加藤嘉一年表

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重篤な厨二病を患う加藤嘉一大先生の、初期の年表。盛りすぎた華々しい経歴に各方面から突っ込みが入ったためか、現在は別の経歴に差し替えられています。公式年表以外についても、同項でまとめていく予定です。 日本編は年月が不明なところは【】で補足しています。中国編は年月表記なのに、日本編は年月表記をしないのが謎ですね。 中国編はメディアソースでは検証不可能な自称が多いので、考察を加えています。本文でも何度かお願いしていますが、大先生にビジネス上でお世話になってしまった企業の方は名乗り出て下さい。 日本編 |CENTER:日時|CENTER:公式の旧年表|CENTER:メディアソース、考察|CENTER:備考(ソースなど)| |1984.4.28|静岡県田方郡函南町に生まれる||| |3歳(原点)【1987】|実家の農業の手伝いを始める。この頃の趣味は世界地図を見ること。トラックにひかれ生死をさまよう。この頃から死生観を問うようになる。「明日を切り開くのは自分自身、未来は押し出していくもの」という考えもこの頃に養われる。幼少期の終わり。少年期が始まる。||| |小学校【1990年】|静岡県沼津市開北小学校入学(ギブスをつけての入学式)責任感を持って学級長や生徒会長を務めるも、周囲に理解されず、「違和感、閉塞感」を感じる。その答えを探るべく、世界への意識が芽生える。||| |【1992年】|小学校3年生の時、柔道部にスカウトされる。この頃既に165cm・80kg。半年で全国ベスト8に。|全柔連幹部に新星と評される。『從伊豆到北京有多遠』ではベスト4、『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』ではベスト8。ただし、全国少年柔道大会の結果に名前は無い(安田文春)|| |小学生(時期不明)|父親の仕事の都合で、山梨県南巨摩郡身延町立小学校に転校。野球部にスカウトされ、すぐにレギュラーに。||| |中学校1年生【1997年】|山梨学院大付属中学校入学。個人で陸上を始め、800m走で関東大会出場。また、「英語は世界へのパスポート」と英語の独学を開始||| |中学校3年生(きっかけ)【1999年】|修学旅行でオーストラリアに行った際、日本と世界の差に驚愕。「世界は大きかった」「日本のやり方が全てではない」「自分の違和感・閉塞感は間違っていなかった」と確信。これを機にもともと得意であった英語を本気で学ぶ事を決意。||| |高校1年生【2000年】|山梨学院大付属高校入学。特進クラスにいながら、強化部である駅伝部に入部。(文武両道の精神を動向に根付かせる)|もうね・・・山梨学院怒っていいよ・・・|| |高校2年生【2001年】|修学旅行で全国の大学を巡る。これを機に「大学で学ぶのもいい」という考えが芽生える。3年生に進級する前に「スポーツと勉強のどちらを取るか」を自問自答、勉強を選択。数ヶ月で偏差値50前後から75に。英語の翻訳を始め家計を助ける|英語の翻訳で家計を助けるレベルなのに、いざ渡米すると辞書に首ったけになる大先生。|| |高校3年生【2002年】|「現在の家の経済状況で、本当に大学に行ってもいいのか?」という疑問が常につきまとっていた。受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつける。学長と北京大担当者の会談の席に赴いて英語でアピールしスカウトされるようPR。結果、先方から「是非来て欲しい」との言葉を引き出す。|北京大との提携は2001年。([[山梨学院大学国際交流センター>http://www.ygu.ac.jp/international/cooperation.html]])。東京大学合格に関する話題は無い。まだ設定が固まっていなかったと思われる。|| 中国編 |CENTER:日時|CENTER:公式の旧年表|CENTER:メディアソース、考察|CENTER:備考| |2003年4月(19歳)|北京へ渡る。「中国語が出来ない」「お金がない」「知り合いがいない」という三ない状態であった。学生寮に入るも、あまりの苛酷な環境に初日から人生初のホームシックに。母からの手紙だけが心の支えであった。初代ルームメートはアラファト議長の親類。その他、各国大使の子息などが入寮しており、ここでグローバルな人脈を築いていく。入学後、半年はSARSの影響で授業は休講。その間、アイス売りのおばちゃんと8時間話し続ける。警察と仲良くなり人民日報を無料で貰う。日本人をシャットアウトし中国語を聞き続けるなどして、中国語をマスター。半年後には中国語の翻訳を始め、生計を立てる|なぜか三ないを強調する大先生だが、ほとんどの留学生はそんな感じ。大先生が利用した中国教育部の奨学制度は寮費のほかに毎月生活費も出るので、派手な生活をしなければ十分暮らせる。SARSで休講にはなったが、6月以降から補講が実施されており、半年というのは言いすぎ。中国語をマスターしたのはいつから数えて半年なのか不明確。SARS発生から半年なら、秋学期から本科に入れていないのは中国語のレベルが足りなかったから以外の理由が見つからない。大先生の本科入学は2004年秋学期。予科から本科に移った時期を書いていないのは、その辺りを突っ込まれるのを予期してか。|| |2004年3月|北京大学文化祭に、当時の中国大使が来訪。その際、北京大の学生の質問に答えなかった大使に激昂。以降、大学内で一目置かれる存在に。(デビュー戦)|確かに宮本大使は他大学の留学生の間でも評判は芳しくなかったが、どういった質問を行ったか。職務上差支えがある質問なら答えられない。(デビュー戦)とは一体何なのか。|| |2005年4月|北京大学留学生会会長を務める中、反日デモの現場を目の当たりにする。その翌日、反日デモに対するコメントを求められ、香港フェニックスTVに出演。「今回の反日デモは、日本と中国のどちらが悪い?」との問いに、「外交にどちらがいいも悪いもない。お互い反省すべき点があるし、今後は建設的に話を進めるべき」との回答。これ以降、メディアからのオファーが殺到|何か言っている様で、結局何も言っていない駄コメント。これ以外に発言はしていないのであれば、共青団や宣伝部は相当無理してプッシュしたのだと思われる。|| |2006年~2008年|日本経済フォーラム、北京東京フォーラムなどで同時通訳を担当。日中ジャーナリスト会議(日本側座長・田原総一郎)では報告書作成を担当。その一方、数々の商談の場でネゴシエーターとして活躍。また、大手総合商社、大手銀行、メディアなどのビッグプロジェクトを取りまとめる(数百以上)|同時通訳は専門の訓練が必要であるし、外国語が上手いだけでは勤まらない。働いた事の無いただの学生が、どうやってビッグプロジェクトを取りまとめるのか。せいぜい日本料理屋での会食に同席して適当な通訳をしていたのを、思い切り盛ったと思われる。ビッグプロジェクトをまとめてもらった方がいらしたら、ご一報下さい。|| |2008年5月|胡錦濤が訪日3日前に北京大を訪れ、面会を求められる。この様子が人民日報の一面に。|大先生が持つというコネの拠り所となっている、「胡錦濤が会いに来てくれた」だが、五四運動が近くなると、北京市内の大学を訪れるのは毎年の恒例行事で、大先生は呼び出された学生の1人に過ぎなかった([[詳細は別項>http://www49.atwiki.jp/katoyoshikazu/pages/9.html]])|| |2008年6月|大学卒業を控え、ほとんどの日本人OBに「一度白紙にして戻って来い」とアドバイス受ける。銀行や商社からのスカウトが殺到。しかし、今後予想される中国の伸びを考え、このまま滞在を会えて延長して人脈を形成していく方がよいと判断。大学院進学を決意する。仮にこの判断が失敗に終わったとしても、「大陸の誘惑に負けた」と割り切ろうと決意した。なお、アメリカにいくという選択もあったが、「アメリカにはTIME詩の表紙を飾ってからいく」と、自らに目標を課した。|検証しようが無い武勇伝は現在も続く大先生の伝統芸で、この頃から既に片鱗を表しているが、こちらも完全に嘘ともいえないので、オファーした企業の方は恥ずかしがらずに名乗り出てください。なお、2013年9月現在アメリカに移住しているが、TIME誌の表紙は飾っていない。|| |2010年7月|北京大学院卒業。|武勇伝は目一杯書いてきた大先生だが、本分である学業で何をやったか書かない。これが大先生。||
重篤な厨二病を患う加藤嘉一大先生の、初期の年表。盛りすぎた華々しい経歴に各方面から突っ込みが入ったためか、現在は別の経歴に差し替えられています。公式年表以外についても、同項でまとめていく予定です。 日本編は年月が不明なところは【】で補足しています。中国編は年月表記なのに、日本編は年月表記をしないのが謎ですね。 中国編はメディアソースでは検証不可能な自称が多いので、考察を加えています。本文でも何度かお願いしていますが、大先生にビジネス上でお世話になってしまった企業の方は恥ずかしがらずに名乗り出て下さい。 日本編 |CENTER:日時|CENTER:公式の旧年表|CENTER:メディアソース、考察|CENTER:備考(ソースなど)| |1984.4.28|静岡県田方郡函南町に生まれる||| |3歳(原点)【1987】|実家の農業の手伝いを始める。この頃の趣味は世界地図を見ること。トラックにひかれ生死をさまよう。この頃から死生観を問うようになる。「明日を切り開くのは自分自身、未来は押し出していくもの」という考えもこの頃に養われる。幼少期の終わり。少年期が始まる。||| |小学校【1990年】|静岡県沼津市開北小学校入学(ギブスをつけての入学式)責任感を持って学級長や生徒会長を務めるも、周囲に理解されず、「違和感、閉塞感」を感じる。その答えを探るべく、世界への意識が芽生える。||| |【1992年】|小学校3年生の時、柔道部にスカウトされる。この頃既に165cm・80kg。半年で全国ベスト8に。|全柔連幹部に新星と評される。『從伊豆到北京有多遠』ではベスト4、『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』ではベスト8。ただし、全国少年柔道大会の結果に名前は無い(安田文春)|| |小学生(時期不明)|父親の仕事の都合で、山梨県南巨摩郡身延町立小学校に転校。野球部にスカウトされ、すぐにレギュラーに。||| |中学校1年生【1997年】|山梨学院大付属中学校入学。個人で陸上を始め、800m走で関東大会出場。また、「英語は世界へのパスポート」と英語の独学を開始||| |中学校3年生(きっかけ)【1999年】|修学旅行でオーストラリアに行った際、日本と世界の差に驚愕。「世界は大きかった」「日本のやり方が全てではない」「自分の違和感・閉塞感は間違っていなかった」と確信。これを機にもともと得意であった英語を本気で学ぶ事を決意。||| |高校1年生【2000年】|山梨学院大付属高校入学。特進クラスにいながら、強化部である駅伝部に入部。(文武両道の精神を動向に根付かせる)|もうね・・・山梨学院怒っていいよ・・・|| |高校2年生【2001年】|修学旅行で全国の大学を巡る。これを機に「大学で学ぶのもいい」という考えが芽生える。3年生に進級する前に「スポーツと勉強のどちらを取るか」を自問自答、勉強を選択。数ヶ月で偏差値50前後から75に。英語の翻訳を始め家計を助ける|英語の翻訳で家計を助けるレベルなのに、いざ渡米すると辞書に首ったけになる大先生。|| |高校3年生【2002年】|「現在の家の経済状況で、本当に大学に行ってもいいのか?」という疑問が常につきまとっていた。受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつける。学長と北京大担当者の会談の席に赴いて英語でアピールしスカウトされるようPR。結果、先方から「是非来て欲しい」との言葉を引き出す。|北京大との提携は2001年。([[山梨学院大学国際交流センター>http://www.ygu.ac.jp/international/cooperation.html]])。東京大学合格に関する話題は無い。まだ設定が固まっていなかったと思われる。|| 中国編 |CENTER:日時|CENTER:公式の旧年表|CENTER:メディアソース、考察|CENTER:備考| |2003年4月(19歳)|北京へ渡る。「中国語が出来ない」「お金がない」「知り合いがいない」という三ない状態であった。学生寮に入るも、あまりの苛酷な環境に初日から人生初のホームシックに。母からの手紙だけが心の支えであった。初代ルームメートはアラファト議長の親類。その他、各国大使の子息などが入寮しており、ここでグローバルな人脈を築いていく。入学後、半年はSARSの影響で授業は休講。その間、アイス売りのおばちゃんと8時間話し続ける。警察と仲良くなり人民日報を無料で貰う。日本人をシャットアウトし中国語を聞き続けるなどして、中国語をマスター。半年後には中国語の翻訳を始め、生計を立てる|なぜか三ないを強調する大先生だが、ほとんどの留学生はそんな感じ。大先生が利用した中国教育部の奨学制度は寮費のほかに毎月生活費も出るので、派手な生活をしなければ十分暮らせる。SARSで休講にはなったが、6月以降から補講が実施されており、半年というのは言いすぎ。中国語をマスターしたのはいつから数えて半年なのか不明確。SARS発生から半年なら、秋学期から本科に入れていないのは中国語のレベルが足りなかったから以外の理由が見つからない。大先生の本科入学は2004年秋学期。予科から本科に移った時期を書いていないのは、その辺りを突っ込まれるのを予期してか。|| |2004年3月|北京大学文化祭に、当時の中国大使が来訪。その際、北京大の学生の質問に答えなかった大使に激昂。以降、大学内で一目置かれる存在に。(デビュー戦)|確かに宮本大使は他大学の留学生の間でも評判は芳しくなかったが、どういった質問を行ったか。職務上差支えがある質問なら答えられない。(デビュー戦)とは一体何なのか。|| |2005年4月|北京大学留学生会会長を務める中、反日デモの現場を目の当たりにする。その翌日、反日デモに対するコメントを求められ、香港フェニックスTVに出演。「今回の反日デモは、日本と中国のどちらが悪い?」との問いに、「外交にどちらがいいも悪いもない。お互い反省すべき点があるし、今後は建設的に話を進めるべき」との回答。これ以降、メディアからのオファーが殺到|何か言っている様で、結局何も言っていない駄コメント。これ以外に発言はしていないのであれば、共青団や宣伝部は相当無理してプッシュしたのだと思われる。|| |2006年~2008年|日本経済フォーラム、北京東京フォーラムなどで同時通訳を担当。日中ジャーナリスト会議(日本側座長・田原総一郎)では報告書作成を担当。その一方、数々の商談の場でネゴシエーターとして活躍。また、大手総合商社、大手銀行、メディアなどのビッグプロジェクトを取りまとめる(数百以上)|同時通訳は専門の訓練が必要であるし、外国語が上手いだけでは勤まらない。働いた事の無いただの学生が、どうやってビッグプロジェクトを取りまとめるのか。せいぜい日本料理屋での会食に同席して適当な通訳をしていたのを、思い切り盛ったと思われる。ビッグプロジェクトをまとめてもらった方がいらしたら、ご一報下さい。|| |2008年5月|胡錦濤が訪日3日前に北京大を訪れ、面会を求められる。この様子が人民日報の一面に。|大先生が持つというコネの拠り所となっている、「胡錦濤が会いに来てくれた」だが、五四運動が近くなると、北京市内の大学を訪れるのは毎年の恒例行事で、大先生は呼び出された学生の1人に過ぎなかった([[詳細は別項>http://www49.atwiki.jp/katoyoshikazu/pages/9.html]])|| |2008年6月|大学卒業を控え、ほとんどの日本人OBに「一度白紙にして戻って来い」とアドバイス受ける。銀行や商社からのスカウトが殺到。しかし、今後予想される中国の伸びを考え、このまま滞在を会えて延長して人脈を形成していく方がよいと判断。大学院進学を決意する。仮にこの判断が失敗に終わったとしても、「大陸の誘惑に負けた」と割り切ろうと決意した。なお、アメリカにいくという選択もあったが、「アメリカにはTIME詩の表紙を飾ってからいく」と、自らに目標を課した。|検証しようが無い武勇伝は現在も続く大先生の伝統芸で、この頃から既に片鱗を表しているが、こちらも完全に嘘ともいえないので、オファーした企業の方は恥ずかしがらずに名乗り出てください。なお、2013年9月現在アメリカに移住しているが、TIME誌の表紙は飾っていない。|| |2010年7月|北京大学院卒業。|武勇伝は目一杯書いてきた大先生だが、本分である学業で何をやったか書かない。これが大先生。||

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