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桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:11:29 ID:/i3G2aI1
木造建築は珍しくはないけれど、このようなボロ屋はあまり目にしたことない人が多いのではないだろうか。
歩けばギシギシなる板に、薄く染みが残る天井。
雨の日などは水漏れがひどいのでバケツなどが欠かせない。
窓はドアと兼用で横に並んだ硝子のマスは五つあると一つは割れていた。
割れたところはダンボールで代用して穴をふさぎガムテープで止めていて、それが一層みすぼらしく映える。
部屋にあるのは箪笥と日用品。この家にあるもう一つの部屋も構造は同じでたいした物はない。
というよりも、物がないといったほうがいいかもしれない。天井のしみと物品の数の優劣はいい勝負だった。
部屋に一人の少女が座っている。
少女の顔は高校生にしては幼かった。髪は短く、肩で切りそろえられている。
体に起伏は乏しく、小柄。昔は眼鏡をしていたが、今はコンタクトレンズにしていて目はパッチリとしていた。
偶に中学生やひどい場合だと小学生に間違えられる彼女は、十人いれば十人がかわいいと評するのではないだろうか。
それほど彼女の容姿は整っていて、可愛らしかった。
欠点は、無愛想なところだろう。彼女は表情を変えることがほとんどない。
喜怒哀楽がすべて同じ状態で、意地悪く言ってしまえば顔の筋肉が劣化しているのではないかというほどに思える。
そして、口数も少ない。必要最低限。意味がなければ喋らない。
家族の兄や祖父も、彼女の饒舌な姿は見たことがなかった。想像すらできないだろう。
兄からは、もう少し顔に表情をつけようよ、なんて言われていたけれど、
どうすればいいのか困ってしまい、顔を赤くして固まってしまったことがある。
18 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:12:12 ID:/i3G2aI1
少女の普段着は、制服と言ってしまっていいだろう。
彼女は、休日などに着ていく服を一着しかもっていないのだから。
そのためこうした夏休みの平日でも制服に身を包んでいる。
私服を着て制服が汚れないようにするべきでは、という質問は愚問だろう。
彼女にとって、たった一着の私服は愛する人から送られたもので、それを易々と身に着ける矜持は持ち合わせていなかったからだ。
そして、彼女が私服を着る時は、兄と出かける時と同義だった。彼女は兄のことが好きだった。
白石亜美。
悠太の妹である彼女は、今日も理性で自分を留めるのに必死だった。
もし数少ない友人がこの場面を見ると驚くことはもちろん、何事にも冷静沈着な彼女のこのような姿に困惑するだろう。
ぶちぶちと畳をむしる音。
亜美は人生最悪の日から、もうどれだけ時間がたったのだろうと思っていた。ここに最愛の人はいない。
どこで間違ったのだろう。過去に思いをはせる。
そしてぼんやりと濁った瞳で呟いた。
「……あと、一週間…」
19 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:13:01 ID:/i3G2aI1
空が黒い晩のとても遅い時間こと。
亜美は布団から悠太が出て行くのを肌で感じた。僅かばかりまくられた布団がひんやりとして心地よい。
ただのトイレだろうと思い、多少の名残を感じたがそのまま兄が帰ってくるのを待った。
だが、中々戻ってこない。
彼女は悠太が側にいないと安心して眠れないから、不思議に思って自分も布団から抜け出た。
まだ夜は続いているようだ。部屋は暗い。
亜美の視力はいいほうだったが、これほどの暗闇は最近で一番ではないかというものだった。
月も雲に覆われているのだろう。目が闇に慣れるのに時間がかかる。
静かだと、亜美は思った。
都会の空は星が本当に見えないけれど、代わりとして音を生む。車の走行音。酔っ払いの奇声。若者達の猛りなど。
愚かな人間がここまで無体をさらすのは都会の特徴で、亜美はそれを聞くたびに嫌な気持ちになった。
けれど、悠太がいると逆に騒音という魔物から守ってもらえているお姫様みたいに思えてうれしくもなる。
つまるところ、彼女は悠太がいればどんな環境でもいいのだった。
しかし、ここまで静かなのは逆に不気味ささえある。
普段悠太がいないと嫌だと思っているものでも、なくなると何かしらの気持ちは抱くということなのだろうか。
いや、そんなはずはないと思うのだが。
目が慣れてきたので、亜美は立ち上がる。周囲を探ると、いつものようにみすぼらしい壁がまず目に付いた。
板が少し欠けていて、ここもまた今度悠太に修理してもらわないといけないと思った。
20 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:14:13 ID:/i3G2aI1
続けて、祖父が寝ている隣の部屋へと視線を移す。
トイレではないなら、祖父の部屋だろうか。亜美は隣の部屋へと続く扉に手をかける。すると、中から話し声が聞こえた。
間違いなく悠太と祖父のものだった。亜美が悠太の声を聞き間違えるわけがなかった。
「……暮らすことになるでしょう」
亜美は何となく部屋に入りづらい空気を感じた。何か大切な話なのだろうか。
亜美とてもう高校生一年生。大切な話なら、なおさら自分にも言ってほしいのだけれど。
「悠太様。追い出された私が言うのもなんですが、西園寺の家は悪いことだけではないですよ。
こことは違い、物はなんでもある。悠太様もきっと満足するでしょう」
「満足なんかするわけがないよ。大体、気に入らないんだよ。僕は西園寺が。
今になって捨てた子をまた拾いにくるなんて。僕の家族は白石さんと亜美だけだ」
「そういってくださるのは、うれしいですが」
「何でいまさらになって、僕が西園寺の家に住まなきゃならないのだ」
亜美には何の話か理解できなかった。理解したくなかった。
この会話はまるで、悠太が亜美の側から離れていくというものではないか。断片を聞いただけなのに、亜美は直感的に悟る。
それほど彼女は悠太のことに対しては敏感だったし、偽悪的に言ってしまえば、自分の危機にも鋭敏だった。
「ですが、お嫌でも仕方がありません。もし西園寺に行かないというならどんなことになるやら」
「わかっているよ。もう僕が何かを言ってどうにかなるなんてものじゃないのだろう。
行くよ、西園寺に。それで白石さんと亜美が豊かに暮らせるなら、納得は出来ないけど我慢は出来るってものだし」
「そういっていただけると、こちらとしても助かります」
「ただ」
21 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:14:49 ID:/i3G2aI1
悠太は言葉を区切る。何か言いあぐねているのだろう。
亜美からしたら、このような会話今すぐにでも止めさせて、
事の経緯を委細はっきりとさせなければならなかったが、今出て行ってかき回してしまうよりも、
事情を把握して、亜美自らが原因を潰してしまうほうが合理的に思えた。
「一度、会ってみようと思う。
いきなり一人息子として西園寺に戻って来い、なんて言われても意味がわからないのだから。
白石さん、そう伝えてくれないかな」
つまり、悠太は西園寺に息子として一方的に招かれようとしているのだろう。
悠太自身、いきなり招かれるということに関しては嫌がっているようだ。
そして、断ると何かしらの悪意が亜美たちに降り注ぐ。
亜美が把握した内容に間違いはなかった。
加えるなら、この話は今日初めて白石から悠太にされたものでそれ以外はぴたりと亜美の推測に一致していた。
「わかりました。ならば、明後日の金曜日に私と一緒に西園寺へ行きましょう。
旨は私が明日、屋敷の当主へと伝えておきますので」
それからそっと、亜美は布団へと戻った。
後に悠太もやってくる。
悠太は亜美の方をちらりと見たが、起きていることと先ほどの話を聞かれたことには気づいていないみたいだった。
22 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:15:23 ID:/i3G2aI1
亜美は寝ぼけたふりをして、悠太に抱きつく。少し乱暴に腕を相手の背中に回した。
悠太は苦笑して、いつもは大人しくてどこか清楚な印象こそ強いが、それでもまだまだ子供なんだなと思い、頭をなでた。
すると亜美はさらに頭をこすりつけ、悠太を抱き枕にするようにがんじがらめにひっついた。
悠太は諦めたようにため息を一つ、けれど何とか寝られないこともないと思って、そのまま目を閉じた。
気持ちよさそうにする亜美だったが、
裏腹に頭の中ではどうやって私たちの生活を邪魔する虫を駆逐しようかと思いをめぐらせていた。
何があろうと、虫は潰して殺してしまい、二度と悠太の前に出てこられないようにするべきだ。
潰して潰して潰して潰して、殺す。その為なら犯罪すらいとわない覚悟だった。
亜美は狂信的に悠太がすべてで、彼が世界の中心だったのだ。
もちろんそのことに悠太は気づいていなかった。
亜美がわざと寝ぼけたふりをして抱きつき、悠太の股の間に足を入れたのすら、気がついていなかった。
23 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:16:04 ID:/i3G2aI1
亜美は、頭がいいと悠太は思う。
模試ではいつも全国十位以内に入っていたし、苦手な教科など聞いたこともなかった。
高校に入ってまだ半年だったが、レベルの上がったテストでも学年ではいつも一番だった。
それだけではない。他にも友達から勉強を見てほしいといわれているのを見たことがあるし、要領もよかった。
悠太は時間配分などを考えて何かしらの作業をするのは、苦手だったがそんな時は決まって亜美が代わってくれた。
あえて不満を言えば、亜美は料理が出来なかった。台所に立つのはいつも悠太だったし弁当などを作るのもそうだった。
まれに黙って台所に立つ亜美を見ると「今日は私がご飯を作る」の意だったけれど、
決まってその後食卓に出てくるのは黒い物体だった。
悠太がからかって、亜美は頭がいいのに料理ができないなんて不思議だねと言うと、
「………頭の良さと…料理は関係ない……」
と涙目でこぼした。それを見た悠太は必死で謝ったけれど、しばらく許してはもらえなくて困ったことがある。
しかしそれ以外は大抵のことを亜美はやってのけた。
いつものように口数が少ないながらも、しっかりとそして完璧に。
腹違いの兄妹とはいえ、そんな亜美を妹に持てて悠太は幸せだと思う。
願わくは、将来はこのような汚い家ではなくて、裕福でなくていいから普通の家に住んで、幸せに暮らしてほしい。
24 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:17:15 ID:/i3G2aI1
明日、西園寺の家の当主と会う。
その時やはり、納得できず憤慨する場面や西園寺財閥という大きさに困惑することもあるだろう。
けれどそんな時こそ亜美や白石さんのことを想い、悠太はしっかりとそれを受け入れ前に向いて歩いていこうと心に刻む。
ただ、亜美にはこのことをまだ話していないのが気がかりではあるが、きっと賢い妹は、
いつものように無口で、でもなんだか悲しそうに利益と不利益の差を考え、頷いてくれるだろう。
少し悲しいけれど、間違ってはいない。
悠太は朝の日差しを浴びながら、そう思った。時間を見るともうすぐ昼。
学校は創立記念日で休みだったが、少し自分の体たらくに呆れる。
一緒に寝ていた亜美はすでに出かけているようだ。白石の部屋に行く。
「白石さん、お昼ご飯今から作るから。ごめんね、こんな時間まで寝てしまっていて」
白石はオロオロと部屋を歩き回っている。悠太の声が聞こえていないようだ。
部屋に入ってきたのにも気づいていない。どうしたのだろう。
考えてみると、いくら休みとはいえ、いつもなら白石が悠太を起こしにくるはずなのに。
「どうしたの」
声を強めて白石に声をかける。
「ああ、悠太様。大変なことに」
白石は悠太に気づくと一目散に駆け寄ってきた。
「亜美が、行ってしまわれたのです」
「出かけたんだろ。それがどうかしたの」
違うのです、そうではないのです。
白石の声はなんだか切羽詰っていて、悠太は只事じゃないのだと気づいた。
よくよく話を聞くと、事の経緯がわかってきた。
まず白石は、昨日の話どおり西園寺に電話をかけ、悠太が西園寺の家の当主に会いたいと言っている事を伝えようとしたらしい。
電話がつながり当主へと話し相手が変わる。白石は悠太のことを話すと当主は喜んでそのことを受け入れた。
しかし、刹那に受話器がひったくられる。
亜美だった。
25 桜の網 sage 2007/08/14(火) 21:17:51 ID:/i3G2aI1
「…もしもし」
「どなたです?」
「貴方が…西園寺の家の人?」
「そうですが。どちらさまですか。白石はどうしたのです」
「私は……おじいちゃんの娘……で…お兄……悠太君の……彼女」
「……何ですって?」
「日本語……通じない?……やっぱり虫だから?」
白石が止めることは出来なかった。
それほど亜美の迫力は凄いものだったし、いくら白石が男だといえもう八十近い老人。
女子高生とはいえ若者の力で遮られてはどうしようもなかった。
「よろしかったら、今から会いませんか。お会いしたいわ」
亜美はそれを聞くといつもの無表情で、場所、時間などを確認していた。
電話が切られ、亜美を叱ろうとする白石だったが、亜美の顔を見ると何も言えなくなってしまい、
あまつさえ亜美が西園寺の当主と会うのを止めることができなかった。
亜美は制服と学校の鞄に何か入れ、すぐに家を飛び出して言った。
「亜美が出て行ったのは、何時ごろなの」
「一時間ほど前でございます。すみません、もっと早く悠太様にお伝えしていれば」
「すんだことはいいよ。それより、僕も亜美のところに行ってくる。場所は聞こえたのだよね」
悠太は白石に場所を聞いて、すぐに家を飛び出した。
最終更新:2007年10月21日 00:44