749 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 02:55:02 ID:oTHJ5H6B
深淵のように広がる闇。
月と星々だけに照らされるもの達が伸ばす、沈み込むような色濃い影の枝葉。
慣れた夜目でさえ10m先を見渡せないような厚い帳の下りる暗い夜。
漆黒よりなお黒く、
汚泥の水底よりも暗い意志だけを篝火と燃やしながら、私は『蛾』を解体していた。
抉る音。引き裂く音。突き刺す音。叩き砕く音。
思い付く限りの色々な方法で刃を『蛾』に叩き込み、様々な音を引き出す。
そのどれもが耳に心地良いとは言い難い。
いや。
はっきりと言えば耳が腐り落ちそうな程に醜い。
やはり素材が悪いのか。
そう考え、私は半瞬で自己の判断を肯定した。
悪いに決まっている。
この『蛾』は考え得る限りの最悪なのだから。
最悪の罪悪を犯し、最大の禁忌を破った。
それが、今この瞬間にも私が裁き続けている存在。私の握る刃に捌かれ続けている存在。
「────────」
赤く濡れた手で前髪を払って額を拭い、一息ついてからそれを見遣る。
私の腕よりも太いピンで地上へと縫い付けられた、羽のない『蛾』。実に良い様だ。
イカロス、という人物の話がある。
蝋で作った偽物の翼を背に、空を飛んだ者。
だが飛んでいる最中に太陽に近付きすぎた愚者は憐れ、粗悪な翼を溶かされて地に落ち、死んだという。
この『蛾』も似たようなモノだ。
いや、罪の重さを考えればそれ以上か。
夜に飛び回る羽虫、特に『蛾』には光に惹かれる性質がある。
それを利用して捕殺する誘蛾灯という物まであるくらいだ。
実に愚かである。
近付かなければ死なずに済むのに、
仲間が既に殺されているのを見ているのに、それでも『蛾』は暗闇の中で光を目指すのだ。
闇の中で燃える灯火の光を。辿り着けば羽を焼かれ、地に落とされる炎の光を。
憐れ。いや、滑稽か。
手に入らないモノに焦がれ、そして近付き過ぎて本当に焼かれてしまう。
この『蛾』も同じだ。
あの、世界で唯一にして至上の光に分不相応にも惹かれ、今はこの様。
四枚の羽は焼かれてもがれ、地に落とされて死んでいる。
腹に大穴を開けて縫い付けるピンは、万一にも逃がさないために私が打ち込んだ。
あの時の醜悪な鳴き声は忘れない。まさしく人の言葉ではなかった。
甲高くそれでいて罅割れたような金切り声を上げ、羽の残滓と頭をばたつかせて逃げようとする。
だが羽のない『蛾』など蟻にさえ食われる運命だ。這うことさえ碌に出来ない。
まして人間の私が直々に刺してやったピンを抜くことなど不可能。
気持ちの悪い蠕動を繰りかえし、汚らしい体液を垂れ流す。
汚物さえ混じるそれはひどく周囲を汚し、観察中なのに私が思わず数歩も離れた程。
びくびくと背を反らせ、そのせいで頭を打ちつけ、腹の神経を擦って更なる激痛にのたうつ。
羽を失った『蛾』─────いや、飛べないそれは既に『蟲』だ。
『蟲』の蠢きはとても長く、それこそ私が飽きを通り越して呆れる程の生き汚さで続けられた。
最期の最後、絶望して死んでいく瞬間まで無様にも私に助けを求めながら。
ああ。
そう言えば、あの時だけは本当にすっとした。
愚かで矮小で碌な知能も持たない存在を、必死に足掻く様を見届けてから一片の慈悲も与えずに殺す。
圧倒的な正しさで、徹底的に悪を裁き、その身を捌く。
あの人のために、あの人を害虫から守るために、あの人の傍に居続けるために。
それは何と甘美なのだろう。
750 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 02:56:42 ID:oTHJ5H6B
癖に、なるかもしれない。
夜気の冷たさではなく、粘りつくような熱さが身を震わせる。
堪らない感覚が全身を走り抜けた。知らず、衝動に身を任せそうになる。
だけど今はだめだ。今は先にやることがある。
「『蟲』は、きちんと念入りに潰しておかないと」
私は埋没していた意識を浮上させた。
打ち込んだピンを引き抜いて脇に転がし、右手に握るモノを両手で逆手に握り直してゆっくりと振りかぶる。
真っ直ぐに。真っ直ぐに。
曲げず、揺らさず、大罪を犯した『蟲』を正面から断罪するために。
弦を引くように張り詰める力と震えを押さえ込む。
「────────は」
開放は、一息。
抑制を解かれた力を刃先に乗せて、深く強く突き立てる。
「はは」
より深く。より強く。
銀光の軌跡に追うように丸まった背を更に曲げ、体重をかけながら突き込んで行く。
固い感触に阻まれると、柄を捻って死肉を抉りながら引き裂く。一本、『蟲』の死骸に断裂が刻まれた。
「あはははっ」
繰り返し。繰り返し。繰り返し。
振り上げ、振り下ろし、突き立て、押し込み、抉り、引き斬り、抜き去る。
一本、また一本と『蟲』の肉体には線が増え、その数だけ裂かれて解体されていく。
細かく、小さく、無数の欠片に。
段々と『蟲』の原型が消えて行く。徐々に『蟲』の存在を否定する。
気持ちがいい。
「あはははははははははははっ! あはっははははあははははははははははははははははははははっ!!」
胸部を突き、股下まで切り開く。醜悪な脂肪塊が露出した。
指を突っ込んで掻き回し、掴み出して握り潰す。
臓物を握り、引き摺り出して切り刻む。
血管に五指を絡め、手繰り寄せて引き千切る。
手を突き入れ、掴み出して放り投げ。
五指を突き立て、握り出して取り払い。
少しずつ、着実に『蟲』の中身を減らしていく。
ピン────わざわざ用意した杭────の開けた穴も両手を突っ込んで左右に裂き開かせ、内部を掻き出す。
だがまだだ。まだ確実じゃない。
「死ね、死ね死ね死ね死ね死ねっ!」
卵だ。
『蟲』の卵が見付からない。幼虫も見ない。
生物の中には体内に子を隠すモノがいる。
人間もそうだ。子を口の中に隠す魚だか蛙だかも見たことがある。
ならば、『蟲』を殺しても安心は出来ない。
どこかに卵や幼虫を隠していないだろうか。
臓物の中に卵はないか? 血管や骨の中にミミズのような幼虫は?
胃や目玉の中に蜂の子のような幼虫は? 腸や耳の奥に寄生虫染みた子はいないか?
突き刺し、掻き出し、探り出す。そして破壊、破壊、破壊。手を緩めたりはしない。
害虫は一匹いれば百匹いる。安心など到底出来ない。
『蟲』を殺すだけでは駄目なのだ。その痕跡や欠片も徹底して消し去らねば。
751 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 02:57:33 ID:oTHJ5H6B
そうだ。
この『蟲』の親兄弟、可能なら同じ血筋のモノも一匹残らず殺し尽くさねばならない。
『蟲』の家族は『蟲』。『蟲』の親戚も『蟲』。
こんなクソ『蟲』を産み出して世に放った罪は、血筋のモノの命全てで償わせてなお余る。
だが、それは難しい。
この『蟲』には昆虫の分際で殺虫剤が効かないのだ。
だから一匹一匹、私自身の手で潰さねばならない。それは面倒以上に困難だ。
時間も手間もかかり過ぎる。それだけの間、あの人の傍を離れるなんて。
私には到底無理だ。それが残念極まりない。
「兄さんの笑顔を見て兄さんの笑い声を聞いて兄さんの汗の匂いを嗅いで兄さんの肌に触れて
兄さんに醜悪な顔を見せて兄さんに不快な声を聞かせて兄さんにくさい臭いを嗅がせて兄さんに汚い肌を触らせて
兄さんの隣を歩いて兄さんに腕を絡めて兄さんの優しさに甘えて兄さんの寛大さに付け込んで
私の居場所に侵入して私の蜜月に割り込んで私の兄さんに集って私の兄さんに手を出して
あまつさえ『蟲』の分際で兄さんと交わって────────そして兄さんを汚したことを。
誰よりも優しい兄さんを誰よりも神聖な兄さんを誰よりも私の愛する兄さんを汚したことを。
償え、償え、償え償え償え償え償え償え償え償え償ええぇぇぇーーーっっ!!」
だから、なおのことこの『蟲』は此処で念入りに潰さねばならない。
あるかもしれない卵が孵化せぬように。
いるかもしれない、あの人の精を吸って産まれた呪うべき幼虫を生かさぬように。
その思いが私を駆り立てる。
相手が既に死体であろうと関係はない。僅かでもこの『蟲』には無残な死に様を与えなければ。
それに、この『蟲』のことだから魂になっても生き汚く自分の死体に縋り付いてるかも。
そう思うと作業にも一層熱が篭る。
肉を臓物を骨を切り裂いて切り刻んで切り砕く。
「はぁっ・・・はぁ・・・・・・はあぁっ!」
弔ってもらえる様な骸なんて残さない。
この『蟲』は死んだことさえ気付かれず、醜悪極まりない死体を晒して朽ち果てるのだ。
見付かったところで、悼んでもらえるような状態で残すものか。
正視に堪えない、見るだけで吐くような気持ちの悪い腐肉にしてやる。
私は誓いながら渾身で刃を振り上げて。
「何を────────して、るんだ?」
声が聞こえ、其処は私にとって闇ではなくなった。
淀んだ空気が晴れ渡り、暗闇に一筋の光が差したようにさえ思える。
間違うはずが無い。
何を忘れてもその声だけは忘れない。どんな雑踏の中でも聞き分けられる。
私がこの世界で、唯一人だけ身と心を捧げる愛しい人。
光よりも輝かしく、清流よりも清らかで、どんなモノより不可欠な、何よりも誰よりも大切な人。
私がその隣に生を受けた時。
誕生の瞬間から未来永劫までを共に歩く想い人の、声。
「今晩は、兄さん。今夜は良い夜ですね」
夜気を伝い、私へと届いた涼やかな声の方へと。
闇の中で出来るだけ美しく、月光を浴びて可能な限り淑やかに、星明りを受けて思い付く限り艶やかに。
私は振り返り、挨拶をして微笑んだ。
目線の先には視界に薄く浮かぶ、誰よりも見慣れた人の輪郭。
反転と同時に一つ、私は影へ向けて足音を響かせる。
752 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 02:59:06 ID:oTHJ5H6B
「良い夜には、良い別れを。
良い夜には、良い出会いを────────なんて、兄さんはお嫌いでしたか?」
兄さん。私の兄さん。私だけの兄さん。
私より先にこの世に生を受け、私の誕生を待ち侘び、見守ってくれた人。
いつだって私を護り、最も傍に居続けてくれた人。
時には導き、時には叱ることで私を育て、
誰より長く私を愛し、誰より永く私が愛する唯一の男性。
最も近い異性。最も似ている他人。
身を流れる血さえも同じくする、生まれた時からの絆で結ばれた相手。
「ふふ。
たとえ一瞬でも兄さんの傍を離れるのは辛いですけど、こうして再会する喜びは格別ですね」
一歩毎に、その姿が鮮明になる。
一瞬毎に、その姿が克明になる。
胸の高鳴り。頬の火照り。夜気に混じって漂う芳しい香。夜気を伝って聞こえる荒れた息遣いの音。
待ち遠しい数秒先までの間に、待ち焦がれるその存在が強くなっていく。
「そうは思いませんか? 兄さん」
夜気を裂く足音。地を踏みしめる足裏。
余りの期待に引き伸ばされたような時間の終わり、私は最愛の人の前に立った。
「あはっ♪」
狂乱のような喜びが、乱舞しそうになる楽しさが、
快楽染みた嬉しさが、募り過ぎる恋しさが、全身を満たす愛しさが、つい喉をついて出る。
きっと、私ははしたない笑みを浮べてしまったのだろう。
一応は自制を試みるが、兄さんへの想いを抑える術を私は持たなかった。
「────・・・・・・お前、此処で何を。いやそれよりも」
「っ」
兄さんに名前を呼ばれた。ただそれだけのことで、背筋が痺れる。
『蟲』の処理をするうち、その先に待つ兄さんとの未来を思い浮かべて興奮してしまったせいだろうか。
体か昂ぶって敏感になっているようだ。
兄さんに名前を呼ばれる声に打たれ、微かに全身が跳ね上がる。
其処を中心にして広がるように歓喜が走り抜け、血中にさえ溶け込んで体中を包まれた。
今度は声を抑えることに成功する。だが。
「その、格好」
「え・・・ああ。すいません兄さん、こんな姿で」
しまったと思い、反射的に顔が赤らむ。
ひどく恥かしい。
だって、今の私の体は汚れている。
仕方が無かったとは言えあの『蟲』に触れ、その赤い体液が肌に服にべっとりと染み付いているのだ。
何て、はしたない。
こんなに汚れた状態では恥し過ぎて兄さんに顔向けできない。
753 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 03:01:39 ID:oTHJ5H6B
「お前、怪我を・・・? それとも・・・その包丁、まさかっ!」
ああ。なのに。
強烈に臭う『蟲』の肉片が体液がぶちまけられた暗闇の中で、兄さんの存在は余りにも綺麗だ。
存在だけで場が輝くようにさえ感じられる。
おそらくは私を心配する余りに走って来てくれたのだろう。
離れていても、汗だくの兄さんから溢れる喩えようもない甘やかな香が鼻腔を突く。それだけで果てそうだ。
胸の中で響く動悸の高鳴りを言葉に出来ない。
恍惚による肌の震えを抑え切れない。
焦がれる意識を冷静に保てない。
飢餓に鳴く子宮の疼きを止められない。
この身についた汚れを、兄さんで清めて欲しい。
「アイツに何かしたのかっ!?」
「ええ。兄さんに近付いたあの害虫なら解体・・・処理を」
その香り高い汗で鼻腔に残る『蟲』の臭いの残滓を忘れさせ、
その舌でねぶり唾液を塗して耳に残る醜悪な金切り声を洗い落とし、
その甘露のような白濁でこびり付く『蟲』の体液を塗り潰して欲しい。
雄雄しい男根で私を貫き、兄さんを守り通したご褒美を味わわせて欲しい。
「解体・・・? 処理・・・って、一体」
「? そのままの意味ですが?」
だめだ。
体の内側を舐める熱の火照りを抑えられない。
兄さんが欲しい。兄さんから与えられるモノが欲しい。兄さんの全てが欲しい。
兄さんの全身の汗を舐め取りたい。舌先で兄さんを味わいたい。
兄さんと唇を合わせ舌を絡め歯茎を洗ってあげるお返しに舌で受けた唾液で口内をすすぎ、堪能してから飲み込みたい。
兄さんに注がれるものを喉奥で感じ、胃の腑で受け止めて体の一部にしたい。
兄さんの目の横や鼻や耳の奥に溜まる汚れの蓄積を、
私にとっては兄さんに不要の場所なんかないんだと証明する為に口にしたい。
きっとあの『蟲』に迫られた心労のせいで生えているだろう白い髪や痛んだ髪を始め、
腕に脚に脇に胸にお尻に生えるあらゆる体毛と肌の隅々までを私の唇と舌と唾液で手入れさせて欲しい。
精嚢と膀胱と腸に溜め込んだあらゆる兄さんの排泄物を私にぶちまけて欲しい。
兄さんの猛りを兄さんの欲望を兄さんの喜びを私に受け止めさせ、共有させて欲しい。
「・・・し・・・たのか・・・?」
「・・・・・・え? あ、ああ、すいません兄さん。何ですか?」
いけないいけない。
声が小さかったせいもあるが、想像が先走りすぎて兄さんへの注意を怠ってしまった。それは駄目だ。
兄さん以外を優先するなんて、許されないことである。
兄さんのためにこそ、あの『蟲』も殺したのだから。
「まさかアイツを、殺したのかっ!」
「はい、そうですが。あの『蛾』、いいえ『蟲』でしたら、あそこに」
だから、どんなに当然のことでもちゃんと答えなくては。
今更のことだが改めてそう思い直し、背後を指差して兄さんへ『蟲』の死骸を示す。
欲望を宥め、渇望を堪え、衝動を抑えて。
754 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 03:02:37 ID:oTHJ5H6B
「え────────ひぃっ!?」
なのに。
おかしいですね、兄さん。
こんなにも兄さんを愛してる私が、兄さんのために汚れた体を慰めて欲しがっているのに。
兄さんの大好きなたった一人の妹が、どうしようもなく兄さんを求めているのに。
それでも耐えて、堪えて、兄さんを想って兄さんのために抑えているというのに。
「お、お前、あ、あ、あれ────────うぶっ」
何で、後ろに下がるんですか?
「ぐっ・・・うえぇ」
よろめくように後退った兄さんが口元を抑え、背を丸めた。
何かを堪えるように、微かに背が揺れる。
「に、兄さん!? 大丈夫ですか!」
「っう!」
流石に様子がおかしいので心配になって駆け寄ろうとしたが、近付いた分だけ兄さんが下がる。
「兄さん・・・?」
「はぁ・・・はぁ・・・はあ・・・」
困惑する私をどこかギラついた目で見詰めながら、肩を上下させる兄さん。
憔悴したような表情に不安を掻き立てられる。
おそらくは全力で走って来たせいで掻いた汗が夜気で冷え、体調を崩したのだろう。
ふと、
どうしようかと思い悩む私と裏腹に、口元を拭った兄さんが背を伸ばす。
ただ、ゆらりと表現できそうなその動作は、ひどく疲れているように見えた。
その肩が震える。
「・・・そ・・・だ・・・嘘だ・・・・・・嘘だ嘘だ嘘だっ!」
「兄さん? どうしたんですか?」
かと思うと兄さんは叫び出した。
急変を繰り返す兄さんに、私は一体どうしたのか理解出来ない。
私は誰よりも兄さんを知り、理解しているのにそれでも分からない。
それは許せないことで、怖いことだ。一気に先程の興奮が冷める。
兄さんがどうしてしまったのか分からないことに、泣きたくなるような気分に襲われた。
「にい、さん。一体、どうしたんですか? 教えて下さい。
万一、私のせいだったら土下座して謝りますからっ、だから────」
「嘘だっ! アイツが死ぬなんて・・・・・・これから、やっとこれからだったのに!」
755 名前:それは地に落つ誘蛾のように[sage] 投稿日:2007/06/13(水) 03:04:04 ID:oTHJ5H6B
「────ああ、そういうことですか」
だが、私の不安は杞憂に終わる。
やはり兄さんのことを最も理解し熟知しているのは私だ。
初めて見るパターンだったから上手く行かなかったが、もう判る。
兄さんは悲しんでいる。その原因も分かる。
兄さんは誰よりも優しいから。兄さんはあの害虫にさえ慈悲の心を抱き、その死を悼んでいるのだ。
兄さん自身が被害者であるというのに。
流石は兄さんである。まさに神の様な慈愛の深さだ。
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいね。兄さん」
けれど、それではいけない。
歩けば踏み潰しているような虫にまで心を痛めているようでは、この先、兄さんが持たないだろう。
でなくとも無用な悲しみを感じるだけである。
ならばどうするか。簡単だ。
兄さんのために生き、兄さんのために尽くすのが私の愛であり役目。
どんな害虫からも、悲しみからさえも可能な限り兄さんを護るのが務めだ。
兄さんの感じる様々な負の感情の軽減も、私のすべきことである。
非常に後ろ髪を引かれる思いで踵を返し、兄さんに背を向けて歩き出す。
足早に片道数秒を往復分。
私は荷物を抱えて兄さんの下へ戻った。
「ほら兄さん、これを見て下さい」
子宮────引きずり出して踏み潰してやった幼虫を産む器官────と共に、特に念入りに壊したそれ。
もはや残骸に近いモノをゆっくりと投げ渡す。
緩やかな放物線を描いたそれをしかし兄さんは受け取らず、足元に落ちた。
重さの分だけ鈍く、反面体液のぬめりで半端な音が響く。
ころころと転がったそれを、兄さんは呆けたような目で見ていた。
しまった、と思う。
幾ら優しい兄さんでも、あんな汚らしい物体など触りたがるはずがないのに。
「あ」
でも思惑だけは上手く行ったらしい。
兄さんの瞳に変化が起きたからだ。
将来に関してはともかく、今この場では兄さんの慈悲深さをどうこうすることは出来ない。
それも兄さんの魅力の一つなのだし。
なら、『蟲』の死にさえ悲しむ兄さんをどうするか。
悲しみを取り除けないなら、事前の策として出来るだけ早く悲しみを終わらせればいいのだ。
『蟲』は死んだのだと。生き返らない、もう戻らないのだと。
どうにも出来ない程に終わっているのだと理解してもらうことで、無駄に悲しみを引き摺るのを止めてもらう。
「ああ、あああ、ああああああ」
それが兄さんのためで、兄さんを想う私のためだ。
矛盾だが、その原因であると同時に役にも立った『蟲』のソレに感謝してもいい。
「ああああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーっっ!!」
少しでも早く終えるため、濃縮された分だけの悲しみに叫びを上げる兄さん。
その見詰める先。
突き刺され、抉られ、輪郭はそのままに原型だけを削り落とされた『蟲』の頭部。
顔面を破壊するうちに潰れ、血塗れた頭髪の一房を中の液体に浸している眼球だった物体。
かつて兄さんの『彼女』と戯言を言っていた雌のそれと、私は不思議に目が合った気がして笑いかけた。
分不相応にも兄さんという光に惹かれた『蛾』如きの死で泣いてもらえて良かったですね、と。
最終更新:2007年11月03日 04:46