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今回、私たちが歌う「ヨハネ受難曲」の作曲家J.S.バッハには、意外にお茶目な(?)エピソードがあります。「音楽のよもやま話」第1号は、そんなバッハの一面をお届けします♪

1703年、バッハは、ドイツのアルンシュタットという町の新しい教会にオルガニストとして招かれます。
そこでは、ラテン語学校の生徒の合唱隊の指導もしていたのですが、生徒たちの質はかなり悪かったらしく、まだ若干二十歳だったバッハは、生徒たちと激しくやりあうこともあり、聖職会議からたびたび叱責を受けていたようです。
そんなストレスを発散させるためか、1705年10月、バッハは1ヶ月の休暇をとって、アルンシュタットから400kmほど離れたリューベックという町へ向かいました。
当時、第一線のオルガニストとして活躍していた巨匠ブクステフーデ(1637-1707)が、このリューベックの聖マリア教会でオルガニストを務めていて、彼の演奏を聴くために、多くの人がこの町を訪れていました。
当然、バッハも彼の音楽に夢中になり、1ヶ月だったはずの休暇は、なんと4ヶ月にもなってしまったのです。(そんなに無断欠勤して大丈夫なんでしょうか。)
さて、ブクステフーデは、ちょうど自分の後継者のオルガニストを探しているところでした。そこへ才能あふれるバッハが現れたのです。ブクステフーデが見逃すはずもなく、バッハに後継者の話をもちかけます。
ところが、バッハは、この名誉ある地位を断ってしまいました。
30歳になるブクステフーデの娘との結婚が条件だったからです。バッハは20歳。まあ、断るのも無理ないかと…。(この時すでに、最初の妻となるマリア・バルバラと恋愛関係にあったとの話もあります。地位や名誉よりも、愛を選んだということでしょうか~!)
お父さん、そんな風に娘を結婚させちゃダメでしょ、と思うのですが、ブクステフーデ自身、前任のオルガニストの娘と結婚しており、このような”世襲”は、珍しいことではなかったようです。
けっきょく、バッハは1706年2月にリューベックを去り、アルンシュタットでの仕事に戻りました。
またしても、聖職会議からお叱りを受けたことは言うまでもありません…。

ちなみに、この話には、後日談ならぬ”前日談”があります。
バッハがリューベックを訪れる2年前の1703年、バッハと同世代の音楽家ヘンデルが、この町を訪れているのです。
バッハと同じく、ブクステフーデの演奏に魅了され、ブクステフーデから才能を認められ、自分の後継者にと誘いを受け、娘との結婚を条件に出され。。。
そして、丁重にお断り申し上げ、リューベックを立ち去りました。

バッハもヘンデルも、リューベック滞在はわずかな期間でしたが(結婚を迫られたから?!)、ここでのブクステフーデとの出会いは、後の2人の音楽に大きな影響を及ぼすことになります。
今や「音楽の父・母」と並び称される2人の大音楽家、そして、その2人に影響を与えたブクステフーデに、こんなつながりがあったなんて、ちょっと微笑ましいですね。
それにしても、ことごとく結婚を断られたブクステフーデの娘。その後、どうなったのでしょうか。気になります。。。
(Sop1/Mami)


カテゴリ: [MOK 音楽のよもやま話] - &trackback() - 2007年04月27日 11:59:24
  • なんとも、時空を越え 興味深い(おもしろい!)話なのでしょう・・・。 -- Sop2/NOZO (2007-05-15 15:56:50)
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最終更新:2007年05月15日 15:56