エビの大きな置きものかと思いきや、動いた!
大きく2回動いた後、動きを止めてしまった。
新鮮さを売りにしている居酒屋チェーンの店頭。
機械かと見ていると時々動く、しかも不規則に。
見た目にはリアルで本物と遜色ない。
本物と違うところは1mを超える大きさだけ。
やがて夕方、仕事終わりのサラリーマンが家路に着く頃にその大きなエビは大きな金だらいに放り込まれて店内へと消えていく。
金だらいには薄く水が張られていて、放り込まれた際は本物のように激しく動いていた。
「いらっしゃい!」店は5時半を回ると活気付く。
お客さんも増え、威勢のいい声が飛び交う。
その中でも特に元気な女性アルバイトのナミ。
ナミは大学生で海鮮が好きで、バイトをすれば賄いが食べられると思い、このバイトを選んだ。
ナミの思惑通り、賄いが食べられた。
美味しく笑顔でいつも食べていたナミだったが、ある時気づいた体重が5キロも増えていることに。
途端に賄いを控えるようになったナミ。
それを心配した店長が声をかけてきた。
「どうした?食べないのか?好きなマグロだろ?」
黙ってしたを向くナミ。
「体調でも悪いのか?」
心配そうに聞く店長に、小さな声で「太っちゃって」恥ずかしそうにいうと。
「お!そんなことか、それならいい仕事があるぞー」
「?!」ナミには何のことかさっぱり分からなかった。
そんなナミに店長は一枚の紙を提示した。
それは誓約書。
内容を確認すると、着ぐるみを着ての集客業務とある。
そしてこの着ぐるみは誰でも着回すものではなく、専任業務であり特別な事由がない限り断わることはできないとあった。
ナミの目はその先に向いていた。
この業務にあったっては、特別手当として時間に関わらず5000円の手当がつくこと。
ナミの中では想像が膨らむ。
着ぐるみ(うさぎか何かの着ぐるみ)に入ってビラ配りをすると、汗をかいて痩せる上に手当がつく、月に10回以上バイトしているから5万円以上になることを。
着替えやタオルがいるなぁ、ぐらいにしか考えず気楽にサインをした。
店長からは翌日2時間早く出勤するように言われた。
翌日指定された時間に行くと、見たことのない大きな発泡スチロールの箱があるだけで着ぐるみは見当たらなかった。
「お!待ってたぞ」という店長に対して「おはようございます、着ぐるみは?」と尋ねると。
「気になるか?見てみるか?」
そう言って発泡スチロールの箱を開ける。
中には大きなイセエビ?がおが屑に乗っていた。
「デカっ!」ナミが思わず口にする。
「デカイだろう、これが着ぐるみだ」
「え!」言葉に詰まり後が続かない。
それでも「こ、これどうやって着るんですか?」とナミが尋ねると。
店長は箱に腕を突っ込み、大きなエビを取り出した。
床にエビを置くと、同封されていた説明らしきものが書かれた紙を見ながら、片手でエビの頭胸甲(エビの頭部分)と腹節(ジャバラになっている尾の部分)の間を探る。
中はフック金具が付いていて中へと押し込むと、フックが外れた。
頭胸甲を引っ張りながら抜くと、大きなエビの調理前のような状態となった。
このエビは頭胸甲の中まで白い身が詰まっている。
その白い身の部分は背中側にファスナーがあり、それを開けると着ぐるみに入ることができる。
ナミはエビの腹節を伸ばしたり、曲げたりしてみる。
本物のように重なり合った腹節はそれぞれの下へと入り込み曲げ伸ばしをスムーズに行う。
”なるほど、よく出来ている”
感心して見ていたナミだったが、自分が入ることを思い出す。
そして、この巨大エビの着ぐるみに入ると、自分では脱ぐことはおろか、動くことも著しく制限されることになることに気づいた。
”どうしよう!辞めるのってダメかなぁ”
口に出せないでいるところに、「じゃあ、これに着替えて」と赤いものを店長から手渡された。
それは真っ赤なラバースーツ。
ナミが広げてみると、モジモジくんのように顔のところだけ穴が空いていて、しっかり顔が出る。
”これは恥ずかしい!”
その思いを店長に伝えることもできず、「さあ、着替えてきて」と店長に背中を押された。
なぜ、こんなものを着なければいけないのかも聞けないまま、普段使用している更衣室へ向かう。
「あ!ちょっと待って!!」
店長に呼び止められて、ラバースーツを着なくていいのではと期待して振り向くと「下着つけたら汗でビショ濡れになるから」と付け加えただけで店長の言葉は終わった。
”誓約書も書いたし、仕方ない”そう自分に言い聞かせ、着替えたナミ。
ただ、モジモジくんのような格好で店長の元へ戻る気にはなれず、フードを被らずに戻った。
戻ってみると、先ほどよりも広い座敷スペースに店長も巨大エビの着ぐるみも移動していた。
それだけではなく業務用のラップまで用意されていた。
戻ってきたナミに気づくと店長は「お!カッコイイなぁ」とナミをその気にさせるためなのか、お世辞を言わない店長が褒めてきた。
「別に褒めなく良いですよ」とナミは返し、「このまま着ぐるみに入ったら、いいんですか?」と尋ねると店長は「いや」と言って、業務用ラップを見せる。
嫌な感じがプンプンするが、ナミはあえて聞いてみた「それ何ですか?」
店長は少し気まずそうに「これは業務用のラップで、これを体に巻きつけて、エビの形に固定してからエビ着ぐるみに入ってもらうんだ」最後の方は声が小さくなっていた。
「え!」明らさまに嫌な顔をするナミに、どう言って納得して貰えればいいのか、戸惑っている店長が、ナミには手に取るように分かった。
あまり困らせるのもと思ったナミは自分から、「どうやって巻いていくんですか?」と逆に店長に質問した。
店長はナミの心遣いに感謝して、「ゴメンな」と独り言のように呟いた。
ラップを巻きながら店長は、今月エビ料理を推していくので、エビの着ぐるみでPRしていくことを教えてくれた。
因みに来月はタコ、その次がタイであることも。
ラップは上半身から巻いていき、ナミの両腕はボクシングのブロックの様に両腕を前にして巻いていく。
ラバースーツによく張り付くラップのおかげで店長は初めてとは思えない程手際よく巻いていく。
そして足はジャバラのように何度かに分けて巻いていった。
動きが著しく制限されたナミにいよいよ着ぐるみを着せていく。
ただ、着せ始めてすぐ、ナミが店長に尋ねた。
「これって反対じゃないですか?」
ナミがそう思ったのは、頭胸甲を被せられた時ナミの背中側にエビの脚がくるようになっていたからだった。
店長は「いや、これで合ってるよ。膝の曲がる方向はどっち?」そう言われてナミはそのことに納得したが、ただでさえ身動きの取れない着ぐるみの上、仰向け状態で入るなんて。
そんなことを思っている間も着せる作業は続く。
いつの間にか真っ赤なラバースーツの体は、エビの腹節に変わっていた。
「さあ、頭を少し上げて」そう言われナミが頭を上げると、ラバースーツのフードを被せられた。
そしてその上から、ラバースーツと同じもので作られたガスマスクを頭に被せられ、ガスマスクの呼吸口にエビの頭胸甲から伸びたホースを接続する。
エビの頭胸甲のホースの先は額角(エビの頭の先端にある角のような部分)に繋がっており、空気は通すが水などは通さない造りになっているので、ナミの呼吸はしっかりと確保された。
店長はナミが呼吸ができていることを確認すると、白い身の部分のファスナーをホースだけ飛びだした状態で閉める。
そしてホースが折れ曲がり呼吸を妨げないように注意しながら頭胸甲を被せてフックで完全に固定した。
エビの殻をコンコンと叩くと店長の目の前の巨大エビは尾を大きく振って動いた。
その後金だらいに入れ、店頭へと運び予め準備しておいた展示スペースへと巨大エビをセットした後その周りにお勧めメニューや飾り付けをした。
巨大エビを運ぶ際、突然持ち上げられたりすることに慣れていないナミは少し暴れ、店長が落としそうになるシーンもあった。
巨大エビとなったナミは、近くで人の声がすると動いて立ち止まって自分を見る人を驚かせて楽しんでいた。
しかし、次第に着ぐるみの中は暑くなり、着ぐるみ業務が終わる頃にはかなり疲労困憊状態になっていた。
着ぐるみを脱いで30分から1時間の休憩後、ホールスタッフとして夜遅くまで働く日々が続いた。
巨大エビの最終日には、ナミは言い知れぬ淋しさが込み上げてきた。
その思いを店長に伝えると、店長はニヤリとして「次のタコはどんな着ぐるみだろうな」と。
巨大エビが終わると終わりだと思っていたナミ。
慌てて誓約書を広げて確認すると、小さく期間と書かれたところには一年間の表記があった。
崩れ落ちるナミに店長は、「期待している」と肩を叩いた。
さて、ナミのダイエットはというと始めては不慣れでキツかったため短期間で痩せたが、慣れてきた途中からは賄いの量が増え、一年後に体重は元に戻っていたそうです。
最終更新:2017年02月23日 19:14