あれは一昨年の夏の出来事だった。仕事の転勤で私は妻と共にイッシュ地方ヒウンシティに引っ越してきた。
転勤してからは忙しい日々だった。今までの職場では割と緩い環境であり、期限さえ守れば何も言われなかった。
むしろ皆、社交的な対応をしており、とてもオープンなオフィスだ。
それに比較して現在の職場は、一言で表現すれば地獄。勤務時間中は馬車馬のごとく働かされ、ミスをすれば上司からの罵声。
同僚や他の社員もその環境の中、ギスギスした状態であり、塞ぎ込む社員も少なくはなかった。
しんどい。転勤してから2週間程、私はその言葉ばかり口にしていた。
そんな私を思って、専業主婦の妻はある提案をした。
「ねえ、あなた。明日、お休みでしょ?ペットショップに行きましょ」
「ペットショップ?なんでまた?」
「転勤してからストレス溜りまくってるでしょ。こういう時、ヒアリングするのが一番なのよ」
妻はパソコンを開いて私にペットショップのホームページを見せた。
ヒアリングポケモン、タブンネ。最近入荷されたポケモンらしく、「癒し」をテーマにしたポケモンらしい。
「タブンネか。可愛らしいな。折角の休みは癒されたい。明日、早速行ってみよう」
「ふふ、あなたならそう言うと思ったわ。さ、夕食にしましょ」
今思えば、ここから間違いだったのだろうかと思う。
妻がペットショップに行こうと言わなかったら…
私が見に行こうと言わなかったら…
翌日。家で昼食を済ませた私たちはペットショップに赴いた。
そこには様々なポケモンが商品として並べられていた。
イーブイ。チラーミィ。ガーディ。どれも人気のポケモンだ。
そして、ホームページで見たあのポケモンがいた。
「お客さん。このタブンネなんてどうです?この子はとても利口で癒されますよ。今なら表示価格から7割引きでどうでしょう?」
「え?そんなに値引きしちゃって大丈夫なんですか?」
「はい、タブンネは良く売れますからね。セール期間中なのですよ」
私は妻と相談し、7割引きでタブンネを買い、家に連れて帰った。
ペットショップで購入したケージを組み立て、その中にトイレと水を入れる。
「さあタブンネ。今日からここがお前の家だよ」
ミィ。そう鳴いたタブンネは不思議そうに首を傾げながらケージの中に入る。すると今度は嬉しそうにミィミィと何回も鳴き始めた。
よかった。どうやら喜んでくれているみたいだ。その天使のような笑顔に私は癒された。
妻もその様子を楽しそうに眺めていた。私の仕事で疲れ切っていた表情が大きく和らいだ事で安堵しているのだろう。
タブンネの世話は、私が家に居る時は私が。私が仕事に行っている時は妻がすることになった。
休みの日は二人で面倒を見ることとし、時々はタブンネを散歩させることにした。
ちなみに記載し忘れていたが、このタブンネは雌である。
だが、私は何か違和感を覚えていた。それはタブンネを飼ってから2週間してからの事だった。
自分でしっかりと餌であるオボンの実も食べ、排泄もしている。確かに利口だ。
抱き締めてやれば甘えてくれ、笑った顔は最高だ。ヒアリングポケモンは伊達ではないだろう。
では、何が違和感なのか。まだわからない。
ある夜、風呂上がりにビールを飲んでいる時のことだった。妻は私に話しかけてきた。
「ねえ、あなた。タブンネ、どう?」
「ああ。お風呂に入る前に寝かしつけたよ」
「そう…じゃなく、あのタブンネの様子よ。何かおかしくない?」
「おかしいって、何かあるのか?」
私も確かにおかしい気がするとは思っているが、それがいったい何なのかが定かではないために黙っていた。
一方の妻はため息をついて話し始めた。あの優しい妻がため息をつくのは少し珍しいことだったが。
「あの子、私に懐いていない気がするのよ。ここ2、3日。お昼ご飯のオボンの実、いつもなら2つなのに3つも食べるのよ?」
「そういえば夜ご飯も3つ食べてたな。身体も少し大きいみたいだし、食いしん坊なんじゃないのか?それに、懐いていないと何が関係ある?」
「私とあまり話そうとしないのよ。遊んであげてる時も、あなたと遊んでる時の方がよっぽど楽しそう…」
妻は落ち込んでいるようだ。私のために良かれと思って勧めたペットショップで飼ったペットなのだ。
それが、あまり懐いていないとのことならば落ち込むのも無理はない。
私はどうしたものかと、ひとつ悩みが増えてしまった。
きっと私たちの考えすぎなのだろう。妻もその日はその結論で渋々納得し、眠りについた。
それから休日がやってきた。今日、初めてタブンネを散歩させるのだ。
ミィミィ。どうやらタブンネも喜んでいるみたいだ。
昼食を食べた後、私と妻は食後の散歩も兼ねてタブンネを連れて外へ出た。
「こうしているとなんだか子どもができたみたいだな」
「ふふ、そうね」
先日の悩みの事など忘れており、私たちは純粋に楽しむ。
だが、散歩の途中のことだった。妻が銀行でお金を下ろしに行っている時のことだった。
公園で待っていたものの、目の前で迷子である男の子が泣いていた。
どうやら両親とはぐれてしまったらしく、私はタブンネにドーナツを与えてベンチに座らせ、男の子の方に向かった。
「パパとママとはぐれたんだな。大丈夫かい?」
偶然、近くを通りかかった警察の男性に事情を説明する。
警察は快く引き受けてくれ、少年を預かってくれた。
大体10分程だっただろうか…。すぐに少年の両親は見つかり、私は安堵した。
一段落して私はタブンネの所に戻るもその姿がなかった。
しばらく近くを探すと別のタブンネと居るところを見つけ、タイミング良く妻も戻ってきた。
「何してるのかしら?」
「さあ?」
首を傾げながら私はタブンネに声をかける。今日ももう良い時間だ。そろそろ帰らなくては明日へと差し支える。
タブンネを家に連れて帰り、妻は早速夕食の準備に取り掛かる。
ミィミィ。ミィミィ。
タブンネは妻に何かを訴えている。オボンの実を求めているのだ。
「待ちなさい。もう少ししたらご飯なのよ?」
ミフィーッ!
まるで言うことが聞けない子どものようにタブンネはジタバタと駄々を捏ねる。
妻が困ったような表情をしているので、私は仕方なくオボンの実をひとつあげた。
「ちょっと!」
「いいじゃないか。ほんの少し食べるのが早くなるだけだ」
大体の飼育の規則を守りたい妻にとって、私の行いはあまり良くないようにも思える。
今さら気が付いても遅いと後悔した。私のこの身勝手な行為は後の悲劇のはじまりのひとつでしかなかったのだ。
なんて我儘な子なのだろう。自分の思い通りにならないとすぐに威嚇してくる。
私に懐かず、夫に懐く理由がわかってきた。
夫の長所でもあり短所でもある。
彼は、甘いのだ。そう言えば大学時代言っていた気がする。
「子どもにはなるべく負担を掛けたくはないな。叶えられることなら、叶えてやりたい」
当時の私はなんて心優しい人なのだと感じていた。この人なら父親に向いていると。
だが、今はそうはとても思えない。私にはわかる。女の勘、とでも言えばいいか。
あのタブンネは私たち夫婦を舐めている。
姉の子どもも大概こんな感じだと聞いている。自分の思い通りにならなければ、思い通りになるまで我儘を通す。
ほとほと手を妬いていると以前電話で聞いており、その時は他人事と捉えていた。
しかし、このまま放っておくのは良くはない。
タブンネの寿命はその生命力の強さもあって他のポケモンよりも圧倒的に長いと聞いている。
つまり、これから長い期間を共に過ごすのであれば、教育はしっかりしなければいけない。
少なくとも夫が仕事で居ない時などは厳しく躾けよう。私はそう決心しました。
「どうして言うことが聞けないの!」
渇いた音が鳴り響く。私はタブンネを平手打ちしたのだ。
もう我慢できない。今日もタブンネはオボンの実をいつもより余計に求めてきた。私は引かずにダメだと述べたが、タブンネは言うことを聞かずミィミィ鳴き叫び、涙まで流し始めた。
私はどうもこのタブンネが気に入らない。ついにそう思い始めてしまったのだ。
「あの人は優しくしてくれるかもしれないけど、私はそんなことしないわよ!?ダメなのはダメなの!」
パンッ!
またしても私はタブンネをぶった。ミィミィミィミィ…その鳴き声を聞く度に私の苛立ちは増していき、静かにしてと大きな声を出せば逃げるようにして自分の部屋へと入る。
私は何気なく自分の髪の毛に触れれば自慢の長い毛が少し抜けていた。泣きそうになりながらその髪の毛を見つめ、私は声に出して泣くことを我慢しながら座り込んでその場を動かなかった。
今もミィミィとあの我儘タブンネが鳴いている。うざい…泣きたいのは私の方だ。
勤め先から帰宅した私は目を疑った。ミィミィと声を上げて鳴いてるタブンネの姿に何事かと思って駆け寄る。
私の顔を見たタブンネは綺麗なサファイアの瞳に涙を浮かべながらすがり付いてくる。私はその頭を撫でながらふと妻の姿がないことに気が付く。
「いないのかー?」
タブンネを置いて家の中を探す。妻の部屋を開けるとそこには化粧台の前に崩れるように座り込む妻の姿があった。美しい髪の毛はハサミで切り刻まれており、鏡はひび割れていた。
「どうしたんだ!?」
まるで誰かに襲われでもしたかのような姿をした妻に駆け寄る。しかし、まともな返事はできないのか何やら小さく呟いている。
「あいつが来てから…私は…」
「なあ、何があったんだ?大丈夫か?」
妻はそれ以上何も語らなかった。
翌日になり、この騒ぎは妻の自発的なものであることが発覚した。何が原因なのか…いくら私でもそれは想像がつく。
ケージに居るタブンネに視線を向ける。もはやこの子しか原因はない。
しかし、そのタブンネに異変が起きていた。
震えている。いや、我慢しているのか?私は妻とタブンネの様子が気になり、今日は仕事を休み、まずはタブンネを観察することにした。
もうすぐお昼だ。すると彼女のお腹から卵のようなものが現れた。
「卵!?」
私は驚いた。何故ペットショップで飼ったタブンネが卵を?
ふと思い出した。初めて散歩をした時のこと。私が目を離した隙に別のタブンネと何かしていたのを。
「まさかあの子と!?」
そうであれば全て辻褄が合う。必要以上にオボンの実を求めることも。
おそらくあのタブンネは雄。私はポケモンの性交には詳しくはないが、昔実家でピッピを飼っていた時、一度性交しただけで卵をいくつも産んでいくことがあった。当時その処理には大変困り、友達に1匹ずつ分けることでなんとか解決できたが…。
「タブンネ。その卵…」
ミィ。ミィミィ。
卵を預かろうとしたもののタブンネは媚びるような瞳を私に見せる。
初めての子なの。産ませて。私に育てさせて。
そう言っていることはなんとなくわかる。私は悩んだ末にまたしてもタブンネの情に負けてしまい、孵化の許可をするのであった。
これが己の首を絞めることになるとも知らずに。
部屋の中から私は見ていた。そういうことだったの。
自分の子育てのために…
私は納得した。子どもを宿しているならば栄養はしっかりと取らなくてはならない。
冗談じゃない。人間の私たちでさえ、まだ赤ちゃんを宿すタイミングではない。
なのにあのクソブタはいとも簡単に後先考えずに、しかもどこのタブンネともわからないものの子を宿した。
風呂にも入っていない、ズタズタにしてしまった己の髪の毛を触りながら私は憤怒した。
いい気になるなクソブタ。お前なんかに子どもを宿す権利はない。
そう憎しみが湧いたものの、私の身体は力が抜け、ベッドの上に横になるように倒れる。
ダメだ。力が出ない…。つらい…
タブンネが卵を産んでから毎日のように卵を温めていると、ついに卵の中から音が聞こえ始め、孵化した。
タブンネの赤ちゃんの誕生だ。これよりママンネ、ベビンネとする。
本来ならば妻に手伝ってもらいたかったが、彼女はあれから部屋に閉じ籠ったきり。時々お手洗いに出てくるか、食事のためのパンを取りに来るだけだ。昨日、ようやくシャワーを浴びたらしい。彼女の美しかった髪はバランス悪いショートカットへと変化していた。
そんな妻の心配もしているが、タブンネ達も放ってはおけない。飼うと決めたのは私だ。ならば、その責任は果たすべきだろう。妻と違い、この子達は一人では生きられないのだから。
ミィミィ。
生まれたベビンネの毛繕いをしながらすっかり母親気分のママンネ。
「嬉しいよな。子どもができて。大事に育てろよ」
ママンネの頭を撫でてやれば、嬉しそうに頷くママンネ。甘えるかのように私に身体を預けてきた。
その時、私は目を疑った。
「え?」
なんとママンネはまた卵を抱えていた。一体いつの間に…!?しかも1…2…3…みっつも!
私は以前飼っていたピッピを思い出す。このままだとまたあの時の繰り返しになる。
「タブンネ。さすがにこれ以上は無理だよ」
ミィ…ミィミィ。ミィッ!
落ち込み、イヤイヤと首を振るママンネ。媚びるようにして私に抱き着いてくる。
私は本当にこれに弱い。タブンネのこの顔と行動は私の判断を鈍らせる。
「お願いだ。タブンネ…」
ミィーッ!ミィッ!ミィッ!
「頼むよ!人間にだって生活があるんだ!」
私はついに堪忍袋の緒が切れて3つの卵を取り上げる。しかし、この卵をどうする。自分の手で破壊するのか。この中には既に命が宿っている可能性もある。
「くっ…」
渋々と私は3つの卵をママンネに返した。ママンネはありがとうと言いたいのかニコニコと媚を売るような顔をしている。そして、あろうことかママンネは私の唇に口元を当ててきた。
キス…人間で言うとキス、だよな。口元を手の甲で拭いながら首を横に振った。
それから数日後。3つの卵は孵化した。3匹のベビンネが加わったのだ。ママンネは満足していた。
しかし、そのママンネの顔が凍りついた。
「ミィミィうるさいのよ」
タブンネの癖にポンポン子どもを作る。その上、私の夫の唇を奪った。何様よ。
気が付けば私は包丁を手に持っていた。ママンネの異変に気が付き夫が私に気付く。
「人の家で勝手に子作りしといて、その上人の夫に手を出すとか…ふざけてるの?」
「ま、待て!落ち着けって!」
私を危険だと判断したのか止めに来る夫だが、私は彼の腕を包丁を持たない手で簡単に捻って地面に伏せさせた。
学生時代に身に付けた合気道がこんな形で使うことになるとは思わなかった。しかも夫に対して。
「このクソブタァ!」
怒りに任せて私はベビンネAの天使のような耳に包丁を鋭く刺す。
(便宜上、生まれた順にA~Dと名付ける)
ミギャアアア!
まだ赤ん坊なのに悲痛な叫び声を放つベビンネA。鬱陶しいとしか言いようがない。私は何度も包丁を突き刺す。
私が何もしないと思った?体力を蓄えて、アンタたちをどう始末するか考えていただけよ。
私はアンタたちを許さない。我儘で自己中で、煩く泣き叫び、挙げ句の果て私の夫に卑猥な行動をした。
慈悲なんかないわよ。
コロシテヤルワ、クソブタ
「やめろって!おい!」
「うるさい!あなたがちゃんと飼育しないからいけないのよ!?」
私を止めようとする夫に対して声を荒らげて言い放つ。初めてのことだ。夫には良い妻と思われたく努力をしてきた。
けれど、このタブンネたちのせいでもはや水の泡だ。報いは受けてもらわないと…。
Aの耳を貫き床に突き刺さった包丁を引き抜き、今度はその小さな手に先と同じ要領で突き刺す。
ミィギャァァァァ!!
うるさい声だ。だが今の私はどこか心地良さを覚えていた。
そんな私を止めようとママンネが突進をしてくるが、その顔に私の肘が鋭くめり込まれる。
そう言えば、昔似たようなことがあったか。同じクラスの男の子の腹部に肘を強く打ったことが。その時に付けられたあだ名。
「狂暴女」
夫は知らない。そう、私の本性はこうなのだ。
折角封印していたものをこのゲスブタによって解放してしまった。
「まだまだよ」
私は不適な笑みを浮かべる。まずは邪魔をされないように夫にはおとなしくしてもらわないと。
耳や手を鋭い刃物で切り裂かれるベビンネ。かわいい顔に肘を打ち込まれるママンネ。
その時の私は見ていられなかった。初めて見せた妻の暴力的な姿は衝撃的だった。
けれど、私は自分のしたことに罪の意識を感じた。私が悪かったのだ。私が甘やかさずにしっかりと躾をしておけば…。
「邪魔したらただじゃ済ませないわよ?」
「……」
邪魔なんてできない。私は恐怖と後悔を味わいながらその場から目を背けるために部屋へと籠った。
またしても聞こえてくる悲惨な鳴き声。
やめてくれと叫ぶ他のタブンネ達の鳴き声。
暴れまわるそれぞれの物音。
そして、妻の奇声…。
私は耳を塞いだ。
夫は目を背けた。でもいい。邪魔が入らないだけ私はその分このゴミ共に集中できる。
私は下準備に入る。B~Dのタブンネはロープで縛り付ける。これで手は使えない。ただ、何もできないのではそれはおもしろくないので歩けるくらいの自由は保証する。
そしてこのママンネ。私のもっとも憎むブタ。コイツは敢えてこのままにした。
少しばかりの抵抗はあった方がおもしろい。
しかし、このAは未だに死なない。再生力という特性を備えていると聞いたがそのお陰だろうか。赤ん坊がここまでやられれば間違いなく絶命する。
「しぶといわね。でも、それでもいいわ。その分アンタたちに私の怒りをぶつけられるから」
用意していたアイロンを手に持つ。包丁を手に突き刺されて動けないAの表情がいやいやというようなものになっている。アンタのお母さんが悪いのよ。
最終更新:2014年02月01日 01:12