345 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:49:34 ID:sieKQt3d
今思い返せば姉さんは変わった、
より率直に僕の心情を吐露するのならおかしな人だった。
姉木 想火(あねき そうか)。
優秀で優麗。
誰よりも賢く誰よりも強く誰よりも美しく誰よりも僕を愛してくれた姉さん。
どんな時でも僕の傍にいた姉さん。
いつも僕を傍に置いていた姉さん。
朝起きれば傍らに、食事の時は前に、道を歩けば隣に、帰り道は横に。
対等な時は僕の腕を取り僕の手を握り僕と指を絡め僕の顔を見詰め僕の歩幅で歩き、
甘える時は僕の頭を抱き僕の背を撫で僕の胸に触れ僕の首筋を吸い僕の頬に口付け、
ある時には僕の喜びを共に喜び僕の怒りを共に怒り僕の哀しみで共に哀しみ僕の楽しみで共に楽しんだ、
僕よりも僕に詳しく、
僕よりも僕に真剣で、
僕よりも僕を愛する、姉さん。
何処にいても何時であっても何をしていてもどんな事情があっても、
半身のように影さながらに僕の傍にいた姉さん。
その、常に傍らにあった姿を疎ましく、いつも注がれる愛情を煩わしく思い始めたのはいつだったか。
「ふーっ。取り敢えずはこれで一段落、かな」
少ない荷物を開封し終えて、一息付く。
狭っ苦しい、だけど余分な物が何一つ存在しないボロアパートの一室。
僕は受験を期に引越して来た、今日から我が家となる場所で伸びをした。
家を出ようと思ったきっかけは両親の一言だった。
受験を期に自立しろ、と。
ただそれはきっかけであって直接の原因ではない。
姉さん。
実の姉から離れること。それが目的で、長年考えてきたことだった。
両親の言葉は、その時期を早めた程度のものでしかない。
むしろ有り難いくらいだった。
或いは、両親も姉さんのことに頭を悩まさせ、
姉さんから僕を引き離そうとしたのかもしれない。
姉さんは完璧だ。
何でも出来る。何でもこなせる。
家族と比較すれば鳶が鷹をどころかミジンコが人間を生む。
そう言えるほどに優秀で、かつ非の打ち所のない人格者。
ただ、そこに僕と言う要素が絡まりさえしなければ。
姉さんはブラコンだ。それも過分に過大、過度で重度の行き過ぎた。
僕が何処に行くにも付いてくるし、僕が何をしていても横に居る。
僕を叱ることこそあるが基本的にはだだ甘で、
べったりどころか離れている時間の方が少ない。
それでいて勉強も運動も社交も何もかもあっさりと完璧にしてしまう。
僕が幼い頃はそれでも良かった。
だが、弟はいつまでも弟だとしても子供で在り続ける訳ではない。
人間、成長すれば物の見方も変わってくる。
傍に居るという心強さは煩わしさへ。有り難かった愛情は耐え難い重さへ。
どうしようもなく変化していく。
姉さんが嫌いなのではない。
しかし、姉さんが僕に向ける想いは大きく、そして重い。劣等感もある。
自分より賢く、強く、美しく、優しく、人に好かれ、何一つ欠点のない人間が居れば、
それも絶えず傍に居続ければ、自分と比較せずにはいられない。
劣等感。
誰もが姉さんと僕を比べて首を傾げるし、でなくても僕自身が比較してしまう。
本当に姉弟か、と。
同時に、姉さんの青春を時間を才能を可能性を、僕如きのために浪費させるのも良くないと思うのだ。
僕に構う時間を他の事に使えば、姉さんは直にでも偉業の一つでも打ち立ててしまえるだろう。
それが勿体なく、申し訳ない。
自分がひどく罪深いことをしている人間のような気分になる。姉さんは否定するだろうけど。
346 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:50:36 ID:sieKQt3d
「少し休む・・・ついでに夕飯も食べて来ようか」
だからこそ、僕は家を出た。
理由を問い質す姉さんに答え、
引き止める姉さんに決意を語り、
それを許さない姉さんを説き伏せ、
わあわあ泣きじゃくる姉さんを宥め、
腕に縋りついてくる姉さんを振り払い、
抜け殻のようになった姉さんの姿を背に、
僕は後ろ髪を引かれながら姉さんと別れた。
それから一週間程。
僕は新学期を前に、残り少ない春休みの一日を部屋の整理に当てている。
と言ってももともとかなり荷物が少なく、朝から取り掛かっているおかげでもう粗方済んだ。
時刻は既に夕刻。
休憩がてら早めの夕飯をとったとして、夜には終わるだろう。
そう思い、数歩の距離にある古びたドアへ足を向ける。
ぴんぽーん、とどこか間の抜けた音が鳴った。
「・・・・・・あれ?」
誰、いや何だろうか。
僕は引っ越したばかり、荷物も届いたのは今朝だ。
個人情報の保護が叫ばれる昨今、まさかこの早さで新聞の勧誘やテレビの集金もないだろう。
どちらにせよ前者は取る積もりも余裕もないし、後者は設置さえしていない。
此処は住人も少ないのでお隣さんもいない。
友人知人が訪ねて来る可能性も、その他色々な事情から皆無と断言出来る。
両親以外で、僕の引越し先を知っている人間はいないのだ。
新学期もまだで、新しい友人も作っていない。
「管理人さんかな?」
妥当なのはそれか。
払うものは払ったので可能性は低いが。
言い忘れた注意でもあるのかも。
そう判断してドアへ向かう。
ガチャリと、かけた鍵の開く音がした。
「え?」
ばん、とドアが開かれる。
差し込む夕日を背に、細めた目に浮かぶ輪郭。
見覚えのあるそれは。
「蒼河(そうか)ちゃんっ!」
女性特有の、そして特に聞き慣れた高音で名を呼ばれた。
決して男らしくはない名前。
姉さんが強行に主張して名付けたと言う僕の、姉さんと同じ名前。
僕に対してその呼び方をするのは一人しかいない。
「え!? 姉さ────────」
「蒼河ちゃん蒼河ちゃん蒼河ちゃんっ!」
タックル。
跳び込んで来た姉さんに押し倒され、強かに後頭部を打つ。
347 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:52:23 ID:sieKQt3d
「ああ・・・蒼河ちゃんだ。本当に蒼河ちゃんだ。
蒼河ちゃんの肌、蒼河ちゃんの体温、蒼河ちゃんの匂い。
蒼河ちゃんの────汗」
「っつぅ・・・姉さん? 一体、どうして此処に・・・ぅうっ!?」
冷房のない部屋の中の作業、首筋に滲んだ汗を舐め取られる。
犬猫のそれと違ってゆっくりと丁寧に、撫でるように擦り付けるように舐め上げられた。
堪らず声が出る。
くっ、と反射的に上向いた背と首が戻ると、嬉しそうな姉さんの瞳と目が合った。
「久し振り蒼河ちゃん。本当に久し振り、蒼河ちゃん。
どうして一週間もお姉ちゃんの傍からいなくなったの?
蒼河ちゃんの姿が見えなくて声が聞けなくて肌に触れられなくて匂いを嗅げなくてキスが出来なくて、
お姉ちゃん死ぬかと────ううん、死んだかと思っちゃった」
「ね、姉さん、それは説明・・・いやそれよりどうして此処に?
いやそもそもどうやって鍵を?」
「うふふ。だって家族だもの。お姉ちゃんは蒼河ちゃんのお姉ちゃんだもの。
合鍵を借りるくらい簡単だよ。
それに、知ってるでしょ?
物理的だろうと電子的だろうと、お姉ちゃんの前には鍵なんて飾りです。
住所も、一週間あればテロ組織の拠点まで見つけられるよ」
背中から倒れた状態のままの僕に抱きつき、
胸板に顔を擦りつけながら上目で姉さんは言った。
確かに過去、姉さんにはありとあらゆる自室の鍵を無力化されている。
ついでに、回答を一つ先回りされた。
姉さんに、此処の住所は教えていない。
両親に口止めもしていたが、無駄だったようだ。
姉さんは呆れるほど優秀で、怖ろしいほど完璧で、信じられないほど完全だが、
僕に関係することでは特にその能力を発揮する。
説得にばかり意識を裂いて、後のことを失念していた。
他の事には万事において大した関心を向けない姉さんだが、
僕の事にだけは親のように過保護で、家族のように心配性で、恋人のように盲目的で、
決して諦めたまま終わる人ではなかったのだ。
「蒼河ちゃんが何処に居ても一緒、何をしても一緒、どんなことあっても一緒。
それがお姉ちゃんだもの。
誰にも邪魔はさせない。
誰の邪魔でも許さない。
誰が邪魔でも関係ない。
それが、お姉ちゃんだもの。でも・・・・・・今度のは、ちょっと辛かったなぁ。
ねえ蒼河ちゃん。ねえねえ蒼河ちゃん。
何がいけなかったのかな?
何が足りなかったのかな?
何が、行き過ぎたのかな? ねえ教えてよ、蒼河ちゃん。
お姉ちゃん、あれから考えたんだ。蒼河ちゃんがお姉ちゃんから離れようとしたのは何でかなって。
でもね。考えても答えは出なかったの。ダメだよね?
天才とか色々言われていても、お姉ちゃん、蒼河ちゃんの事が関わると何も分からなくなっちゃうの。
だから、ね。蒼河ちゃんが教えてくれないかな?
駄目な所は直すから。直せない部分は切り捨てるから。
たとえそれが何であろうと、お姉ちゃんは蒼河ちゃんのためなら────」
「ストップ! 姉さんそこまでっ!
とりあえず一旦体を退かせて欲しい。
ドアが開いたままだし万一見られでもしたら・・・うん?」
348 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:54:47 ID:sieKQt3d
姉さんの細い肩に手をかけて引き剥がす。
姉さんの技量なら難なく僕の抵抗を無にできるはずだが、
言葉を切ってあっさりと退いてくれた。
こういう所は本当に優しいというか押しが弱い。
唯一、僕から距離を取る事だけは絶対に了承してくれないけど。
「ねえ、姉さん。アレは何かな・・・?」
姉さんが体を退かせてくれたお陰で見えるようになった視界の中に、妙な物がある。
旅行用のキャリーケースだ。それもかなり大きい。
「ああ、アレ? アレは私の荷物だよ蒼河ちゃん」
「え・・・荷物? ちょ、ちょっと姉さんどういう事!?
まさか此処に住む積もり?」
「うん、そうだよ」
頷き、当たり前じゃないそんな事お姉ちゃんは蒼河ちゃんの傍に居るんだから何があってもずっと、
と姉さんは言うが冗談じゃない。
これじゃあ本末転倒以前の問題だ。
住み慣れた家を出てわざわざ引越しやその他色々な苦労や金を使ってまで姉さんから離れたのに。
「ね、姉さん。でも悪いけど此処は姉さんと二人で住めるほど広くはないし」
「お姉ちゃんは蒼河ちゃんが傍に居るなら住む場所なんて何処でもいいよ」
一蹴された。
「御飯は今まで通りに全部お姉ちゃんが作るし、蒼河ちゃんがいれば娯楽なんて要らない。
布団は蒼河ちゃんに抱き締めて貰うから別にいいし、此処の広さでも二人は並べるから。
住所と一緒に此処がどんな部屋のかも調査済み。お姉ちゃんは一向に構わないよ」
「う・・・あう・・・」
まずい。
完全に姉さんのペースだ。このままでは引越しも終わらない内に事が終わってしてしまう。
そう思った時。
「それに、いざとなったら引っ越せばいいし」
「いや、それは無理だよ姉さん。
僕はもうお金がないし、幾らか出して貰ったばかりだから父さん達ももう協力してくれないよ」
「ふふ・・・そっか。蒼河ちゃんは知らないよね。知っているはずがないよね?」
そう言って、身を起こすとぱっとキャリーケースの下へ歩く。
「お姉ちゃん、ちょっと訂正するね。
これは蒼河ちゃんとお姉ちゃん、二人の荷物だったよ」
告げて、笑みと共に開かれたそれから。
ボトボトと、札束が落ちた。
「お金なら沢山あるの。
蒼河ちゃんと買い物に行ったりするのはいいけど、毎回お金を下ろすのも面倒だしその時間が勿体ないから、
そのまま持って来ちゃった。お姉ちゃん、カードは持ってなかいし」
厚みから言って、テープで纏められたそれは一束辺り百万円。
せいぜいがテレビでしか見たことのない代物だ。
349 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:56:54 ID:sieKQt3d
「姉、さん。どうしたの? そのお金」
まさか姉さんが偽札に手を出したはずもない。
稼ごうと思えば、姉さんならゼロから始めても幾らでも稼げるだろう。
だが、それにしても額が大き過ぎる。
はちきれたようにケースの圧力から開放された札束は幾つかが安いアパートの床に転がり、
ケースの内部には落ちた分の何十倍という数が詰め込まれている。
姉さんがわざわざ所得を僕に隠していたはずもない。
そもそも、能力はあっても僕と要る時間を減らさないために姉さんはろくに働いていなかった。
それでも人並みには稼いでいたとは言え、この一週間足らずでどうやって。
「保険金」
姉さんはどうでもいい事のように呟いた。
「これはお父さんとお母さんが死んだから貰った保険金なの。
教えたら蒼河ちゃんは泣いちゃうと思ったから、直ぐには教えなかったけど。
蒼河ちゃんがお家を出て行った二日後くらいかな。
お父さん達が落ち込んでるお姉ちゃんを見て気分転換させるために連れ出したドライブ先で、
二人とも死んじゃった。
体を縦に引き裂かれたみたいになって。
お父さん達が、蒼河ちゃんとお姉ちゃんの間を引き裂こうとしたみたいに」
「・・・・・・ぇ」
多分、上手く声は出なかったと思う。
姉さんは僕に嘘は言わない。真実を語らない事はあっても、嘘だけはつかない。
だけど、僕は姉さんの甘い声で語られる情報を認識出来なくて。
「あ、やっぱり悲しい? そうだよね。
お姉ちゃんも、蒼河ちゃんを産んでくれたお母さんとお父さんには感謝してるし。
でも・・・その死を悲しんでばかりもいられないんだよ?」
姉さん。
姉さんは、僕に何を言っているんだ。
「これから、蒼河ちゃんとお姉ちゃんは二人で生きて行かなくちゃいけないの。
このお金はそのために、
蒼河ちゃんとお姉ちゃんの生活のためにお父さん達が残してくれたんだから。
だからお姉ちゃんも、直ぐに手に入るように手配したし。
あ、でも蒼河ちゃんは気にせず使っていいからね?
お姉ちゃんが適当に増やすから。株なり何なりで。
蒼河ちゃんが欲しい物を買うためだったら、お姉ちゃんいくらでも頑張っちゃう。
・・・・・・でもね、蒼河ちゃん。その前に一つだけ言っておきたい事があるの。
聞いてくれる?」
350 名前:彼方より来た姉 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2007/06/03(日) 03:59:27 ID:sieKQt3d
「・・・・・・」
僕は、反応、出来たのかどうか分からない。
だが姉さんは僕の瞳を嬉しそうにしばらく見詰めた後、笑うように唇を開いた。
「お父さん達が死んじゃって、蒼河ちゃんとお姉ちゃんは二人だけ。
たった二人だけ残された家族なの。
ねえ、分かる? この意味が。
残された家族は、身を寄せ合って生きて行かないといけないの。
もう二度と引き裂かれたりしないように。もっともっとお互いを大事にするために。
だから。だからね、蒼河ちゃん?」
姉さんが喋っている。
姉さんの話を信じるなら、もう僕に唯一人だけ残された家族である姉さんが。
「お姉ちゃんともっと仲良くなろう?
居なくなった人間の分だけより強く、より深く、より太く、家族の、姉弟の絆を作ろう?
そうしてお姉ちゃんと蒼河ちゃんだけでずっと、ずぅっといつまでも寄り添って生きて行こう?
だって────」
最後、ふわりと歩き出したかと思うと姉さんは僕の前に屈んで。
「お姉ちゃんと蒼河ちゃんは血の繋がった姉弟だもの」
僕と唇を合わせて、微笑んだ。
最終更新:2007年11月01日 22:14