桜の網 七話

397 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:51:25 ID:J8kpAOP6

 街灯に蛾が群れている。狂ったように彷徨しぐさはまるで、目的のない人間のよう。
 ただ身を焼くために中心へと群れる彼らは、何と愚かなのか。
 下には三人の人間。闇の世界を思わせる黒の中、一筋の光明の下に佇む。
 一人の瞳に映るのは、真っ赤な業火。射殺さんばかりの視線はただただ獲物を捕らえて離さない。
 片割れは動揺の色。一番の年長者たる彼が混乱していては示しがつかないだろうが、理由を知れば致し方ない。
 最後は余裕と不敵な狂気の笑み。闇には不釣合いなドレスは淡く、しかし強気に自分を誇る。
 閑散とした大地と周囲は、彼らの心の中とは滑稽なほどにアンバランスだ。
 数メートルしかない閉ざされた空間で初めに動き出したのは亜美。
 兄の手をしっかりと握り、忌む者には目もくれず歩き出す。
 強く、強く。
 反して悠太は、手を解くことが出来ないためか、あたかも引きずられているようについて行く。
 行く先は公園の出口。
 桜の肩越しに見える先。
 出口は暗くて見えづらいのに、桜の姿はいやにはっきり映る。
 そして距離が縮まり、ついにはなくなった。
 亜美と桜の肩が一直線に並ぶ。
 交錯する視線。
 睥睨。侮蔑。憤怒。激情。憎悪。殺意。――狂気。
 目は口ほどに物語る。
 が、亜美は感情を押さえ、無視をするかのように兄の手を引き通り過ぎた。


398 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:52:17 ID:J8kpAOP6

「待ちなさい」
 けれども透き通る声は、腹が煮えくり返るほどに耳に届いた。
 足はぴたりと機械のごとくに止まる。
「何」
 亜美は顔を顰めた。この女が発する音は根拠もなく不快に聞こえるからだ。
 素早く瞳に、ある感情を、精一杯に込めて振り向く。
「貴方がどこへ行こうと興味はありませんが、その人は置いていきなさい」
 虫が戯言をほざく。
 笑いをとろうとして妄言を吐いているのならば、ここで愛想の一つでもくれてやってもいいが、言葉は許容できるものでは到底ない。
「嫌」
 生理現象として気に入らない人というのは誰しも存在するものだが、
気に入らない人間に気に入らない言葉を諮れると、思わず殺してしまいたくなる。
真実、悠太がいなければ爪で喉を掻っ切ってやりたいところだ。 
「あら、なぜです」
 桜は平静と問う。それがなおのこと、腹が立ってたまらない。亜美は振り返っているのに、桜はそのまま背中から話しかけていた。
 暗い中に背中のドレスの白が、憎くも誇る。
「人を傷つけるような奴に、お兄ちゃんを任せることなんて出来ない」
「ああ、体の印のことね。あれは傷ではないのだけれど」
 桜が笑顔で振り返った。
 傷ではなく印。
そう楽観とのたまう彼女に、亜美はもう殺意がこらえ切れないほどになっていたが、持ち前の性格も幸いしてかろうじて押さえた。


399 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:52:58 ID:J8kpAOP6

 印。
 何のためだ、とは聞かなかった。
 どうせ害虫の考えるようなことだ。
大方、所有権の主張でもしたいのだろう。最愛の人に汚臭をつけるなど言語道断ではあるが、相手にすること自体が馬鹿らしい。
大体、兄の体をあのように痛々しく蚯蚓腫れにしておいて、何が印だ。
百歩譲って傷を何かに例えなければならないというのなら、鎖だと称してやりたい。兄は、この虫の玩具ではない。
私の最愛の人だ。
「――――」
 桜が奇妙にゆったりと振り返る。
 夜であるにもかかわらず、大きく開かれた日傘はくるくると機嫌がよさそうに回っていて、そのせいで目下が隠れる。
けれど、口元を見るにどうやら笑っているようだ。
 顔を顰める亜美の姿がおかしかったのか、桜は嫌味に思えるような気高さを含んだ動作でゆっくりと傘をたたんだ。
 不思議と、向こうにはすべてがわかっているような達観した動きのようだ。
「――羨ましい?」
 化け物だと、亜美は思った。
 それは強いとか適わないとかいった強さの優劣のことではなくて、単純に狂気が晒されている姿に感じたものだった。
 亜美は悠太の姿を視界の端に捉えながら、一歩だけ前に出る。
 対峙。
 通り過ぎた後にできていた距離はすでに一メートルほど。
もうここまで来ると、手を伸ばしさえすれば相手に触れられるほどの近さだと、言えなくもない。
 背格好は桜の方が拳一つ分ほど高いため、自然と見下ろしたような形になっていたが、亜美の見上げる視線は射抜くと、いや射殺すといっていい。
 桜はまだ微笑を崩さない。
 再び錯綜。


400 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:54:18 ID:J8kpAOP6

 愛――、それは気高く美しいもの。尊いものだ。
決して誰かに強要させるものではないし、不幸にさせるためのものではない。
 なのに、この虫は何も理解できてはいない。何と愚か。もはや、醜い。
「二人とも喧嘩はやめてよ」
 喧嘩、なのだろうか。悠太からすれば妹たちがただ諍いを起こしているだけのように見えるのかもしれないが、実際はそんな生易しいものではない。
 前提が違うのだ。
 喧嘩とか諍いとか、まして争いでもない。これは女の本性をぶつけ合った狂愛。
そういう意味では亜美と桜の仲はこれ以上ないほどに良好。
もし愛しい人の相手が違っていて、全くの他人として出会っていたならば、二人は親友にすらなれていただろう。
根源は、同じものなのだ。
「お兄ちゃん」
 場に声が広まる。どこを見ているの、とでもいいたげな。
 悠太は、桜を恐々と窺っていた。屋敷でのことが気になったからだ。
 亜美は何も知らない。が、虫を見ている兄は嫌だ。
 けれど、視線は彼を見ていない。桜から逸らすことを嫌っているかのように一点を睨みつけている。気配だけで兄の目線の行く先まで感じ取った。
 逆に、桜は僅かにうれしそうに頬を緩めた。
現れて初めて見せた、作り物ではない本当の笑顔。綺麗過ぎる笑顔。まるで、亜美のことなど眼には入っていないかのようだ。
 彼女からすればこの状況でも、悠太以外はどうでもいいのだ。亜美のことなど頭にも入っているか疑わしい。
 同じ妹の、同じではない感情。 
 空気が凍り、一人の動きを止めている。動けるのは狂気を燃料にしている二人だけ。
 他には何もない。風も音も、何も。
 けれど、違いはある。
 失礼な話、二人は噛み付く犬とそれを笑ってたしなめている飼い主を連想させる。
 前者は亜美で、後者は桜だ。
 それほどに桜は落ち着いていて、屋敷での出来事などなかったかのように平然としていたのだ。
これが女性特有の強さなのか。静寂は時を止める。
 もしそうなら――。
 正直、ほっとしたという気持ちはある。
 何に対して、といえばもちろん不甲斐ない自分に対する罪悪感や妹たちをこんな状況にさせている状況について。
けれども、あとひとつ。考えてはいけない気持ちもあるのだ。


401 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:55:04 ID:J8kpAOP6

 それは倫理。
 桜と性交寸前までいったことに対する体裁ではなく、悠太が桜のことをどう思っているかという思考に付きまとうもの。
 そう。わからなく、なった。
 自分が。
 初めは複雑だったにしろ、今までは桜のことは、大切な妹としてみていたし、一人の家族としてかけがえのない存在だと思ってもいた。
 そういう意味では、間違いなく好きだ。胸を張って言える。
 でも、桜からの求愛を受けて迷う気持ちがあったのは、事実。
 奇妙な現実。
 おかしな話だ。
迷ってどうするというのだ。必要ないのはわかりきっているはずなのに。恋などではあるはずもないのに。
 なぜ。
 ――それとも、自分も桜のことが好きだと告げようとでもいうのだろうか。
 あれだけ家族を大事にしてきた自分が手のひらを返したように? 体裁や背徳をすべて背負って? 不義の兄妹と後ろ指を差されながら?
 ――――他の家族すべてを犠牲にして?
 桜と亜美の無言の激突は続く。
 自分がわからない。
 そもそも。妹に対してこんなことを考えていることがすでにおかしいのではないのだろうか。
 もう、考えることが出来ない。
「お前に教えることがある」
 氷を壊す亜美。口を開く。
「何」
「これが、愛の印」
 繋がれていた手が離れる。しかしすぐに悠太の服の裾が掴まれ、亜美が強引に上げた。
 肌が露になる。
 そこにあるのは――。
 歯車が急速に回り、立場が変わる。
 優越感に満ちた表情と嫉妬が逆になる。


402 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:56:51 ID:J8kpAOP6

 悠太の視線は左にいる亜美へ。前にいる桜は震えるが、誰にもわからない。ドレスが点滅する。
 三人の頭の上にあった街灯が点滅しだしたのだ。
 チカチカ。チカチカ。
 そのせいで、辺りはより一層暗くなり、二人の表情が更にわかりにくくなった。寒いのに背中に汗が流れる。意味もなく手のひらを閉じたり開いたりした。
「やって、くれる、わね」
 前のめりになった頭のせいで、前髪が顔に垂れた。闇が桜の声を歓迎して、傘の先が鈍く光る。
 桜の手が柄を強く握った。
 対して、悠太は前を見る。
 桜の顔がある。
 綺麗な顔。
 ――でも、悠太は初めて見る顔。
 後ずさりなどはしない。震えてはいたが。
でも、寒いのは捲くられた服が素肌を外気に晒しているからだ。それ以外に理由はない、はずだ。
 僕は家族を愛している。
 そしていつまでも桜に見せ付けられる、亜美の宝物。桜はただ目を薄くして――けれど睨みつけている。
 そう、これが嫉妬を超えた狂気。
 手当て、というよりもキスマークといったほうが、納得がいく。
白い肌にほんのりと朱。でも確かにある、赤い鞭後などよりもよっぽど印と呼べそうな、跡。
 亜美は表情を変えていない。ほくそ笑んでいない。
けれどなぜか、うれしそうに見える。
 それは悠太の体にキスマークをつけたのが自分だということに対して感じているものではなく、桜が悔しがっていることに感じているもののよう。
 噛み付いた犬。顔をしかめる飼い主。
 ここでやっと服が元に戻った。
 気づけば、亜美が持っていた弁当はどこにもない。いつから。いや、そんなことはどうでもいいはずだ。
 もう、なにがどうなっているのかわからない。


403 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:57:36 ID:J8kpAOP6

「でも、貴方は兄さんと、いいえ―――悠太とキスはしたことはないのでしょう」
 反撃の狼煙。
 それが合図だとでも言わんばかりに日傘が再び開かれる。
 亜美は、動じない。
「どうせ、無理や」
「言っておくけれど、兄さんも私に舌を絡めてきたのだから、無理やりではないわよ」
 亜美が驚きで悠太を見つめる。
「あ、あれは」
「悠太は黙っていて」
 制される抗議の声。けれど、そのまま続けても言い訳にしかなりはしなかった。
「本当」
 わざわざ目の前に来て、見つめてくる瞳。咎めの色よりも、疑問の方が少し強い。
「……」
 何もいえない兄。それは嘘ではないからでは、ない。口に出してしまったら、わからない自分の気持ちが更にわからなくなりそうだったからだ。
 視線を逸らすことでしか答えられなかった。
 また止まる空気。
 桜は微笑。
 やはり、犬は飼い主に噛み付くことしか出来ないのだろうか。
 思案している亜美。唇を指でなぞる。
 亜美が考え事をしている時の癖だ。
「なら負け犬は、あなた」
 突如振り返り、口の端を吊り上げ、指を突きつけた。
 どういうことかわからない。桜が顔を顰め、悠太は戸惑った。
「何ですって」
 いっそ哀れなものでも見るような瞳が亜美に投げられる。笑いすらこぼれそうだ。
 日傘がくるくると回りだす。
 目の前にある頭は何を考えているのだろうか。寄り添うように悠太の隣へと戻る亜美。
「お兄ちゃんに、拒絶されたくせに」


404 :桜の網 ◆nHQGfxNiTM :2007/11/14(水) 01:58:51 ID:J8kpAOP6

 笑う。
 破顔したのは、純白のドレス。止まるのは傘。
「亜美、お前が何で」
 悠太は聞く――が、それはもう正解だといっているようなものだ。
「ほら、やっぱり」
 笑みは更に深く。抱きつかれる。
 閑散とした周囲は喋らない。
「簡単」
 向けられた妹の顔。うれしそうに目が細まった。
「お兄ちゃんが今ここにいることが証拠。もしそんな関係になっているなら、お兄ちゃんがあんな顔をするわけがない」
 つまり、再開した時の表情だけで桜の言葉のすべてを看破したということか。
「お兄ちゃん、ちょっと」
 近づく妹の顔。何かを囁こうとしている。
 状況が状況だけに嫌な予感もしたが、桜は人形のように動かない。地面に立っているというよりも、地面によって支えられていると表現した方が適切みたいだ。
 だから、自分も亜美に顔を近づけて諫めようとした。
 でも、できなかった。
 もう妹は、女だったから。
「――え」
「柔らかかった――――悠太くんの、唇」
 開かれる眼球。
 街頭はスポットライトを二人に絞る。
 合わされた口と口。
 まるで、映画のワンシーンのよう。
「これが、愛」
 濡れた唇が艶かしくも光った。

「負け犬は――消えろ」

 突き抜けた声は、闇の中にどこまでも響いた。
 世界は三人以外、誰もいない。
 街灯にいた蛾はすでに一匹残らず、光の熱に焼き殺されていた。

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最終更新:2007年11月14日 17:35
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