでへえ、と思う。インディアン系レスラーとしては出世頭だったか。もっとも日本での印象は薄く、“スタン・ハンセンが全日に引き抜かれた穴を埋める”と豪語してやってきて、猪木の延髄切にあっという間に仕留められてしまっていた。そのあと、ブッチャーとの抗争で売り出そうとしたがこれもパッとせず。アメリカでは黒人系・インディアン系・ドイツ系・アラブ系(加えて日系)といったレスラーの人種別抗争に高い需要があるが、日本では人種がどうあれひとくくりに“ガイジン組”であり、それを超えた個性を出さなければウケないのである。そこらへんを読めなかったのは、アメリカ・マットで売れてるという余裕からくる甘さであったろう。 ------- **【ルー・テーズ】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 30日(火曜日) ルー・テーズ死去の報が新聞にあり。この人海外では強いことは強いが金にガメツイ、と嫌われていたようだ。評価する人ももちろん多いが、それは徹底した格闘芸のプロ、としての評価であるらしい。日本で神格化されているのは何と言ってもあの力道山をも恐れさせた伝説の強豪、というイメージがあるからだろう。聞いた話だが、自伝を出版したとき、内容があまりに赤裸々な裏話だったため、日本の版元が勝手に書き換えて武道の達人、みたいなストイックなストーリィにしてしまったという。ご本人はまったくそんなことを知らずに、あこがれの英雄と出会える、と目をキラキラさせて来日サイン会に並んだ少年ファンと握手していたというから、罪な話(誰に対して?)だ。 ------- 【G・A・エフィンジャー】 日記 :: 2002年 :: 04月 :: 30日(火曜日) もうひとつ訃報、これは新聞(読売30日付朝刊)には載っておらずネットで知ったのだがSF作家G・A・エフィンジャー死去、55歳。悲運のSF作家と言われていたが、この早逝で悲運にもトドメがさされたという感じである。代表作・『重力が衰えるとき』(ハヤカワ文庫)は内容も凄かったが、訳者の解説に引用されている、アーバー・ハウス版のハーラン・エリスンの推薦文がもの凄く、感動のあまり一度読んだきりで全文を暗記してしまったほどである。後半を引用してみる。「よろしい、今回はこう言おう。たのむからおれの忠告を聞いて、『重力が衰えるとき』を買え。この小説はスケートをはいた蜘蛛のようにクレージーな、とてつもない傑作だ。これほど言ってもわからないなら、こっちにも考えがある。おまえの子供らと飼い犬は、われわれが預かった。いますぐこの本を買って読み、舌を巻いて感嘆せよ。さもなくば・・・・・・」・・・・・・およそ、本をお他人様に勧めようというなら、ここまで言わないとダメ、という見本のような文章である。私の文章宝鑑の中の一つ。なお、なぜエフィンジャーが悲運の作家なのかは、『重力が衰えるとき』の解説(浅倉久志)を読んでいただきたいが、ざっとしたことはここで。 http://home.catv.ne.jp/dd/fmizo/gravity.html -------- **【柳家小さん】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 16日(木曜日) 人間国宝・柳家小さん死去。87歳。芸としては好みではなかったものの、その存在が重石として、ありとあらゆる落語界の問題の噴出を上から押さえ込み、何とか安定させていたことは確か。さて、その重石が消失した今、その混沌の中から何が飛び出してくるか? それはそうとその死去を報じたスポニチアネックスの記事の“人情ばなしを得意とした”ってのは何だ、と首をひねる。大物落語家が死ねば必ず“人情ばなしを得意とした”と書くもの、と思いこんでいたのではないか? すぐその後に“長屋ものや職人ものを得意とした”とも書いてある。落語に対してあんまり知識がない記者が書いたのか、それともよほど混乱して書いたのか。まあ、他の誰かの訃報記事からのコピペをもとにしたものであろう。 芸能プロダクション時代、うちのような弱小に使えるレベルでない大物ではあったが、それでも思い起こせば2回ほどお仕事をさせていただいたことがある。横浜そごうホールでの寄席興業のとき、当時小野栄一の弟子で漫才をやっていた東野しろうという男が、自分は落研出身で太鼓の叩き方から仕込まれていると日頃自慢していて、じゃアと楽屋の名前札を書かせたら、“林家小さん”と書いて出しやがった。本人の入り寸前に同じく漫才で出演していた笑組さんが気がついて教えてくれてことなきを得たが、すぐその場でクルリときびすを返して帰られても、文句の言えない失態である。人を信じるもんじゃないな、と青くなって書き換えたのを思い出した。もう一回は平成三年の、これも横浜の教育会館寄席。入りが遅れるから、と電話があり、やがて入ってきたのを見たら、マネージャーの女性(生代子夫人亡き後の内妻だったというウワサがあったが)ともども、喪服姿だった。その朝、春風亭柳朝師匠が亡くなったのであった。 不思議と、楽屋での小さん師匠の姿というのは覚えていない。教育会館のとき前方をつとめ、袖に降りてきた花緑(当時は小緑)に、“おまえ、何演ったンだい”と訊いて、その口調が祖父のそれと師匠のそれとが微妙に混淆された自然な感じで、実によかったことを覚えているのだが、さて、本人が何を演じたかも覚えていない。一緒に仕事した芸人さんの高座はたいてい記憶しているのだが、小さん師匠のときだけ、袖でマイク調節しながら大いに笑ったのは確かだが、後は空白である。私の中にある噺家の美学(文楽、志ん生、圓生を頂点とする)に合わない人だったからなのだろうか。“芸人は色っぽくなくっちゃいけねえ”という基準からすると、やはり小さんという人は武骨に過ぎた。もっとも、それだけに子供にはわかりやすくて、私が落語を聞いて大笑いした最高記録は小学生のとき、この師匠の『浮世根問』において、である。あの時は笑い過ぎて死ぬかと思ったものだった。落語という遊蕩芸術がテレビにのることが危険視されずに家庭にとけ込めたのは、この人の存在が大きかったのだろう。話の時代背景を微妙にぼかすのがクセで、『道具屋』の“ライスカレーはさじで食わい”とか、『強情灸』の“アイスクリームみてえなのこさえちゃったナ”とかいうクスグリがいかにもとぼけた落語調で、九代目文治の“蕎麦をクーデター”とか、圓生の“わいろ、袖の下、コンミッション”などという英語使いの、そこだけ際だたせる方式とは違って、江戸情緒の中に自然にそういう言葉が入ってくる、不思議な味を出していた。 円丈の『御乱心』に、圓生脱退騒動のときの小さんの態度を弟子の夢月亭歌麿が絶賛するシーンがある。包容力があり、あわてず騒がず、落ち着いてはいるがここ一番でピシリと最も効果のある手を打つ。ここらへんは軍隊経験がものを言っているのであろう。あるいは武道をやっていたことからくる不動心か。芸至上主義の圓生と違って若手の自由な発想の高座を大いに認めていた(川柳川柳こと三遊亭さん生の芸を最初に認めたのは師匠の圓生ではなく小さんだったという)ことも小さんの考え方の柔軟性を物語る。ただし、落語協会に問題が多発しだしたのは、圓生から小さんに会長がバトンタッチしてからのことだ、ということも見逃してはいけない。柔軟性故に大量真打ち昇進、試験制度などという、そもそも落語界の体質に合わない制度を取り入れたことで、混乱は解決するどころか、さらに拍車がかかった。人の意見をよく聞くのはいいが、人の意見に態度が左右されがちだったという弱点もあった。圓生のように、最も芸の上手い人間が独裁制を敷く。はっきり言えばこれが団体を円滑に運営していくベストの方法なのである。しかし、時代の流れと小さんの性格は、そのような方式を受け入れられなかった。落語というものの存続に対する小さんの苦悩は、そのまま、現代の落語というものの抱える苦悩である。 -------- **【スティーヴン・J・グールド】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 21日(火曜日) 講談社の大麻事件やミスドの添加物もみ消し事件などをネットで追っていたら、スティーヴン・J・グールド死去の報あり。60歳。顔写真には口ひげがあるが、確か若い奥さんもらって、彼女にヒゲはイヤ、と言われて剃っていたのではなかったか。再婚相手に引っ張り回されるようになると早死にをするな、やはり。果たして彼の一生はワンダフル・ライフであったか。ミスター高橋『プロレス至近距離の真実』(講談社文庫)を読む。例の『流血の魔術 最強の演技』の大ヒットで前著が文庫化されたのであろうが、私にとってはこちらの方がショッキングな本だったように思う。殺されたブルーザー・ブロディをリングの上での天才と認めながらも、あれほどトラブルメーカーだった男はいないとし、その天才ならではのエゴで、いかに同業者に憎まれていたかを書く。彼がプエルトリコで刺されて血の海でのたうち回っているとき、周囲のレスラーたちは誰も助けようとせず、指さしてゲラゲラ笑っていたというのが(著者も伝聞で書いてはいるのだが)一番ショッキングだった。まあしかし、ここまで憎まれるのもさすがというくらい、彼の一種アブない(興奮剤をやっていたらしいが)レスリングは魅力的だったなあ。昔、ブロディのレスリングを評して村松友視が“談志の落語”と言っていたが、確かにむちゃくちゃに相似形であった。ハンセンが志ん朝(わかりやすい名人芸)でブロディが談志(わかりにくい名人芸)、かつての われわれは談志志ん朝の二人会を毎度見ていたわけだ。なんたる贅沢! ---------- **【清川虹子】 日記 :: 2002年 :: 05月 :: 25日(土曜日) 昨日、清川虹子死去。86歳。晩年は『ねじ式』『ガメラ3』『平成たぬき合戦ぽんぽこ』とすっかりカルト女優になっていた感あり。もっともガメラ関係の掲示板で“あのお婆さん誰?”みたいなことを言っているもの知らずもいたが。サザエさんのフネ母さんを今のファンはアニメの麻生美代子の上品な声でイメージしているだろうが、私らにとってはフネは江利チエミのサザエさんにおける、波平を尻に敷いているガラッパチな下町のお母さん、清川虹子であった。潮健児とは肝臓病仲間であって、東映の極道シリーズなどでさんざ共演した大先輩。潮さんの出版記念パーティでも発起人代表、また葬儀のときも委員長を務めていただいた。天下の清川虹子に“あら、あなたが潮ちゃんの社長さん? いい男だわねえ”と感心されたのは自分の容貌に関する、私の数少ない勲章のひとつかも知れない。もっとも伴淳を亭主にしていた人ではあるが。とにかく、本当にいい人だった。ただ、潮さんが清川さんを敬愛するあまり、私にも自分と同じ尊敬と親愛の情を彼女に抱くよう強要してきたのが、当時の私にはちょっと煙たかった記憶がある。潮さん一人で手一杯状態だった若輩者の私に、清川虹子は大物すぎた。結局、その気分を引きずったことで、清川さんと私の関係は潮さんの死で途切れてしまった。それがなければ私のような昔好きにとって、ロッパ一座などを肌で知っている彼女との付き合いは宝の山であったろうが。 --------- **【村田英雄】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 13日(木曜日) なにか訃報日記みたいなおもむきだが、村田英雄氏死去。73歳。ライバル三波春夫に一年ちょっと遅れての死。70年代末に、NHKの番組『この人』(だったか『二人のビッグショー』だったか)で、犬猿の仲と言われたこの二人を共演させて歌謡ショーを実現させたことがあった(ディレクターは二人の登場カット数を合わせたりするのに死にそうな苦労をしたことだろう)この番組は他にも片岡千恵蔵・市川右太衛門のショーをやったりして、NHK全盛時の底力を見せていたと思うが、なかなか内容も感動的であった。 三波「戦後すぐに行われた、全国浪曲コンクールで、すでに少年浪曲師として一世を風靡していた村田英雄さんが優勝されました。もちろん、わたくしも出場しておりましたが、優勝は村田さんでした。その、底深い力にあふれた声に、わたくしは負けてさえ、なおほれぼれとする気持ちで聞き入っていたのでございます」 村田「浪曲が下火になり、田舎回りをしていたわたくしの耳に、三波さんの、東京での大活躍の報が届いてまいりました。矢も楯もたまらず上京し、そのステージを見に行ったわたくしは、その、浪曲の常識を破って縦横無尽、融通無碍に歌う華やかな舞台姿に魅せられ、ああ、この人は本当の天才なのだと感を深くいたしたものでした」 といった、わざとくさいライバル賞賛も、これくらいの大物同士だとピタッとイタにつくのである。もっとも、やはり村田英雄は不器用すぎ、三波春夫は器用すぎというのが持ちキャラで、その後で見せた二人浪曲でも、三波が大石内蔵助役を村田に譲り、自分は吉良上野介をいやらしく楽しげに演ずるという腹芸を見せていた。オタク世代にとって、三波春夫に『ルパン音頭』あれば、村田英雄には『真田十勇士の歌』あり。この二曲を両方とも入れているX2000は本当にエライ。文化勲章でもやりたいくらいである。 ------- **【室田日出男】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 17日(月曜日) 室田日出男死去、ムラタヒデオの5日後にムロタヒデオが死んだのである。これもコクトーの言う、多少調子の狂った秩序。たぶんこの中間の3日間にムリタヒデオとムルタヒデオとムレタヒデオが日本のどこかで死んでいるのではないかと思われる。 冗談はさておき、64歳とは若い。川谷拓三が呼んだか。 若いころのこの人は立っているだけで怖い役者だった。この怖いは、天本英世が怖いとか、汐路章が怖い、というのとはちょっと違った怖さで、中学生くらいの私はこの人に、“近寄ったら意味もなく殴られるのではないか”という本能的な暴力に対する恐怖を、スクリーンから受け取った。役者としての作られた人格を超えた、リアルな怖さをかもしだしている人だった。いわば、映画という虚構からハミ出すリアルさで、石井輝男が彼を徹底して嫌ったというのも(『星を喰った男』に出てくる、『網走番外地』の看守役でロケに行ったときに監督が彼を嫌い抜いて、とうとう彼を降ろして、照明のおじさんをその役で使ったというエピソードのMという役者は室田氏である)わかるような気がした。映画は監督によるアーティフィシャルな完結した作品であり、そこを役者のリアルがハミ出して壊してしまってはまずいのだ。 そのリアルさを実録モノという新分野で上手く使いこなしたのが、深作欣二監督だろう。彼が松竹で撮った『恐喝こそわが人生』(1968)は、知的コン・ゲーム映画みたいに痛快に始まって、最後は暗ぁく主人公(松方弘樹)が殺されて終わり、という、日本映画の困った部分が強く出たような作品だったが、ここで最初、主人公のブレーンの一人として仲間になっている室田日出男は、中盤から旗色が悪くなると、“オレ、怖くなったからオリるわ”と、さっさと一人グループを抜けてしまって、後からまたからんでくるかと思ったらそれきりで、以降出てこない。この、映画っぽくないヘンにリアルな退場が、室田日出男の持ち味なのかも知れなかった。だから、この人がリアル感を排除しないと成り立たない特撮モノとかに出ると、いや、似合わなかった似合わなかった。『ジャイアント・ロボ』のブラック・ダイヤも『バロム1』のミスタードルゲも、今イチ印象が薄かったし、『イナズマン』のキャプテンサラー役は抱腹絶倒の珍演に見えてしまっていた。『宇宙からのメッセージ』のウロッコ役(志穂美悦子の従者)は例の不祥事で降ろされ、佐藤充が代役になったが、むしろ結果的にはよかったのではないか(まあ、彼が出ないでもあの映画はどうしようもないものではあるんだが)。要するにケレンの出来ない人、マジな演技しか出来ない人という印象で、そこらへん、ケレンたっぷりの安藤三男や吉田義夫、潮健児などの俳優が山のようにいた60年代の東映で、長いことくすぶっていたのも無理はないと思える。いま、追悼映画を選ぶとしたら、後年の枯れてからのもので『ドグラ・マグラ』と『眠らない街・新宿鮫』、怖いころので、しつっこく念を入れて殺されていた『0課の女・赤い手錠』か。あ、監督とケンカして途中でオリてしまい、撮り直す金がないので映画の中盤から同じ役で役者が代わってしまう(しかも女性に)という、『てなもんやコネクション』なる珍物もあったな。 -------- **【山本直純】 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 19日(水曜日) 5時半、新大阪着。降りてキオスクの新聞見出しを見たら、山本直純死去の報。 日記 :: 2002年 :: 06月 :: 20日(木曜日) 山本直純死去のこと。この人で思い出すのは昭和四十七年の札幌オリンピック。佐藤勝がテーマ曲として『交響曲札幌オリンピック』を作曲していたが、それよりも、山本作曲の入場行進曲『白銀の栄光』の方がずっと躍動感にあふれ、耳に残る名曲だった。当時を記憶する札幌市民はほぼ全員がこの曲を口ずさめるはずである。それにしても、昭和四十二年の“大きいことはいいことだ”でのブレイク以来、山本氏はテレビにラジオに出ずっぱりの売れっ子。その合間を縫って、どうやってこんな大曲を作曲できたのか。斎藤秀雄門下の後輩の小沢征爾に“お前は頂点を目指せ、俺は音楽の裾野を広げる”と言ったという、まさにその言葉を裏切らぬ八面六臂の活動であった。そして、こういう人ほどコケたときの衝撃も大きい。昨日も金成さんと話したが、人気絶頂時にこの人、無免許運転で事故を起こし、しかもそれを開き直って、一斉にマスコミからホサれたことがあった。それ以降急速に体調を崩したようで、最後に顔を見たのは数年前、飼っている犬が人を噛んだニュースがワイドショーで取り上げられ、そのときも(何かしぼんだような顔で)テレビに出て、開き直ったようなことを言っていた。痩せ具合から糖尿か肝臓の病気だと判断したが、肝臓病の場合、妙に怒りっぽくなる場合があるから、それなのかしらん、と思った。小沢征爾の追悼コメントを新聞で読む。以前、小沢征爾物語をたのきんトリオの野村義男主演でテレビ化したとき、山本直純役は山口良一で、徹底して小沢を引き立てるコメディリリーフにされていた。やはりこれも笑って見ていたんだろうか、それとも怒ったか、山本氏は。私は怒ったものだった。 -------- ----------

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