32 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:48:46 ID:NTMO2mqS
9月2日、日曜日。
もう一日前にずれてくれれば夏休みがもう一日延びたのに、と多くの少年少女に思わせるほど
微妙なタイミングでやってきた休日。
空には雲が大量に浮いていたが、天気はおおむね晴れだった。
雲の切れ目からときおり顔を覗かせる太陽は、夏らしい凶暴な日光を地上に降らせていた。
しかし、風がよく吹くため雲の動きが早く、わりと過ごしやすい日になりそうだった。
ショッピングモールの一角にある喫茶店には、休日を満喫しようとする人たちがたくさん入っていた。
デートの待ち合わせをする人、これから知り合いとどこかへ遊びに行く計画を立てる人々。
皆が一様に薄着で、クーラーの効いた喫茶店内の空気を肌で感じていた。
喫茶店の窓際付近、ショッピングモールを歩む人々を観察できる席。
そこに、一人の女の子が座っていた。
女性と言うよりは、女の子と言う方がしっくりくる可愛い女の子だった。
長くのばした黒髪は滝のように一糸の乱れもなく下っていた。
カチューシャを使うことで髪が広がり、ボリュームが少々増しているように見える。
着ている服は上がノースリーブで肩丸出しのキャミソール、下にはミニスカートを履いていた。
スカートからは、男心をどうしようもなくくすぐってしまう色っぽい足が伸びていた。
少女は喫茶店の壁に掛けられている時計を見て軽くため息を吐き、アイスコーヒーをストローで飲み、
またモールを歩く人々に目を向ける、という行動を繰り返していた。
先ほどから店内にいる店員、男性客、一部の女性客が、少女の行動を観察していた。
一人で喫茶店にいるということは誰か――もしかしたら男――を待っているのかもしれない。
少女は一時間も前からあの席で待ちぼうけの状態になっている。
今は午前10時だから、9時からずっとそうやっていることになる。
少女がまた時計を見て、ため息を吐きだした。
呼応するかのように周囲の席に座る人々も軽く息を吐く。
少女に操られているわけではない。少女がため息を吐く姿を見て軽く呆けたのだ。
それほどに少女の姿は可憐だった。そして、その姿はエールを送りたくなるほどに儚かった。
店内にいる人々は、少女の待ち人が登場するのを待った。
早くあの子の笑顔が見たい、と思っていた。
店内にカランカラン、というベルの音が軽く響いた。床を歩く音と店員の歓迎の声がそれに続く。
しかし人々は誰かが入ってきても大して気にもしなかった。
窓際に座る可憐な少女が店内に入ってきた人物を確認して、眩しい笑顔で大きく手を振るまでは。
「テツくーん! こっちこっちーっ!」
と、店内の誰にでも聞こえてそうな声で、可憐な少女は叫んだ。
そう、叫んだのだ。
だから誰かがびっくりして、
「あの女っ! 何を恥ずかしげもなくっ!」
「落ち着け、これは作戦だ! あと数時間の辛抱だ!」
という声を上げてもおかしくない。
それ以外にも木製の床をダンダンと踏みつける音や陶器と金属がぶつかるような音がしたが、
びっくりしたのだから仕方がない。
窓際に座る少女も、少女以上に騒がしい声で叫ぶ人も、悪いことをしていない。
あえて誰が悪いのかと決めるならば、たった今喫茶店に入ってきた少年ということになるだろう。
33 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:50:32 ID:NTMO2mqS
先ほどまで人々が注目していた少女の顔が、少年が店にやってきた途端に明るくなった。
少女の笑顔は力強く咲く、夏の向日葵のようだった。
向日葵は太陽の方を向いて花を咲かせる。
同じように、向日葵のようである少女の笑顔も、太陽ではないが一つの対象へと向いていた。
少女の視線の先にいるのは、一人の少年。
若干低めの身長である以外は変わったところのない、中肉中背の体格をしている。
顔つきは中性的。それを気にしているのか、茶色の髪をスポーツ少年のように短く刈っていた。
身にまとっているものは襟付きのカットソーと、地味なブルージーンズ。
全体的な印象としては、休日に街へ繰り出してきた今時の高校生、といったところだ。
その少年は手を振っている少女を見ると、少女の待つテーブルへと歩いていった。
少女の前で、申し訳なさそうな顔で少年が頭を下げた。
「ごめん、朝倉さん。待ったかな?」
「ああ、ううん。待ってない待ってない。ついさっき来たばっかりだもん」
「ごめんね、わざわざ喫茶店の中で待っててもらって。お代は俺が払うよ」
「そう? じゃ、お言葉に甘えちゃおっかな」
朝倉と呼ばれた少女はそう言うと、席から立ち上がった。
少女からテツ君と呼ばれた少年は、テーブルの上に置かれていた伝票を手に取り、レジへと向かった。
会計係のウェイターに伝票を渡して、財布から料金を取り出して支払う。
レジの前でお釣りを待つ少年の腕に、少女の腕がからみついた。
「テツくぅん。これからどこに連れてってくれるの?」
「うーん……本当はプールにでも行きたいんだけど、いきなりじゃ無理だし。朝倉さんはどこか行きたいところある?」
「もちろんあるよ! ショッピングにゲームセンターに占い屋さん。
一番行きたいところは他にあるけど、今日はやらないでおくよ」
「じゃ、とりあえずゲーセンでも行こっか」
「うん、行こう行こう!」
ウェイターからお釣りを受け取ると、少年と少女は腕を組んだまま喫茶店の外へ出た。
ドアが閉まった途端、店内にいた人間の数人が息を吐き出した。
そのうちの半数は、あの女の子が約束をすっぽかされたんじゃなくてよかった、という安堵から生まれたため息。
もう半数は、あの女の子、彼氏がいたんだ。ハアア……、といった調子の落胆のため息だった。
今の少年と少女が恋人同士であると、店内にいる9割の人間が信じ切っていた。
残りの1割は、あの2人は今日だけの関係だ、ということを確信していた。
なぜ1割の人間――女二人――がそう思っているのかというと、
「あ、の、ア、マ! テツ兄におごってもらいやがって! 私だってなかなかおごってもらえないのに!」
「テツ……デートをしろとは言ったが、あそこまで優しくしろとは言っていないぞ……!」
と言っているように、少年と少女の知り合いであり、2人の今日の行動を快く思っていないからだった。
女2人は、目を合わせた者全てが顔を逸らしてしまうであろうこと間違いなしの怒りの形相のまま、
店の奥のテーブル席から立ち上がった。
レジで料金を払い、怯えた様子のウェイターからお釣りを受け取ると、無駄のない素早い動きで喫茶店から出て行った。
34 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:52:38 ID:NTMO2mqS
2時間後、ショッピングモールの一角に存在するファミリーレストランの店内にて。
元から絶やすことのない笑顔をさらにゆるませたほくほく顔の朝倉直美と、
2時間前とうってかわって疲れの色を濃くさせた顔の哲明が向かい合って窓際の禁煙席に座っていた。
哲明がなぜ疲れた顔をしているのかというと、普段より何倍も元気な朝倉直美に振り回されていたからだ。
ゲームセンターで遊んだあと、ショッピングモールの服屋、靴屋、アクセサリーショップなど、
ほぼ十分おきに店に入っては出ていく、ということを繰り返してきた。
しかも、これどうかな、似合う?テツ君はこういうの好き?とかいちいち言われていたら、
今日が(姉妹以外の相手では)初めてのデートである哲明が疲れないはずがない。
今はようやく訪れた昼食をかねての休憩タイム、というところだった。
2人はつい数分間に注文を終えたばかりで、まだ料理は届いていない。
代わりにおかわりドリンクバーで入れてきたジュースが2人の前には置かれていた。
哲明の前にはコーヒー、朝倉直美の前にはオレンジジュース。
哲明はコーヒーの中に入れたスプーンをぐるぐるかき混ぜていた。
「テツ君、もしかして猫舌?」
「うん。コーヒーは好きなんだけど、熱いのはあんまり好きじゃないんだ」
「そうなんだ……へへ、いいこと聞いちゃった」
「……へんなことしないでね。クラスの人に言いふらしたりも駄目」
「しないしない。またひとつテツ君のことを知れて嬉しいな、と思っただけ」
「そ、そう……」
照れも見せずに言う朝倉直美と、照れた顔でそっぽを向く哲明。
なんとも初々しい姿だ。まさにつきあい始めの恋人同士。
実際には哲明が誘ったからデートをしているだけで、2人は恋人でもなんでもないのだが。
哲明は何も言わずに立ち上がった。
別に不機嫌になったわけではない。トイレに行こうとしただけだ。
少しは朝倉直美に対する照れもあったかもしれないが、哲明がトイレに行きたかったのは事実だった。
朝倉直美もその空気を読んでいたので、どこへ行くかは聞かなかった。
ところで、哲明にはある癖があった。
それは、携帯電話をうっかりしてどこかに置いたままにしてしまう、というもの。
8月30日に哲明が朝倉直美の家に行ったときも、トイレに行く際にポケットから落としてしまっていた。
今もそうだった。哲明は、テーブルの上に携帯電話を置いたままにしていた。
向かいの席に座っている朝倉直美は、当然そのことに気づいた。
オレンジジュース入りのグラスを手に取り、グラスの縁に唇を添える。
しかし、ジュースは飲んでいない。飲む振りをしているだけだ。
その状態のまま、大きな黒い瞳で周囲を観察する。
まだ哲明が帰ってくる様子はない。監視しているかもしれない哲明の姉妹の姿もない。
そのことを確認すると、グラスをテーブルの上に置いた。
朝倉直美の右手が、向かい席にある哲明の携帯電話に伸びる。
35 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:55:13 ID:NTMO2mqS
――――――
「ケイタイを……取った! はい、確定。リカ姉、作戦Bよ」
「ちっ……まだそんなややこしい手でくるか、朝倉め」
ショッピングモールの一角に存在するファミリーレストラン――とは通路を挟んだ向かい側に存在する、
2階建てのファーストフード店の店内にて。
哲明の姉妹である明菜とリカは2階の窓際の席に座って、向かいの哲明と朝倉直美を監視していた。
哲明が席を外した途端に、朝倉直美がとった行動の全てが2人には筒抜けになっていた。
「朝倉が今、さっきまでテツ兄が持ってたケイタイと、自分で持ってきたケイタイを入れ替えたよ。
リカ姉の言うとおりだったね。30日に朝倉がテツ兄のとそっくりのケイタイを用意して入れ替えてた、って推測」
「そうでないと、朝倉のやった奇妙なことの説明ができないからな。
私宛にテツのアドレスでメールを送ったり、腹立たしい画像付きのメールを送ったり、ということはそうでないとできない。
昨日テツが携帯電話を見失っていて助かった。あれがなければ気づけなかった」
「私が電話した時、呼び出し音が鳴ってたもんね。朝倉が持っていたテツ兄の本物のケイタイには繋がっていた、と。
朝倉も馬鹿ね。頭の回転が速い人間は予定外のことが起こると弱いもんよ」
「お前は呼び出し音のことに気づけていなかったが」
「あれはわざと。わかんないはずないじゃない」
「……まあいい。そういうことにしておいてやる」
言い終わるとリカはプラスチックのトレイを持って席を立った。
明菜はリカの背中にあかんべをしてから、リカの後に続いた。
トレイを片付けると、2人は店を後にした。
「ねえ、本当にこれ以上見てなくてもいいわけ?」
「朝倉直美が、私が最初思っていた通りの女であれば監視している必要があっただろうが、
わざわざ携帯電話を入れ替えるようなことをするならば、これ以上変なことはしないだろう」
「思っていたとおり? ああ、あれ。
テツ兄がデートに誘ったら、調子に乗った朝倉がテツ兄を無理矢理ホテルに連れ込もうとするだろう、ってやつね。
よかったね、もし私が作戦Bを考えなかったら朝倉の思い通りだったよ?」
「くそっ……ホテルに連れ込もうとしたところを引っ捕らえるつもりだったのに……」
「さっきもジュースを飲む振りして警戒してたし。私達のことを考えのうちに入れてるんでしょ。
でも――作戦Bでやったことに気づけるかな?」
ファミリーレストランの店内にいる愛しの兄と、忌まわしき猫を見て、明菜はそうつぶやいた。
「まったく、まだるっこしい。私だったらテツを気絶させてでもホテルに……」
「ホテルに、何?」
「あっ。い、いや、なんでもないぞ」
「ふーん……ところで、賭は私の勝ちだから、帰ったらもちろん撮影に協力してもらうわよ」
「……仕方ないな。約束は約束だ」
渋々、リカはうなずいた。
嫌そうな顔をしていることから考えて、その『協力』というのは不愉快なものであるらしい。
「しかし、本当にやらなければいけないのか? そんなモノが必要か?」
「必要よ。普通にメールを送るだけじゃいまいち噂になりにくいし」
「むしろ変な噂が流れるのではないかと思うのだが……」
「大丈夫よ。友達はみんなネタだと思ってくれる。たとえ噂になったとしても……別にかまわないしね」
「私がよくないんだ!」
リカの叫びは誰の心にも届かない。明菜にも、哲明にも、朝倉直美にも。
午後1時のショッピングモールを歩く人々の耳にだけ、リカの叫びは受け入れられた。
36 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:56:46 ID:NTMO2mqS
「ただいまー。あれ、なんで2人とも玄関にいるの」
「おかえり、テツ兄。お疲れ様。ほんと~~……に、お疲れ様」
「テツ? 変なことをされなかったか? 性的な嫌がらせを受けたりしなかったか?」
「なんだよ2人とも、その変な反応は……」
午後3時に、哲明は家に帰ってきた。
その顔色は普段と変わりない。喜びにも、悲しみの色にも染まっていない。
いつも通り友達と一緒に遊んできました、帰ってきました、という感じだった。
「意外と帰ってくるのが早かったな」
「うん、朝倉さん急に家の用事が入ったとかなんとかで、帰らなくちゃいけなくなってさ」
「へええ……でもさ、一緒にいる間にいろいろやったんじゃないの? ねえ?」
哲明を下から睨め上げるように見つめながら明菜が言った。
ちなみに、哲明と明菜の身長は同じぐらいだ。
首を前に傾けて、上目遣いのようにして睨みつけているのだ。
「顔、怖いぞ明菜。ただゲーセンに行ったり買い物に行ったりご飯一緒に食べただけで、変わったことはしてないぞ」
「まあ、そこまでは見て……じゃない。そ、それ以外にも何かしたんじゃないの?」
「うーん……あ、2人一緒の写真を撮ったっけ」
「ケイタイ? デジカメ? もしかして写真屋さん?」
「携帯だった。近くを歩いていた人に渡して、撮ってください、って頼んでたから」
「ほう……」
腕を組んだリカが、軽くうつむきながら唇の端を吊り上げて笑った。
「くくく……ここまでプロファイル通りに動いてくれるとは」
「何言ってんだ、リカ姉」
「なんでもない……ただ面白いだけだ。では私は部屋に戻っておく。明菜、あとは手はず通りに」
「オッケー。――たぶん、そろそろ送っただろうからね、あいつも」
哲明にとって意味不明なことをつぶやきつつ、姉妹は玄関から立ち去った。
哲明は姉妹の行動に疑問を覚えながら、1人で部屋に戻り、頬を撫でながらつぶやいた。
「帰り際に朝倉さんの唇が当たったような気がするけど……気のせいだよな?」
37 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:58:11 ID:NTMO2mqS
すでに日付の上では9月3日になっている、深夜2時。
電球の明かりが灯った哲明の部屋では、眠りこけた哲明と、部屋の同居人である明菜と、リカが集合していた。
深夜に姉兄妹3人が集合する。その時点ですでに少し異常な状況であると言えるだろう。
だが、姉妹の様子は異常な状況の中でもさらに際だっていた。
リカは携帯電話を双子の兄妹に向けていた。
明菜は、二段ベッドの下で眠る哲明に寄り添うように横になっていた。
「テツ、にいぃ……はぁ……」
「こらっ、明菜。これは作戦だぞ、それをわかっているのか?」
「わかってる。ちゃんと合図を送るって。テツ兄が起きちゃうから静かにしててよ、もう」
そう言いながら明菜は兄の体に自らの体を擦りつける。
姉は、これは作戦だこんなのはテツは望んでいない、と呟きながら明菜の合図を待っていた。
姉妹は今、現状において最もやっかいな存在である朝倉直美をこらしめるために、
自らの身を犠牲にしているところだった。
もっとも身体を使っているのは明菜だけではあるが。
「あは……テツ兄の、おなか……意外と固いんだ」
明菜の手が、哲明のTシャツの下へと潜り込んだ。手で撫で回した後で、シャツを胸元までゆっくり上げていく。
「すき……好きだよ、テツ兄……腕、貸してね……」
「おい、そんなこと言わなくてもいいだろう」
「テツ兄の腕、あったかい……大好きぃ……」
姉の言葉など無視して、明菜は自分の股に哲明の手を挟み、二の腕に両手を回した。
求めるように、兄の腕と一体化するのを目的にしているように、明菜が身をよじる。
「シャンプーの匂い……やっぱり私のと同じだ。テツ兄と一緒……今は、身体もひとつ……」
「ぐぐっ……私だって同じなのに」
「やあん、動いちゃ駄目、テツ兄……感じちゃう、からあ……」
なおも明菜は兄の身体へと近づいていく。
「いいの、テツ兄の腕、使っても……? じゃ、もっと動かして……」
「……くっ、ええい、合図はまだかっ!」
我慢し続けてきた姉がとうとう吼えた。
38 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 14:59:28 ID:NTMO2mqS
そのとき。
「んん……あいず? ああだめだよ、そんなにアイス食べたら、リカ姉……ガリ姉……」
姉の声に反応したのか、哲明が声を漏らして、次に寝返りを打った。
そうすると、当然哲明と明菜の身体は正面から向き合うことになる。
「うわわっ……
馬鹿姉! 起きちゃうでしょ!」
「あ……すまん」
「まったくもう……ごめんね、テツ兄。もう邪魔なんか入らないから。
でも、ちょっと許せないな……なんで私の夢じゃなくて、リカ姉の夢なんか見るかなあ……?
こんなときに他の女の名前を呼ぶ男には、おしおきしないとね」
明菜の腕が、哲明の首に回された。2人の顔が少しずつ近づいていく。
ここで間違ってキスしても、はずみでやってしまった、という言い訳をできそうな距離だ。
たった今、こめかみに血管を浮き上がらせている姉がその言い訳で許すとはとうてい思えないが。
「テツ兄の、息……いいにおいだよ。私にも、頂戴……? 私のと交換。唾もあげるから、ね?
テツ兄は全部『私たちのものなんだから』」
「……よし!」
待ちかまえていた姉の携帯電話が、並んで眠る兄妹の姿を写真に収めた。
合図は明菜の言った、『私たちのものなんだから』だった。
この写真さえ撮ってしまえば、哲明と明菜をくっつけておく理由はなくなる。
リカはすぐさま明菜を哲明からひっぺがした。
「あ……ごめん、今のなし。もうちょっとでイきそうだったから」
「いいや、駄目だ! まだやることがあるんだろう! さっさと私の部屋に行くぞ!」
「あああ……ごめんねテツ兄、また今度……」
「今度など、無い!」
リカは明菜のパジャマの襟首を捕まえたまま、哲明の部屋を後にした。
哲明の部屋に静寂が戻った。
ベッドで眠る哲明はもう一度寝返りを打った。
たった今まで妹が目の前で痴態を見せていたことなど、哲明は知りもしない。
そして、夜はふけていく。
39 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 15:01:58 ID:NTMO2mqS
9月3日、月曜日の県立高校にて。
朝倉直実はこの日、朝から上機嫌だった。
というのも、昨日哲明とデートできた時の余韻がまだ残っているからだった。
喫茶店に来たときのテツ君の顔、気まずそうで可愛かった。
クレーンゲームでぬいぐるみを取れなくて悔しがるテツ君の顔は初めて見た。
お揃いの指輪をつけたときのテツ君の戸惑う様子、抱きしめたいぐらい良かった。
昨日も家に帰ってから何度も思い出したことではある。
だが朝倉直実にとっては哲明の顔は何度思い出してもいいものらしい。
つまり、朝倉直実は色ボケしているのだった。
しかし、朝倉直美の心には、一つだけ引っかかっていることがあった。
「ねえ、山っち」
「直実ちゃん、何?」
「昨日、私がどこに行ってたか知ってる?」
「へ? いや知んないよ。誰かとデートでもしてた?」
「え、と。まあそうだけど……ごめんね、なんでもないよ」
昨日朝倉直実は、1通の写メールを哲明の友人達に送った。
朝倉直実が哲明の腕にくっついている写真だ。
その写真を、昨日哲明と入れ替えた携帯電話――元は朝倉直実の物である携帯電話で送信したのだ。
入れ替えた、つまり、2つの携帯電話はそれぞれの持ち主の元へ戻ったということになる。
しかし、朝倉直実はただ携帯電話を一時的に入れ替えていたわけではない。
自分で作ったメールアドレスを、哲明のメールアドレスとして友人に登録させようとしていたのだ。
昼休み、朝倉直実は生徒があまり立ち寄らない別校舎のベランダで携帯電話を見つめていた。
哲明の携帯電話と同型、同色、同じ壁紙、同じ着信音、同じ電話帳、全てを同じにしている携帯電話だ。
違う点と言えば、電話番号とメールアドレスぐらいのもの。
「どういう……こと? 今この携帯のアドレスは、テツ君の友達にはテツ君のアドレスとして登録されてるはず。
昨日の写メールはテツ君が送った、っていうことになってるはずなのに」
そう。朝倉直実の計画通りに行けば、哲明のアドレスと朝倉直実が作ったアドレスが入れ代わっているはずだった。
そうすれば、2人が写っている画像付きのメールが、哲明の送ったものとして友人に認識されるはずだった。
このメールを送れば、哲明と朝倉直実が付き合っている、という噂をますます浸透させることができるはずだった。
「そのはずなのに、なんで……っ?!」
なぜ、自分がメールを送った友人は写真のことで話しかけてこないのか。
なぜ、思い通りにいっていないのか。
そして、なぜ。
「こんな、わけわかんないっ……、画像がテツ君から送られてくるのよっ!」
朝倉直実の携帯電話のディスプレイに写っているのは、哲明と明菜が顔を向き合わせ、キスをしようとしている画像。
送り主は『テツ君』。つまり哲明から送られたものだった。
電話帳の『テツ君』のメールアドレスは、間違いなく哲明の本物のメールアドレス。
しかも、自分が以前から持っている携帯電話にも、同じ画像付きのメールが届いていた。
40 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/15(水) 15:04:17 ID:NTMO2mqS
朝倉直実にとって、自分の計画が崩れることなど考えられないことだった。
勉強も運動もできる朝倉直実は、全てを計画通りに進めてきた。
高校進学、これからの進学先、哲明の心を射止めるための策。完璧な策のはずだったのだ。
自分の計画を阻害するものがいても、それに自分が乗せられるはずはない、と思っていた。
ましてや、奇妙な担任の教師や忌々しくも哲明と同じ顔をした明菜に邪魔されるなど、考えられなかった。
だから、朝倉直実は自分がミスを犯したのだ、と思った。
「そう。たぶん間違ってテツ君の友達じゃない人に送っちゃったんだ。そう、そうだよ。
今からでも遅くない。今から、写メールを送ればいいんだ」
朝倉直実は昨日と同じように、哲明の友達にメールを送り始めた。
「まずは……山っちから………………よし。次は村田君に……」
朝倉直実の指が、二回目の送信ボタンを押そうとしたとき。
突然、聞き覚えのある着信音を聞いて、動きを止めた。
「これ、テツ君の、メール着信音……だ?」
自分がメールを送ってすぐに着信音が聞こえてきた。
このメロディは、哲明に渡すために細部にまで細工を施す際、何度も耳にした着信音だった。
その音が自分の後ろ、階段の方から聞こえてくる。
「だ、誰よ……誰っ!」
「へー、『今日は朝倉さんと一緒にデートしました』、ね。はっずかしいメール。
こんなメールを送ったって噂を立てられた方がテツ兄にとっちゃ迷惑だよね」
「あ……あき、明菜ちゃん……」
階段を登ってやってきたのは、哲明の妹の明菜だった。
右手で携帯電話を持って、画面を見つめている。
朝倉直実の前にやってくると、携帯電話を朝倉直実の眼前にかざした。
「そ……こ、これ……」
「なんで驚いてんの? 自分で送ったメールなんだからそんなに驚くほどのもんでもないでしょ」
「なんで、その、明菜ちゃんの携帯電話に……」
「人に聞く前に自分で考えてみたらどう? 私よりずーーっと、頭いいんだからさ」
「そんなっ、こんなのっ……この電話に細工、すれば……」
「そ、細工したのは私。ウチの姉はデジタル弱いからねー。私がやるしかないのよね。
でもさ、あんたが細工に気づかずにメールを送ったってことは、頭で私が勝ったってことかな?」
「なっ……ぅっ……」
朝倉直実は、喉に息を詰まらせたように押し黙った。
明菜は、左手でもう一つ別の携帯電話を取り出して広げると、呆然とする女に画面を見せる。
女が、ひきつるような声を吐き出した。
「わかるかな? ちょーっとわかんない? 難しい? 降参? ま、あんたにはわかんないかもね。
ちなみにこのメール、あんたのケイタイだけじゃなくってテツ兄の友達にも送ってるから。
そんで、メールの送り主はテツ兄ってことになってる。この、ウチの姉のケイタイで送れば当然そうなるけどね。
テツ兄の唇、すっっっっごい、柔らかかった。これからあの唇も体も、全部私のものになるのよね――最高」
明菜が左手で持っている携帯電話の画面には、朝倉直実にとっては何よりも忌まわしくて目にしたくない、
目を閉じた哲明と真っ赤な顔の明菜がキスをしようとしている画像が表示されていた。
最終更新:2007年10月21日 00:02