幻日 第一話

117 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:48:50 ID:k+/PDp8U
 彼らは、緩やかな坂を登る。
 真新しい制服に身を包み、ぴかぴかのローファーで一歩一歩踏みしめて。
 皆、その顔に多くの期待と、一抹の不安を浮かべながら。
 そんな彼らを祝福するかのように、薄桃色の花弁が舞う。
 校門から校舎まで続く短い坂道の両脇に、所狭しと植えられた桜の木は、少し満開を過ぎてしまってはいるものの、十本近くの桜が一斉に咲くその光景は壮観で。
 この晴れの日に相応しい抜けるような青空と相まって、どこか幻想的ですらあった。
 今日は、ここ、県立秀峰高校の入学式。
 今日から高校生となる新入生の容貌は、どこかあどけなく。
 同じように坂を、しかし慣れた足取りで歩く上級生達の中において、それなりに目立っている。
 春の妖精が、風に乗って無邪気に踊る。
 ゆらゆらと風になびく髪を抑えながら、一条明日香は今日から通う学び舎を感慨深げに見上げた。
 秀峰高校は、所謂進学校というやつでそれなりに偏差値も高い。
 部活などスポーツ面においては他校の後塵を拝するが、勉学という一点を見る限り、県外においても知名度は高い。
 明日香は、正直そこまで成績が良くない。
 勉強嫌いという訳ではなく、寧ろ授業は真面目に聞くし、予習復習等人並みかそれ以上の努力はしている。
 しかし、不幸な事に彼女は物覚えが悪いようで、いくら勉強をしても、まるで穴が開いているかのように翌日には抜けきってしまうのであった。
 故に、こうして秀峰の制服を着て立つために支払った努力は並々ならぬものであった。
 そのせいか、じっと校舎を見つめる彼女の頬は赤く昂揚し、うっすらと目に涙すら浮かべている。
「明日香?」
 急に立ち止まり動かなくなった明日香に、隣を歩いていた少女が訝しげな顔をして振り返った。
 そして林檎のように顔を真っ赤にして、今にも泣きそうな明日香を見てぎょっとしたような顔をした。
「……もう、何、泣いてるの」
「……泣いてないもん」
 ぐし、と明日香は洟をすすりながら、微かに震えた声で言う。
「涙、まだ流れてないから。だから、泣いてないもん」
「また、そんな子供っぽい理屈を……」
 呆れたように嘆息し、片手で顔を覆う少女、小野桐香も明日香と同じ新入生である。
 ショートカットにメガネをかけ、その奥にはともすれば怜悧ともとられる、聡明さを湛えた眼が今は呆れに細められている。
 事実、桐香はかなり優秀で、受験の歳も明日香は彼女にお世話になりっぱなしだった。
 いつか、お礼するからと明日香が言っても、桐香は、
「いいの。親友は見返りなんて求めないものなのよ」
 人によっては青臭く、綺麗事のように感じられる事も、ほんの数日前までは中学生だったとは思えないほど大人っぽい桐香が言うと、やけにしっくりきてしまうのだった。
 対して、明日香はかなり子供っぽい。
 くりくりとしたまあるい瞳やツーテールの髪、少し天然の入った幼い言動などが総じて年相応、否、ともすれば未だ小学生かと間違われてしまいそうなほどである。
 良く言えば可愛らしい、悪く言えばちんちくりん。それが一条明日香という少女であった。
 可愛らしくぷぅと頬を膨らませる明日香を見ながら、この子は高校生になってもクラスのマスコットになりそうだ、と桐香は心中で呟いた。
 良くも悪くも一向に変わらない明日香が、桐香にはとても好ましく感じた。
 そして、いまだにふるふると大きな瞳に涙をたたえる明日香に、桐香はふと優しげな笑みを浮かべた。
「まあ、明日香の気持ちはわかるわ。頑張ったものね」
「だからぁ、泣いてないってば」
 明日香は不満げに抵抗するが、桐香は素知らぬふりで言葉を続ける。
「お兄さんと同じ学校に通えて、よかったわね」
「……」
 明日香は、先程までとは別の理由で顔を赤くし、数秒の後こくりと頷いた。
「あら」
 その明日香の予想外の素直さに、桐香は思わず声を漏らした。
 普通ならば明日香は、自分がブラコンであることなんて認めようとしないけれど、今日は驚くほどあっさりと認めた。
 それだけ嬉しく、明日香にも思うところがあるという事なのだろう。
 桐香も受験シーズンの明日香の頑張りようを良く知っていたので、茶化すようなことはせず、
「ほら、早く教室に向かいましょ。入学式に遅刻なんて、笑えないわ」
「……うん」
 明日香も顔を上げて、漸く歩を進めだした。
 視界を過る淡い桃色の妖精を横目に、これから始まる日々へ少しだけ心を躍らせながら。


118 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:49:48 ID:k+/PDp8U
 †

 入学式は厳かに行われる。
 体育館の前方に座る新入生たちは、皆一様に緊張した面持ちで椅子に座し、式次第が消化されていく。
 長いだけでとくに特徴のない定型化した祝辞にも、殆どの新入生が真剣そのものの表情である。
 その偏差値の高さから、秀峰の生徒は例年真面目な生徒が多いのだ。
 それに、この高校に入るために彼らの多くが1年近く勉学に費やしたのだから、感慨もひとしおといったところなのだろう。
 とはいえ、真剣に聞いているのは新入生ばかりで、彼らの後ろに座す2~3年生の面々はみな辟易とし、退屈そうにしている。
 まあ、彼らは少なくとも1回は似たような内容の入学式を経験しているし、自分たちは主役ではないのだから仕方ないと言えば仕方ないのだろう。
 一条隼人はぼんやりとそう思いながら、なんとなく新入生の後姿を眺めていた。
「なあ、隼人」
 すると前席に座っている佐倉陽介が振り返り、ひそひそと呼びかけてきた。
 隼人が声を出さずに目線だけで応えると、
「どうよ」
 陽介の質問の意図が全く分からず、隼人は眉をひそめた。
「……何が?」
「だから、今年の新入生。どう思う?」
「どう思う、って……俺たちも二年前はあんな感じだったんだろうなぁ、とか」
 隼人の答えに陽介は、何言ってるんだコイツと言いたげな顔をした。
「バッカ、お前、新入生女子のレベルに決まってんだろ」
「レベルって、お前な」
 声をひそめていてもある程度の範囲には聞こえていたのだろう、陽介の隣に座る女子が嫌そうな顔で陽介を睨んだ。
 何様のつもりだよ。彼女の心の声が、隼人には聞こえる気がした。
 ったく、隼人は呟く。
「そんなの、後姿くらいしかまともに見えないんだ、判断のしようがないだろ」
「まあ、そうだけどよ。新入生代表の子を見る限りは結構期待持てそうじゃねえか?」
 新入生代表。
「ああ、桐香ちゃんか」
 隼人は十数分前の記憶を特に苦もなく掘りだした。
 壇上で凛とした表情で原稿を読み上げる少女の姿は、確かに遠目から見ても可愛かった。
「なんだよ、隼人も既にチェックしてるじゃねぇか、名前まで」
「違うから。桐香ちゃんは妹の友人で、会った事があるんだよ」
 特に昨年は、よく家で隼人の妹である明日香と一緒に勉強をしていた。
 余り勉強のできるほうではない明日香がこの秀峰に入れたのは、桐香のお陰に他ならなかった。
「妹?そういや、お前2つ下の妹がいるって言ってたな。その子も今ここに居るのか?」
「ああ、まあな」
 頷いて、隼人は新入生の中から明日香を探そうと試みる。
 しかし、多くの後姿から明日香を見つけるというのはさすがに不可能であった。
 ツーテールの女の子を探そうと思えば探せるかもしれないが、明日香の背中を見つけたとして意味を成すようには思えない。
 妹の緊張した顔なら、今朝探す必要もなく見てきた。
「へえ、妹さん可愛いのか?」
 興奮したように言う陽介にジト目を向ける。
「言っとくけど、何があってもお前にだけは、明日香はやらないぞ」
「何だよ、ケチー。今時シスコン何て流行んないぜ?」
「そうじゃない。お前の義兄になるのだけは嫌だって言いたいんだ」
「ええ、良いじゃないか義兄さん」
「呼ぶな」
 隼人は寒気を覚えながら、陽介の足を軽く蹴った。
「友人の妹に手を出すとか、正直微妙だと思うぞ、俺は」
「うるせぇ。彼女持ちの隼人には童貞の気持ちなんて分からねえよーだ」
 不貞腐れたように陽介。
 彼女持ちでも童貞の奴が居てもおかしくはないと隼人は思う。
 とはいえ、隼人が童貞という事ではないのだけれど。
 そんな事よりも、陽介の隣の女子の隼人達を見る目が一層汚らわしいものを見るような目になっている事が、隼人には問題であった。
 全部陽介のせいなのに、何故俺まで、と隼人は溜息をこぼした。
「後で紹介しろよ」
「絶対――」
 嫌だ、と告げようとして周囲の生徒が急に立ち上がり遮られた。
 隼人も慌てて立ち上がる。どうやら上級生が校歌を新入生にお披露目するプログラムらしい。
 そろそろこの入学式も終わりが近い。


119 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:50:28 ID:k+/PDp8U
 この後に授業は入っていないが、陽介のこの調子では、どうせ新入生女子の品定めに付き合わなければならないだろう。
 別に付き合う義理はないが、今日は明日香と一緒に帰る約束をしていた。
 妹と一緒に帰るのは抵抗があったが、恋人に言い含められて隼人は了承するほかなかったのだ。
 陽介は隼人の妹に興味を持ったようだし、隼人に付いてくるのは間違いがなかった。
 退屈ではあったが、この後の事を考えて隼人は憂鬱な気持ちだった。

 †

 帰り道。
 未だ日も高いうちに隼人達は帰路を辿っていた。
 麗らかな日差しにキラキラ輝く、宝石をちりばめたかのような川の流れる河川敷。この道にも、数本桜が植えられている。
 相変わらず、日本人は桜が好きだな。
 濃厚な春の香りを嗅ぎながら、隼人はぼんやりとそんな事を考えた。
「中々可愛い子じゃないか、お前の妹」
 唐突に陽介が隼人の方に腕をまわしてきて、にやけながら耳元で囁いた。
 その距離は、当然だが妙に近い。ぞっと隼人の腕に鳥肌が立った。
 可愛い女の子にされるならまだしも、男にされても気持ち悪いだけだ。隼人にはそんな趣味はない。
「何度も言うが、お前にはやらないぞ」
 陽介を引き剥がしながら、隼人がうんざりとしたように言うと、
「あー、はいはい。分かったよ、このシスコンめ」
「だから、それも違うと、どれだけ言えば――」
「――分かってるって。別に可愛いって言っただけだろ。狙ってるわけじゃないし、第一、俺のタイプじゃねえよ」
「……」
 陽介の言葉に隼人はちょっとだけムッとする。
 なぜか、そう、真正面から妹の事をタイプじゃないとか言われると不愉快な気持ちになってしまう。
 その事を悟ったのか、陽介が意地の悪い笑みを浮かべた。
「なーにムッとしてるんだよ。シスコンじゃないとか言いながら、十分シスコンじゃねえか」
「……よし分かった。お前、さっきから喧嘩売ってるんだな」
 隼人は拳を握りしめる。
 半ば図星を指された事に対する誤魔化しと、今日の入学式のときからやけに絡んでくる陽介にいい加減苛々していた。
 まずは一発。殴る権利はあるだろう、そう隼人は思っていた。
 しかしこぶしを振り上げた所で、
「おーい、あんた達さっきから遅いわよ。何してるわけ?」
 隼人と陽介の前方50メートル弱のところで、隼人の恋人である百川立夏が腰に手を当て、こちらを睨んでいた。
 その両脇には明日香と明日香の友人である桐香がいる。
 二人とも立夏同様立ち止まり、二人の様子を窺っていた。
「あいあーい」
 陽介は暢気な声で、3人の元へと小走りに駆け寄っていく。
 隼人も一つ嘆息し、少しだけ歩く速度を速めた。


120 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:51:54 ID:k+/PDp8U
 †

「で、さっきは佐倉と何話してたわけ?」
 隼人達は皆、秀峰から帰宅するために、上り下りの違いはあれど、電車に乗らなければならない。
 秀峰最寄りの駅前は、そこそこに栄え、秀峰の生徒は電車に乗る前に良くそこで寄り道をしている。
 それは隼人と立夏、そして陽介も例外ではなく、今日も今日とて駅近くの喫茶店に立ち寄っていた。
 そして今日から秀峰の生徒である、明日香と桐香も同行していた。
 立夏の問いに隼人はコーヒーカップをソーサーに置き、
「何って……」
 立夏を一瞥し、そして少し離れた所に座る陽介達3人の姿を眺めた。
 今日は入学式のせいなのかどうかは知らないが客が多く、5人同時に座れる席がなく、こうして別れて座るほかなかったのだ。
 だからといって、別にこういう組み合わせで座る必要もなかったのだけれど、陽介が明日香と桐香を連れてさっさと席へ着いてしまった。
 多分気を遣われたんだろう。隼人は思う。
 別に、立夏と付き合いだして結構経つので、今更こんな風に気を遣われた所で、とも。
「ああ、成程ね」
 隼人の視線を追って、立夏は何かを悟ったように頷いた。
「佐倉の悪い癖がまた出たってわけね」
「分かるのか?」
「まあ、それなりには。どちらかというと隼人よりも佐倉との方が、付き合い長いから」
 ふーんと隼人は、陽介達を見たまま返事をした。
 陽介が大げさな手ぶりを交えながら何かを話し、時折明日香と桐香がくすくすと笑っている。
 隼人は正直自分よりも、陽介の方が女にもてるのではないかと思う。
 隼人には女の子を楽しませるような話をする自信がなかった。
 それに、陽介は女の子と仲良くなるために積極的に行動している。
 対して隼人は、ナンパなんて論外であるし、合コンにも行ったことがない。
 しかし、陽介に彼女が出来た事はなく、隼人にはこうして立夏という恋人がいる。
 俺は運が良かったのかな。隼人はしみじみそう思った。
「なーに、妬いてるの」
 考え込んでいる隼人の姿に何か勘違いをしたのか、立夏が嬉しそうな顔で言う。
「は?妬くって、一体何を」
「まーたまた誤魔化しちゃって。隼人よりも佐倉の方がウチと付き合いが長いって言ったから妬いちゃってるんでしょ?」
「あぁ、その事ね」
 陽介と立夏は同じ中学校出身で、隼人は二人と高校に入学したあとに出会ったのだ。
 といっても立夏も陽介と友人関係になったのは、隼人と付き合い始めてからで、立夏にとって陽介と付き合うなんて選択肢はあり得ないものであった。
 過去の経験から、がつがつした男が立夏は苦手なのだった。
「別に妬いてねぇよ」
「もー嘘ばっかり。照れ屋なんだから」
 隼人は否定するも、立夏は聞く耳持たず一人嬉しそうに悶えている。
 それ以上否定するのも面倒くさくなった隼人は、
「まあ、いいけどな」
 と呟き、コーヒーを一口啜った。
 口の中に熱さ苦みが広がる。
 もうそろそろ、ホットは辛くなりそうだな。隼人は、喫茶店の窓から空を見上げた。
 穏やかな日差し。うとうとと眠くなってしまいそうな程には心地がよい。
 あと少しすれば春はすぐに過ぎ、夏が来る。
「隼人ってコーヒー好きだよねえ」
「ん、そうか?」


121 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:52:35 ID:k+/PDp8U
「うん、それもブラックばっかり。苦くない?」
「そりゃあ、ブラックコーヒーが甘かったら変だろ」
 言いながら、隼人は立夏の手元にあるカップをみる。
 その中には、コーヒーが入っているが、隼人のようなブラックではない。
「苦いだけ物の、何処が美味しいんだか」
 理解できないとでもいう風に、立夏は肩をすくめ首を振った。
 こざっぱりとしたショートカットの髪が微かに揺れた。
「俺には、コーヒーの中に砂糖に牛乳だけじゃなく、チョコレートまで入れるほうが理解できないんだが」
 隼人にとってそれは最早、コーヒーとは呼べない代物であった。
 その甘さを想像して、げんなりとした顔の隼人を見て立夏はいたずらっぽく笑った。
「ねえ、それ一口頂戴?」
「は、お前苦いの、苦手だろ。なんで態々……」
「別にいいじゃん、減るもんじゃないし」
「いや、減るだろ普通に」
 隼人のごく正論の反駁もやはり立夏は軽く流し、隼人のカップをかっさらった。
 そして間接キスとかそんな者気にしていないとでもいう風に、否、寧ろ立夏はそれを狙っているのだが、カップを口につけコーヒーを一口含んだ。
「うえー、苦い……」
 予想以上の苦さに、立夏は吐き出してしまいそうになるのを何とか堪えた。
 目を瞑り、多くの勇気と英断をもって、何とかごくんと飲み込んだ。
 そして、隼人をきっと睨みつける。
「何てモノ飲ませるのよ!」
「え、何、俺のせい?」
 いくらなんでも理不尽に過ぎる。
「こんなの、人間の飲み物じゃないわよ」
「……コーヒー農家と店の人に謝れ」
「全く、この苦さは隼人の精液より――」
「――おい、ヤメロ」
「あいたっ!」
 隼人は、不穏な発言をしそうになった立夏の頭を叩いてやめさせる。
「っつー、今結構本気だったよね!?」
「当たり前だろ。ったく、場所を考えろよ」
 誰にも聞かれていなかっただろうか。隼人は、周囲をさっと見回した。
 はたと、明日香と視線があった。
 じっと隼人達の方を見つめていた明日香は、唐突に隼人と視線が合い、慌てた様に目を反らした。
 隼人は嫌な予感がして、眉をしかめた。
 ――もしかして聞こえていた?
 勘弁してくれ。隼人は小さく呟いた。
 いくら子供っぽい明日香といえども、精液くらいは知っているだろう。
 もし聞こえていたのなら、立夏の発言を理解していてもおかしくはない。
 そして、明日香の反応から見て、聞こえていた可能性が濃厚だった。
 明日香は顔尾を真っ赤にさせて、メロンソーダの入ったグラスに刺さったストローを含みぶくぶくしている。

 なんだろう。心中で呟く。明日香には分からなかった。
 ずきずきと胸が痛む。隼人と立夏の間に流れているものは、明らかに恋人同士のそれで。
 その二人の空気が、何故か明日香の胸をちくちくと刺すのだった。更に胸やけの様な、もやもやと霧のようなものもかかっている。
 隼人に恋人がいる事を明日香は知っていたし、兄に初めて恋人が出来た事を一抹の寂しさは感じこそすれ、祝福したつもりだった。
 この気持ちは、その乗り越えたと思っていた寂しさがもたらしているのだろうか。


122 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:53:15 ID:k+/PDp8U
「明日香?」
 物思いにふける明日香に隣に座る桐香が気付いて、声をかける。
「……ん?」
「どうかした?」
 尋ねる桐香の顔は、心配の色が濃い。
「なんでも、ないよ」
 明日香は僅かに首をかたむけ、目を細め、唇を軽く歪める事で笑みをつくって見せた。
 けれど、桐香には明日香が無理をしている事がはっきりと分かった。
「ん、明日香ちゃん、どうかしたの?」
 二人の対面に座る陽介が首を傾げた。
「いいえ、大丈夫ですよ。ただ、ちょっと疲れちゃって」
「あー、入学式緊張したんだ?」
「はい。わたしは桐香ちゃんと違って何もしてないんですけど……」
 桐香は何かを言おうと口を開こうとして、健気に笑みを取り繕う明日香に、もう、と困ったような溜息をひとつ。
「明日香、はしゃいでいたものね」
「はしゃいでないもん」
「嘘ばっかり。朝なんてうれし涙流してたくせに」
「へえ、そうなんだ?」
「そうなんですよ。お兄ちゃんと同じ学校に通えて嬉しいって」
「ちょっと、桐香ちゃん!?」
 明日香は慌てて桐香を咎めるが、時すでに遅かった。
 陽介はにやりとする。
 明日香は隼人とはまた違って、いちいち反応が可愛く弄りがいがあるな、と陽介は三角の尻尾とギザギザの羽をはやした。
「明日香ちゃんはお兄ちゃんの事、大好きなんだねぇ」
「ち、違いますっ」
「えー、だって今日ブラコンだってこと認めたじゃない」
「ぅえっ?そんなの、認めてないよぅ」
 必死に否定する明日香の頬は、確りと赤く染まっている。
 しばらくそんな遣り取りを繰り返すうち、とうとう明日香は耐え切れず、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。
 桐香と陽介は顔を見合わせる。ニンマリと意地の悪い笑みを浮かべている顔を、お互い確認し合う。
「二人とも、意地悪です……」
「はは、明日香ちゃんは可愛いなあ」
「あら、明日香はあげられませんよ?」
 桐香が意地悪っぽく片眼をつむって見せると、
「それ、隼人にも言われたよ」
 あいつも結構シスコンなんだ、と陽介が大仰に肩をすくめてみせた。
「そうなんですか。良かったわね、明日香。大事にされているみたいじゃない」
「あうぅ、そんなの、別に……」
 どうでも、いいもん。明日香の声は次第に小さく、尻つぼみになっていった。
 伏せられた明日香のその表情は、微かだが確かな喜びに満ち満ちているのが見て取れた。
 その明日香の自然な表情を見て、桐香は、ほっと胸をなでおろした。
 明日香は何かに悩んでいた。それがどんなものなのか、桐香には想像する事も出来ない。
 桐香は明日香の親友であると自負しているけれど、所詮は他人にすぎない。どれだけ、距離が近い関係でも他人の心を読むことなんて、出来はしない。
 物思いにふける明日香の表情には、辛さとか寂しさ、哀しさ、切なさ、色んな感情がぐちゃぐちゃに入り混じっているように見えた。
 そしてその悩みが解決したわけではない。問題の先送りに過ぎないという事は、桐香にだって分かっている。
 明日香が相談してこない限りは、桐香に出来ることなんて殆どない。それが彼女には悔しくて、不甲斐なかった。
 けれど、今、明日香は確かに幸せそうに笑っていて。
 明日香の胸に幸いが過っているのならば。明日香を苦しめるものが、小さくなっているのならば。
 今は、それでいいと、桐香は思う。


123 幻日 第一話 sage 2010/03/16(火) 00:53:40 ID:k+/PDp8U

 ずっと入りたかった高校に、合格した。努力が最高の形で報われた。
 兄と同じ学校に通いたいと、中2の頃から思っていた。
 待ち望んでいた日常。
 兄と学校へ通って、家へ帰る。
 桐香たちにはああは言ったけれど。明日香は、自分がブラコンである事くらい自覚している。
 だから、これからの日々は明日香が求める、ささやかな幸いに満ち溢れているはずだった。
 けれど。
 その幸せで塗り固められたはずの日常に、わずかな剥離が覗いている。
 それは周囲の塗料も巻き込んで、パラパラと大きく育っていく。
 その剥離の正体が、原因が明日香には分からなかった。
 穏やかな幸福の福音。
 怖いほど満ち足りた日々が、目の前に待っているというのに。
 この、漠然とした不安は何なのだろうか。
 胸を過る、小さな痛みは何なのだろうか。
 今はまだ小さく、微かな違和感。
 兄と恋人の姿を見ていると、その違和感が大きく胎動し、成長しているかのように思えた。

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最終更新:2010年03月22日 20:34
ツールボックス

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