兄懇直球 マスクドシスター

426 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:18:39 ID:1TuZg/SP

「うん、今日のお弁当はこんなものですね」
 うなずいてから、長峰かぎりは弁当箱の蓋を閉じた。

 朝の七時。まだ家族の誰も起きてこない時間に、彼女は台所で一人で昼食のお弁当を用意していた。
 オレンジ色のプラスチックの弁当箱と、アルミ製の弁当箱。
 アルミ製のものは大きく、プラスチック容器の二倍ほどの大きさがあった。
 容器のそれぞれにゴマを振りかけた白米と、作ったばかりの色とりどりのおかずが詰まっている。
 なぜ二つの弁当箱を、長峰かぎりが用意しているのか。
 彼女が大食らいで、容器が小さいから仕方なく弁当を二つも用意している、というわけでは無い。
 そうではなく、弁当を二つ作らなければいけないからこそ、そうしているのだ。

 長峰かぎりには、高校生になってもまだ放っておけない、一つ年上の兄が居た。
 名を長峰巌。
 その名前には似つかわしくない外見をした、中肉中背の男子高校生。
 中身が冴えているか冴えていないかはともかく、彼は食事に関して無頓着だった。
 昼食時間に眠たければ、昼寝をして昼食をとらない。
 一週間分の昼食代をまとめて渡せば、一日や二日で残らず消費する。
 用意する昼食といえば、学食やコンビニで購入した、まるでお菓子のようなパンのみ。
 かぎりはそんな兄と対照的に、食事には気を遣う質だった。
 自然、彼女は自分で弁当を作るようになった。
 兄の無頓着振りに不満を覚えていたかぎりは、ある日兄にこう告げた。

『今日から、兄さんの昼食は私が作ります。文句は受け付けません!』

 動機はそんなものであった。
 しかし、弁当を作り続ける理由は不満から来るものではなく、かぎりの健気さから来ていた。
 長峰家には、仕事の都合で世帯主の父親と母親が家に居なかった。
 他に兄の弁当を作ってくれる人間が居なかったため、かぎりは兄の弁当を作り続けた。
 兄さんを放って置いたら、いつの間にか駄目になってしまう。妹の私がやらないと。
 そんな思いでいたが、弁当を作り続けているうちに、いつの間にかかぎりの心境が変化した。

 かぎりが己の心に染みついた思いを自覚するのは、巌が高校の修学旅行に出掛けたときのこと。
 巌が旅行に出掛けた翌日の朝、かぎりは二人分の弁当を作っていた。
 一日目こそ、たまたまドジをしてしまったのだと考えられた。
 しかし、二日、三日と過ぎていくうちに、その考えは覆った。
 弁当を作っていても、物足りない。いつもに比べて張り合いがない。
 しまいには作る気が湧かなくなってしまったのだ。
 かぎりの心の中で、巌の弁当作りは大事なものとなっていた。

 そのことを自覚してから、かぎりは兄の弁当作りに以前より力を入れて取り組むようになった。
 兄が自分の料理に飽きないように。兄が残さず食べてくれるように。
 いくつもの工夫と試行錯誤を繰り返してまで、かぎりは弁当を作った。

 かぎりは気付いていなかった。
 自身の心の中で、兄への想いがどれだけ大きくなり、歪んでいるのか。
 気付くきっかけがあっても、彼女は認めなかったかもしれない。
 かぎりにとって、巌は世話のかかる兄でしかなかった。物心ついたときからずっとそうだった。
 いつまでも兄と一緒に居たいという思いが深層心理にある。
 そんな事実は、模範的な学生であろうとするかぎりにはあまりにもショックで、受け入れ難かったはずだ。


428 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:21:23 ID:1TuZg/SP

 昼食時間を報せるチャイムが鳴った。
 教師は授業の片付けを始め、早々に出て行った。
 ただ、黒板に書いた文字を消すことだけはしなかった。

 長峰かぎりはカバンの中から素早く弁当箱を取り出した。
 自分のものと、巌のもの。
 二つを重ね、両手で大事そうに抱えながら、巌の居る三年の教室へ向かう。
 かぎりはほぼ毎日、昼休み時間には兄の居る教室へ向かって、弁当を手渡しする。
 家で渡してしまえばいい、とも考えたりするが、そうすると家に忘れるのでは、という不安が生まれる。
 そのため、かぎりはこうして昼休み時間を削ってまで兄の元へ向かうのだ。

「はい、巌君。あーん」
「いいって。すぐに妹が弁当持ってくるはずだから」
 三年の教室に辿り着いたかぎりが見たのは、自分の席で待っている兄の姿。
 それと、その兄に弁当を食べさせようとしている、兄の同級生の女。
 巌はまだ、かぎりがやってきたことに気付いていない。
 というのも、同級生の女が巌の顎を掴んで離さないからだった。
「こんな時間になっても来ないんだから、今日はきっと来ないわよ」
「まだ五分も過ぎてないし。ほんとにいいって。……悪いからさ」
「遠慮する事なんてないってば。はい、あーん」
 食い下がる同級生を前にして、とうとう巌は、差し出された卵焼きを口にした。
 その瞬間を、かぎりははっきりと見つめていた。

「あっ……」
 兄さんが卵焼きを食べている。
 私も、作ってきたんですよ、卵焼き。ねえ、兄さん。
 心の中で言っても、誰もかぎりの声には応えてくれない。
 巌は、かぎりの傍ではなく、同級生の傍に居るのだ。
「どう? 美味しいでしょ?」
「まあ、悪くはないかな。でも」
「でしょでしょ? じゃあ次はおにぎりをどうぞ。はい、あーん」

 やめてください、兄さん。
 兄さんのお弁当は私が作っています。
 人様の作ったお弁当を食べるなんていけません。
 兄さんの好みを知っているのは私だけしか居ないんです。
 私の作った、美味しいお弁当を食べたくないんですか?

「……うん、これもなかなかの塩加減。でも、やっぱり妹の方が――」
「もう巌君ったら! そんなに褒めてもらっちゃ困っちゃうよ」
 二人の周りにいる人間が、冷やかし始める。
 バカップル。恥ずかしいから屋上に行け。喧嘩売ってるなら買うぞ。
 それら全ての声に紛れ、巌の声はかき消される。人垣で姿まで見えなくなる。

「……ここに置いておきますね、兄さん」
 巌の弁当を手近にあった机の上に置き、かぎりはその場から立ち去った。



429 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:23:18 ID:1TuZg/SP

 かぎりの毎日の習慣は、兄と一緒に帰宅することだった。
 下駄箱置き場で兄がやってくるまで待っている時間は、退屈でもあったが、楽しみでもあった。
 今日学校でどんなことがあったのか、今日の晩ご飯は何にするか。
 そんな他愛のない話をして、たまに買い物をして家に帰る。
 巌が用事で遅れる時は、待ち続けることはしない。
 だが、そんな日の帰宅の道は何も面白みがなく、退屈だった。
 今日もそうだった。かぎりは一人で帰宅していた。
 ただし、今日はいつもと事情が違っていた。

 かぎりは、巌が現れるまで待つことをしなかったのだ。
 そうした理由は、もちろん昼休み時間の出来事にある。
 兄が弁当を食べてくれなかった。かぎりはそれがショックだった。
 巌のために弁当を作ったというのに、当の巌は自分以外の人間が作った弁当を食べ、満足していた。
 自分がやってきたことはなんだったのか。
 兄のためと言いつつ、実は自分の自己満足でしかなかったのか。
 兄は我慢して、自分の弁当を食べていたのだろうか。
 美味しくなかったから、他の女の弁当を食べたのか。
 暗い考えばかりが、かぎりの心を満たしていく。

 ぼうっとしたままで帰宅した。
 どの道を通って来たのか、途中で何が起こったのか、何人とすれ違ったのか、何一つとして思い出せない。
 時刻はすでに七時。外にはもうすぐ夜の帳が落ちる。
「遅い、です……」
 私の帰りも、兄さんの帰りも。

 晩ご飯を作らないといけない。兄の食事を作るのは自分の役目なんだ。
 わかっていても、かぎりは身体を動かせない。
 巌が美味しいと言ってくれるから、かぎりはどれだけ疲れていても台所に立つことができた。
 でも、今日だけは無理だった。
 出前でも頼もう。そう思ってかぎりは携帯電話を取りだした。
 そのタイミングで、携帯電話に着信があった。
 巌からだった。
「もしもし、兄さんですか」
「悪い、かぎり! 今日は晩ご飯用意しなくていいからな!」
「……何を言うんです。晩ご飯も食べないといけませんよ」
「それどころじゃねえんだって!」
 何がそれどころではないのだろう。
 常々、夕食の大事さを語ってきたというのに、まだ説教が足りないのか。
「兄さん、早く家に帰ってきてください。帰りが遅いことを怒ったりしませんから」
「ごめんなさい、それはちょっと無理だわ」



430 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:24:55 ID:1TuZg/SP

 聞こえたのは巌の声ではなかった。
 女の声。それも、聞き覚えがある。
 これは――昼休みに兄の傍に居た女の声と同じだ。
「だ、誰です!」
「私? 私は矢見野照子、っていうの。あなたのお兄さんのクラスメイト。
 そして、あなたのお兄さんの彼女よ」
「嘘を吐かないでください! 兄さんに恋人なんかいません! 兄さんには――――」
 兄さんには、なんだろう?
 自分は何を言おうとしていたんだろう。
 喉元まで来ているのに、あとちょっとなのに、口から出せない。
「今日から付き合うことになったの。巌君、もうあなたの待つ家には帰りたくないんですって。
 あなたのお弁当より、私の作ったお弁当の方が美味しいから、らしいわよ」
「嘘です、嘘です、嘘です! 兄さんがそんなことを言うはずがありません!」
「ふうん。必死ね、かぎりちゃん。やっぱり私の予想通りだったわ。
 あなたがそこでいくら叫んでも、お兄さんは帰ってこないわ。
 それじゃあ、バイバイ。明日から寂しく一人で学校に来て、寂しくお弁当を食べて、寂しく家に帰ることね」
 そして、通話が切れた。

 かぎりの心中は荒れ狂っていた。
 豪雨が絨毯爆撃し、竜巻があらゆるものを剥がして吹き飛ばし、雷雲が絶えず咆吼する。
 巌がもう帰ってこない。
 その事実は、かぎりに大きなダメージを与えていた。
 巌が居ないことが、どうしてそれほどショックなのか、当のかぎりは気付いていなかったが。

「こんなときはどうすればいいの。助けて、助けて……兄さん。にいさん……っ」
 とうとう、かぎりは床にうずくまり、動けなくなってしまった。
「わがままは言いません。良い子にします。兄さんにいちいち小言を言ったりしません。
 風呂上がりに裸で居ても文句は言いません。嫌いなゴーヤをこっそりお弁当に混ぜたりしません。
 だから……だから、帰ってきて。兄さん……お兄ちゃん……いわお、おにいちゃん」
 そんな呟きが巌に届くはずがない。巌はこの家に居ない。
 家に居るのは、かぎりだけなのだから。

 だから――本来、こんな声が聞こえてくるはずがないのだ。
 どこか面倒くさそうに喋る、男の声なんてものは。



431 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:28:29 ID:/WbSBhH5

「おい、かぎり」
「怒ったりしません。兄さんがお小遣いを無駄にしても」
「おーい-? 聞こえてるのか?」
「あんな本を買ってもすぐに捨てません。
 先月、近くのコンビニのいかがわしい本のコーナーで『月刊 制服アンドスク水フェ――」
「あー、ああー、あーー! ないない、そんな事実はない! っていうか、無視するんじゃねえよ、かぎりっ!」
 一際大きい声だった。今回ばかりはさすがにかぎりも気付いた。
 しかし、周りを見回しても何もない。
 明かりのついていない部屋の中では何も見えない。
「だ、誰……ですか」
「誰でもいいだろ。ここだよ、ここ。早く見つけろ」
「そんなことを言われても、全然見当が」
「ソファーの下だよ。ひっくり返して見てみろ」
 疑いながらも、言われるがままにソファーを傾けてみる。
 そこに何かがあるのを、暗い中でも見つけることが出来た。
 淡く光るお面があった。
 凝った意匠のない、無表情だった。
 顔全体を覆うぐらいの大きさをしていた。目と口の部分に穴が開いていて、中央に鼻のような盛り上がりがあった。

「さっきから喋っているのは、あなたですか?」
「そうだよ」
「……なんで喋ってるんですか?」
「お前はなんで自分が喋ることができるのか、説明できるかい?」
「簡単に言ってしまえば、声帯を振動させているからです」
「それは声の出し方だろう。俺が言ってるのは、喋り方さ。
 お前は、自分の脳みそで考えて、それを日本語にして声に出してるだろう?
 それと同じ事を俺もしてるだけだ。考えるパーツがあって、声を出すためのパーツがある。
 小型化の技術をなめんじゃねえぞ。限りなく日進月歩する世界なんだからな」
「納得はできませんが……実際に喋っているんだから、認めなければいけませんよね」
「そういうこった。大人になると納得いかないことばっかりだぜ」
 馴れ馴れしいお面だ、とかぎりは思った。
 そもそも、どうしてこんなところにお面があるのだろう?
 先週日曜日にソファーの下を掃除した時は、こんなものはなかったのに。

「それじゃ、早速行くとしようぜ」
「どこに?」
「お前の兄貴のところさ」
 もったいぶりもせず、お面はそう言った。
「兄さんがどこにいるか、知っているんですか? どうして?」
「そいつもくだらない質問だな。知っているからだ。かぎり、お前を兄貴の元へ連れて行くためだ」
「ですから、それはなんで、どうしてですか」
「――ええい! ごちゃごちゃと頭でっかちな奴だな!
 なんで、どうして、なぜ! そんなことを俺に向かって怒鳴ってる間にな、お前の兄貴は危険な目に合ってるんだぞ!
 いいか! お前は兄貴を助けたい、俺はお前をお前の兄貴のところに連れて行く! それでいいだろ! イッツオーライ!
 とっとと行かないと、お前に呪いをかけて体を乗っ取って、強引に連れて行くぞ!」
「くっ……一頭身にも満たないお面の分際で……」
 だが、お面の言うことももっともだった。
 兄さんのところに行かなきゃ。あの女に襲われているなら、助けなきゃ。

「では、案内してください。ええと……お面さん?」
「名前か? 好きに呼べよ。おすすめはアームストロングだ」
「腕なんかないじゃないですか。兄さんを見つけた後でゆっくり考えてあげます」
「それが賢明だぜ。それじゃ、案内してやるよ。俺を運んでくれ」
「わかりました。お願いします、兄さんのところまで」



432 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:32:00 ID:/WbSBhH5

 かぎりがお面の声に従って進むと、そこには確かに巌が居た。
 高校の部活棟。そこの屋上に、巌の姿があった。
「ほ、本当に居た……兄さん」
「だから言っただろ。で、やっぱり余計なのもいる、と」
 お面の言うとおり、巌の近くには誰かが居た。
 後ろ姿しか見えないが、かぎりにはわかった。あれは、昼休みに巌に弁当を食べさせていた女だ。
「早く助けに行かないと!」
「待てよ。どうやってあそこまで行くつもりだ?」
 巌は部活棟の屋上にいる。
 かぎりがいるのは、部活棟から離れた校舎の三階だ。
 部活棟は二階建てなので、巌とかぎりはほぼ同じ高さに居る。
 しかし、部活棟と校舎の距離は、中庭を挟んでいるせいで二十メートルは離れている。
「走っていくしかないでしょう。ここから向こう側にロープをかけるなんてできません」
「まあ、普通に考えればそうだよな。でも――やり方はもう一つあるんだぜ」
 かぎりの手の中で、お面が笑う。
 笑っていると言っても、お面の頬と口が動いたわけではないが。
「もったいぶらないで教えてください。さっきの電話だと、兄さんはかなり追い詰められてました」
「わかった。ならさっそくやろうぜ。かぎり、俺と合体しろ!」

 かぎりはお面の言葉を聞き、その意味を理解して――お面を全力で部活棟へ向けて放り投げた。
 緑色の淡い光が弧を描き、向かいの建物の屋上へ進んでいく。
 男の短い悲鳴と、小気味良い音が、かぎりの耳に届いた。
 それから、行きと同じだけの時間をかけて、お面はかぎりの足下へ戻ってきた。まるでブーメランのように。

「何しやがる、この馬鹿! 合体しろって言っただろ!」
「馬鹿はあなたでしょう! どうやってお面と合体しろって言うんですか!」
「変な意味だと思ったのかよ!? バーカバーカ!
 普通、お面と合体って言ったら、顔に着けるって考えるだろ!」
「それならそう言いなさい! ああもう、あなたがさっき兄さんにぶつかったから、女が近づいてる!」
「ちっ……遊んでる暇がねえか。とっとと俺を装着しろ、かぎり! ――変身だ!」
 お面を着けたところで、この状況は解決しない。そんなことはわかっていた。
 だが、焦る心は理性に従うより、お面の言葉に従った。
 言われるがまま、かぎりはお面を顔に近づけていく。

 かぎりの視界は、お面に空いた目の部分だけに限定される。
 お面の鼻が低いせいでかぎりの鼻は潰れている。自然、口だけで呼吸することになる。
「おう、そう言えば忘れてた。変身する前に言っておくぜ。
 俺を装着するってことは仮面を被るって事だ。かぎりの顔は隠れて、代わりに俺の顔になる。
 そうなると、喋り方も視界も呼吸のタイミングも、俺のやり方になる。
 そういうのを他人にコントロールされるのは気持ち悪いぜ。それでもいいな?」
「いいから、早く兄さんを!」
「威勢の良いもんだ――俺の性格とそっくりだぜ!」

 お面の声をきっかけに、かぎりの視界が閉ざされる。
 呼吸が止まる。何の匂いもしなくなる。
「かぎり、余計なことは考えるな。目的だけ考えろ。
 お前の目的はなんだ。兄貴を助けることだろう。それだけを考えるんだ。
 最短距離で、最高速度で、全力で! 巌のところへ向かうんだ!」
 単純に考える。実はそれこそがかぎりには難しいことだった。
 だったが――焦りが、息苦しさが、かぎりの思考に変化をもたらした。
 兄さんのところまで距離があっても、一直線に進んでいけばすぐじゃない。
 道がない。空中を通るから? なら――飛び越えてしまいなさい。



433 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:34:37 ID:/WbSBhH5

 窓枠に片足を乗せ、跳躍した。
 客観的に見ると自殺と間違えられそうな行いだ。間違いなく、通常の人間ならば落下して地面に衝突する。
 しかし、お面を着けた今のかぎりは、そうならなかった。
 あっさりと部活棟の屋上に到達した。飛びすぎて部活棟を飛び越えるところだった。
 当のかぎりは自身の驚異的な跳躍力に半信半疑だった。
 たかがお面を装着しただけ。こんなのは絶対におかしい。
 だが、溢れる力が確信を与えてくれる。
 今の私にはなんでもできる。兄さんを想えば不可能なものは何もない。

「なっ……なんなの、あなたは! いったいどこから!」
 矢見野照子が、突然現れたかぎりの姿を認めて言った。
「どこでもいいでしょ。どうせ、あんたがそれを知ったところで、何もできない。私を止めることはできない」
「くっ……なんだか知らないけど、邪魔をするんなら!」
 照子が取り出したのは、刃渡り二十センチはある包丁だった。
 突進してくる照子を、かぎりは一歩動いて躱した。
 続く攻撃も、かぎりの来ている制服にさえかすらない。
「なんなの、あなたは。どうして私と巌君の邪魔をするの! あなたには関係ないでしょう?!」
「関係ないですって? ……関係あるわ。大有りよ」
 襲いかかってくる包丁を、かぎりは素手で受け止めた。
 刃の部分が皮膚に食い込んでいるのに、血がにじみすらしない。
「お兄ちゃんが助けを求めるなら、いつでもどこでも駆けつける。死地で待つなら、大地を根こそぎ砕いて助け出す。
 私を呼ぶなら、しがらみ全てを捨て去り、邪魔者ははじき飛ばし、辿り着く!」
「お兄ちゃん……まさか、あなたは、長峰かぎり?!」
「長峰かぎり? 違うわよ。今の私は、かぎりじゃない。
 仮面を被っただけの、ただの妹よ。今の私に――名前は必要ない」
「巌君の妹なら、長峰かぎりじゃないのっ! どうして私の邪魔をするのよっ!」
 かぎり――いや、仮面の女が飛び、フェンスの上に立つ。
 夜空に浮かぶ満月を背中に背負い、矢見野照子を見下ろす。



434 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:38:17 ID:/WbSBhH5

「聞きなさい。泥棒猫。今の私は仮面の妹――――マスクドシスター」
「マスクド、シスター……?」
「たとえ畜生と蔑まれようと、親不孝者と嘆かれようと、私は叫ぶ!
 お兄ちゃん大好き! それが戦う理よ!」

 マスクドシスター、宙へ飛ぶ。
 矢見野照子の頭上で滞空し、構える。
「くっ、来るな!」
 漲る力の全てを右足に集める。
 兄との日常を脅かすものを打ち倒し、明日を掴む。ただそのために。
 そのためだけに、マスクドシスターは叫ぶ。
 妹を超えたキモウトの力、家族の絆を超えた兄への愛、その全てを込めて。
「直球! ブラコン!! キモウトキィィィィック!!!」
 敵の頭上から強襲する蹴り。
 マスクドシスターの全身を包む緑色の輝きが、矢見野照子の体を包んでいく。
「う、あああああぁぁぁぁぁっ!」

 直撃、緑色の爆発。そして、夜の静寂を蹴散らす断末魔。
 同時に矢見野照子の体は吹き飛んだ。
 その場から、跡形もなく。

「……ッハァッ、ハァッ、はっ……ふう、やった……」
 かぎりの顔から仮面が剥がれ落ちた。
 屋上の床にぶつかっても、お面は不満を漏らさなかった。
 常に帯びていた淡い輝きもなく、ただ沈黙を守り続けた。
 その様は、もう役目は終えた、と語っているようだった。



435 兄懇直球 マスクドシスター ◆KaE2HRhLms sage 2010/08/27(金) 01:40:55 ID:/WbSBhH5

 巌が目を覚ましたのは、決着から三十分過ぎた頃だった。
「……あ、かぎり?」
「よかった、目を覚ましたんですね。兄さん」
 巌はしばらくぼうっとかぎりの顔を見上げていたが、あることに気付いた途端、目を見開いた。
「わ、悪い! すぐに離れるから!」
「ダメです。もうちょっとこのままで居てください。兄さんは屋上で倒れていたんですよ」
「で、でもな」
「膝枕なんて、たいしたことありませんよ」
 そう。巌はかぎりの膝を枕にして眠っていた。
 屋上の足下はコンクリート、さらに手入れもされておらず砂だらけ。
 そんな場所でも、かぎりは膝枕をするために正座をし続けた。
 痛くないと言えば嘘になるが、巌の寝顔を見られるメリットに比べれば、痛みは些細なことだった。

「ごめんな、今日弁当を食べてやれなくて。教室に置いてくれてたよな」
「……いいんです。兄さんだって事情があったんでしょう」
「まあ、そうなるかな」
「ですが、遅くまで時間に残っていたことは別問題です。
 私に電話をしてくるまで、学校でいったい何をしていたんですか?」
 かぎりは怖かった。
 もしも、あの矢見野照子という女とずっと一緒に居たとしたら。
 最悪の答えが返ってきたら、間違いなくかぎりは涙を流しただろう。
 だが、そうはならなかった。
「本当のことを言うけど、怒るなよ?
 実は――かぎりの弁当がもったいないから、授業が全部終わってから食べてたんだ。
 弁当箱を鞄に入れると多分形が悪くなるし、手に持って帰るのも恥ずかしいし。
 そしたら矢見野に見つかって――おい、どうしたんだ? なんで笑ってる?」
「……ふふっ、なんでもありませんよ、兄さん」
 かぎりに笑顔が戻る。
 そうだったんだ。やはり兄さんは私のお弁当が好きなんだ。
「明日も作ってあげますよ、兄さん」
「悪い。よろしく頼むよ」
「はい、腕によりをかけて作りますから、楽しみにしていてください」


 そんな二人を見つめながら、お面――自称アームストロングは、呟いた。
「一件落着、と。
 矢見野の奴も命はあるし。服はないけど。
 それじゃさよならだ、かぎり。また力を欲するなら、俺を呼べ。
 マスクドシスターの力は――お前達兄妹のために在るんだから」

 月の一部を雲が覆い隠し、影が生まれる。
 影に触れた途端、アームストロングは影に紛れ姿を消した。
 現れた時と同じように、何の予兆もなく。

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最終更新:2010年08月30日 04:35
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