黜陟幽明・六面体

543 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 12:53:05.78 ID:CsWxnXIW (3/12)

「兄さん、キスしても良い?」

 二度三度と瞬きをした。
 時は夜。場所は家のリビング。
 夕食前の室内には誰もない。僕と、もう一人がいるだけだ。
 可否を答えるより先に、発言者を凝視した。
「何云ってんだ、お前?」
 呆けたように問い返すと、目の前の少女――栂尾霙は形の良い唇を艶やかに吊り上げて繰り返した。
「キス。あたし、兄さんとキスしたいの。ダメ?」
「…………」
 僕は頭を掻いて、それから確認を込めて聞いてみた。
「霙、俺とお前の関係は何だ?」
「男女かな」
「兄妹だ。それも血の繋がった」
「知ってるよ? 兄は男で妹は女。つまりは男女でしょ?」
「意味が違う」
「同じだよ」
「…………」
 からかっているのか本気なのか。
 薄く微笑むだけの妹の真意を読むことが出来ない。
「霙」
「何?」
「俺は今、部活の話をしてたんだけど」
「それも知ってる。会話の当事者あたしだもの。で、キスしても良い?」
「なんでそうなる」
「したいから、そうなるの」
「…………」
 僕は口をへの字にして黙り込んだ。

 妹の霙は正真正銘・血の繋がった身内である。
 容姿は極上だが可愛いと云われることは殆ど無く、多くの場合綺麗、ないし美人と評される外貌だ。
 基本的にはサバサバした性格で、身内事を除き、あまり物事に固執しない。
 趣味は僕をからかうことだ、と常常公言しているので、今回もそうだろうと考えた。
 しかし、それにしても唐突だ。前述の通り部活――茶道部の話をしていただけなのだから。
 僕の所属する茶道部には茶会の折りに一つの茶碗で廻し飲みする習慣があるのだが、新入生の女子部
員達がそれをいやがった。その話をした途端、妹は会話を遮ってキスの許可を求めて来たのだ。二重の
意味で驚くのは当然と云える。

「唐突じゃないでしょう? 間接キスの話を振ったのは兄さんだもの」
「間接って……」
「お茶会の度に間接キスする部活なんて知ってたら入部許可しなかったのに」
 頬を膨らませながらそんなことを云う。
 何故にお前に許可を取らないといかんのだ、と僕が呻くと、霙は妖艶に瞳を細めた。
「だって――」
 つい、と白い指が僕の口をなぞる。
「兄さんの唇は、あたしの所有物だもの」
 人差し指は自身の口元に運ばれ、赤い舌がちろりと先端を嘗めた。妙に蠱惑的な仕草だ。
 目を逸らすと、不可視の身内から「クスッ」と笑い声がする。
「照れてるの? 兄さん可愛いなぁ。そんな顔されると、もっと虐めたくなっちゃうよ?」
「か、からかうのもいい加減にしろ」
「からかわれるのはいや? じゃあ、本当に虐めちゃおうかな」
 霙は立ち上がると僕の傍へやって来て、息が掛かるくらいの距離で顔を寄せる。
「お、お前」
「兄さんは、あたしの物なんだから、あたし以外の人間とと間接キスなんてしちゃダメなのよ? この
唇に、本来あるべき場所を教えてあげる……」
「う、うわああああ」
 情けない声を上げて僕は後退った。妹はそんな兄を見下ろしてクスクスと笑っている。
「妹相手にドキドキしてるんだ? 可愛い」


544 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 12:55:43.64 ID:CsWxnXIW (4/12)
「ま、またからかったのか!」
「別にからかってないよ? 逃げなければ本当にしちゃうつもりだったんだから」
 霙はそう云って片目を閉じて見せた。僕は平静を装うので精一杯だった。
「お前なぁ! 冗談も程程にしておかないと今に報いがあるぞ」
「ふぅん……。『報い』、ねぇ……」
 柔和な笑顔を浮かべたまま、妹の瞳が幽かに細くなる。気配の温度が瞬間的に下方へ移行し、不可視
の気配が黒く濃くなったように感じた。
(あ――機嫌が悪い……)
 その時になって、僕は霙が怒っていることを悟った。兄を散散からかっていたのは面白がってのこと
ではなく、怒気が漏れ出た為に起きた現象であったようだ。
「兄さん?」
「な、何だよ」
「妹の心得読誦」
 霙は笑顔で『約束事』の確認を命じる。
 妹の心得――それは僕が霙に誓ったものである。
 最初は「お前を泣かせない」「一緒に出かけた時は置き去りにしない」と云った気遣いや慰めの為の
ものであったが、そのうちに泣き落としや脅迫紛いの理屈で補増され、今では三十四もの誓約になって
いる。後に恣意的に纏められ(霙曰く精緻に纏めた)、記念すべき第一条は『兄は妹の為にある』、で
ある。
 仰仰しく下らない条文を読み上げさせられていると、
「は~い、ストップ」
 第九条で止められた。
「兄さん、第九条をもう一回云ってみて?」
「……『兄の身体、または行動は妹の許可無く淫らな穢れを自ら求めてはならなず、突発的な事象を除
き可能な限りこれを避けねばならない』」
 よく云えました、と霙は柏手を打つ。
「じゃあ兄さん。釈明があれば聞くけど?」
「ま、待てよ。何で釈明が必要なんだよ」
「だから、してきたんでしょう? 今まで散散、間接キスを」
「いや、それはあくまで部活動の一環で、決して疚しいものでは……」
「第十一条読誦」
「『兄はいかなる場合も妹に対し機密を保持してはならず、また誤解を生まぬようホウレンソウを怠っ
てはならない』」
 ジロリ、と霙は僕を見つめた。その目は間接キスを隠していた、と責め立てている。
「霙。廻し飲みは間接キスじゃないんだぞ」
「どう違うの? ひとつの器に口を付ける。全く同じじゃない」
「外面的行動ではなく、心の持ちよう、が」
「つまり普遍性がない。恣意的に違うと云い張っているだけで本質的には受け手によって様様ってこと
でしょう? 少なくとも誤解を生むだけの素地は有ると云う事。そもそも兄さんだって『そう思える』
と認められるからこそ、新入部員がいやがったと理解したんでしょ」
「う……」
 何とか反駁はしたい。反駁はしたいのだが、僕は口では妹に敵わない。それでも何とか云い返そうと
すると、霙は僕の服をぎゅっと握って上目遣いに呟いた。
「じゃあ兄さんは、あたしが男の子と間接キスしてる姿を見たいの? 他人の唾液の混じったお茶を飲
み下す姿に我慢出来るの?」
「それは……」
 表現が大袈裟だ、と云おうとして口を噤む。生生しい云い方をされるとその姿を想像してしまう。一
瞬、いやだな、とも思ったが潔癖すぎる人間は生き辛いだけだ。諭そうとし、またそれでは妹が不満顔
をするだろうと停止する。一息刹那に思考が右往左往して、結局言葉にならなかった。
 霙は僕の沈黙を都合良く解釈したらしい。
「ほら、兄さん。兄さんは自分がされたらいやなことを、あたしにしたのよ?」
 攻めるようにそう云った。
「わ、悪かったよ……」
 謝ったのはその場凌ぎだ。
 前述の通り考えは纏まっていない。けれど、状況に押されてそう答えてしまった。
「認めるんだ?」
「…………」
「認めるのね?」
「あ、ああ」


545 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 12:58:43.59 ID:CsWxnXIW (5/12)
「じゃあ、罰を与えなきゃ。信賞必罰は政治の要諦。家族関係も爾り」
(結局このパターンか)
 僕は頭を抱えた。
 妹の行動は結局『罰』へと収束する。
 罰の名の下に自分の有利なように物事を運ぶ。心得が増やされたり、振り回されたりするのが常なの
だ。
 今回はどうするつもりなのだろう。そう思っていると妹はふたつの六面体を取り出した。
(骰子……?)
 霙の掌に乗っかっているのは双六等の遊技に使うあれだ。
 ひとつ違うのは、各面にあるべき数字が文字に置き換わっていると云う点だろうか。
「何だ、それ」
 僕が問うと、妹は含みのある笑みを浮かべて見せた。
「天意を問う、と云えば伝わる?」
「…………」
 得心往った。
 つまり出目が僕への罰であると。
(それにしても――)
 しなやかな掌に載った六面体の内容は、とてもじゃないが天の意思とは思われない。
 見える範囲で『一日抱き枕』とか『常時奴隷化』等の文字が踊っている。
「で、何で骰子がふたつあるんだ?」
「おしおきとご褒美」
 使用される局面が違う、と云う事らしい。しかしそれならば何故、『ご褒美』用と『おしおき』用の
両方に『鞭』の項目があるのだろうか。
「兄さんは見ちゃダメ!」
 霙は六面体を遠ざける。詳細は決するまで知ってはいけないようだ。
「今回は『甘口』で許してあげる」
「あ、『甘口』……?」
 程度によって使用される骰子が違うのだ、と霙は云う。
「『甘口』・『中辛』・『辛口』・『激辛』。四段階あるの。今回は情状酌量の余地ありと判断して、
『甘口』。寛大でしょう?」
「Clementia」
 僕は呟いて肩を竦めた。霙は大仰に頷いて、おしおき用・甘口の骰子を放り投げた。
 出目は……
『無罪放免』
「やった」
「ふんッ!」
「あーっ! 蹴るなよ!」
 天意を告げる六面体は猛スピードで壁に激突し、ぐったりと動かなくなった。
 妹は脚を蹴り上げた姿勢で美しく停止している。
 やたらめったら短いスカートから伸びる脚はすらりと細いが、むっちりとした肉感があり、二律背反
する両長所を内包している。
「誰も投げて出た目で決するとは云ってない。これで出た目で罰を決めるの」
「横車も甚だしい……」
 僕は渋渋哀れな骰子に近付く。
 出目は……
『無罪放免』
「…………」
 どうしよう。
 素直に出目を告げるべきか。罰を受けてやるべきなんだろうか?
 偉そうに踏ん反り返っている妹は自信満満に瞑目している。『無罪放免』以外は何が出ても満足往く
のだろうが……。
「あ~……。霙さん……?」
 遠慮がちに発声すると、それだけで妹の眉がつり上がった。事態を把握したらしい。
「兄さんはあたしに何か恨みでもあるの?」
「天の意思じゃないのかよ」
「兄さんの処遇を決める目なんだから兄さんが自分で振って」
 さりげなく振り直しを要求する。『無罪放免』にする気はないらしい。
 僕は嫌嫌骰子を拾い上げ、等閑に放りだした。或は掌から落ちただけかもしれない。
「あはっ!」


546 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:02:11.57 ID:CsWxnXIW (6/12)
 途端、妹が柏手を打ち鳴らした。実に良い笑顔だ。悪い予感しかしない。
『愛の告白(キス付き)』
「…………」
 うちの妹はどこかおかしいんじゃないだろうか。
「お前さぁ」
「なに?」
「血の繋がった兄貴にこんなことされて嬉しいのか?」
 普通ドン引きだろう。
「嬉しい嬉しくないじゃなく罰だもの。兄さん、云い訳で誤魔化すつもり?」
 上擦った声で云い張る。嬉しさが多分に見え隠れしているが、突っ込むのは野暮だろうか。
「別に誤魔化すつもりはねぇよ……」
「じゃあ」
 ン……。
 とか呟いて目を閉じる。
 キスされる気満満だ。
 ……霙とキスした経験が無いとは云わない。
 子供の頃、巫山戯て何度かした。僕の最初は霙であり、妹の最初は兄であるはずだ。
 しかしそれは遊びの延長であって、特別な感情を伴ったものではない。少なくとも、僕の中では。
 今回のこれは罰なのだから、本気のそれとは違うとは云え、本当にしてしまって良いものだろうか?
「兄さん。早く♪」
 こちらの心中を知らずに催促する妹の声は、先程同様、多分に上擦っている。
 すました顔で目を瞑る霙の頬はほんのり赤い。ある種の感情が見て取れる。
(仕方ない)
 頬かおでこにでもキスをしてお茶を濁すとしよう。
「云っておくけれど、ほっぺやおでこで誤魔化すのは無しだからね」
「…………」
 先回りで逃げ道を潰される。流石は兄妹。僕の考えを察したようだ。
「あ、でも。つまさきへのキスなら許してあげるけど」
「お前は兄妹の関係を何だと思ってるんだ」
「これでもあたしなりに兄さんの為を思ってるんだけど?」
「……理屈を拝聴しましょうか」
「簡単」
 妹は僕の腕を掴んで強引に自分の方へと引き寄せた。
「兄さんは、あたしに支配されている方が幸せだってこと」
 からかっているんだよな?
 高慢な笑みを浮かべている霙の頬は上気している。興奮しているのだろうか?
「兄さんはあたしのものなの。だからあたしに管理されるべきなの。そうでしょう?」
「…………」
 管理云云述べているが家事はほぼ総て僕がやっているのだが……。
(藪はつつかぬ方が良い)
 最早何を云っても無駄であろう。第一、骰子を振っておいて今更出目に従いません、では通らない。
(仕方ない……)
 さっさと済ませてしまうことにした。多分、それが一番安全だ。
 投げやりに覚悟を決めた僕は霙に向き直る。
「告白して……キス……すれば良いんだな?」
「そう。キスと告白。簡単でしょう? だからって、いい加減な態度は認めないからね?」
 注文の多い奴だ。これ以上騒がれる前に終わらせてしまおう。
「霙……」
「うん……」
「あ、愛……してる、ぞ」
 自分で云ってて恥ずかしくなってくる。今の僕の顔と仕草は泥酔者のそれに相似するだろう。だが、
きらきらとした顔で僕を見上げていた妹は予想に反して美しい眉を吊り上げた。
「今のじゃ駄目!」
「何でだよ」
「だって兄さんがあたしを愛しているのは当然だもの。兄さんはあたしを好きで、あたしも兄さんが好
き。互いに好き合ってる事が判っている相手に告白するのよ? だからそんな『当たり前』じゃ意味な
いの。ちゃんと将来を含めた告白じゃなきゃ」
「将来って……」
 それは告白を越えた話ではないのか。


547 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:07:01.43 ID:CsWxnXIW (7/12)
(まさかこいつ、これを機に婚約をさせるつもりなのでは?)
 僕の背中に冷たい汗が流れた。
 他方霙は罠に掛かる獲物を待つかのような妖しい笑みを浮かべている。
『妹の心得』では約束を守らぬ事を堅く戒めている。だから、「愛の告白」ならば兎も角、「将来の約
束」はまずい。有言実行が義務なのだから。
「兄さん?」
「な、何だよ」
「兄さんはあたしに黙って間接キスをしてた」
「許可を求めていたら許した風な口ぶりだな」
「許すわけないでしょ。兄さんはあたしのものなんだから」
 話の腰を折らないで、と駄目出しをして霙は続ける。
「兄さんはあたしをものすご~く不安にしたの。なら、永遠に不安を取り去るような『お薬』をくれな
いと駄目でしょう?」
 それが将来の約束だと?
 随分と割高な薬もあったものだ。
 しかし賽の目が出た以上誤魔化すことは不可能に近い。言質を取られない範囲で要望を満たすしかな
い。
 結婚しよう、とかお前以外いらない、とか関係を限定的にする言葉を避けてその上で将来を包含した
ものにせねばならない。
(と、なると……矢張り時間を強調すべきだろうか)
 それが一番無難であるし、何より当然自然であろう。
 仕切り直すように妹と向き直る。
「ちゃんと肩を抱いて」
 何がどうちゃんとなのかはしらないが、追加で注文を付けられた。仕方ないので両肩を掴む。
「霙」
「兄さん……」
 妹は切り替え早く、熱病患者のような目で見上げてくる。潤んだ瞳には引き攣った顔の兄しか映って
いない。どうやら既に自分の世界に入り込んでいるようだ。
 一度深呼吸をし、それから茶番を開始する。
「俺はお前を永遠に愛してる。百年後も千年後もずっとだ」
 先程の言葉に年数を付加しただけである。永遠を語っておいてその後に年月を加えるなど滑稽の極み
だが推敲せずに出した言葉なのだから仕方ない。
 我ながら酷い科白だと思う。だが事実でもある。
 霙は大切な妹だ。ずっと大事に出来る自信がある。つまり、将来を含めた話だ。条件は充分に満たし
ている。
 さて、審判はどうであろうか。
 妹を見ると、ぷるぷると震えていた。俯いている所為で表情が見えない。
(また駄目だったか?)
 両肩から掌をどけると。
「兄さんッッッッ!」
「うおぁっ」
 尻と背中、次いで頭部に衝撃が走った。押し倒されたのだと気付いたのは僕に馬乗りになって両肩を
押さえる妹の顔を見てからだ。
 猛禽のような目をしている。舌なめずりしながら肩で息をし、震える声でこう告げた。
「天意は兄さんからのキスだったけれど、私からしてあげる……」
 お前がしたいだけだろう、と呟こうとして失敗した。それよりも早く、僕の唇が妹のそれで塞がれた
からだ。
「んぅう……」
 ぬちゅぬちゃと舌が僕の口内を這い回る。唇とリップグロスの感触が生生しいが、あまり気持ちの良
いものと感じないのは精神的なものがないからだろうか。一心不乱に唇を貪る妹の姿は、どちらかと云
えば懸命に甘えてくる子供のように映った。
(普段俺を挑発してる時は色気があるんだがなぁ)
 常常主導権を奪われつつも、それが決定打に至らないのはその辺が理由だろう。
「んッ、ちゅッ……んぅッ……ねぇ……兄さん……?」
「……何、だよ」
 無理矢理に舌を絡めてくるので喋りづらい。
「兄さん良い子に出来たから、ご褒美あげる……」
 そりゃどーも、と僕は呟いたが耳に届いた音声は言語とは程遠かった。霙はそんなことはお構いなし
にキスをしながら六面体を取り出した。どうやら先程ちらりと見えた『ご褒美用』の骰子のようだ。


548 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:10:49.49 ID:CsWxnXIW (8/12)
 並んでいる文字は前述の通り『愛の鞭』があり、他に見えるものは『足コキ』と『下着の贈与』。酷
いご褒美もあったものだ。ひとつも嬉しくない。
 だが霙は蕩けた笑みで呼吸荒く呟いた。
「特、別、にぃ……二回振って良いよ?」
(そりゃ何の罰ゲームだ)
 こんなもので僕が喜ぶと思っているならばそれは甚だしい誤解であろう。どうやら妹と兄の間には随
分な思考の乖離があるようだ。
(こんなものをせっせせっせと自作してるかと思うと兄ちゃん情けなくて涙が出るぞ)
 しかし『こんなもの』に現況を支配されているのも事実だ。ぶっちゃけ振りたくはない。
 霙も霙で急かさない。
 賽を振ると云う事が口づけの終焉であることが判っているからだろう。骰子をギュッと握りしめたま
ま、必死に舌を絡めてくる。
 どの程度そうしていたのか判らない。
 固定された身体が痛みを覚えた頃、僕の耳に霙の息遣いと唾液の絡まる音以外の音が鳴り響いた。イ
ンターホンである。
「霙、お客さんみたいだぞ?」
「…………」
「……おい、霙?」
「今……忙しいの……ッ」
 表情は冷静を装っているが語気は荒い。邪魔された、と考えているようだ。しかし僕にとっては渡り
に舟だ。天意を再び問う気もないし、キスの続行も御免だ。いい加減、口の廻りが唾液まみれで気持ち
悪い。
 妹を押しのけて身体を起こすと、「むぅ……!」と不満気な声が聞こえたが聞かないことにした。
「……一寸追っ払って来る……!」
「どうしてお前は最初から喧嘩腰なんだ」
 基本的に来客への対応は外面の良い妹がしている。宗教の勧誘も商品のセールスも完膚無きまでに叩
き潰すのが上手なのである。霙曰く「兄さんは交渉事に向かない」らしい。
 けれど今は駄目だ。気が立っている時の妹は凶暴で凶猛なのだ。一見して殺気横溢している。僕が出
た方が無難だろう。
 口元を整えておけ、と制して僕が応対することにした。
 直接玄関に向かい扉を開けると、そこにはセールスマンでもなく勧誘のおばちゃんでもなく、小柄な
少女が立っていた。
「弐之宮……?」
「こ、こんばんは……です。栂尾先輩」
 ぎこちない笑顔でぎこちないお辞儀をしたのは弐之宮霽。僕の所属する茶道部の新入部員であり、入
学したての一年生だ。そして現在の莫迦げた六面体騒動の発端である『廻し飲みを拒否した女の子』の
一人でもある。
「こんな時間にどうしたんだ? と云うか、何でうちに? いや、そもそも俺の家知ってたのか」
 心がそのまま零れた。弐之宮は戸惑ったように云い澱んでいる。それはそうだろう。質問が段階を踏
んでいない。我ながら交渉事に向かないと改めて思い知る。
「えと、あの……」
 困惑する姿が小動物に相似する。小柄なので、尚更だ。そんな風に考えていると、弐之宮霽は勢いよ
く頭を垂れた。
「す、済みませんでした!」
 必死さは伝わってくるが何故急に謝られるのか理解が出来ない。僕が首を傾げるとそれが判ったのだ
ろう。後輩は目を伏せながら敷衍する。
「あの……今日、の、お茶会で飲むのいやだ、って云ってしまって……それで、不快な思いをさせてし
まいましたから……先輩に謝ろうと……」
「ああ何だ。そんなことか。別に気にしなくて良い。女の子なんだからいやがる気持ちも判るし。と、
云うか、それで態態うちまで来たのか?」
「よ、義銀部長に住所を聞いて……」
「義銀に?」
 それは妙だ。茶道部部長の義銀里沙は僕の住所を知らない。精精携帯の番号だけのはずである。副部
長の一乗谷ならば知っているから、そちらと間違えたのだろうか。
「わ、私……いやじゃありません……! 飲むの、いやじゃありませんから……!」
「そうなのか? 男が飲んだ茶碗に口付けるのはいやだと云ったと思ったんだが」
 僕が聞き間違えたのだろうか。
 今日の部活で廻し飲みをいやがった新入生はふたり。


549 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:15:00.99 ID:CsWxnXIW (9/12)
 目の前にいる弐之宮霽と、もうひとりは織倉由良と云う名前の一年で、いずれも女子である。茶碗を
奨められた時、一方の弐之宮霽は怯えたように首を振って俯き、他方の新入生は恋人だか想い人だかに
操を立てているので承服しかねるとのことだった。
 もともと廻し飲みは強制ではないし、去年も一昨年もいやがる娘はいたので、部員達の間に不穏な空
気はない。副部長などは自らの配慮不足を謝罪した程である。その後、茶会は恙無く終了したし、皆打
ち解けていたから問題らしい問題は無かったと云える。にも関わらず謝罪に訪れたと云うのはどういう
ことなのだろう?
「まさか他の人にも謝って廻ってるのか?」
「あ……いえ……」
 弐之宮霽は目を伏せた。
「先輩……だけです。先輩に、誤解されたくないから、謝らないとって思って……それで……」
 何故か真っ赤になって上目遣いで僕を見ている。
(誤解とは何だ?)
 廻し飲みのことなのだろうが、それをいやがると思われることが不利に働くとは思われない。
 ならば他に何かがあるのだろうか。
「私、先輩のなら、先輩の飲んだお茶碗なら……へ、平気、です。それを……伝えたくて……」
「…………」
 どう解釈すべきだろう。
 弐之宮霽の態度からは必死さと必死さ以上の何かを感じる。自然に判断を下すならば、まず『好意』
が考えられるが、僕と彼女に部活動の先輩後輩以外の接点はない。それに加えて彼女は新入生である。
つまり、共有した時間そのものが不足しているのだが。
「あら? お客さん?」
 柔らかくすましたような声がした。
 振り返れば奴がいる。
 優雅で優美な微笑を浮かべた僕の妹が。
(何が『お客さん?』だ。チャイムを一緒に聞いてたくせに)
 完全に『業務用』の笑みを浮かべた霙は、さも今気付いたかのように玄関にやってきた。
 大方僕の戻りが遅いから様子を見に来たのだろう。或は最初から成り行きを見守っていたのかも知れ
ない。
 妹の顔には先程までの不機嫌さも子供っぽさも見られない。消滅したのではなく、遮蔽することが抜
群に上手いのだ。第一本当に来客に興味がないのならば、このズボラな妹が自分から出てくるはずがな
い。
 しかしそれを知るのは兄である僕だけだ。上品で色気のある微笑は余裕ある女の姿そのものだが、
『作りもの』と見破るのは不可能だろう。
 弐之宮霽は案の定、突然現れた妹の顔と知己の先輩を見やっている。戸惑っているのは明白で少し気
の毒になるが小動物的で可愛くもある。
「あ、あの……先輩、こちらのかたは?」
「ああ、こいつは――」
 妹だ、と云おうとした僕を遮って、霙は腕を絡めてくる。艶めかしい所作だ。少なくとも、兄妹間で
するような仕草ではない。
「初めまして。妻の霙です」
 ふふ、と邪気無く笑ってみせる。否、邪気はある。巧妙に遮蔽されているだけだ。
「え――? 奥、さん……?」
 弐之宮霽は打ち棄てられた子犬のような瞳で僕を見る。ショックを受けているのは一目瞭然だが、
一寸待って欲しい。ショックを受けているのはこちらの方だ。
 妹の虚言もさることながら中学三年生の言葉を真に受ける高校一年生もどうかと思う。
(どこから突っ込めば良いんだか……)
 思案している僕を他所に、霙は身体全体で撓垂れ掛かって来て、甘えるような声を出す。
「アナタが中中来てくれないか心配だったのよ?」
「何気色わる……」
 いこと云ってんだ? と云おうとした僕は激痛で沈黙した。
(抓ってきやがった……)
 これは『黙れ』の合図だ。逆らうと大変なことになるので素直に従う。兄の屈服に満足したのか、
ふふふと笑うと余裕のある笑みで弐之宮霽に向き直る。
「それでお客様、あたしの夫にどの様な用件が?」
「ぅ……ぁ……ぅ……」
 後輩はもう殆ど泣き顔になっている。狼狽が過ぎて呻吟するのみだ。けれど今は説明するつもりは無
い。と云うよりも出来ない。霙が僕に絡まっている限り横槍が入っておしまいなのは火を見るよりも明
らかだから。


550 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:18:48.74 ID:CsWxnXIW (10/12)
(済まんなぁ弐之宮……。明日学校で説明するよ……)
 心の中で合掌した。
「わ、私……私……うぅうぅ……ッ」
 小柄な少女は何も云えず、闇の彼方へ掛け去った。追い掛けようとも思ったが、僕を掴む妹の力は思
いの外強力で、結局その機を逃してしまった。
「さて、兄さん。釈明があれば聞くけれど?」
「それは俺の科白だ」
 いきなり何を云い出すのかと問うと、霙は「妹の心得第六条読誦」と冷たい瞳で呟いた。
 云いたいことは山程あるが、読誦を断ると話がややこしい方へ拗れるので、不承不承読み上げる。
「……若い女を見たら悪人と思え……」
「そう。あれはどう見ても悪い虫でしょう? 天保銭の様だけれど」
 天保銭とは悪口のひとつである。天保年間に真鍮製の百文銭が作られたが、品質の問題から市場では
八十文としてしか通用しなかった。百文には「少し足りない」。故に「少し足りない人」を指して天保
銭と云う。つまり騙した自覚はあるらしい。「妻」発言は方便で、本気で云った訳ではないようで、そ
の意味では安心した。
「正式に『妻』を名乗るのは式を挙げてからにしようと思っているの。今はまあ、『内縁の妻』と云う
ところね」
「ま、待て! 何でそうなる」
「兄さんはあたしに永遠を誓った。死ぬまで、ううん、死んでも共にある永遠のパートナーであると。
つまりは、妻でしょう?」
(こいつ……矢っ張り都合良く解釈してやがった……!)
 愛の告白(キス付き)で言質を取られた憶えはなかったが、妹の方は強引に誓いと契りと云う事にし
たようである。
 ここでその思い違いを打ち砕いておかねば、本当に挙式させられかねない。
「あのなぁ霙、俺は……」
「兄さん? 釈明が先でしょう? あの娘は、何?」
「ぐ……ぅ……」
 迫力で押し切られた。貫禄が違う。こういう手合いに演繹された理屈のみで抗し得る事が出来るだろ
うか。全方位・全会話を叩き伏せてからでないと、あの話まで持って往けない気がする……。
 仕方なく応じることにする。今日の茶会の面子であり、騒動の発端となった廻し飲みの拒否をした後
輩なのだと説明した。
「そう」
 大きな猫のような瞳が僅かに細くなる。


551 :黜陟幽明・六面体 ◆UHh3YBA8aM [sage] :2011/11/13(日) 13:23:08.25 ID:CsWxnXIW (11/12)
「あの娘が……あたしの兄さんと間接キスしようとした夫泥棒……」
 自分のカンは当たっていた、とでも云いたげな口調であった。
(と云うか、夫泥棒って何だそりゃ)
「いいわ。彼女には明日、あたしの方から話をしておくから」
「待て待て待て待て! お前が出張ったら余計話が混乱するだろ!」
 第一、何を云い出すか判ったものではない。
「混乱なんて起こらない。『人のものには手を出すな』と云う極極当たり前の話をするだけだもの」
「……俺がいつお前のものになった?」
「この世界が出来る前からに決まっているでしょう?」
「神が定めたとでも云う気かよ」
「神様なんかに口出しされる憶えはない。あたしが決めたの。生まれる前から兄さんはあたしだけのも
のだって!」
 どうして自信満満にそんな事が云えるのか。
 僕は言葉を失った。その様子をまたも都合良く論破完了と思い込んだらしい。妹は冷たい瞳と柔らか
な微笑を浮かべながら、六面体を突き出した。
「色色云いたいこともあるし、聞きたいこともあるけれど、まずは賞罰を明らかにしないとね」
 転がせ、と云う事らしい。
 紆余曲折あって、僕はまたこの場面に『戻って』来たわけだ。
 振ることに、戻って。
(俺自身と弐之宮が酷い目に遭いませんように……)
 ただひとつの言葉すら発せずに、八百万の神様達に祈るだけ。
 諦めにも似た感情の中で、僕は『中辛』を天高く放り投げた。
 つまりは。
 つまりは、

 振り出しに、戻る。

                                      〈了〉

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最終更新:2011年11月18日 13:28
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