- リバタリアニズムというのは非常に定義するのが難しい政治思想だと思います。あえて言えば、広い意味での「集産主義」の対偶概念といったところでしょうか。自由を徹底的に消極的にとらえる、言い換えれば、自由を国家による恣意的強制の欠如としてとらえる点が全てのリバタリアンに共通する唯一の特色とも言えるような気がします。問題になるのは、その自由はどこからもたらされるのか、という点です。ノージックの「権原理論」ように自由を自然権とみなし、社会契約論的な構成をとることは不可避的に「個人のアトム化」、すなわち、家族や伝統・慣習から切り離された原子論的な個人を想定することを含意しています。これは個人のもつ理性への過信、ハイエクの言う「設計主義的合理主義」の産物だと思います。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-03-04 02:24:56)
- これに対し、自由を「法の支配」という自生的ルールの賜物とみなし、言葉では言い表せないような伝統や慣習、さらには人間の無知に立脚するようなハイエク的なリバタリアニズムは、それ自体が一つの政治思想というよりはより大きなくくりの保守思想の中の「自由を愛する心」、いいかえれば「パターナリズムに対する健全な嫌悪感」を抽出したもののように私には思えます。保守主義を信奉する人の中には、リバタリアニズムと聞くと急進的な個人主義をイメージして嫌悪感を覚える方もいらっしゃるでしょう。しかし、自主独立の気概を持ち、困難を乗り越えようとする個人の存在は自由社会にとって何物にも代えがたい財産です。伝統や慣習と個人の自由は不可分であり、両方そろってこそ価値があるのだと思います。保守思想がたんなる右翼思想に転落しないためにも、リバタリアニズムを検討してみることは大いに意義あることだと私は思います。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-03-04 02:26:23)
最終更新:2019年07月26日 16:08