カリフ擁立と忠誠誓約の具体的手順
 カリフに忠誠を誓う前の段階の、カリフの擁立が完了するための具体的な手順は、様々な形がありうる。使徒ムハンマドの逝去後の正統カリフたち、つまり、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのカリフ擁立もそうであったのでる。総ての預言者の直弟子たちは、正統カリフたちのカリフ就位の様々な手順を黙認したが、もし手順がイスラーム聖法に反していたなら、彼らはそれを拒絶していたはずである。なぜならカリフ位はムスリムの共同体としての存在、イスラームによる統治の存続がそれにかかっている要であり、最重要事項だったからである。
 これらの正統カリフたちの就位がどのように行われたかを調べるなら、それが以下のようであったことが分かる。
先ず一部のムスリムたちがサアーダ族の館で討議したが、カリフ候補者は、サアド・ブン・ウバーダ、アブー・ウバイダ、ウマル、アブー・バクルの4人であったが、ウマルと、アブー・ウバイダはアブー・バクルと争うことを好まず、アブー・バクルとサアドの二人だけが競う形となり、協議の結果として最終的にアブー・バクルに忠誠が誓われた。そして翌日ムスリムたちが預言者モスクに招集されアブー・バクルに忠誠を誓ったのである。この最初のサアーダ族の館での忠誠誓約が(カリフ位)締結の忠誠誓約(baiah iniqd)であり、それによってアブー・バクルはムスリムのカリフとなったのであり、翌日のモスクでの忠誠誓約は服従の忠誠誓約(baiah ah)であった。
 そしてアブー・バクルが自分が死病に罹っていることを自覚した時、特にムスリム軍が当時の二大超大国ペルシャ帝国と東ローマ帝国と戦っていたこともあり、ムスリムたちを招集し、誰が彼の次のムスリムのカリフになるのかを協議した。この協議は3か月続いたが、アブー・バクルはムスリムの多数の考えを知り協議を終えて、彼らにウマルが彼の次のカリフになるとの後任指名を行ったが(ahada)、これは現代の用語では「推薦(rasshaa)」にあたる。この後任指名、あるいは推薦は、彼の後任としてウマルがカリフになるとの統治契約ではなかった。なぜなら、アブー・バクルの死後、ムスリムたちはモスクに集まり、ウマルにカリフ就位の忠誠誓約を行っており、ウマルはこの忠誠誓約によりカリフになったのであり、事前の協議によってカリフになったのでも、アブー・バクルによる後任推薦によってカリフになったのでもない。なぜならもしアブー・バクルによるウマルの推薦がカリフ就位の統治契約であったなら、改めてムスリムたちが忠誠誓約を交わす必要はなかったからである。それに加えて既述の通り、ムスリムたちの忠誠誓約なしには誰もカリフになることはできないことを明示するクルアーンとスンナの明文が存在しているのである。
 それゆえウマルが(モスクでペルシャの刺客に)刺された時、ムスリムたちは彼に後任のカリフを指名するように求めたが、ウマルはそれを拒否した。しかし彼らがなおも彼に執拗に求めたため、ウマルは6人の候補の名を挙げ、その6人とは別に人々の礼拝の導師としてはスハイブを指名し、彼が指定した3日の間に、彼が推薦した6人のうちからカリフを自分たちで選任するようにと指示したのである。ウマルはスハイブに「そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」と言っていた。
 その後で、ウマルはタルハ・アル=アンサーリーを50人の配下をつけて彼らカリフ候補者の護衛に任じ、アル=ミクダード・ブン・アル=アスワドに候補者たちの会合の場の選定を課した。そしてウマルが亡くなり、カリフ候補者たちの会合が開かれると、アブドッラフマーン・ブン・アウフが「あなた方の中で辞退して最善者がカリフ位も就くようにそれを委ねる者はいないか」と尋ねた。全員が黙っているとアブドッラフマーンは「私は辞退する」と言って、彼を除いて誰が最もカリフに相応しいかを1人ずつ尋ねて回った。その結果、彼らの答えは、アリーとウスマーンの2人に集約された。その後でアブドッラフマーンはムスリムたちが二人のうちのどちらを望むかを、男性にも女性にも昼夜を徹して人々の意見を聞き集めたのである。アル=ブハーリーはアル=ミスワル・ブン・マフラマが「私が眠りについた時、アブドッラフマーンが扉を叩いて私を起こし『あなたは眠っていたようだが私はこの3日間(つまり3夜)、殆ど眠っていない』と言った」と伝えている。そして人々が夜明け前の礼拝を挙行し、ウスマーンの忠誠誓約が執り行われ、それによってウスマーンはムスリムのカリフになったのであり、ウマルによる6人のカリフ候補者指名によってカリフになったのではないのである。
そしてその後、ウスマーンが殺害されるとマディーナとクーファのムスリムの大多数がアリー・ブン・アビー・ターリブに忠誠を誓ったので、アリーがムスリムの中世誓約によりカリフになったのである。
 正統カリフたちの忠誠誓約を精査すれば、カリ不候補者たちが全てカリフ位締結の資格条件を満たしていることが先ず人々に周知され、その後で、ウンマ(ムスリム共同体)を代表するムスリムの有力者たち「解き結ぶ者」の意見が集約され、預言者の直弟子たち全て、あるいは大半が(カリフに就けること)を望む者が、カリフ位締結の忠誠誓約を交わされ、カリフに就位し、それによってムスリムたちは彼への服従が義務となり。彼に服従の忠誠を誓うのである。こうしてカリフが誕生し統治と権力におけるウンマの代理人となるのである。ちなみに正統カリフ時代には、ウンマの代表者たちは、周知であった。というのもそれは預言者の直弟子たちか、首都マディーナの住人であったからである。
 これが正統カリフに対する忠誠誓約の歴史的事実から我々が理解したことであるが、その他にウマルの6人の指名とウスマーンの忠誠誓約の手順から学ぶべき二つの事柄がある。それは新カリフを選ぶまでの期間を取り仕切る臨時代行の存在と、候補者の最大定員が6人となることである。

カリフ臨時代行
 カリフは、自分の死期を悟った場合、カリフ位を失う直前の適切な時期に、新しいカリフ擁立の手続き期間中にムスリムの諸事を取り仕切る臨時代行を指名する権限を有する。この臨時代行はカリフの死後、その職務を開始するが、その基本的役割は、新カリフ擁立までの3日間の穴埋めである。
 この臨時代行は政令を発布することはできない。なぜならそれはウンマが忠誠を誓ったカリフの大権だからである。また同様に彼にはカリフ候補としての自薦も、候補者の推薦もできない。なぜならウマルはカリフ候補に推薦した者たちとは別に臨時代行を任命したからである。
 この臨時代行の任期は新カリフの就位で終了する。なぜなら彼の任務はこの(新カリフの選定)仕事のための一時的なものだからである。
 スハイブがウマルにより任命された臨時代行であったという根拠は、ウマルの6人のカリフ候補者に対する言葉「あなた方が協議する3日の間はスハイブに礼拝を挙行させよ」と、スハイブに対する言葉「3日の間、人々の礼拝を先導せよ。・・・中略・・・そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」である。これはスハイブがウマルにより彼らに対して任命されたたリーダーであったことを意味している。というのは、ウマルは彼を礼拝の先導者に任命していたが、当時は、礼拝の先導職は人々の指導者であることを意味していたからであり、またウマルは彼に処罰の権限(剣で首を刎ねよ)を授与したが、処刑の権限を有するのは、為政者だけだからである。
 そしてこの出来事は、預言者の直弟子たちが集まる場で、1人の反対者もなく、進められたのであり、それによってカリフには新しいカリフを擁立する手続きを取り仕切る臨時代行者を指名する権限があることについてのコンセンサスとなったのである。またこの事例に基づき、新しいカリフの擁立手続きを取り仕切る臨時代行を特に指名せずにカリフが死亡した場合のために、一定の人物が臨時代行となるような政令をカリフが生前に発布することも可能となる。たとえばカリフが病で亡くなる前に臨時代行を指名しなかった場合に、彼の側近の補佐たちの中から一番の年長者が臨時代行となることを原則とし、例外的に他の有力候補がある場合には年齢を考慮して選び、側近の補佐の中に適切な者がいない場合は、後述の執行官の中から選ぶ、といった規則を定めておくことができる。これはカリフの罷免の際にも適用され、適当な候補者が居ない場合には、自動的に側近の補佐の中の最年長者が臨時代行となるが、側近の中に候補者が居る場合は、それらの候補者の中で最も年齢が高い者がなり、候補者が側近の全てを見渡してもがない場合には、執行官の中で最も年齢の高い者がなる、といった形になるが、彼ら全てが推薦を望むなら、臨時代行職は最年少の執行官に定まる。
 またこれはカリフが捕虜になった場合にも当てはまる。但しこの場合はカリフの救出の見込みがある場合とない場合とで臨時代行者の権限の詳細は異なる。そうした権限についてはカリフが在職中に発布する法令によって定められる。
 この臨時代行者は、カリフのジハード出征中、旅行中の代理とは異なる。それはアッラーの使徒がジハードに出征された時や、別離の巡礼を行われたときになされたのと同じなのである。こうした際に代理となる者は、こうした代理が関わる事柄の処理において、カリフが受権した限定された権限のみを有するのである。

候補者の絞込み
 正統カリフの擁立の方法を調べた者には、カリフ候補者の数には限りがあることが分かる。サーイダ族の館では、候補者はアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ、サアド・ブン・ウバーダであり、彼らだけしかいなかったが。ウマルとアブ・ウバーダはアブー・バクルには匹敵しなかったので争うことを好まず、実際には推薦はアブー・バクルとサアドの二人だけの間で争われ、その館に居合わせた有力者たち「解き結ぶ者」はアブー・バクルに忠誠を誓い、そして翌日ムスリムたちが預言者モスクでアブー・バクルに服従の忠誠誓約を交わしたのである。
 アブー・バクルはウマルをカリフに推薦したが、ウマルの他には候補者はおらず、そこでムスリムたちは先ずウマルにカリフ位締結の忠誠を近い、次いで服従の忠誠を誓ったのである。
 ウマルは6人を推薦し、カリフ候補を彼らだけとし、彼らの間でカリフを選ぶように指示した。そこでアブドッラフマーン・ブン・アウフが(自分が辞退した後の候補者の)残りの5人と相談し、残りの候補者たちから委任を取り付けて、アリーとウスマーンの二人に候補を絞った。そししてアブドッラフマーンは人々の意見を調べ、結果的に世論はウスマーン(をカリフとすること)で固まったのである。
 アリーの場合は、他にカリフの候補はおらず、マディーナとクーファのムスリムの大半は彼に忠誠を誓い、彼は第4代カリフとなった。ウスマーンに対する忠誠誓約において、カリフ選出に許される最長の猶予期間3昼夜と、6人から2名まで絞られる最大候補者数が明示された。そこで以下に我々のテーマに関わる限りで、この出来事について少し詳しく論じよう。
(1)ウマルはヒジュラ暦23年ズルヒッジャ月を4日を残す水曜日の夜明け前にモスクで礼拝に立っているところを呪わしいアブー・ルウルウにより刺された傷が元で、24年ムハッラム月初日の日曜朝に亡くなり、ウマルの遺言に従ってスハイブが彼の葬礼を執り行った。
(2)ウマルの葬儀を終えた後、アル=ミクダードはウマルが諮問を遺言した6人をある家に集めた。アブー・タルハが立って彼らの議論を纏め、彼らは座って協議し、アブドッラフマーン・ブン・アウフに彼らの中からカリフを選ぶように委任することで合意した。
(3)アブドッラフマーンは彼らと話し合いを始め、個別にもし自分でないとするなら残りの者の中で誰がカリフになるべきかと尋ねたが、彼らはアリーかウスマーンしかいない、と答えた。そこでアブドッラフマーンは6人のうちからこの2人に絞った。
(4)その後、アブドッラフマーンは、周知のように人々の意見を聴取した。
(5)そして水曜の夜、つまりウマルが亡くなった日(月曜)から3夜が経った後、アブドッラフマーンは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねた。以下にイブン・カスィール(ハディース学者、1373年没)の『初めと終り(al-Bidya wa al-Nihyah)』から引用しよう。
ウマルが亡くなってから4日経った夜、アブドッラーは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねて言った。『ミスワル、お前は眠っていたのかね。アッラーにかけて、私はこの3晩の間、殆ど眠っていない ― つまり日曜の朝にウマルが亡くなってからの月曜の夜、火曜の夜、水曜の夜の3夜である』 ― 中略・・・そして言った。『行って、アリーとウスマーンを私の許に呼んできなさい』そこで彼は二人を連れてモスクに行った。そこで住民全体に『礼拝に集合せよ』との号令がかけられた。それは水曜の夜明け前の礼拝であった。その後、アブドッラフマーンはアリーの手を取り、彼にクルアーンとアッラーの使徒のスンナとアブー・バクルとウマルの先例に則ることで忠誠誓約を交わすことを求めた。それに対してアリーは『クルアーンとスンナについては然り。しかしアブー・バクルとウマルの先例に関しては、個人の自由な裁量に過ぎない』との有名な答えを返した。そこでアブドッラフマーンはアリーの手を離し、ウスマーンの手を取り、アリーに求めたのと同じことを求めた。そこで、ウスマーンは『アッラーにかけて、然り』と応えたので、ウスマーンに対する忠誠の誓いが締結されたのである。スハイブはその日の夜明け前の礼拝と昼の礼拝では人々を先導したが、晩午の礼拝はウスマーンがムスリムのカリフとして人々を先導した。」
つまり、ウスマーンに対するカリフ位締結の忠誠誓約の開始は夜明け前の礼拝の時点であったにもかかわらず、スハイブの臨時代行権は、マディーナの有力者たち「解き結ぶ者」が(揃って)ウスマーンに忠誠を誓った後で初めて完了するのであるが、それは晩午の礼拝の直前に完了したのである。というのは、預言者の直弟子たちが日中から晩午の前にかけてウスマーンへの忠誠誓約に呼びかけあったので、晩午の少し前に事が終わったからである。それでスハイブの臨時代行権は終了し、ウスマーンが人々のカリフとして彼らの晩午の礼拝を先導したのである。
 『初めと終り』の著者は、ウスマーンへの忠誠誓約が夜明け前の時点で締結されていたにもかかわらず、スハイブが昼の礼拝で人々を先導したのかについて、以下のように説明している。
「人々はモスクで彼(ウスマーン)に忠誠を誓った。そしてその後で、彼(ウスマーン)は衆議院(dr al-shr) ― つまり衆議をする者たちが集まる家 ― に連れて行かれ、そこで残りの人々が彼に忠誠を誓ったので、忠誠誓約は、昼過ぎまで完了しなかったかのようでもあったのである。それで預言者モスクでのその日の昼の礼拝はスハイブが執り行い、ウスマーンが『アミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)』として最初にムスリムたちを先導して挙行した礼拝は、晩午の礼拝だったのである。」(ウマルが刺された日、亡くなった日、ウスマーンへの忠誠誓約がなされた日の日付については、異論が存在するが、我々はここで最有力説を挙げている)
 以上を踏まえて、カリフが空位(死亡や罷免などによる)になった後での次のカリフの推挙においては、以下の事項が考慮に入れられなければならない。
推挙の活動は猶予期間中、昼夜を徹して行われなければならない。
カリフ位締結の資格条件を満たす候補者の絞込みは、行政不正裁判所が行う。
有資格の候補者の絞込みは2回にわたる。初回は6名で、第2回は2名である。この2回の候補者の絞込みを行うのは、ウンマの代表としての国民議会(majlis al-ummah)である。というのは、ウンマはウマルに委任したのであり、ウマルがそれを6人に委任し、その6人が自分たちの中からアブドッラフマーンに委任し、彼が討議の末に2人に絞ったのであるから、これらの全ての最終的な拠り所は明らかにウンマ、つまりウンマの代表者たちだからである。
カリフ臨時代行者の任期は忠誠誓約の手続きの完結、カリフ就位によって終結するのであり、選挙結果の公表によるのではない。それゆえスハイブの任務はウスマーンの専任によってではなく、彼への忠誠誓約の完結によって終了したのである。
 既述の見地から、3昼夜の期間内のカリフ選任形態を定める法令が発布される。既にそのための法令は起案されているが、アッラーのお許しにより、適切な時期に、それを討議の上で法制化することになろう。
 これまで述べたことは、カリフが死んだか罷免された場合に、新しいカリフをその代わりに立てることを意図していた。そもそもカリフが存在しない場合については、イスラーム聖法の諸法規を施行し、世界にイスラームの宣教を広めるために、自分たちのカリフを擁立することがムスリムに課された義務となる。そして1924年3月3日(ヒジュラ暦1342年らジャブ月28日にイスタンブルでイスラーム・カリフ制が滅亡して以来の現状がそうなのである。そしてイスラーム世界に存在するイスラーム諸地域のあらゆる地域(qaar)が、忠誠誓約を受けてカリフ位が締結される候補地となる。イスラーム諸地域のうちのどの地域であれ、カリフに忠誠誓約を行えば、その者にカリフ位が締結され、その他のイスラーム地域に住むムスリムたちは全て彼に服従の忠誠、つまり従属の忠誠を誓うことが義務となる。但しそれは以下の4つの要件を満たした上で、その土地の住民による忠誠誓約によって彼にカリフ位が締結された場合である。
(1)その地域の権力が、ムスリムのみに依拠する独立権力であり、不信仰(非ムスリム)の国家、あるいは不信仰者(非ムスリム)の影響力に依拠していないこと。
(2)その地域のムスリムの安全保障がイスラームの安全保障であり、不信仰の安全保障でないこと。つまり内外のその防衛が純粋なイスラーム軍事力と看做しうるムスリム軍によるイスラームの防衛であること。
(3)イスラーム法の包括的革命的全面的に適用を即座に断行し、イスラームの宣教に努めること。
(4)カリフが、オプショナル資格条件は満たしていなくても、忠誠誓約を受けたカリフが、カリフ就位資格条件は完備していること。必要なのは就位資格条件である。
 その地域がこの4つの要件を満たしていれば、その地域のみの忠誠誓約によってカリフ制は成立し、それだけでカリフ位は締結され、その地の住民が忠誠を誓い合法的に就位したカリフは、イスラーム聖法に則る正当性を有するカリフであり、彼以外に対する忠誠誓約は無効となる。
 それ以降は、たとえいかなる地域であれ、別のカリフを擁立し忠誠を誓ったとしても、それは無効であり、カリフ位は成立しない。それは「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」、「(カリフの)一人一人順に忠誠を尽くせ」、「イマーム(カリフ)に忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ」とのアッラーの使徒の言葉によるのである。

忠誠誓約の形態
 忠誠誓約の合法性の典拠、忠誠誓約こそイスラームにおけるカリフ就位の手続きであることは既に説明した。その具体的な形態について言えば、それは按手であるが、時には文書によることもありうる。アブドッラー・ブン・ディーナールは言った。
 「人々がアブドルマリク(ウマイヤ朝第5代カリフ在位685-705年)の周りに集まった。私はイブン・ウマルが『私はアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)アブドルマリクに出来る限りクルアーンとアッラーの使徒のスンナに則り聞き従うことを承認します』と書いたのを見た。」
そして忠誠誓約はどのような方法でも有効であり、また忠誠誓約の文言は、特定の文言に限定されてはいない。しかしカリフの側ではクルアーンとスンナに則って行動することが含まれていなくてはならず、忠誠誓約を与える側には苦しいときにも快適な時にも意に沿うことにも意に沿わないことにも服従することが含まれていなくてはならない。そしてここに述べたことに基づき、その形式を定める法令が発布される。
 誓約者がカリフに忠誠を誓った時点で、その誓約は誓約者の首にかかった信託となり、彼にはその撤回は許されない。それはカリフ位締結に関してそれを誓うまでは誓約者の権利であるが、一旦誓約を与えれば、その遵守が課され、撤回を望んでも許されないのである。
「遊牧民がアッラーの使徒にイスラームにおける忠誠を誓ったが、それから病気になり、『私の忠誠誓約を解除してください』と頼んだが、使徒はそれを拒否された。それからその遊牧民がまたやって来て『私の忠誠誓約を解除してください』とまた頼んだが、使徒はまた拒まれたので、遊牧民は退出した。そこでアッラーの使徒は『マディーナはふいごのようであり、悪いものを篩い落とし、良きものを認知する』と言われた。」(ハディース)
「私(アブドッラー・ブン・ウマル)はアッラーの使徒が『服従から手を引いた者は、最後の審判の日にアッラーにまみえるが、彼には弁明の余地はない』と言われるのを聞いた。」(ハディース)
 カリフへの忠誠の誓いを破ることは、アッラーへの服従から手を引くことに他ならない。但しこれはその忠誠の誓いがカリフ就位の忠誠誓約であるか、カリフ就位の忠誠誓約が締結されているカリフへの服従の忠誠誓約であった場合であり、カリフに初めに忠誠を誓ったが、彼への忠誠誓約が最終的には成立しなかった場合には、ムスリムたちがその者のカリフ就位の忠誠誓約を成立させなかったのであるからも、彼も自分の忠誠誓約を破棄することが出来る。このハディースは、カリフへの忠誠誓約の撤回(の禁止)に当てはまるのであり、カリフ位が締結されなかった者への忠誠誓約の撤回についてではないのである。

カリフ制の一体性
 ムスリムは一つの国家に纏まり、ただ1人のカリフを頭に戴かなくてはならない。イスラーム法上、ムスリムが世界の中で2つ以上の国家を有し、2人以上のカリフを戴くことは禁じられている。
同様にイスラームにおける統治制度は、集権制(nim wadah)でなくてはならず、連邦制は禁じられている。典拠はいずれもムスリムが収録している以下のハディースである。
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ。」
「お前たちが1人の男の下で団結しているところに、お前たちの統一を乱し団結を崩させようと望む者がやって来たなら、その者を殺せ。」
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ。」
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給う。」
 第1のハディースは、イマーム位、つまりカリフ位が1人に付与されたら、そのカリフへの服従が義務となり、別の者がそのカリフ位に背くなら、反逆を止めない限りその者と戦い、殺すことが義務となることを明らかにしている。
 第2のハディースはムスリムが1人のカリフの権威の下に団結している時に、ムスリムの統一を乱し、団結を壊す者が現れたなら、その者の処刑が義務となることを明らかにしている。この2つのハディースの内容は、たとえ武力に訴えてでも、カリフ国家の分裂を阻止し、その分割を許可せず、分離を禁止すべきことを示している。
 第3のハディースは、死亡、罷免、辞任などにより、カリフが空位になった場合に、2人のカリフに忠誠誓約が為された場合、2人のうちの後の方の処刑が義務となることを示している。つまりカリフは、正当な忠誠誓約を最初に受けた者であり、その後で忠誠誓約を受けた者は、そのカリフ位の放棄を宣言しない限り処刑されるのである。2人より多数に忠誠誓約が為された場合は尚更である。これは国家の分割の禁止、つまり一つの国家を複数の国家に細分してはならず、一つの国家を維持しなくてはならないことの比喩表現なのである。
 第4のハディースは使徒の逝去後に多数のカリフが現れることを示している。また多くのカリフが現れた場合にどうすべきかとの直弟子たちの質問に答えて、ムスリムは最初に忠誠を誓ったカリフに忠義を尽くすべきである、と使徒は教えられた。それは、最初に忠誠誓約を受けた者だけが、イスラーム法が正当性を認めるカリフであり、彼だけが服従に値するからである。それ以外の者たち(カリフ僭称者たち)のカリフ位は無効であり、イスラーム法上合法ではない。なぜならムスリムのカリフが存在するにもかかわらず、別のカリフに忠誠が誓われることは許されないからである。またこのハディースは、服従はただ1人のカリフに対してのみ義務となることを示しており、その帰結として、ムスリムが1人以上のカリフ、1つ以上の国家を有することが許されないことをも示しているのである。

カリフの権限
 カリフは以下の権限を有する。
(a)カリフは、ウンマの諸事の処理に必要な限りにおいて、クルアーンとアッラーの使徒のスンナから正当なイジュティハード(法的推論)によって演繹されたイスラーム法の諸規則を法制化する。その規則は服従が義務付けられ違反が許されない法令となる。
(b)カリフは国家の内政と外政の双方の責任者である。またカリフは軍の最高司令官であり、宣戦、休戦、停戦、その他の条約締結の権限を有する。
(c)カリフは、外国人の大使の承認、否認、ムスリムの大使の任命、罷免の権限を有する。
(d)カリフは、補佐と総督の任命権、罷免権を有する。彼らはカリフと国民(ウンマ)議会に対して責任を負う。
(e)カリフは司法長官(qd al-quat)とその他の裁判官を任命し、罷免する。例外は行政不正裁判官(q malim)で、カリフが任命するが、罷免に関しては「裁判」章の該当箇所で詳述するところの一定の条件がカリフに課される。
(f)またカリフは諸官庁の役人、軍司令官、参謀、将軍を任命し、罷免する。これらの者は全てカリフのみに対して責任を負い、国民(ウンマ)議会に対しては責任を負わない。
(g)カリフは、国家予算を定めるイスラーム法の諸規則を法制化する。カリフは歳入であれ、歳出であれ、使途が決まっている全ての予算額の配分を決定する。
 上記の6項目の詳細の典拠は以下の通りである。
(a)項の典拠は預言者の直弟子たちのコンセンサスである。というのは、「法令(qnn)」は専門用語としての意味は「人々がそれに則って行動するように権力者(suln)が発布した命令」であり、「権力者が人民に人間関係において服従を強制する法規の集合」と定義される。つまり権力者が特定の規則を命令すれば、それらの規則は法令となり、人々にそれが課されるが、権力者がそれを命じたのでない限り、それは法令とはならず、人々には課されることもない。ムスリムはイスラーム聖法の諸規則に則って生きる、つまりアッラーの命令と禁止に則って生きるのであり、権力者の命令と禁止に則って生きるのではない。ムスリムが則って生きるのはイスラーム聖法の規則であって、権力者の命令ではない。但し預言者の直弟子たちは、これらのイスラーム法の諸規則について見解を異にしていた。彼らの一部は聖法のクルアーンとスンナの明文から、他の者には分からなかった何かを発見することもあり、彼らは皆、聖法の明文の各自の理解に従って生きていたのであり、彼らのそれぞれにとっては自分の理解がそのままでアッラーの規則であったのである。
 しかし一方で、ウンマの諸事を処理するためにはムスリム全員が一つの意見に纏まって行動しなくてはならず、各自が自分の判断で行動してはならないようなイスラーム聖法の諸規則も存在し、それはかつて現実に生じたのであった。たとえばアブー・バクルは公金(戦利品)に対してムスリムは全員が平等に権利を有するので、彼らの間で平等に分配されるべきである、と考えた。ところがウマルは、かつて(多神教徒として)アッラーの使徒と敵対して戦った者(新参の改宗者)が、アッラーの使途の側で戦った者と同じ分配を受け、貧しい者が富める者と同じだけを与えられるのは正しくない、と考えた。しかし、その時点ではアブー・バクルがカリフであったので、彼の見解の執行を命じ、つまり財の平等な分配を決定し、ムスリムたちはそれについて彼に倣い、裁判官も総督たちもその決定に従って行為し、ウマルもアブー・バクルに服し、彼の見解にしたがって行動し、それを執行したのであった。
 しかしウマルがカリフになるとアブー・バクルの考えと違う自分の考えを法制化し、公金を平等ではなく、功績と必要に応じて与える論功行賞による分配という彼の見解を命じ、ムスリムたちは彼に倣い、総督や裁判官はそれに従って行為したのである。こうしてカリフには独自の正しい法的推論により聖法から演繹した特定の法規定を法制化し、その執行を命ずる権限があり、ムスリムはそれが自分の推論と異なる場合には、自分の推論と考えを実行せずにカリフの判断に従うことが義務となることで、直弟子たちの間にコンセンサスが成立したのである。
 そしてこれらの法制化された法規定が法令であり、この法令の制定はカリフのみの大権であり、他の何者といえどもその権限を有することは決してないのである。
 (b)項の典拠は使徒の行為である。なぜなら使徒こそが総督、裁判官を任命し、監査したのであり、また使徒が売買を監督し、偽装を禁じたのであり、人々に財を配分したのであり、使徒が失業者に職の世話をしたのであり、使徒が国政の内政の全てを取り仕切り、また使徒が王たちに書簡を送ったのであり、使徒が外交使節を引見したのであり、使徒が国政の外政を全て担当したのであり、また使徒が実際に軍隊を率いたのであり、多くの戦役で彼自身が戦闘の陣頭指揮をとったのである。
また遠征隊に関しては、使徒が遠征隊を派遣し、隊長を任命したのである。ウサーマ・ブン・ザイドをシリア派遣軍の司令官に任命した時は、ウサーマが年若かったために弟子たちがそれに不満を抱いたが、使徒は彼らに彼の指揮を受け入れるように命じた。この話は、カリフは単なる名目上の軍の最高司令官ではなく実際の指揮官でなければならないことを示している。また使徒こそがアラブ多神教徒のクライシュ族に宣戦布告し、またユダヤ教徒3部族(クライザ族、アル=ナデール族、カイヌカーウ族)に、そしてハイバル、東ローマ帝国に宣戦布告されたのである。起こったどの戦争においても使徒がその宣戦を布告しているのであり、これらは宣戦布告が預言者の大権だったことを示している。
また同様にユダヤ教徒と協定を結んだのも使徒なら、ムドゥリジュ族とダムラ族のその同盟者と協定を結んだのも使徒、アイラの町の長ユハンナ・ブン・ルウバと協定を結んだのも使徒、フダイビーヤの協定を結んだのも使徒であった。フダイビーヤの協定にはムスリムたちは不満であったが、使徒は彼らの声に耳を貸さず、彼らの意見を退け、協定を締結された。このことは他の誰でもなくカリフだけが、和平協定にせよ、他の協定にせよ、協定の締結の権限を有することを示しているのである。
 (c)項の典拠は、偽預言者ムサイリマの二人の使節を接見されたのも使徒ムハンマドであり、クライシュ族の使節アブー・ラーフィウを引見されたのも使徒であり、また東ローマのヘラクリウス帝、ペルシャ帝国のホスロー帝、エジプトのアル=ムカウキス王、ヒーラのアル=ハーリス・アル=ガッサーニー王、イエメンのアル=ハーリス・アル=ヒムヤリー王、エチオピアのナジャースィー王らに書簡を送られたのも使徒であり、フダイビーヤの和議で、ウスマーン・ブン・アッファーンをクライシュ族への使節として派遣されたのも使徒であった。これらの事績は外交使節を接見し面会を拒否するのはカリフであり、また使節を任命するのもカリフであることを示している。
 (d)項の典拠については、総督を派遣するのは使徒であり、使徒がムアーズをイエメンに総督として派遣されたのであり、また総督を罷免するのも使徒であり、彼はバハレーンの総督のアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーを住民の彼に対する苦情のために罷免されたのである。総督は地方の住民に対して責任を負っており、またカリフに対しても責任を負っている。また彼らは国民(ウンマ)議会に対しても責任を負っているが、それは国民議会が全ての地方を代表しているからである。
これは総督の話であったが、補佐については、アッラーの使徒には二人の補佐がいた。それはアブー・バクルとウマルであり、使徒は在世中、両名を罷免せず、また彼ら二人以外の補佐を任命されることもなかった。つまり彼は両者を任命したが罷免はしなかったのである。補佐の権力はカリフから授権されたものなので、補佐はカリフの代理人に相当する。それゆえカリフは代理との類推から補佐の罷免権を有する。なぜなら代理委任者には代理を罷免する権利があるからである。
 (d)項の典拠は、使徒がアリーにイエメンの裁判を任せたことである。アフマドがアムル・ブン・アル=アースの以下の言葉を伝えている。「使徒の許に相争う2人の訴人がやって来た。そこで使徒は『アムルよ、両名の間を裁いてみよ』と言われた。そこで私が『アッラーの使徒よ、あなたは私よりそれに適任です』答えると使徒は『たとえそうであってもである』と言われました。そこで『もし私が両者を裁けば、私には何があるのでしょう』と尋ねると、使徒は『もしお前が両名を裁き、正しい判決を下せば、お前には10の報奨がある。もしお前が独自の推論に努め、結果的には誤った判決を下しても、お前には1つの報奨がある』と言われました。」
 またウマルも総督、裁判官を任命、罷免していた。ウマルはシュライフをクーファの裁判官、アブー・ムーサーをバスラの裁判官に任命し、シリヤ総督シュラフビール・ブン・ハサナを解任し、ムアーウィヤを新総督に任命した。シュラハビールがウマルに「私が臆病なせいで私を罷免したのですか、それとも背任のせいですか」と尋ねると、ウマルは「どちらでもない。ただ私はもっと強い男を欲したのだ。」と答えた。またアリーはアブー・アル=アスワドを任命したが、その後彼を解任した。そこでアブー・アル=アスワドが「なぜ私を罷免したのですか。私が背任したのですか、それとも罪を犯したのですか。」と彼が尋ねると、アリーは「お前が訴人たちを圧する話し方をすると思うからだ」と答えた。
 ウマルとアリーは他の預言者の直弟子たちが見聞きしているところでそれ(任命、罷免)を行ったのであるが、誰一人この両名を非難する者はいなかった。それゆえこれらの事例は全て一般論としてカリフには裁判官の任命権があることの典拠となるのである。同様にカリフには代行者に裁判官の任命を任せることもできる。それは代理委任(waklah)との類推によるもので、カリフには自分に処理権のあるすべての法律行為について代理を立てることが許されているのと同じく、自分の権限の範囲内のことは全て代行を委ねられる(inbah)。
 行政不正裁判官(qd malim)の罷免が(許されない)例外となるのは、カリフか、その補佐か、最高裁長官が被告となる訴件の場合であり、その根拠は「禁止事項の誘因となるものは禁じられる」との法原則(qidah)である。なぜならこのようなケースで、カリフにその件を裁く行政不正裁判官の罷免権を与えると(罷免されるのを恐れて)裁判官の判決に影響を与える可能性があり、結果的に、イスラーム法による裁判が機能不全をきたすが、それは禁じられているからである。病勢裁判官の罷免権をカリフに与えることは、禁止事項の誘因となるのである。特にこの法原則の適用に当たっては(行政不正裁判官が罷免を恐れてカリフや配下に有利な判決を下す恐れについて)確実性ではなく蓋然性があれば十分なのである。それゆえこうしたケースにおいては行政不正裁判官の罷免権は行政法廷に与えられるが、それ以外のケースでは規定は原則通り、つまり行政不正裁判官の任命、罷免権はカリフが有するのである。
また諸官庁の役人の任命についても、使徒ムハンマドは国家機構の官庁の書記たちを任命していたが、それらの書記たちは現行の諸官庁の役人に相当するのである。使徒はアル=ムアイキーブ・ブン・ファーティマ・アル=ドゥースイーを印璽官に任命し、また彼を戦利品担当にも任じた。またフザイファ・ブン・アル=ヤマーンをヒジャーズ地方の農産物勘定官に任命し、アル=ズバイル・ブン・アル=アワームを浄財管理官に任命し、アル=ムギーラ・ブン・シュウバを債務・商取引会計官に任命したのはそうした任命の例である。
 軍司令官や将軍たちについては、使徒はハムザ・ブン・アブドルムッタリブを海岸でクライシュ族を襲撃するための30人隊の指揮官に任命され、ウバイダ・ブン・アル=ハーリスを60人隊の指揮官に任じ、クライシュ族との会戦のためにラービグ渓谷に派遣され、サアド・ブン・アビー・ワッカースを20人隊の指揮官に任命し、マッカ方面に派遣された。このように使徒は軍司令官たちを任命されていたことは、カリフの軍司令官、将軍の任命権の典拠となるのである。
そして彼らは皆、使徒に対して責任を負っていたのであり、使徒の他の誰に対しても無答責であったことは、裁判官、諸官庁の役人、軍司令官、参謀、その他の全ての官吏はカリフに対してのみ責任を負い、国民(ウンマ)議会に対して責任を負うわけではない。彼らの誰も国民議会に対しては無答責であるが、補佐、総督、そして知事も彼らに準じて別となる(国民議会に対しても責任を負う)。なぜならこうした者たちは為政者(ukkm)の一種であるからである。それ以外の官吏は誰も国民議会には責任を負わず、全員がカリフに対してのみ責任を負うのである。
 (e)項の国家財政については、収入も支出もイスラーム聖法の規定によるものに限定され、1ディーナールといえども、イスラーム聖法の規定に依らずして徴税されることはなく、また1ディーナールといえどもイスラーム聖法の規定に依らずして費やされることはないのである。ただし支出の詳細、あるいは「予算の内訳」と呼ばれるものの決定はカリフの判断と自由裁量に任されるのであり、収入に関しても同様である。たとえば、カリフは歳入に関しては、地租納税地の地租はいくらであり、人頭税納税地の人頭税はいくらであるなどと決定するのであり、歳出については道路にはいくら、病院にはいくら、などと決めるのである。こうしたことはカリフの考えにかかっており、カリフは自分の考えと裁量に従ってそれを決定するのである。それは使徒が代官たちから収入を受領し、その配分を自ら取り仕切られ、イエメン総督のムアーズの場合のように、一部の総督には収入の受領とその配分を委ねられたからである。そしてその後には、正統カリフたちは、全員がカリフとしての職責において自分の考えと裁量に基づきその国家予算の受領と支出を自分だけで行ったが、預言者の直弟子たちの誰もそれに反対しあなかった。またウマルがムアーウィヤを起用した場合のように、カリフの許可なくしては、カリフ以外の誰一人として、そこから1ディーナールといえども自分で受け取ることはなく、また使い込むこともなかったのである。これらの事例の全てが、国家予算の内訳はカリフ、あるいはカリフが代行に指名した者が定めることを示している。
 以上が、カリフの権限の内訳の詳細な典拠は、「イマームは羊飼いであり、自分のすべての羊に対して責任がある」とのハディース である。つまり、臣民の諸事の世話にかかわる万事は全てカリフの権限であり、代理委任との類推から、カリフには、望む者に、望むことを、望む形で、代行を委ねることが許されるのである。

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』
最終更新:2011年02月12日 16:03