149 幻日 第二話 sage 2010/03/19(金) 00:56:35 ID:D6mziyv2
秀峰高校の原則。秀峰の生徒は、皆まじめな生徒ばかりである。
実際、偏差値が高く、入学試験が鬼の様に難しい秀峰には、自明の理として優秀な生徒が集まってくる。
彼らの目標は、よりレベルの高い大学へ進学する事に集約され、授業中は皆、真剣そのものの表情である。
教師の言葉を、一言一句聞き逃すまいとするかのように、あっという間に消されてしまう黒板の文字を映し損ねないように、じっと前を見据える。
その中で、隼人は退屈そうに目を細め、窓の外へと視線を向けた。
実は、隼人は、余り優秀な生徒ではない。
始めの方こそ秀峰に合格する程度には成績の良かった隼人ではあったが、高校の勉強に四苦八苦し、教師たちも落ちこぼれに対して時間を割く事などしないので、
あれよこれよの間に、ごろごろと転げ落ちてしまったのである。
今では既に諦めてしまったのか、授業を真面目に聞こうとしていなかった。
といっても、このピリピリと張り詰めた空気の中でさすがに居眠りをしてしまえるほど剛毅でもないようで、ただ退屈な時を、あくびを噛み殺しながら浪費している。
隼人のクラスには、隼人同様落ちこぼれてしまった生徒が一人いて、その生徒は机に突っ伏し堂々と眠りこけている。佐倉陽介である。
陽介のこの様子はクラスメートにとっても、教師にとっても慣れたもので、いびきをかかない限りは注意する時間がもったいないと無視を決め込んでいる。
窓の外は雨が降っている。
暗い空から、しとしとと降る雨はどことなく寂しさをにおわせる。
見ているだけでも憂鬱になってしまいそうな天気。それに隼人は、余り雨が好きではなかった。
濡れるからとかそういう理由だけに止まらず、雨は隼人の気持ちを沈降させる。
じくじくと肩が痛む。もうとっくの昔に治ったはずの古い傷。
勉強が好きではない隼人が、この高校を選んだ理由の一つ。梅雨のある日に失くしてしまったものだ。
隼人にとって、この傷の事に関しては今更思う所なんてないつもりだし、後悔もしていないと声を大にして言える。
けれど、隼人は、矢張り雨を好きになれない。隼人自身からだけでなく、何よりも明日香から奪っていった日の象徴だから。
何となく苛々してしまう気持ちを抑えながら、隼人は退屈以外の何物でもない時を過ごすのだった。
秀峰に入学して初めての授業。
名門校の秀峰らしく、教師の自己紹介や授業のオリエンテーションもそこそこに、早速本格的な授業が始まった。
といっても、高校1年のこの時期の内容はほぼ中学の延長のものと言っても良い。
実際、中学で3年間ずっと成績トップで、入学試験も主席合格し入学式に新入生代表として言葉を述べた桐香にとっては取るに足らないものであった。
明日香は大丈夫かしら。ふと気になって、明日香の座る席へと視線を向けてみる。
桐香の視線の先、明日香はあまり授業に身が入っていないようであった。
黒板の文字をノートに書き写す手も止まり、窓の外をぼんやりと見つめている。
桐香の位置からは明日香の表情をうかがい知る事は出来ないが、彼女の方が通常よりも皿理落ち込んでいるように見えて桐香は不安になる。
具合でも悪いのだろうか。
明日香は生理が重いらしく、度々テンションの低い日がある。
昨日の明日香の様子も気になるし、休み時間に声をかけてみよう――
そこまで考えて、桐香は一人苦笑する。
さっきからまるで自分が明日香の両親にでもなったかのようだった。
そこまで考えて、ああ、と桐香は何かを悟った。
明日香の見つめる先、窓の外では朝から雨が降り続けている。
明日香は雨が好きではない。
それは桐香もよく知っていたし、その原因についても推測ではあるが、悟っている。
そして、その原因が桐香の推測通りならば、桐香にできる事はかなり少なくなってしまうのだった。
少しだけ寂しさの様なものを感じながら、桐香も雨を眺める。
桐香も雨の日よりも晴れの日の方が好きではあるが、嫌いという訳でもない。
けれど、明日香は違う。彼女はかなり明確に雨を嫌っている。
明日香は窓の外を睨みつける。けれど、生来の彼女の顔のつくりのせいで、睨むと言うよりは泣きそうな顔になってしまっている。
睨みながら、彼女はいろいろな事を考える。
色々な事を考えるけれど、結局それは殆ど彼女の兄の事に帰結するのであった。
中でも彼女の心を大きく締めるのは、梅雨のあの日の事と、昨日から兄とギクシャクしてしまっている事だった。
150 幻日 第二話 sage 2010/03/19(金) 00:57:22 ID:D6mziyv2
昨日、兄とその恋人の姿を見て感じた違和感。
それは一瞬の事で、今は形を潜めてしまったけれど、それ以来どうしてか兄との接し方が良く分からなくなってしまっていた。
兄と顔を合わせると、何故か胸に僅かな痛みが走るのも明日香を困惑させた。
一体あの違和感は何だったのだろうか。そして、明日香の胸をチクリと刺すものの正体は。
「うーっ……」
明日香は小さく呻いた。考えすぎで、知恵熱が出そうなくらいだった。
そして、そのくらい考えても一向に答えが出ない事も明日香をムシャクシャさせる。
明日香は余り、頭を遣って考える事が得意ではない。かといって、考えるよりも行動優先という訳でもないのだが。
要するに、彼女は要領が悪いのだった。
秀峰。秀峰高校。明日香は自然、自虐的な笑みを浮かべる。
こんなにわたしたちに向いていない高校はない。そう、明日香は確信している。
わたしたち。その中には、明日香はもちろんの事、兄である隼人も含まれる。
隼人もあまり成績が良くない。明日香とは違い物覚えは良いみたいだが、勉強するのが嫌いであるようだ。それは、妹である明日香がよく知っていた。
一方で、明日香は頭の回転がそもそも鈍い。馬鹿ではないのだが、努力して並みよりも少し上のレベル。それが明日香だった。
入学試験に際しては、才女である桐香に散々お世話になって何とか合格にこぎつけたのだ。
そして、それは高校に入ってからも変わらないだろう。
明日香は頼りっぱなしで心苦しくはあるが、桐香の手助けがなければ進級も危うい。
明日香自らが望んで選んだ高校ではあるが、これから先の事を考えると溜息の一つでもつきたくなる明日香であった。
考えすぎて、段々と考え事の内容が脱線してしまっている事に明日香が気付いたのと同時、チャイムの音が授業の終わりを告げる。
この音だけは、中学の時に聞きなれたそれと変わらないように聞こえる。その事に明日香は、安堵してしまうのだった。
「明日香――」
授業が終わり、直ぐに桐香は明日香のもとへと駆け寄った。
桐香は、声をかけながら、自分よりも小さくて華奢な背中を軽く叩こうとして。
「――よし、決めた!」
突然立ち上がった明日香に吃驚させられて、硬直してしまった。
桐香の周囲の生徒も、驚いた顔で明日香を窺うように見ている。
「って、あれ、桐香ちゃん?」
どうかした?固まっている桐香に気付き、明日香が首をかしげた。
その声に桐香は、はっとしたような顔をして、
「どうかしたじゃないわよ。それを聞きたいのはこっちの方。突然大声出して、吃驚しちゃったじゃない」
周りの人も。桐香が周りを眺めながら言うと、明日香は漸く周囲へと目を向けた。
そして自分が注目されている事に気付くと、
「あぅー」
小さく縮こまって、すとんと席にへたり込んでしまった。
机に突っ伏し、頭を抱える様にして顔を隠そうとしている明日香に、桐香はくすりとした。
周囲の生徒も明日香の小動物的な行動に、和んでいるようだった。
「明日香、顔真っ赤よ。ふふ、恥ずかしがり屋なんだから」
「そんなんじゃないもん。このくらいへーき」
そう言う明日香は、顔一面を赤くしている。
「でも珍しいわね、恥ずかしがりやで、人見知りの明日香があんな大胆な行動に出るなんて。まあ、でもクラスメートに大きなインパクトは与えたようね」
良かったわね。悪戯っぽく桐香が言う。
「だから、そんなんじゃないんだもん」
明日香が不満そうに頬を膨らませて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「あらあら、怒らないで、冗談なんだから。それよりも、何を決めたの?」
そう言うと、明日香は直ぐに桐香の方を向く。
こういう素直なところが可愛い、と桐香は思う。
「えっとね、ウジウジ考えるのはやめようって。決めたの」
「?」
明日香の短すぎる答えに、桐香はクエスチョンマークを浮かべた。
その様子に気づいているのか、気付いていないのか、明日香は続ける。
「どうせ、わたしがいくら考えたって答えは出ないんだから、それなら無理に考えない方がいいやって。そっちの方が、多分わたしらしいもんね」
明日香は桐香に喋っているようで、実はそうではない。彼女は彼女自身に対して言い聞かせている。
明日香が、無い知恵を振り絞って考えた所で良い考えが浮かぶとは思えない。
それなら無駄な事は考えず、成行きに任せてしまおう。
山積する悩みは、きっと時が来れば解決できる。今はまだその時ではないのだ。
151 幻日 第二話 sage 2010/03/19(金) 00:58:10 ID:D6mziyv2
明日香は、うん、と頷いた。やっぱりこっちのほうがわたしらしい。
それなら、まず自分が取るべき行動、それは。
「お兄ちゃんと仲直りしなきゃ!」
「……何、お兄さんと喧嘩でもしたわけ?」
明日香のこの奇妙な行動は、それが発端なのだろうか。
桐香の言葉に、明日香は首を振った。
「ううん、喧嘩なんてしてないよ」
「そうなの?じゃあ、何で仲直りなのよ」
「うーん」
明日香は、人差し指を唇にあてて考え込むようなそぶりを見せる。
けれど直ぐに、
「何となく、かな?」
と、笑って見せた。
†
「は、交換日記?!」
高校の、昼休み。
普段は屋上で昼食をとっている隼人達だが、今日はさすがにそう言う訳にもいかず、教室の隼人の席の周りに集まって食べていた。
隣のクラスの立夏は、隼人の前の席の生徒に椅子を借り、弁当箱を隼人の席の上に広げてから、徐に、
「ねえ、隼人交換日記しようよ」
この言葉に、既に弁当箱を突いていた隼人は、眉をしかめ、素っ頓狂な声を出した。
「そそ、交換日記」
言いながら、立夏は自分の鞄の中から一冊のノートを取り出した。
そのノートには可愛らしいシールやら何やらが散りばめられて、ファンシーに飾られている。
いつもは丁寧な筆致の癖に、やけに丸っこい字で、でかでかと書かれた“こうかんにっき”の文字に隼人はげんなりとした。
隼人の隣の席の机に座り、パンを齧っていた陽介は、それを覗きこんで、
「へぇー可愛いじゃん」
ニヤニヤと、面白くてたまらないという風である。
「でしょー。友達に色々手伝ってもらったんだからー」
陽介の真意に気付かず、立夏は満面の笑みを崩さない。
「既に私の分は書いたから、今日は隼人の番ね」
はい、と立夏がノートを手渡してくる。
呆然としている隼人は、立夏の勢いに押されてファンシーなノートを受け取ってしまった。
そのまま、何となく表紙を開くと1ページ目に立夏の文字が並んでいる。
ざっと目を通すと、昨日の出来事がメインになっているようだ。明日香や、桐香の名前もぽつぽつ登場している。
「ちょっと、恥ずかしいから読まないでよ」
立夏が隼人の手からノートを取り上げた。
「は?読むなって、お前、これ読むために書いたんじゃないのか?」
「そうだけど。今、読まなくても良いじゃない。目の前で読まれると恥ずかしいの」
立夏は、空気読めよ、とでも言いたげな表情だ。
面倒臭ぇ。隼人は、心中で毒づいた。この年で交換日記とか、一体何の罰ゲームだろうか。
「……冗談だよな?」
「何が?」
隼人の疑問に、立夏は首をかしげた。
隼人は、立夏の手にある交換日記を指さした。
ああ、と立夏が得心いったという体で頷いた。
「何で?本気だけど」
即答である。
彼女の目も真剣そのもので、それが本気の度合いを表しているようだった。
爛々と輝く立夏に対して、隼人はどんより澱んでいる。それこそ、今日の空の様に暗雲が垂れこめている。
「何でまた、交換日記なんだよ。メールがあるだろ」
隼人が嫌そうな声で言う。
「そうなんだけどね」
立夏は頷く。確かに今の時代、伝えたい事があればメールで済ましてしまえば、あっという間である。
それなのに、敢えて交換日記という前時代的というか、子供っぽい事をする理由が、彼女にはあった。
でもね。と前振りを置いて。
「やってみたいの」
「……それだけ?」
何らかの理由があるのだろう、と踏んでいた隼人は拍子抜けである。
152 幻日 第二話 sage 2010/03/19(金) 00:59:10 ID:D6mziyv2
対する立夏は、ムッとしたような顔で、
「なに、悪い?」
いや、悪くはないけど。隼人は、立夏の眼光に気圧される様に口ごもった。
「ほ、ほら、やっぱりメールの方が色々便利だし、交換日記の必要なんてないんじゃない、かな、と」
思うん、だけ、ど。抵抗の声も段々と、小さくなっていく。
「まあ、確かに今更って感じではあるよなあ」
さっきからずっと、ニヤケ顔で成行きを見守っていた陽介が口をはさんだ。
見ようによっては、友人である隼人に助け船を出したかのようにも見えるが、実際は既にパンを食べてしまい、暇になっただけである。
とはいえ、劣勢気味の隼人にとって助け舟であることには変わらない。
「そうそう、今更だよ、今更」
陽介の言葉を繰り返す。
「別にいいでしょ、流行とかどうとかバカらしい。交換日記にはメールにはない良い所があるんだから」
しかし、立夏は全く歯牙にもかけようとしない。
メールにはなくて、交換日記にはある良い所って何だよ。隼人はそう思うが、口には出せない。
出したところで黙殺されるのは目に見えているし、これ以上立夏の機嫌が悪くなるのはまずい。
未だ立夏と付き合うようになって1年近くであるが、隼人はずっと立夏の尻に敷かれる形であった。
立夏は、再度ノートを隼人に手渡すと、もう話は終わったと言わんばかりに昼食に集中し始めた。
持っているだけで恥ずかしくなるようなファンシーなノートを手に、隼人はこみ上げるため息を堪えて、代わりに肩を落とした。
昼食後、昼休みもあと十分近くを残すのみで、生徒は皆、次の授業の準備に取り掛かっている。
隼人も教科書を机の中から引っ張りだして、沈んだ表情で窓の外を眺める。
外は相変わらずの雨である。予報によると、今日一日はこのまま止まないようだ。
「良い感じに、沈んでるな」
背中にかけられた声に振り返ると、陽介の相も変わらないニヤケ顔。
隼人は、うんざりとした表情で、しっしと手で追い払う仕草をした。
「もうすぐ、授業始まるぞ。早く席に戻れよ」
「まーだ、あと10分もあるじゃないか。他はどうかはしらねぇけど、俺とお前は少なくともそんな真面目ちゃんじゃないだろ?」
「お前と一緒にするなよな」
隼人は、さも心外だという風で反論する。
「俺は授業中に堂々と寝たりはしない」
「はん、どうせ真面目に聞いちゃいないんだろ?そんなの七難八苦だよ」
「……多分それ、五十歩百歩だと思うぞ。数字すらあってないじゃないか」
「べっ、別にそれはどうでもいいんだよ。それよりも交換日記だよ、交換日記」
隼人の指摘に、さすがに恥ずかしかったのか陽介が話題を変えた。
すると今度は隼人が、嫌そうな顔になる。
ちなみに、件のファンシーノートは手渡されてすぐに隼人は、鞄の中にしまいこんでいる。
「まあ、百川さんの気持ちも分からないでもないけどな」
陽介の言葉に、隼人は顔をひきつらせて体をのけぞらせ、陽介から距離を離した。
「お前、そんなメルヒェンな趣味が……?」
「バッカ、ちげぇよ。百川さん、中学時代はガリ勉少女だったからな、そういう子供っぽい青春に憧れがあるんじゃねぇの?」
両目の前で人差し指をぐるぐるさせて、
「こーんなメガネして三つ編みだぜ、笑えるだろ?」
「成程ねぇ」
隼人は頷く。どうやら、立夏は高校デビューというやつを果たしたということだった。
さすがに陽介の言葉全てを信じたわけではないが、そう言う憧れがあったという話は真実とみても良いだろう、と隼人は思う。
そうすれば、今回の立夏のちょっとばかり強引な行動も頷けた。
ちょうどその時、昼休み終了のチャイムが鳴った。授業開始五分前である。
そろそろ、教師も教室にやってくるだろう。
「んじゃ、交換日記、頑張れよ」
そう言って陽介が自分の席へ戻って行った。
結局、終始隼人の癇に障るような笑みを浮かべたままだった。
何をがんばれって言うんだよ、その背中に向かって隼人は小さくつぶやいた。
そして、今日からあのファンシーなノートに日記を、それも人に見せる前提のモノを書かなければならないと思うと、隼人はキリキリと胃が痛くなるような思いだった。
最終更新:2010年03月22日 20:37