138 穴 sage 2010/05/12(水) 02:01:47 ID:v9idzcxX
時計が、けたたましい悲鳴をあげた。
手探りに時計を探し当て、一叩きしてやる。習慣ゆえの行動だ。
悲鳴はすぐに止んだ。
日の光が瞼の暗幕を透かして、ぼんやりと意識の輪郭を浮かび上がらせる。
改めて時計のアラームを切り、縮こまった体と意識をベッドの上でほぐしていく。
そうして、ようやく私は目を覚ます。
時刻は、午前七時半。
代わり映えのしない、月末の朝だった。
だからこの日の朝も、私は常の行動に出たのだ。
南側の壁には、カラーボックスが幾つか積み上げられている。
その壁の向こうには、私の弟の部屋があるのだ。
私は、音を立てぬように、カラーボックスを一つずつ除けていく。
まず、何の変哲もない白い壁が現れ、さらに障害物を除けていけば、
無造作に貼り付けられたガムテープが現れる。
椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
ガムテープを慎重にはがしていくと、直径2cmほどの穴が
あんぐりと口を開いて、私を待ちかまえていた。
体は穴に自然と吸い寄せられる。
準備は整った。
観察を始めることにする。
穴の向こうは、薄暗かった。
カーテンの隙間から射す二本の斜光のおかげで、なんとか部屋の内容物が判別できる。
視界の左端を埋めるのは、本棚だ。
この薄暗い空間の中、ましてや本棚の影に塗りつぶされていれば、
向こうからこの穴が見つかる心配は、あまりない。
多少の見づらさも、我慢できるというものだ。
視界の中心に据わるのは、学習机とキャスター付きの椅子だ。
そして、私の観察対象は、いつもと変わらずそこにあった。
弟だ。
弟は、椅子にもたれかかったまま、微動だにしない。
机に向かってこそいるものの、本を読んでいるわけでも、
お得意のネットサーフィンをしているわけでもない。
ましてや、学生らしく勉強をしているはずもなかった。
現在の彼の状況を鑑みれば、それは明らかだ。
もう3ヶ月以上―――明日でちょうど4ヶ月、私は、弟の顔を見ていない。
私だけでなく、家族の誰とも、顔を合わせていないはずだ。
簡単に言ってしまえば、弟は引きこもりになってしまったのだ。
王様の背中は自分の城にいながら、随分と寂しそうだった。
その猫背気味の後ろ姿を見つめ、私は自然と唇を噛み締める。
このままではいけない。
ちょうどあの姿勢についても、一言注意してやらねばならない、
と思っていたところだ。
139 穴 sage 2010/05/12(水) 02:05:00 ID:v9idzcxX
かねてより思案していた行動を、今夜、実行することにしよう。
観察を始めて、もう30分以上が経過していた。
私は慌てて制服に着替え、鞄を手に、部屋を出る。
弟の部屋の前で立ち止まり、控えめにノックをするも、返事は無かった。
ちょうどその場に出くわした父が、深く溜め息をつき、首を振る。
諦めろ、ということらしい。
―――お前達がそんな調子だから、私がやらなければならないんだ!
そう叫びだしたくなる衝動をぐっとこらえ、私も溜め息を漏らす。
父と挨拶を交わすこともなく、私は居間へと向かった。
そこにはもう一人、私を苛立たせる人間がいる。
もちろん、そちらにも挨拶の一言すらかけてやるつもりはない。
今や、父も母も、弟に関わろうという気はこれっぽっちもないのだ。
※ ※ ※ ※ ※
味のしない朝食を詰め込むと、私はさっさと家を出て、
通学路をひたすら歩いていた。
いかにして弟を部屋から引きずり出すか、そればかりが頭の中で渦巻いている。
この通学路も本来ならば、弟と二人で歩くはずだったのだ。
だが、高校生活が始まってすぐに、彼は部屋に閉じこもってしまった。
何が原因で、私達はこうなってしまったのだろうか。
どうやって歩いてきたのかも定かではない。
とにかく、私は学校にたどり着いていた。
そして、校門の脇に一人の少女の姿を見つける。
先ほどまでの疑問の、その答えらしきものに思い当たる。
向こうも私の姿に気づいたようだった。
少女は、酷く傷ついた笑顔を浮かべて、「おはようございます」
と私に挨拶をした。
何故、彼女はそんな顔ができるのだろう。
考えうる限り、弟が閉じこもってしまったのは、彼女のせいだというのに。
弟と彼女が“そういう関係”になったのは、半年以上前のことだ。
近所同士で、小さい頃からの知り合いだっただけに、
二人が目に見える交際を始めた時の周囲の反応は、ようやくか、という
なんともあっさりしたものだった。
ただ、私は知っていた。
この少女の内に秘めた貪欲な性根を、私だけは知っていた。
姉である私すらも敵視して、弟をどうにか手に入れようとする
彼女の心を、出会った当初から私は見抜いていた。
だから私は、弟にそれとなく、しかし幾度となく、忠告したのだ。
幼なじみだからといって、あまり彼女を信用してはいけない、と。
140 穴 sage 2010/05/12(水) 02:07:20 ID:v9idzcxX
元々、おとなしい気性の持ち主である弟に、これ以上の我慢を
強いるのは、酷なことだと思ったのだ。
弟はいつでも笑いながら「大丈夫」と答える。
けれど、確かにあいつは以前よりワガママになったかもしれないね、
と苦笑する。
二人の関係は長続きしないだろう、という私の予想は、
それから少し経って現実のものとなった。
何が原因だったのかは、私にも分からない。
恐らく、彼女にも日々積もりゆく鬱憤があって、それが爆発した瞬間に、
偶然、私が居合わせた。
私につかみかかる少女と、負けじと言い返す私の間で、
迷子のように惑う弟。
この言い争いが行われたのは、私と目の前の少女が立っている場所だ。
私からの返事を待っているのか、彼女は、今も校門前に立ちすくんでいる。
弟だけがいない。
あなたのせいなのに。
最後に見た弟の怯えた顔が、瞼の裏に浮かび上がる。
本来なら、無言で立ち去るつもりだったけれど、嫌がらせに
一言くらい言っても、責められる謂われはないだろう。
―――あの子、もうすぐ学校に来ると思うから。
あなたは気にしないでいいからね、と告げて、私は校門をくぐり抜けた。
彼女の顔がサッと青ざめるのを、横目で確認する。
いい気味だ、と胸の内で笑い、同時に「やはり、今日しかない」
と考える。
今夜、弟を部屋から出す。
どんなに抵抗され、恨まれようとも、それが弟のためなのだ。
背後で、彼女が何かを言いかけ、口を噤む。
もうこの娘には、何の感情も湧かなかった。
※ ※ ※ ※ ※
その日の夕食の席も、酷く重苦しい雰囲気だった。
かつては、笑い声の絶えなかった団欒の席は、今や見る影もない。
父は不味そうに酒を煽り、時折、思い出したようにおかずをつつく。
母は、自分と皿の間で機械的に箸を往復させる。
私は二人を眺めて、機を窺う。
そろそろだろうか。
ねえ、と私が言葉を発すると、居間の空気が強張った。
―――あの子のこと、そろそろ考えなくちゃいけないと思うの。
父の顔を見つめる。
母は隣でがっくりと頭を垂れ、肩を震わせ始めた。
―――お母さん、泣いていたって仕方ないじゃない。
口調を和らげて、私は母に向き直る。
あの子の為に、やらなくちゃいけないと思うの、
と辛抱強く語りかける。
母は答えない。顔を上げることもしない。
もう止しなさい、と父が言い放つ。
141 穴 sage 2010/05/12(水) 02:09:16 ID:v9idzcxX
―――いつまでこうしているつもりなの。
自然、私の語気は荒くなる。
―――あの子を閉じこめて、どうするつもりなの。
父は首を振るばかりで、何も答えない。
「もうやめてあげて」
母が嗚咽混じりに、言葉を吐き出した。
「もう、そっとしてあげて」
違う、と私は叫ぶ。
あの子は、あの部屋の中にいても、癒されてなんかいない。
夜も寝ずに、何かに怯え、朝を待ち続けている。
―――あなたたちには頼らない。
その言葉だけを残して、私は階段を駆け上がる。
弟の部屋の前に立ち、出てきてちょうだい、と懇願する。
返事は無かった。
ドアを叩いても、部屋の中からは、物音一つ返ってこなかった。
ドアノブを回し、部屋に入る。
弟は居なかった。
机もベッドも、以前と寸分変わりなくそこにあるというのに、
一番大事な要素が欠けていた。
「もう、眠らせてあげよう」
いつの間に追いついたのか、父の手が肩に添えられる。
弟がいない。
どうしていないのだろう。
―――いつから、いないの。
4ヶ月前だよ、と耳元で囁かれる。
疲れ果てた母の声だった。
私の記憶が4ヶ月前に遡る。
私と彼女が言い争った日だ。
校門前で二人を見つけた私が、彼女に詰め寄る。
私は、弟にも詰め寄った。
―――あれだけ、言って聞かせたじゃない。
―――どうして私の言うことが聞けないの。
―――私に従っていればいいの。
弟は苦しそうな表情で、私の罵声を浴びていた。
そして、弟は駆け出した。遅れて、私も駆け出す。
そして、目の前を車が通過した。
弟は瞬く間に私の前から消え去り、次に私の目に映った時には、
ぴくりとも動かなかった。
―――死んだの。
父は答えなかった。
肩の上で握り込まれた拳の震えは、私の頭をざわつかせた。
今朝、彼女は校門前で何をしていたのだろう。
じっと立ち尽くし、彼女は何を思っていたのだろう。
私はこんな大事なことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
記憶は、弟の死から1ヶ月後に飛ぶ。
やはり、私はこうやって弟の部屋で呆然としていた。
その1ヶ月後も、今も。
私が何よりも欲しかったものは、とうに消えてなくなっていた。
―――弟は閉じ込められてなんかいなかった。
閉じ込められていたのは、私自身だった。
唇を割って、言葉にならない何かが飛び出した。
142 穴 sage 2010/05/12(水) 02:11:13 ID:v9idzcxX
父と母に縋り、床に向かって力尽きるまでわめきちらし、
体から、あらゆる悲鳴が抜け落ちたころ、私の体は揺れだした。
伝わる振動は、誰の震えなのかも分からない。
私自身なのだろうか。
それとも父か。
母だろうか。
整然とした床の線は、少しずつぼやけていき、私の意識もそれに従う。
これは何かの冗談なのだ。夢なのだ。
意識が途切れるまで、ひたすらそれを反芻していた。
※ ※ ※ ※ ※
目覚まし時計が、起床時刻を告げていた。
意識は未だ霧の中をさ迷っていて、目も瞑ったままだというのに、
私の手は、喚き続ける時計を正確に一叩きしていた。
改めて時計のアラームを切り、縮こまった体と意識をベッドの上でほぐしていく。
そうして、ようやく私は目を覚ます。
時刻は、午前七時半。
代わり映えのしない、月初の朝だった。
この日の朝も、私は常の行動に出たのだ。
積み上がったカラーボックスを静かに除け、露わになった
ガムテープを剥がす。
私は、小さな穴を覗き込む。
視界の左端を遮る本棚。
中央に鎮座する机と椅子。
それを覆い隠す人影。
―――なんだ、やっぱりいるじゃない。
意図せずして、口の端がせり上がるのが分かった。
あと20分程は彼の姿を眺めていられそうだ。
弟が部屋に閉じこもって、今日で丁度4ヶ月になる。
そろそろ、彼を外に出してあげなければならない。
それがあの子の為なのだ。
私はそう決意して、部屋を出る。
そして、弟の部屋のドアをノックした。
「おはよう」
元より期待はしていなかったけれど、やはり彼からの返事はなかった。
私のその姿を見て、父が深く溜め息をついた。
いい加減にしてくれ、とでも言う風に。
終
最終更新:2010年06月06日 20:03