はるかに、遠く 第1話

625 はるかに、遠く ◆zVBBElWdGw sage 2010/09/08(水) 00:36:17 ID:XFhFumQB
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 夜は深く。縦長の長方形に切り取られた空から、淡く青白い月光が射しこむ。
 耳を澄まさずとも、開け放った窓からは数多の虫の声が奔流となって流れ込んでくる。
 それを騒音ととるのか、歌声ととるのかは人それぞれであろうが、神原海斗にとっては、彼の心を癒す歌声であった。
 自然の澄み切った音楽が、海斗の陰鬱と沈澱している心を清め、救ってくれるようで――
「――は」
 海斗は、知らず過っていた感傷を鼻で笑った。
 虫の声を聞きながら感傷に浸るなんて、痛すぎる。
 しかも、自身の身体に目を落としてみると、海斗は下着一枚という余りに滑稽な恰好である。
 海斗は、“苦虫をかみつぶしたような顔”というものを忠実に再現したような表情で、そっと自分の斜め下を窺った。
 薄暗く、狭い部屋。海斗が座る一人用のベッドには、しかし、もうひとつ別の姿があった。
 少女、である。それも裸の。
 タオルケットからはみ出た手足が艶めかしく、月明かりにぼんやりと照らされたその肢体は、どこか神秘的ですらあった。
 海斗のベッドで眠り姫は、穏やかな寝息を立てている。静かな呼吸音と共に、ベールに覆われた身体が上下する。
「……」
 無言のまま海斗は、そっと、少女へと手を伸ばした。
 しっとりと湿り気を含んだきめ細やかな頬が、海斗の手に優しくはりついた。
 何度見ても美しい少女だと、海斗は思う。
 さらさらとした烏の濡れ羽の如き漆黒の髪。
 長いまつげを伴った瞼に今は隠されているが、その下にはややつり目がちではあるが大きな宝石が埋め込まれている事を海斗は知っている。
 すっと筋の通った鼻梁。そして薄い桜色をした唇。
 それらすべてが絶妙なバランスでもって、少女の顔を創り上げていた。
 タオルケットに覆われ少女の躰は、隆起に乏しく、男の好みによっては大きな短所となりうるが、それもまた彼女の魅力の一つだと海斗は思っている。
 少女本人にしてみれば、それはコンプレックス以外の何物でもないようであるけれども。
 月明かりのみを照明とする今では、判別がつきづらいが、彼女の白い肌がほんのり赤く色づいている。
 まだ季節は、春。気温は至って過ごしやすいはずのこの時期に、少女の髪が幾筋、汗で頬に張り付いている。
 海斗は、それを、すっと愛おしげな表情と手つきで少女の耳へかけるようにしてかき上げた。
「満月……」
 海斗は、そっと呟いた。
 神原満月。それが少女の名前であった。そして、海斗と血のつながった実の妹である。
 実の妹である満月が、海斗のベッド、海斗の前で裸のまま無防備に眠る。
 そして、それを見下ろす海斗もまた、半裸といった状況。
 血のつながった兄妹での姦通。そして、これは、今日が初めての事ではない。
 その行為は、この日本において刑罰こそないが、犯罪に近いものとして多くの日本人の目に映る行為である。
 海斗もまた、張本人でありながら自らの行為を罪だと感じている。
 感じながらも、海斗は、満月を求めてしまうのだ。
 満月と交わっている時の快楽と、心地よい安心感の様なものに海斗は、縋って、溺れて。
 既に、自らの意志では抜け出す事も出来ないくらいに囚われてしまっている。
 麻薬の様だ。海斗は、思う。
 一度手を出してしまえば、もう戻れない禁忌のハト。
 それならば、自分はもう人間を辞めてしまっているのかもな、と海斗は自嘲した。
 しかし、だからといって満月を女性として愛せいているか問われれば、海斗は確答を出す事が出来ない。
 勿論満月の事は愛している。愛しているが、それが果して兄妹愛の枠を超えているモノなのか。


626 はるかに、遠く ◆zVBBElWdGw sage 2010/09/08(水) 00:37:12 ID:XFhFumQB
「……今更、だな」
 そう、何を今更、である。
 海斗が満月に対して、兄としての愛情しかもっていなかったとして、海斗が繰り返している行為は、兄妹の範疇なぞとうに超えている。
 そして、それを罪だと感じながら海斗は、自ら積極的に真っ当な兄妹としての関係に戻すために動くつもりがないのである。
 心地の良い居場所に足をとられ、次第に泥濘にはまっていく。
 海斗は、こんな事になるまで、まさか自分がここまで意志の弱い人間である事を知らなかった。
 海斗の心の中にある葛藤。いや、“葛藤”と言えば言葉は良いが、ただ優柔不断なだけである。
 なぜならば、模範解答は既に出ているし、海斗もそれを知っているから。
 けれど、海斗は、分からないふりをして、答えから目を反らして。
 答えを出す事を、ずっと先送りにしている。
「でも、仕方ねぇよ……」
 知らず、海斗は声を発していた。
 仕方がない。海斗は、そう自らに言い聞かせるように何度かその言葉を転がした。
 そもそも海斗と満月がこんな爛れた関係になってしまったのには、一つの原因がある。
 それは、それほど昔ではない、ある日の事。セピア色の風景が海斗の頭の中に蘇える。
 横断歩道。赤信号に十人前後の歩行者が立ち止まった。
 その前列に海斗と満月が立っていた。
 ひっきりなしに行き交う車。その道は、駅前の大通りで海斗達が通う学校や、オフィス街へ通じる道である。
 故にこの日も朝の時間帯は、通勤、通学する人と車の数が多かった。
 海斗と満月は、時折言葉を交わしながら信号が変わるのを待っていた。
 それは、ふいに、だった。
 満月の身体が前のめりによろめいて、横断歩道へと飛び出して――
 ――海斗は軽く首を振って回想を振り払った。
 海斗にとってあの日の事は、既に済んでしまった事であるし、自らが取った行動について後悔もなかった。
 けれど、海斗があの日の事を思い出すたびに胸に去来する痛みもまた事実であった。
 海斗と満月の関係をガラリと変えた発端。この日までは、二人とも何処にでもいるような仲の良い只の兄妹だったのだ。
 海斗は、ふう、吐息を衝く。知らず握りしめていた手を解き、左手で右手をさする。
 目を細めた海斗の表情には、複雑な色合いが絡まり合っていた。
 余計な事を思い出したな、と海斗は思った。
 思い出したところで、何が変わるわけでもない。
 それが海斗にとって心地よいものではない事ならば、尚更。ただ気持ちが陰鬱に沈むだけ。
 そう海斗も思ってはいるのだが、今の様に一人で居るとどうしても過去に足をとられそうになってしまうのだった。
 それに、今夜は、もしかしたら事後の虚脱感も相まっているのかもしれない。
「……アホらし」
 海斗は、頭をガシガシとかきながら立ち上がり、ベッドのそばに脱ぎ捨ててあった衣服を身に付けた。
 そのまま、何とはなしにベランダへ続く窓へと歩み寄り、網戸を開けてベランダへ踏み出した。
 1畳弱くらいの広さのあるベランダの手摺に寄りかかり、あてもなく視線をさまよわせた。
 暗闇に沈む、見慣れた町並み。
 山と海に囲まれた自然の溢れる町と言えば聞こえはいいが、詰まる所は有り触れた田舎町である。
 海は、砂浜が狭いせいで海水浴客を呼び込むには難しく、山に至っては、何の特徴もない、たまに小、中学生が遠足で登る程度のものである。
 海斗や満月が通う学校のある隣町が小都市程度に栄えているのも、この町の人口減少に一役買っているのだろう。


627 はるかに、遠く ◆zVBBElWdGw sage 2010/09/08(水) 00:37:35 ID:XFhFumQB
 と、外から来る人間にとってみれば何の魅力も感じられない町ではあるが、海斗は、この町を嫌いではなかった。
 この町は音楽に囲まれている、と海斗は、思っている。
 海の潮騒、海鳥の鳴き声。風にそよぐ木々、虫の鳴き声。
 機械の音に溢れた都市よりも、そんな音に囲まれた町の方が海斗にとっては過ごしやすいのだった。
 深夜の今、殆どの家屋の灯りが消え、時折車のヘッドライトが過る。
 空を見上げると、海斗の視界いっぱいに広がる深い藍色の天蓋。
 到底数え切れないくらいの星がきらきらと。
 その数多の星に守られるかの如く、月が鎮座ましましている。
 海斗は、無意識に手摺をつかむ手に力を込めていた。
 海斗の指は、一本一本が長く細い。
 それを指して、至宝の指なんて誰かが言ったのは何時のことだったか。
 ――神原海斗は、ピアニストの卵だった。それも天才的な。
 とある些細なきっかけで始めたピアノ。
 神様が気まぐれに与えた才能を開花させた海斗は、幼くして全国のコンクールを総なめにした。
 この田舎町において神原海斗の名前を知らない人間は、そう多くはないだろう。
 しかし、海斗は、今全くと言っていいほどピアノを弾いていない。
 いや、ピアノを嫌いになったわけではないので、厳密には弾けなくなった、という方が正しいだろう。
 事実、手摺をつかむ海斗の握力は、人並み以下となっている。
 ピアノを弾くためには、存外握力が必要となるが海斗のそれは、子供並みくらいしかない。
 元々そうだったわけではなく、事故の後遺症である。
 日常生活を送るにあたって不自由はないが、ピアニストとしてとなると話は違ってくる。
 今となっては、力強く鍵盤をたたきつけるくらいの勢いが持ち味だった海斗の奏法は、見る影もない。
 ピアニストとしての輝かしい未来を約束されたはずが、暗く閉ざされたのだった。
 ピアニストとしての道を閉ざされて、海斗は、自分にはピアノしかないという事を知り、その事に愕然とした。
 幼いころからピアノ漬けの日々を送って来た海斗にとって、勉強も運動もピアノ以外は、誇れるものなど何もなかった。
 多くの人にその才能を羨ましがられた天才少年が、只の凡人かそれ以下へと成り下がったのだった。
 ピアノという生きがいを失い、途方に暮れる海斗を救ったのが音楽と、満月だった。
 音楽、と言ってもピアノの曲はめっきり聞かなくなってしまったが。
 満月については、満月だけが凡人以下に落ちた海斗に手を差し伸べ、海斗がその手を掴んでしまったのだった。それが罪と知りながら。
 海斗の中に後悔の念は、勿論ある。
 けれど、明るい場所から突き落とされた海斗は、寂しさや虚しさといった感情からその手を離す事が出来ない。
 海斗と満月の間にあるのは、恋愛なんて高尚なものではない。
 他によすがをなくした海斗が只、縋っているだけ。
 きっと、傷のなめ合いですらない、海斗からの一方的な関係。
 少なくとも海斗は、そう思っていた。
 海斗は、ふっと溜息とも嘲笑ともつかない吐息をついて、月をぼんやりと見上げたまま。
 少しだけ虫の声が煩わしく感じてしまった海斗は、そっと耳をふさいだ。
 世界から音が消える。
 けれど、円い月の周りに散らばった数多の星は消える事なく、海斗を様々な感情の視線でもって見下ろしてくる。
「――……」
 海斗は、舌打ち交じりに何かを呟いて、満月の眠る自らの部屋へと戻る。
 その背中を眺める、淡く煌めく月は一体何を思うのか。


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最終更新:2010年09月12日 21:22
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