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『プロローグ』第0話 sage 2010/06/16(水) 00:27:20 ID:WG/Hk1jS
prologue #00
「高校を辞める? 上京?」
大学進学のために上京して一カ月が過ぎ、ようやく東京の生活にも慣れてきた矢先のこと
だ。電話越しの母経由で聞いた妹の決意とは、僕の想像の斜め上を行くものだった。僕の母
は並大抵の出来事では全く動じない。けれども、今回の妹の告白はどうやら並大抵のもので
はなかったらしい。
一カ月と少し前、妹は東京へ旅立つ僕に――すこし、恥ずかしそうに――来年東京の大学
を受験して、上京したい、という思いを伝えてくれた。彼女の頭脳をもってすれば、僕が浪
人してなんとか合格した都内のそこそこの大学よりも、もっと偏差値の高い大学に受かるよ
うなことも不可能でないだろう。もちろん、現役で。
動揺している母をなだめながら考える。妹はそれこそ容姿端麗頭脳明晰。どちらかと言わ
ずとも優等生だし、校内一までにはならないとしてもかなり上位に入るだろう美人である。
僕は人の顔を順位付けするという行為があまり好きではないけれど、妹の顔立ちが整ってい
るという意見に異論のある生徒は少ないと思う。それだけ美人で賢い妹である。そんな妹に
何があったのか。
「ねえねえ、何のお話?」
670 『プロローグ』第0話 sage 2010/06/16(水) 00:28:29 ID:WG/Hk1jS
従妹が口をはさんでくる。彼女は一つ年下ながら僕が浪人してしまったために同学年とな
ってしまった。大学は違えど僕と同級生になったことがよほど面白いらしい。呼び捨てで僕
の名を呼んでみたり、そうかと思ったらわざとらしく僕を年長者扱いするなど、事あるごと
に僕と同学年であることをダシにして遊んでいる。彼女の家は僕の借りている下宿の隣の部
屋であるはずなのだが、寝る時以外はほとんど僕の部屋に入り浸っていると言っていい。就
寝時に追い出さなければ恐らく寝床も僕の部屋になるのではないだろうか。いくら親戚とは
いえ年頃の女の子が男性の部屋に入り浸っているのはどうなんだろう。
「亜紀が高校辞めて東京行きたいんだとさ」
「ダメ!」
亜紀とは妹の名。ちなみに今血相変えて叫んでいる従妹の名は咲月。一つ年下の従妹のこ
とがそんなに心配なのか、高校を中退して上京することの短所をつらつら述べている。もち
ろん僕も咲月に説得されるまでもなく亜紀の高校中退に反対なのだけれど。
壁に貼り付けられている可愛い動物たちの写真が載っている――咲月の趣味だ――カレン
ダに目をやる。春の大型連休、ゴールデンウィークは明日から。夏まで帰省の予定は無かっ
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たけど仕方ない、とりあえず実家に帰ることにしよう。どうせ中退騒動は亜紀の気まぐれだ
ろうけど、僕が実家に着くころにはケロッとした顔で「兄さん、どうしたの」なんて言うの
だろうけど、久しぶりに妹の顔でも見に行くか、と思って行くことにした、と言っても僕が
上京してまだ一カ月と少ししか経ってないのだけど。
いつもは落ち着き払ったドライな性格の妹なのだが、時たまこういった風によくわからな
いことを言い出して取り乱すことがある。やはり日頃は自分を押さえつけているからその反
動が来るのだろうか。僕がいなくなって家の環境が変わったからかもしれないな、まだ一カ
月だけど、などと自惚れたことを思ったりしてみた。
明日家に帰るよ、と言うと夜行バスを提案された。確かに今から乗るとちょうど明日の朝
には地元に着く計算になるし、飛行機や新幹線なんかよりもずっと安い。でも、この時期は
予約でもしておかない限り席を取るのは不可能だろう。
「あら? チケット、届いてないの?」
「何のさ」
「今話してるじゃない、夜行バスよ。亜紀があんまり淋しそうだったから、あんたが連休に
ちゃんと帰ってこれるように私が手配して送っといたのよ」
初耳だし、届いてない。
672 『プロローグ』第0話 sage 2010/06/16(水) 00:30:04 ID:WG/Hk1jS
「ないの? 送ったのは先週かもっと前よ?」
「おかしいな。ちょっと待って、咲月に聞いてみる」
最近僕の部屋のことは僕よりも咲月の方が詳しい時が往々にしてあるのだ。寝巻を着て
(僕の使い古しのシャツ)ベッドに寝転びながら(僕のベッドだ)、漫画を読んでいる(そ
れも僕のだ)、咲月に尋ねてみると、彼女はやたらすっとんきょうな声をだして、隣の自分
の部屋へ戻った。そしてすぐに封筒と中に入っていただろう夜行バスのチケットを持ってく
る。
「なんで、咲月が持ってるの? しかも封開いてるし」
「あ、雨で濡れていたから乾かそうと思って、乾かしているうちにそのまま忘れちゃったの!
ごめんなさい!」
そっか……、咲月、自分の部屋にほとんど居ないもんな……、そりゃ忘れるな……。母に
はチケットが届いていたことを伝え、その夜行便に乗ることも加えて電話を切った。まだご
めんなさい、だの呟いている咲月に向き直る。結果的に僕はバスに乗れるのだし正直そこま
で気にすることでもないと思うのだけど。
「咲月、僕は別に怒ってないよ」
「ほんと?」
いつもの覇気が無い分咲月がとても可愛く見える。失礼、咲月は普段から可愛い。ただい
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つもは少し元気がありすぎて、こちら側に彼女の顔まで気を回す余裕がないからそう思わな
いだけだろう。うん、咲月は可愛い。
「まぁ、もう少し気をつけてほしかったな、ってのはあるけどね」
ごめんなさい、ごめんなさい。また謝る咲月。もういいよ、と可能な限りやさしい声色で
話しかける僕。そういえばコイツ、昔はよく泣いたな、などと思っているとつい頭も撫でて
しまっていた。
× × × × ×
――本日は西急高速バスをご利用いただき、誠にありがとうございます。
疲れた。
大急ぎで荷物を詰め、何故かやたら帰省の阻止を試みる咲紀をなだめてバスに乗った。い
くら住み慣れてない自分の部屋で寝起きしなければならないからといえどもあんなにゴネる
のはちょっとおかしい。咲紀も口には出せない何かを抱え込んでいるのではないだろうか。
考えれば考えるほど心配になってきた。東京に戻ったら真面目な話もしてみようか、咲紀と
真面目な話なんかした記憶が無い気がするのだけど。
「まぁ、皆成長しているんだよな……」
人間、悩むことで成長するしな。きっと亜紀も表向きああいう風に断言調で宣言してしま
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って正直引っ込みがつかないとかそんなんだろう。帰ってから亜紀と適当に話をしてどこか
適当に遊びに出かけて適当に気を晴らして……――。
眠りに就く直前まで亜紀のことを考えていたからだろう。
僕は妹の夢をみていた。
最終更新:2010年06月30日 19:03