呪われるべき人定法をクルアーンと取り替えることこそ、明々白々な最大の不信仰であり、「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」との尊くも畏きアッラーの御言葉に対する違背、頑迷な敵対である。クルアーンは天使ジブリールが、ムハンマドの心に明瞭なアラビア語で啓示したものであり、それによって世々を統べ治め、係争者たちの訴訟にあたって準拠すべきものであり、彼が警告者の一人となるように、とのものであった。
自分たちの間に生じた争いについて、預言者ムハンマドに裁定を求めない者について、アッラーは、否定詞の繰り返しと誓言によって強調された否認によって、その者が信仰を有することを否定している。至高者は仰せられる。「それゆえ否。汝(ムハンマド)の主に誓って、彼らは自分たちの間に生じた争いを汝に裁定を求め、それで汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず、服従し従うまで、信仰したことにはならない。」彼らが単に使徒ムハンマドに裁定を求めるだけではなく、加えて心にわだかまりを少しでも抱かないのでない限り、アッラーは十分であるとはされなかった。それは「汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず」との御言葉に基づくが、「わだかまり」とは「不満」であり、使徒の裁定によって彼らの心が晴れ、懸念や疑問を抱かないことが必要とされるのである。
またアッラーは、服従が付け加えられない限り、それら二つ(使徒に裁定を求めその裁定に不満を抱かないこと)だけでも十分とはされなかった。服従とは、使徒の裁定に対する完全な従順であり、それに対して心に何事も気に留めず、それを真理の裁定に、最も完全な服従によって従うことによるのである。それゆえ、そこにおいては単に従うだけでは十分ではなく、絶対的服従が必要であることを明らかにする「服従し」との御言葉の強調の同属目的語の動名詞によって、アッラーはそれを強調されているのである。
第一のアッラーの御言葉「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」争いの種類や量が想像できる一般論である「汝らが争うなら」との条件節の中で、「なにごとであれ」との非限定名詞をアッラーがいかにして用いられているかを、よく考えてみよ。
次いで、「汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら」との御言葉で、アッラーがいかにしてそれをアッラーと最後の日に対する信仰の成立の条件とされたかを、よく考えてみよ。
次いで、アッラーは「それが最善」と仰せられている。そしてアッラーが無条件に(不定名詞で)「最善」と仰せになられたものは、悪が決して触れることがなく、現世と来世における純粋な善なのである。
次いで、アッラーは「最善の結論」と仰せられている。つまり、現世と来世における(最善の)結末を意味する。それゆえ、係争におけるアッラーの使徒ムハンマド以外への準拠は、純粋な悪であり、現世と来世における最悪の結末となることを帰結する。
それは丁度、偽信者たちが「我らは善行と調停を望むのみである」、「ただ我々は改善者である」と言うのと逆であり、それゆえアッラーは、こうした偽信者たちを論駁して「彼らこそは害悪をなす者ではないか。しかし彼らは気づいていない。」と仰せられているのである。
またそれは、世界は人定法への準拠を必要としている、いやそれが必要不可欠である、との人定法支持者たちの人定法についての判断とも逆である。そしてそれはアッラーの使徒ムハンマドがもたらしたものに対する純粋な蔑視、アッラーとその使徒の明証の軽侮、それが人々の係争を満足に解決できないとの判断なのであり、現世と来世の悪しき結末こそが、彼らに必定なのである。
また(クルアーンの)次の節の中の「自分たちの間に生じた争いを」との御言葉の一般原則についてよく考えてみよ。
また(クルアーンの)次の節の中の「自分たちの間に生じた争いを」との御言葉の一般原則についてよく考えてみよ。また法理学者などの見解によると、関係代名詞と関係代名詞文は一般論の形式を伴う。そしてそれの一般性、包括性は、種や類の面におけるのと同様に量の面においてもであり、ある種類を異にしても相違は無く、また多寡に拘らず変わりは無いのである。それゆえアッラーは、アッラーの使徒ムハンマドの齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めた偽信者たちの信仰を否定され、仰せられている。「おまえは、おまえに下されたものとおまえ以前に下されたものを信じると言い張る者たちが邪神に裁定を求めようとするのを見なかったか。それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず。そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる。(4:60)」
「言い張る」との御言葉は、彼らの言い張る信仰において彼らが嘘つきであるとしている。なぜならば預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めることは、人の心中の信仰とそもそも共存することはありえず、一方が他方を排除するからである。「邪神(taghut)」とは、「限界を超えること」を意味する「法外(tughyan)」の派生語である。そして預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外によって裁く者、あるいは使徒ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求める者は全て、邪神に従って裁き、邪神に裁定を求めたことになるのである。それというのも、預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに基づき、それ以外に依拠することなく裁くことが、万人の義務だからである。
また同様に預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに裁定を求めることが、万人の義務であり、それ以外のものに基づいて(自ら)裁くか、それ以外のものに裁定を求めた者は、(自らの)裁定、あるいは(他者に)裁定を求めることにおいて、彼の限界を超え、法外な行いを為したことになり、それによって彼の限界を超えることにより法外な邪神と化したことになるのである。
そして「それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず」との御言葉についてよく考えてみよ。これから欧米人定法讃美者たちがこの問題についてアッラーが彼らに求めていることに頑迷に敵対し背反を望んでいることが知られる。なぜならば聖法によって彼らに求められていること、そしてそれによってアッラーを崇拝すべきことは、邪神の拒絶であり、邪神に裁定を求めることではないからである。「そして不正を犯した者たちは、言葉を彼らが語られたもの以外に取り替えた。」
ついで「そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる」とのアッラーの御言葉、それが迷妄であることをアッラーがいかに示されたかを、よく考えよ。欧米人定法讃美者たちは、人定法が導きとなると考えている。それはこのクルアーンの節が、欧米人定法讃美者たちが、自分たちが悪魔から遠く離れており、人定法が人々の役に立つと思い込んでいるのとは逆に、人定法(導入)は悪魔の意思であり、彼らの主張に従うと悪魔の望む諸事は人々の福利であり、アッラーの望むところのものとなり、(逆に)預言者ムハンマドが携えて遣わされたところのもの(クルアーン)は、その名(人々の利益)に値しないもの、その任(人々の福利とアッラーの御意思の実現)に耐えないものとなるのである。
アッラーはこの類の輩を拒絶し、彼らが無明時代の裁定を欲していることを確証し、アッラー御自身の裁定が最善の裁定であることを明らかにした上で、「それでも汝らは無明時代の裁定を望むのか。確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか。」とおおせられているのである。この節が、裁定の区分は二元的であり、アッラーの裁定以外には、無明時代の裁定しか存在しないこと、そして欧米人定法讃美者たちは、彼ら自身がそれを認めようと認めまいと、無明の徒の仲間であること、いや彼らよりも性状が邪悪で言論において嘘が多いことを示されているかをよく考えてみよ。
というのは、無明の徒には、この件に関して、二枚舌だけはないからである。一方、欧米人定法讃美者たちたちは預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)を信ずると言い張りながらも、それに矛盾することを行い、「その中間に(折衷の)道を得ようと望んでいるから」(4章150節)である。そしてアッラーはこうした類の輩について「これらの者たちこそ、本当に不信仰者である。我らは不信仰者たちに恥辱の懲罰を用意した。」と仰せられている。
また、この節が、欧米人定法讃美者たちに対して、彼らの思いつきのがらくた、でっちあげた考えが素晴らしいとの主張を、「確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか。」との御言葉で、いかに論駁しているかをよく考えてみよ。
②へ