支障なき発言、意見表明権
 国民議会の全ての議員は、聖法の許す範囲内で、いかなる制限もない発言、意見表明の権利を有する。議員は、意見表明におけるムスリムの代理である。そして査問においては、その任務は、カリフや、その他の国家の統治者、あるいは国家機関のあらゆる公務員が行うことの批判であり、彼らへの査問は彼らに対して勧告、意見表明、提案、討議、国家の犯罪への抗議による。そして国民議会がこうしたことを行うのは全て、ムスリムの勧善懲悪、為政者への査問、勧告、協議の義務の履行における彼らの代理としてに他ならない。なぜならそれらはムスリムにとって義務であるからである。
 至高なるアッラーは言われる。
「汝らは人類に出現した最善の共同体であり、善を命じ、悪を禁ずる」(2章231節)
「地上に我らが彼に力を与えれば、礼拝を挙行し、浄財を払い、善を命じ、悪を禁ずる」(22:41)
 また以下のように、勧善懲悪を指示するハディースも数多く伝わっている。
「わが魂を御手に握られる御方にかけて、善を命じ、悪を禁じよ。さもなければアッラーはその御許からお前たちに懲罰を下され、その後には、もはやお前たちが祈っても、お応えにならないであろう。」)
「お前たちが悪を見たなら、手でそれを糾せ。もしそれができなければ舌で。それもできなければ心で。それが最弱の信仰である。」
 これらのクルアーンの節、ハディースはムスリムに勧善懲悪を命じている。為政者の査問は、勧善懲悪の一つに他ならない。統治者に対する勧善懲悪の重要性に鑑みて、統治者に対する勧善懲悪を特記するハディースさえも存在している。
「最善のジハードとは、不正なスルタンの許で真実を語ることである」
 これは統治者の査問、統治者の許で真実を語ることの義務、それがジハード、しかも最高のジハードであることを示す明文であり、それは「殉教者の長はハムザ・ブン・アブドルムッタリブ、そして不正なイマームに向かって立って、彼に(善を)命じ(悪を)禁じ、その結果殺された者である。」とアッラーの使徒の真正なハディースに述べられているように、たとえ殺されるに至るとしても、とまで、それを強く促し、勧めているのである。
 使徒が、フダイビーヤの和約の締結において、弟子たちが彼に激しく反対した時も、彼らの反対をたしなめられることなく、ただ彼らの意見を拒んで和約を結ばれたのである。なぜなら彼の行為はアッラーからの啓示によるものであったので、それについては人々の意見には何の価値もなかったからである。しかしその後で、使徒が彼らに供犠の羊を屠り、髪を剃り巡礼の潔斎を解くように求めたのに、彼らが使徒の命令に従わなかったときには、彼らを譴責されたのである。またアル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルがバドルの戦いで使徒の定めた軍営地に反対した時も、彼を叱責せず、逆に彼の諫言に従ったのである。同様にウフドの戦いでは自分の考えと違ったにもかかわらず多数意見に従ってクライシュ族の敵軍を迎え撃つためにマディーナから出征された。これらの全てにおいてアッラーの使徒は彼らの反対に耳を傾け、応えられたのである。
 また使徒の直弟子たちは、使徒の跡を継いだ正統カリフたちを査問したが、正統カリフは彼らを譴責しなかった。また彼らはウマルが説教壇に立って貢納のイエメンの上着を分配している時に彼を査問し、また彼が婚資の値上がりを禁じた時に一人の女性が彼に反対した。また預言者の直弟子たちは、ウマルがイラクを征服した後、その土地を分配しなかったので、彼に反対し、査問した。ビラールとアル=ズバイルは特に激しく反対したが、ウマルは彼らが自分の意見に納得するまで彼らと話し合い、協議し続けたのであった。
 それゆえ国民議会のどの議員にも、ムスリムの代理であることに鑑みて、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、望むままに意見を表現することができる。国民議会議員は、カリフ、カリフ補佐官、地方総督、知事、そして国家機関のいかなる公務員でも査問する権利があり、彼らにはそれに応える義務があったのである。
 そして同様に非ムスリムの国民議会議員も、彼らが被った不正に関しては、それが意見表明における聖法の規則の範囲内にある限り、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、意見を述べる権利を有するのである。

(付録1〕旗章、旗印
 アッラーの使徒がマディーナに樹立された初期イスラーム国家において以下のように存在していたことからの帰結として、イスラーム国家には旗章と旗印がある。
1.語義的には「旗章(liw)」、「旗印(ryah)」はアラビア語辞典『包括』によると、どちらも「旗(alam)」を意味する。
 その上で、聖法は用法においてそれぞれに固有の聖法的意味を付与した。
”*”「旗章」は、白地に黒で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗章」は、軍司令(amr)、軍総揮官(qid)に授けられ、その周囲を巡回する彼の場を示す印となる。
「預言者がマッカを征服し入城された時、彼の旗印は白色だった」(ハディース)
「預言者はウサーマ・ブン・ザイドをギリシャ攻撃軍の司令官に任じ、彼に旗章を授けた」(ハディース)
”*”「旗印」は、黒地に白で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗印」は師団、旅団、連隊などの軍の下位の単位の司令官たちに授けられる。その典拠はアル=ブハーリーとムスリムが伝えるハディース「使徒はハイバルの戦いで『私は明日、アッラーとその使徒を愛し、アッラーとその使徒もその者を愛する男に旗印を授ける』と言われ、それをアリーに授けた。」である。その時点でのアリーは師団長、あるいは旅団長にあたった。アル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーは以下のように述べている「私たちがマディーナに着くと、アッラーの使徒が説教壇に立っておられ、ビラールが剣を手にして彼の前に立っており、多くの黒旗がありました。『これらの旗はなんですか』と私が尋ねると人々は『アムル・ブン・アル=アースが戦いから帰還したのだ』と答えた。」『多くの黒旗がありました』とは、アムル・ブン・アル=アースが軍指令でありながら、黒旗はたくさんあった、つまり師団長、旅団長たちがそれぞれ黒旗を持っていたことを意味するのである。
 それゆえ旗章は軍司令のものであり、旗印は残りの軍、軍団、師団、旅団などのものであった。つまり旗章は一つの軍に一つしかないが、旗印は一つの軍の中にも複数存在したのである。
 それゆえ旗章は、軍司令唯一人の印であり、旗印は兵士たちの印であったことになる。
 旗章は軍司令に授けられ、彼の司令部の印となる。つまり軍司令部に固定される。戦闘中には、軍指令自身であれ、軍指令が任命した別の指揮官であれ、戦闘の指揮官が旗印を授けられ、戦場での戦闘中にそれを掲げる。それゆえ旗印(ryah)は戦場で戦闘の指揮官の許に掲げられているので「戦争の母(umm arb)」とも呼ばれるのである。
 それゆえ戦闘中には旗印は全ての戦闘の指揮官の許にあることになり、それは当時においては周知の事柄であり、旗印が立っていることは戦闘の指揮官の戦闘力の印であった。こうしたことは軍の戦闘の慣習に応じて遵守すべき組織行政なのである。
 アッラーの使徒は、ザイドとジャアファルイとイブン・ラワーフの訃報が届く前に、その死を悼まれ「ザイドが旗印を持っていたが戦死し、それからじゃあファルがそれを取ったが戦死し、それからイブン・ラワーフがそれを取って戦死した。」と言われた。
 また戦闘中に軍の総揮官が戦場におり、それがカリフ自身である場合には、旗印だけでなく旗章が戦場に掲げられることが許される。イブン・ヒシャームの『預言者伝』には、大バドルの戦いの話の中で、その戦場で旗章と旗印が掲げられていたことが伝えられている。
 平時、あるいは戦争終結後には、ムル・ブン・アル=アース軍についてのアル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーのハディースにあるように、旗印は軍の中に分散され、師団、旅団、連隊に掲げられる。
2.カリフはイスラームにおける軍総司令官であるので、聖法に則り、旗章は彼の本営、カリフ宮に掲げられる。なぜなら旗章は軍司令官に渡されるからである。またカリフは国家諸機関の行政上の長でもあるので、行政府としてのカリフ公邸に旗印を掲げることも許される。
 他の国家機関、官庁、役所については旗印だけが掲げられる。なぜなら旗章は軍司令だけに、その本営の印として、特別に与えられるからである。
3.旗章は槍に結び、巻かれ、軍団の数に応じて軍司令官に授けられる。第一軍団長、第二軍団長、第三軍団長、・・・シリア軍団長、イラク軍団長、パレスチナ軍団長、・・・アレッポ軍団長、ヒムス軍団長、ベイルート軍団長・・・など軍の名称に従って、軍団長に与えられる。
 原則は、槍に巻きかれており、例えばカリフの重要性ゆえにカリフ宮の上に掲げられる場合や、平時であっても軍の旗章の栄光をウンマ(ムスリム共同体)が目にするために、軍団長たちの軍営の上に掲げる場合のような必要性がない限り掲げられない。但しこの場合でも敵に軍団長の軍営地を知られる恐れがあるなど国防面で問題が生ずる場合は、原則に戻り、巻かれてしまったままにし、掲げない。
 旗印は現在の普通の旗のように風になびくままにしておけばよく、諸官庁に掲げられる。
要約
第一:軍
1.交戦状態においては、旗章は軍団長の軍営に置かれる。原則は広げず槍に巻きつけておくが、安全が確保できれば掲げることも出来る。 旗印は戦場でも戦闘の指揮官が掲げ、カリフが戦場にいるなら、旗印を掲げることも出来る。
2.平時には、旗章は軍団長たちに渡され、槍に巻かれるが、軍団長たちの軍営に掲げられることもできる。
旗印は軍の中で、師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊に分散され、各師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊毎に行政的に独自の旗印を持ち、それを掲げても構わない。
第二:国家諸機関、官庁、治安機関
旗印のみが掲げられる。但しカリフ宮は例外で、カリフは軍総司令官であることから、旗章が掲げられる。また行政的にはカリフ宮は官庁の最高府でもあるから、旗章と旗印を共に掲げることもできる。また民間団体や民間人もまた、特に祝日や戦勝記念日などの機会などに、その社屋や自宅に旗印を持ち、掲げることが出来る。

(付録2)カリフ国家の国歌
 特定の集団を他集団と、あるいは国家を別の国家と区別するために唱える標語を定めることは許容事項の一つである。ムスリムたちは他国との会戦での標語を作っており、アッラーの使徒の治世にも彼の承認の下にそれを用いていた。「塹壕の戦い」、「クライザ族との戦い」では「ハーミーム。彼らは神佑を得ない。」「ムスタラク族との戦い」では「神佑を得た者よ、私は殺せ、私を殺せ」という標語などを採用していた。
 加えて、アッラーは人間に、聴力、視力、発話能力などの身体的特性を恵み給うたのであり、それは許可の一般的根拠となる。特別に何かが禁止されたとの典拠がない限り、望むがままに、聞き、見、話し、標語を唱えればよいのである。
 それゆえカリフ国家には、他の国と自らを識別するために唱えられる標語を採用することは許される。外交関係において、カリフが他国を訪問するとき、あるいは他国の使節を謁見する時などにそれを用いるのである。同様に一般庶民も、様々は機会に、寄り合い、公共の集会、学校、放送などでそれを唱えることが出来る。朗唱の方法については、大きな声で唱えようと、小さな声で唱えようと、抑揚をつけて唱えようと、抑揚無しに唱えようと、それらは全て許されているのである。ムスリムたちは彼らがそれを唱える機会に応じて心を打つ声で自分たちの標語を吟唱していたのである。
 そこでカリフの諸外国の元首たちとの公式会見で必ず唱えられ、国民(ウンマ)が特定の機会に唱える国歌を作詞することに決めた。アッラーのお許しにより正統カリフ国家が再興された時には、その国歌には以下のような条件が遵守される。
1.その中で、正統カリフ国家の再来についてのアッラーの使徒の予言が実現し、アッラーの使徒である鷲の旗が再び掲げられることが述べられること。
2.カリフ国家再興の暁には大地は財宝を吐き出し、天はその恵みを降らせ、不正に満ちた大地を正義で満たすとの使徒の予言について言及する。
3.参詣される3つのモスク、マッカの聖モスク、マディーナの預言者モスク、そしてユダヤ人機構の根絶の後のエルサレムの最果てのモスクを筆頭とするイスラーム諸地方のカリフ国家への編入後の全世界の征服と善の普及について言及する。
4.ウンマ(イスラーム共同体)が、アッラーの御望みになる人類最善のウンマに戻り、その最大の目標がアッラーの御満悦であり、アッラーがその恩寵、慈悲、最高の楽園の栄光を授けてくださることを最後に述べて終わる。
5.国家の中で「アッラーは至大なり」と繰り返し唱える。「アッラーは至大なり」の語は、イスラーム、ムスリムの生活に特別な地位を占める。それはムスリムたちの勝利や祝日に繰り返し唱えられ、感動的なあらゆる場で口を衝いて出るのである。
以上に述べたことに基づき、アッラーのお許しにより適当な機会に、カリフ国家の国歌の全文テキストが本書の付録に収められることになろう。
我々は最後に祈る。万世の主アッラーにこそ称えあれ。
最終更新:2011年02月12日 15:45