ハディース学匠イブン・カスィール(1373年没)は、この節の注釈の中で以下のように述べている。
「あらゆる良きものを含みあらゆる悪を禁ずる確定したアッラーの裁定から離れ、アッラーの聖法に依拠せずにそれ以外に人間が作った思いつき、妄念、制度などに逸れる者を拒否される。それは丁度無明時代の者たちが、彼らの思いつきや妄念によって作り上げた虚妄に依拠して裁定したのと同じであり、また(イルハン国の)モンゴル人たちが、ジンギズカンが彼らに制定したユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの様々な教えの部分を抜き出した法規の寄せ集めの法典から取った政令に依拠して裁定したのと同じなのである。そしてその中にはただの彼らの思いつき、妄念から作り出した多くの規定があり、それらは彼の子孫たちにとって従われるべき法となり、彼ら(イスラームに改修したイルハン国のモンゴル人の王たち)はそれをクルアーンとアッラーの使徒ムハンマドのスンナに基づく裁定に優先しているのである。そしてそのようなことを行う者は不信仰者であり、そうした者に対しては、アッラーとその使徒の裁定に帰順し、多少に拘らずそれ以外のものに裁定を求めなくなる迄、戦闘が義務となる。
アッラーは「それでも汝らは無明時代の裁定を望むのか」(5:50)、つまり、アッラーの裁定から逸れて無明自体の裁定を好み欲するのか」、そして「確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか」(5:50)、つまりアッラーからその聖法を授かり、それを確信、信奉し、アッラーはその被造物に対して母親がその子に対するよりも慈悲深いことを知った者にとって、裁定においてアッラーよりも更に公正な者が誰かいようか、と仰せられている。なぜならアッラーこそ、全てのことを知り、全てのことが可能で、全てのものに対して公正な御方であらせられるからである。」(了)
またアッラーはこの前の節で、その預言者ムハンマドに語りかけ、「それゆえ彼らの間をアッラーが下されたものによって裁き、おまえにもたらされた真理から離れ、彼らの欲望に従ってはならない。・・・(5:48)」、「そして彼らの間はアッラーが下されたもので裁き、彼らの欲望に従ってはならない。彼らがおまえを、アッラーがおまえに下されたものの一部から惑わし逸らせることを、彼らに警戒せよ。」(5:49)と仰せられている。
またアッラーはその預言者ムハンマドに、ユダヤ教徒たちが彼の許に裁定を求めてやってきた場合に、彼らの間を裁くか、あるいはそれを拒むかのどちらを選ぶことも許され、仰せられた。 「・・・それでもし彼らがおまえの許に来たなら、彼らの間を裁くか、あるいは彼らから背を向けよ。そしてたとえおまえが彼らから背を向けても、彼らはおまえをわずかにも害することは決してない。また、もし、おまえが裁くなら、彼らの間を公平に裁け。まことにアッラーは公正な者たちを愛し給う。」(5:42)「公平」とは「公正」であり、本当はアッラーとその使徒の裁定以外には「公正」は存在せず、それ以外に基づく裁定は不公平、不正、迷妄、不信仰、邪悪なのである。それゆえアッラーはその後の節で「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)、「・・・そしてアッラーの下されたもので裁かない者、それらの者こそは不正な者である」(5:45)、「・・・そしてアッラーが下されたものによって裁かない者、それらの者こそは邪な者である」(5:47)と仰せなのである。
それゆえ、アッラーが下されたもの以外によって裁く者たちについて、アッラーが、いかに不信仰、不正、邪悪と書き留められたかを見よ。
アッラーが下されたもの以外によって裁く者をアッラーが不信仰者と名づけておられるのに、その者が不信後者ではない、ということは有りえず、行為における不信仰か、信条における不信仰のいずかの、総称的不信仰者なのである。そしてターウースなどが伝えるところの、この節に関するイブン・アッバースの言葉は、アッラーが下されたもの以外によって裁く者が、ムスリム共同体から破門される(nqil al-millah)信条の不信仰か、共同体から破門まではされない行為における不信仰のいずれかの不信仰者であることを示しているのである。
第一は、信条の不信仰であり、それにはいくつかの種類がある。
それらの第一はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定の最善性を否定する場合である。これがイブン・アッバースから伝えられた意味であり、イブン・ジャリール(アル=タバリー)が、これこそがアッラーが下された聖法の裁定の否定であると選定したものであり、これについては学識者の間に異論は存在しない。なぜなら、宗教の基礎(神学的信条)のうちの一つ、あるいは宗教の枝葉(法学的規範)であってもコンセンサスの成立している一つの事項を否定する、あるいはアッラーの使徒が確実に齎したと知られるもののうちの一言でも拒絶する者は、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることは学識者の間で合意され確定した原則だからである。
第二はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定が正しいことは否定しないが、アッラーの使徒以外の裁定の方が、使徒の裁定よりも更に良く完全で、また人々の間の係争を裁くにあたって彼らが必要とするものについてよい行き届いていると信ずることである。それは一般的であっても、時代の進歩と状況の変化の結果として生じた現代的な事柄に関してであろうと、やはり疑いの余地無く不信仰である。なぜならその者は、被造物である人間のがらくたのような思いつき、こしらえた考えを誉むべき英明なる御方(アッラー)の裁定よりも勝ると考えているからである。
アッラーとその使徒の裁定は、それ自体においては、時代の進歩、状況の変化、事象の進展によって変わることはない。なぜなら、いかなる問題であれ、テキストの明文、表意、含意などの形で、クルアーンとアッラーの使徒のスンナの中にその裁定がないものは存在しないからである。そのことを知る者は知っているが、知らない者が知らないのである。
状況の変化によってファトワー(教義回答)が変化する、とイスラーム学者たちが述べている意味は、イスラームの諸規範の論点、事由の知識が乏しいか無い者たちが考えているのとは違うのである。というのは、彼らはその意味を自分たちの間違った有害な動物的欲求、現世的願望、考えに合うように都合よく解釈しているからである。それゆえ彼らはそれを擁護し、(クルアーンとスンナの)明文テキストを力の限りその下位に置き、従属させ、その言葉を文脈から外して歪曲しているのである。
それゆえ、状況と時代の変化に伴いファトワーが変るという意味は、イスラーム学者たちの意図するところでは、聖法の基本、考慮すべき事由、アッラーとその使徒が意図していた種類の福利は変らずに継続しているようなものなのである。欧米人定法の信奉者たちは、それから逸脱しており、なんであれ自分たちの欲望に適うことしか言わないのである。現実が何よりも雄弁な証拠である。
第三は、(欧米人定法が)アッラーとその使徒の裁定よりも良いとは信じないが、それと同等だと信ずることである。これは、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることにおいて前の二つの範疇と同じである。なぜならばそれは、、被造物(人間)を創造主(アッラー)と同等とすることを帰結し、また「何ものも彼(アッラー)のようではない」との御言葉のような主(アッラー)の完全性の占有、本体、属性、行為における人々の係争の裁定における被造物に対する優越の超越性を示しているクルアーンの諸節への違背、頑迷な敵対であるからである。
第四は、アッラーの下されたもの以外によって裁く者の裁定が、アッラーとその使徒の裁定より優れていることはもとより、それと同等とも信じないが、にもかかわらずアッラーとその使徒の裁定と異なるものによる裁定が許されると信ずることである。決定的に明瞭な真正な(クルアーンとスンナの)明文テキストによって禁じられていることが知られることをその者が許されると信じているために、これにも前の諸範疇に当てはまること(イスラーム共同体から破門される不信仰)が当てはまる。
第五は、聖法に対する頑迷な敵対、その諸法規を見下す傲慢、アッラーとその使徒への背反、イスラーム法裁判所に対する競合において、装備、浸透性、所管、基礎付け、展開、組織性、多様性、実効性、強制性、準拠法令、公文書において、(それら不信仰の信条のうちで)最も重大で、最も包括的で、最も明白なものである。(それらに準拠法令、公文書があるのは)イスラーム法裁判所にもその根拠が全てクルアーンとその使徒のスンナのみである演繹された準拠法令があるのと同じく、それらの(欧米実定法)裁判所にも準拠法令がある。それはフランス法、アメリカ法、イギリス法などの多くの法律や、聖法を僭称する異端的諸派の様々な法の寄せ集めの法律なのである。
イスラームの諸国の多くのこれらの裁判所は、完全に整備され、門戸が開かれ、人々はそれに続々と押し寄せ、それらの支配者たちは人々をクルアーンとスンナに背くその人定法の諸法規によって裁き、人々にそれを強制し、彼らにそれを認めさせ、それを義務付けるのである。この不信仰よりも重大ないかなる不信仰があろうか。そして「ムハンマドはアッラーの使徒である」との信仰告白に対する違背があろうか。この違背以上の、預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)に対するいかなる違背があろうか。
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