放置

10平方メートルほどの、天井も壁も真っ白な部屋。
ドアがあるだけで、部屋の中はがらんとしている。
その中央に卵が1個置いてあった。

卵がカタカタ、カタカタと揺れ出した。殻にヒビが入る。
ヒビが広がって殻の一部が割れてぽろりと床に落ちた。
半分ばかりが割れ落ちると、中からベビンネが姿を現わした。
「チィ……チィ……♪」
可愛らしい産声をあげると、のそりと殻の中から這い出した。

だが部屋の中には誰もいない。
本来ならベビンネを優しく抱き上げるはずの母親タブンネの姿はなかった。

「チィ……チィ……♪」
ベビンネは再び鳴き声を上げた。もちろんどこからも返事はない。

「チィ……チィチィ……」
三度声を上げる。空しく自分の声が部屋に反響するだけだ。


「チィィ……」
誰も応えないことに本能的に異変を感じ取ったのか、
やむなくベビンネは自力で母親、もしくは食物のところへたどり着くべく、
体をぷるぷると震わせながらゆっくりと這い出した。
粘液で濡れたままの体を引きずり、ずるずると這って行く。
しかし生まれた直後の未熟な筋肉では、それすらも過酷な運動である。
1センチ進んでは休み、2センチ進んでは息をつくという有り様だ。
合間合間に「チィ……」と鳴いては返事を待つが、状況は変わらなかった。

1時間が経過した。まだ1メートルも進んでいない。
乾きつつ体毛は、本来なら母親タブンネが舐めて毛づくろいし、
綺麗なピンク色になっているべきところであるが、
誰も手入れしてくれないために、ボサボサで粘液で汚れた色のままだ。

「ヂィ…ヂィヂィ!………ヂィィ!」
何も変化の起こらない状況に癇癪を起こしたのか、ベビンネは大声を張り上げた。
と言っても、産声のトーンが少々上がった程度の弱々しいものでしかない。
むしろ鳴き声を上げすぎたせいか、声がしわがれて濁っている。
それでも反応がないと知り、諦めたように「ヂィィ…」と一息ついてまた進みだした。

さらに3時間が経過する。ベビンネの動きが鈍くなってきた。
生まれてから母乳どころか水一滴すら口にすることもなく、
過酷な運動を続けたのだから、衰弱が激しくなってきたのだろう。
結局3メートル弱ほど進んだところで、もう這うのは諦めたようだ。
時折「フィィ…」と弱々しい声を上げるだけだ。
しかし何もしなくても、餓えは容赦なくベビンネを苛み、体力を奪っていく。
その命の火は徐々に消えつつある。

ベビンネが懸命に頭を持ち上げた。プルプルと頭が震えたかと思うと、
目がゆっくり開かれた。普通なら目が開くのは生後10日前後、ありえないことである。
だが迫り来る生命の危機を感じて、本能で無理やりこじ開けて周囲を見ようとしたのだろう。
しかし残念なことに、本来の機能が成熟される前に不自然に開けられたその瞳は、
わずかに青みがかった半透明で、タブンネ本来の鮮やかな青には程遠いものだった。
おそらく何も見えていないに違いない。
それでも頭を必死に動かし、ベビンネは周囲を見渡そうとしている。
しかしこの無言の世界には、動くもの一つなく、音も聞こえない。
空しくベビンネは「フィ…」と頭を下ろした。まぶたは開いたものの、閉じる力すらないようだ。

それからさらに3時間後、遂に終焉が訪れた。
目を開けて以降、かすかに呼吸するだけだったベビンネの体が小刻みに震え始めた。
最後にもう一度だけ、救いを求めるように弱々しく小さな手を伸ばす。
開きっぱなしで乾いた眼球には涙すら流れず、もう光はない。
「フィィ…フィィィ……」
苦しげに二、三度呼吸したかと思うと、そのまま動かなくなる。
ベビンネは今、半日あまりのわずかな命を終えたのだった。

白い部屋の中は相変わらず沈黙が支配していた。
しかしよく見ると壁の数箇所には、ほとんどわからない程の微小な監視カメラが設置されていた。
もちろん部屋の中の一部始終を中継するためのものだ。

別室では、その映像が巨大なモニターに映し出されていた。
1匹のタブンネが椅子に拘束され、強制的にベビンネが息絶えるまでの様子を見させられていた。
このベビンネの母親タブンネだ。目からは滝のように涙が流れている。
看守の制服を着た男が猿轡を外すと、「ミエェェェェン!!」と堰を切ったように号泣し始めた。

母親タブンネは涙ながらに訴えた。
「どうして…どうしてこんなひどいことするミィ!?」
看守はニヤニヤしながら答えた。
「どうしてだと?お前らが望んだことじゃないか。自分で言ったのを忘れたのか?
 『私達はどうなっても構いませんミィ、その代わりこの卵には何もしないでミィ!』とな。
 だからその希望はかなえてやったんだろうが。俺達は卵に何もしなかったぞ。
 あのガキは勝手に死んだのさ」
「何もしないって……そんな意味で言ったんじゃないミィ!」

「やかましい!!」「ミギィィ!!」
看守の鞭が飛び、拘束された母親タブンネは悲鳴を上げた。
「図に乗ると、お前もこいつのようになるぞ!生かしておかれただけ有難いと思え!」
看守が鞭で指した先には、拷問台に逆さ磔にされ、腹が割かれ内蔵が飛び出した状態で、
これ以上はないであろう苦悶の表情で死んでいる、1匹のオスのタブンネの姿があった。
ベビンネの父親タブンネである。

拘束されている母親タブンネとこの処刑された父親タブンネは、ひそかに愛し合い卵を作ったために、
父親は拷問死、卵は白い部屋に放置され、母親は両者の死を強制的に見物させられるという
地獄の罰を与えられたのである。

鞭をふるいながら看守は叫んだ。
「いいか、お前は殺さん!労働現場に戻って仲間達に伝えろ!勝手な真似をすればこういう目に遭うとな!」
「ミヒッ!ミヒッ!ミヒィィィィ!!」
「お前らが今どこにいるか忘れるな!ここはなあ、この世の地獄・タブシュビッツだ!!」
母親タブンネの悲鳴と、鞭で打たれる音は、いつ果てるともなく部屋の中に響き続けるのであった。


ここはタブンネたちにとっての地獄、強制収容所タブシュビッツ。
ここから生きて出られたタブンネはいない。

(終わり)

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最終更新:2013年09月16日 01:00
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