桜の網 三話

49 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:25:25 ID:ukb3dXrw

 亜美と西園寺の当主との待ち合わせ場所に着いたとき、悠太は自分が汗びっしょりになっていることに気がついた。
 このまま西園寺の家の当主に顔を合わせるのはいささかまずい。
けれどそんなことを気にしている時間はないように思う。
 亜美は冷静でとても頭がいいから変なことはしていないだろうけれど、その冷静な亜美がこんな奇行にでたのだ。
心配ではある。早く行かないと。
 場所は喫茶店。
 西園寺財閥の人間とは言ってもこんな一般的なところにも来るのだなと思って、
その点については、悠太は自分の固定観念に悪意があったことに気づき、心の中で頭を下げた。
 店内は閑散としていた。従業員も数人で、なんだか古風な雰囲気もある。悠太はこういうシックで渋い店が好きだった。
店の中も狭すぎず広すぎず、とてもいい。
 悠太が店に入ってすぐ、亜美を見つけた。あの制服なのがそうだろう。対面している人が西園寺の当主だということは間違いない。
 けれど顔は丁度二人が座っている席の前の鉢に隠れて見えない。着ている服は、どうやらドレスのようだ。
悠太は、外国じゃないんだから、と思いつつ先ほどの観点も間違ってはいないのかもしれないと考え直した。
 二人の席に近づこうとするとまずウエイトレスがやってきた。悠太は彼女が言うより早く、待ち合わせをしていたと伝える。
ウエイトレスはそれを聞くとゆっくりと頭を下げ、席に案内をしてくれた。
 席の側までは距離が多少ある。
広いわけではないといっても、店の一番奥の壁際に座っていた二人までは少し遠い。まだ何を話しているのかはわからなかった。
 悠太は、案内してくれたウエイトレスにお礼を言う。
 するとその時、黒い服をした男たちがサングラスをかけて店外からこちらを見ているのに気づいた。
 西園寺の者達だろう。
 やはり、早く亜美を連れて帰らないといけない。
 悠太は先ほどよりも更に焦って、二人の席まで近づく。真後ろまで来たとき、空気が肌を突き刺した。



50 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:26:26 ID:ukb3dXrw

「……妹…」
「そう、妹です。私と兄さんは家族なのだから離れて暮らしているなどおかしいでしょう。兄さんには西園寺に戻っていただきます」
「………………」
「それに、これは彼女とはいえ他人である貴方には関係のない話でしょう」
「………」
 驚いたことは二つある。
 一つは西園寺の屋敷の当主がこの間目にした女の子だったこと。
屋敷の主、つまり屋敷にいる家族の娘、悠太はあの日そう思っていたから当主がいるはずの場面で彼女がいるとは考えていなかった。
主、つまり屋敷の住人。主の家族ではあるかもしれないが、彼女は当主ではないと思っていたのだ。
電話での応対も、すべて白石がやっていて声を聞いていなかったというのもある。
 しかし彼女がここにいる、ということは。
 彼女があの馬鹿でかい屋敷の当主…?
 とは言っても彼女は、まだ成人すらしていないし、きっと悠太よりも年下だ。おそらく亜美と同い年ぐらいだろう。
それなのに、あの西園寺の当主をしている。この若さでたいしたものだと思った。
 二つ目は、何と言ってもこの重苦しい空気だった。
二人が話しているこの席の周りの空気が歪にゆがんでいるかと思えるぐらいの空圧。
 もし絵で表せるなら、悠太は窓が破壊した絵と机が凹んでいる様を描くと思った。
それほどこの空間は異質で、よくよく意識すれば先ほどのウエイトレスや他の従業員もちらちらとこちらを見ていた。
 とは言ったものの、固まっている場合ではない。悠太は二人の側に行く。
まず始めに西園寺の家の当主である彼女に声をかけようとして止め、逡巡して亜美に話しかけた。
「こんなところで何しているんだよ、亜美」
 二人がいっせいにこちらを見る。
「……お兄ちゃん…」
「お兄ちゃん?」
 亜美は驚いていたが、もう一人の彼女は驚きよりも疑念が強そうだった。
「勝手なことしたらだめだろ。心配したじゃないか」
「……ごめんなさい…でも」
「わかっている。いい機会だから、このまま話を聞いていていいよ」
 どうせ、亜美には言わなければならなかったことで、もう亜美は悠太が家を出て行くことを知ってしまっている。
ならば、直接ここにいてもらったほうが話は早いだろう。



51 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:27:06 ID:ukb3dXrw

 悠太は亜美の横の席に座り、西園寺の当主へと向き直った。
「妹の粗相、お許しください。まだまだ幼いもので、罰は何なりと僕に」
 悠太はゆっくりと頭を下げる。そして真剣なまなざしで彼女を見つめた。
「初めまして。白石、悠太と申します。西園寺さんとお会いできて光栄に思います。
そして、いい機会ですから、明日の話し合いは今日ということにさせてもらえませんか。
その方がそちらのお時間もとらせないでしょうから」
「それは、かまいませんが」
「でしたら、話を始めましょう。単刀直入に言わせてもらいます。
なぜ西園寺さんは僕を一人息子などと称し、西園寺財閥に招こうとお考えなのですか」
「称すだなんて。だって兄さんはれっきとした西園寺の家の」
「誠に申し訳ありませんが、貴方に兄などとは言われたくはありません。
僕の妹は亜美だけです。そして家族の姓に西園寺などというものはない」
 悠太は予想していた。西園寺財閥の当主が一人息子として悠太を迎える。そこには何かしらの事情と理由があるのだろうということを。
 白石の言っていたことが本当で、悠太の両親が西園寺の家のものだったとしても、
悠太にとってはそんなものはゴミ屑よりも、もっと価値がなかった。
 西園寺が何をしてくれたって言うんだよ、赤ん坊の頃にボロ屋に放り込まれて、何も手助けなんてしてはくれなかったじゃないか。
白石さんがいなかったら、僕は今頃…。
 悠太の幼い頃に鮮やかな記憶はない。幼稚園では両親がいないことでいじめられ、小学校の低学年までは友人すらいなかった。
白石は悠太を励ましたが、このときまだ西園寺で働いていたので、ただ一人で悠太は孤独に耐えた。
それは、まだ幼い悠太にはずいぶんと酷だった。
 しばらくして、白石は少しばかりの金とともに西園寺の屋敷を辞め、悠太を育てることに時間を費やし始めた。
悠太はその甲斐あってなんとか前向きな男の子に育ち、友達も少しずつ出来るようになっていった。
悠太のこの白石に対する感謝の気持ちは、並大抵のものではない。
 余談だが、悠太が白石のことを『おじいちゃん』と呼ばないことと、白石が悠太のことを『悠太様』と呼ぶのは白石の判断で、
この子を立派にして見せるという強い心の現われだった。
悠太はそのことを残念がったが、名称などで家族の絆が切れるなどということはないと思い、何も言わなかった。
 亜美は白石が西園寺をやめるときに連れてきた子供で、
そしてやはり亜美も西園寺の父親の気まぐれによって出来た子供だった。
 悠太は一層、両親を憎んだ。



52 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:28:11 ID:ukb3dXrw

 だから今頃出てきて、一人息子などといって迎えるなどとお笑いにもなりはしない。
更に憎しみは増し、悠太を不快にさせるだけだった。
「ですが」
「家族のことはいいのです。僕が何を言っても、もう無駄でしょうから。行きますよ、西園寺に」
「お兄ちゃん」
 亜美は悠太の腕に抱きつく。顔は悠太の側まで接近していて、普段無愛想な彼女がこうしているのを見ると、彼女の必死さがよくわかった。
 けれど悠太は、引かない。
「亜美は心配しなくていい。離れていても僕たちは家族だから」
「…でも、私は…」
 亜美からすれば、家族という絆よりも悠太の側を離れることが嫌で、
ある意味悠太の近くにいられるならば絆がなくなってもかまいはしなかった。
それにそんなものなくなってしまったほうが、本当の家族に、慣れるというものである。もちろんいつかはなるつもりだが。
 ともかくも、悠太は亜美の想いを知らないのだからここは譲れない。
このゴミ虫を早くすり潰して私たちの幸せを取り戻さないといけなかった。
今、悠太さえいなければ鞄の中に入れておいた二本の包丁で串刺しにしてやるところだ。グサグサと、何回も。
「……」
 亜美はせめて西園寺の当主をにらみつけてやろうと思って、彼女を見た。
「そういうことですので、西園寺さん。その代わり、白石さんと亜美の生活の保」
 続いて悠太も彼女を再度見て話し始めたが、その後の言葉をいうことができなかった。
 対面した彼女の瞳からとめどなく涙が流れている。
頬を濡らした滴はぽたぽたとテーブルに落ちる。美人の彼女が泣くと、男にこれ以上ないほど罪悪感を与えるには十分だった。
店内の空気が更に重くなる。
「桜です。私の名前は、桜です。兄さん、貴方には西園寺さんなんて言ってほしくない」
 悲痛な叫び。桜は口に手を当て嗚咽をこぼす。
「兄さんも、貴方も、私を裏切るのですか」
 桜の瞳はただ切に悠太を見据える。



53 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:29:22 ID:ukb3dXrw

 仮に、と悠太は思った。
 今彼女が十六歳だとして、ここまでどれほどの苦労をしてきたのだろう。
まだ、高校生の彼女。
自分は高校三年生の現在まで高校生活は十分に楽しんだけれど、彼女はおそらく今までもこれからも楽しむなど、できはしないはず。
 当主、というのはただ屋敷の頭目というわけではない。
その地位にあるからには、屋敷自体の運営はもちろん、多少は会社のことも知らなければならない。
そして行えば、仕事もしなければならない。西園寺財閥。その仕事の量は生半可なものではないだろう。
仕事を識れば、人間関係の醜さは簡単に浮き彫りになる。
それは仕事関係から屋敷にいる使用人まで。なぜ雇われたのか何をしようとしているのか。
加えて桜は高校生の当主という普通からは考えられないもので、見方を変えればこれ以上頼りないものもない。
 重圧、嘲笑、侮蔑、…裏切り。
まだ少女とさえいえる目の前の彼女は、その中でたった一人だったのだ。
 なぜ若い彼女が当主になっているのかはわからなかったが、孤独というものを悠太は知っている。
 そしてそのつらさを与えたのが、桜の話が本当で、悠太が桜の兄だったなら、それは悠太が与えたものとも言えるのではないだろうか。
もちろん意図的ではないにせよ、彼女を一人にしたという事実は変わらない。
捨てた両親のように、悠太は、桜という妹を見なかったと言えなくもない。
白石に亜美以外の兄妹がいるかどうかなど聞いたことはなかったのだから。
 飛躍しすぎだとも思う。
けれど、悠太からすれば捨てるという事実は無視できないもので、そのことを認識すればするほど桜のことが他人のようには思えなくなっていた。
「ごめん…。こっちも一方的に話して、悪かったよ。桜」
 桜が涙を拭く。顔がほころんだ。今日始めて見る桜の笑顔だった。
「順番に話そう。まず、僕が君の兄だと思うのは何でなのかな。聞かせてほしい」



54 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:30:00 ID:ukb3dXrw

 それからの話は、先ほどよりも穏やかになった。
 悠太が桜の実の兄であるということに間違いはないらしい。少し前にDNA鑑定までしたと桜が言う。
「でも、DNAの検査って僕自身が病院とかに行かないといけないんじゃ」
「ああ、兄さんの血液なら、買いました」
 どうやって、と聞くことは出来ないので曖昧に笑っておいた。さすが西園寺というところか。
「なんで、僕を西園寺に?桜には悪いけれど、僕は両親のことがあまり好きじゃないんだ」
「兄さんの言いたいことは、わかります。私もあの人のことは嫌いですから」
「だったらなんで」
「でもやはり、私と兄さんは家族なのですから、離れ離れになるのはおかしいでしょう。兄妹はいつも一緒にあるべきだと思うのです」
 なるほど、桜は家族だから一緒に暮らしたいということか。
まだ高校生で、幼い頃から家族と暮らしたことがない彼女の言い分はよくわかる。
 悠太も家族はいつか離れ離れになってしまうものかもしれないけれど、このような不当に引き離されるのはおかしいと思うし、
出来るならかなえてあげたい願いでもある。けれど、
「……」
 亜美も家族だ。腹違いとはいえ立派な。
「なら桜、亜美と白石さんも西園寺に住ませて貰えないかな。亜美だって立派な妹で家族なんだから」
 亜美はそこで、嫌な考えが頭についた。
もしかすると、この桜という女はすでにわかっているはずなのに騙されたままでいるのではないかと思ったのだ。
「妹?」
 案の定、桜は亜美のほうを不思議そうに見る。
「でもこの子、電話では兄さんのこと彼氏だって言っていましたよ」
「え?いやいや、そんなわけないよ。亜美はただの妹。僕に彼女なんていないし」
「そうだったんですか。…それはそれは」
 桜は愉快そうに亜美に向かって目を褒める。
口に手を当てた様がいちいち亜美の神経を逆撫でした。
悠太にしがみついている手を片方はずし、鞄の中に伸びる。



55 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:30:43 ID:ukb3dXrw

 わざとだ。
亜美の事を彼女ではないのかと聞いたのは意図的なもの。
そうすることで、亜美が嘘をついたということと、悠太の口からそうではない、ただの妹ということが聞きたかったのだ。
事実を突きつけてやりたかったのと悠太に対する僅かな不信感を抱かせるためだろう。
「でも、兄さん。亜美さんと白石も一緒に、というのは聞けないお願いになります」
「どうして」
「白石は西園寺の執事を一度辞めました。兄さんは知らないかもしれませんが、それは思いのほか無理を通したものです。
つまり皆の印象は、横暴に逃げたというあまりいいものありません。
いくら私が当主といっても、屋敷に住んでいる者がすべて信用できるものとは限りません。
よって白石は戻ってはこられない。そうすると」
「……白石さんが一人になるのか」
 悠太は頭を悩ませた。亜美はもちろん大事でかけがえのない家族ではあるが、白石もまた同じように大切な家族だ。
 悠太にとって白石を一人であの家においていくというのは考えられないもの。
もう八十近い老人ということもある。後から何かあったでは、後悔してもしきれない。
 育ててくれた恩。決して忘れはしないし、何よりも悠太は白石がいたからここまで生きてこられたのだ。
そんな白石をボロ屋に一人置き去りにすることなど。
 できない。
 ならば、亜美がいればどうだろう。白石は大丈夫だ。亜美は多少無口で料理が出来ないが、不器用だということはない。
むしろ頭もよく、出来ないことのほうが少ないだろう。
それに料理ぐらいなら何とでもなる。口も無口ではあるが喋れないというものじゃない。
 ただそれは、亜美を置いていくということ。それでは、桜にしたことに対して何も変わらないのでは。



56 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:31:28 ID:ukb3dXrw

「兄さん、なら期限をつけて家に来てもらえませんか」
「どういうこと」
「今は五月ですから、そうですね、夏休みが終わるまでは家に住んで、それからまたどうするか考える、ということです。
これで、二人を置いていくことにはならないでしょう」
 桜の提案は、とても助かるものだった。これならば亜美を置いていくことにはならない。
悠太は喜んで頼んだ。
「うん。そうしよう」
「……だめ」
 亜美がコアラのように悠太にしがみつく。鞄に伸びた手は再び悠太の腕へと戻った。
桜は悠太にはわからない程度に亜美を睨み付ける。
「私は…お兄ちゃんと一緒が………いい」
「亜美、でも桜は今まで一人だったんだ。少しぐらい家族として側にいてあげてもいいだろ。たった三ヶ月ちょっとだよ」
「……いや……や」
「でも」
「絶対……い…や、…痛!」
 唐突に亜美が声を荒げる。
「どうしたの」
「なんでも………ない」
 顔をしかめる亜美は桜の方に向き直る。
 このとき悠太が、もう少し亜美の足が見える位置に座っていれば気づいたかもしれない。
テーブルの下では桜が思い切り亜美の靴をふんづけていた。
しかも都合よく小指辺りをぐりぐりと。まるで男がタバコを足でもみ消すように。
 間髪いれずに亜美も、空いている足で踏みつけてやろうとしたが桜はひらりと上体には身動き一つ出さないで避けた。
 ―――この糞虫
 こうなったら兄に言いつけてやろうと思って声を出すが、足にひんやりと新たな感触があった。
 亜美は言いよどむ。それが何であるかわかっているから。
 ………刃物。
 テーブルの下では桜が側に立てかけてあった日傘で、亜美の右足にぴたり狙いをあわせていた。
狙いをあわせる、というのは間違っていない。
桜の持っている日傘の先には直径一センチにもなる針が埋め込まれていたから。
横に引いても縦に裂いても血が噴出すだろう。突かれれば風穴こそ空かないが、一生消えない傷くらいは出来る。
 自分の体の一部に一生ものの傷が出来る。それは亜美からすれば避けなければならないものだった。
いずれ最愛の人に、悠太に見せる体だ。大きな傷があっては、悠太も興ざめだろう。それは絶対に避けなければならない。
「………………………わかった」
 渋々ながらも頷く。



57 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:32:29 ID:ukb3dXrw

 亜美はもし今悠太がいなければ、どうやってこの虫を度殺したら一番苦しませることが出来るだろうと考えていた。
刺殺、殴殺、轢殺。どれがいいだろうか。どれも虫にはお似合いで、私たちの生活の邪魔をするなら、どれも生ぬるくすらある。
 だから、せめて一矢報いようと、亜美が頷いたと同時に桜が日傘を元に戻した瞬間、包丁のほかに鉄板の入った鞄で、
悠太には見えないように桜の脛を出来る限り加減なく殴った。
 桜は口がひくひくとしていたが、声に出すことはなかった。
「ありがとう、亜美」
 悠太はテーブルの下の攻防と相反して、にっこりと微笑む。続いて亜美の頭を優しくなでた。
 桜はそれを見て、がきりと歯噛みしたが悠太の耳には届かなかった。
「話もまとまったことです。帰りましょう、兄さん」
 桜が立ち上がった。先ほどの痛みは微塵も顔に出さない。悠太は桜の言ったことに驚いて聞き返した。亜美が更に悠太の腕に抱きつく力を強める。
「え、今から?」
「当然です。三ヶ月しかないのですから、一秒でも惜しいわ。
安心して兄さん、亜美さんと白石の生活のことについては、しばらく困らない程度にはお金を用意しておきますから」
 そのことに関しては、安心する。が、いくらなんでも急すぎる準備期間ぐらいはほしかった。
桜からすれば、それすら時間が惜しいということなのだろうが。せめて、白石には訳を説明したい。
「荷物ぐらい取りに行かせてよ」
「物なら言ってくださればすべて私が用意いたしますわ。白石には亜美さんに伝えてもらえばいいでしょう」
「いや、でもそれは」
「…いきなり私と一緒になるのには、抵抗がありますか?」
 今度は亜美の心が煮えくり返る番だった。
 こいつ、またわざとこんな言い方を…。
 女の涙は何よりも強いとはよく言ったものだが、同じ女からすれば浅ましいことこの上ない。
しかも亜美の予想が正しければ、桜はこういえば悠太が了解してくれるだろうという算段を計ってのものだった。
 つまり、嘘泣き。
「そうですよね…、私みたいな女がいきなり妹だなんていわれても困りますよね…」
「あ、いや、そんなことは」


58 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:36:33 ID:ukb3dXrw

 こうなると先ほどの涙も嘘だったのではないかと亜美には思えてくる。
嗚咽すらだしていたので本当に泣いていたのだとは思うが、この女ならやりかねない。
悠太はあれで何かしらの感情移入があったらしいが、亜美からしたら滑稽でしかなかった。
 裏切る?人生裏切られたことのない人などいないのだ。それをおめおめと語るなど、まして泣きつくなど、汚らしいにも限度がある。
 そんなことすら理解できていない虫に一時的とはいえ、兄が取られるなんて。
 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい
 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい
「わかったよ、今から行こう。でも後から電話ぐらいはさせてほしい。それぐらいはいいよね」
「ええ、もちろん」
 なら、と悠太が席を立つ。名残惜しそうに亜美も手を解いた。
「亜美、これからしばらくお別れになるかもしれないけれど、我慢できるよね。
って、こんな言い方、兄馬鹿すぎかな。どっちにしても家事とかいろいろ大変だろうけどお互い頑張ろう」
「…………でも」
「大丈夫だよ。亜美は何でも出来る天才なんだから。三ヶ月の辛抱だ」
 何でも出来る天才。料理のことは除いているのだろうが、その評価は多少の間違いも混じる。
 悠太がいたから、悠太が見ているから、失敗しないようにといつも心がけていたのだ。
その悠太がいなければ、何でも出来るなど、ありえるはずもない。もうその評価が邪魔ですらある。
 でもここで、子供のように泣き叫んで駄々をこねるなどできはしなかった。この女の手前もある。
 亜美に残された道一つしかなかった。道は針穴のように小さく、選択権はない。
「………なら、約束………して……三ヶ月たったら……迎えに来るって」
「あはは。大げさだな、亜美は。三ヶ月の間にも何回かは様子を見に行ったりもするからそんなに構えなくてもいいんだよ」
「いいから……して」
「だからそこまで」
「して!」
 生まれて初めて亜美の声を荒げる様を見た悠太は、やはりこれほどに家族がいなくなるというのは寂しいものなのだなと思い、真剣な顔で了承した。
 桜は目を弓のように細めて悠太たちを見ている。



59 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/16(木) 09:37:20 ID:ukb3dXrw

「信じて……るから……もし、迎えに来なかったら…」
「来なかったら?」
「……………秘密」
 亜美は口をわずかに上げる。笑っている、いや微笑んでいるのだ。
悠太は亜美のこんな顔を久方ぶりに見たことがなかった。それだけにこの約束の固さも増す。
心の中で、絶対に守ってやろうと思った。
「では行きましょう、兄さん」
 それから二人が出て行こうとする。
 桜と亜美の視線が絡まった。
そして、桜は悠太に見えないようにうっすらと微笑んだ。
亜美は見逃さなかったが、悠太は気づくことすら出来ない。
桜は亜美に向かって更に笑う。そして声は出さず、口だけで言葉をあらわした。
『―――兄さんの妹は、私。貴方は帰って老人とでも戯れてなさい』
 思わず兄の前で、虫に包丁を突き立ててしまいそうだった。

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最終更新:2007年10月21日 00:44
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