双璧 第7回

144 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:26:24 ID:D6MoraIH
 朝倉直美が右手で握っているナイフは短かった。
 刃渡りは女性の手ほどの長さもなく、刃は薄い。
 まっすぐに刃物を向けられている明菜からは、おもちゃのようにちゃちな代物に見えていた。

「テツ君は私の。他の誰にも、渡さないよ」
 ナイフを持った右手を明菜へ向けてまっすぐに伸ばしながら、朝倉直美は言う。
「そんなもん持ち出してどうする気……って、ひとつしかないか。
 私をここで刺して、殺そうとでも言うんでしょ? まったく、予想以上にとんでもない女ね」

 明菜は普段通りの口調でそう言った。
 だが、内心ではうつむいたままの朝倉直美に対する恐怖に怯えていた。
 朝倉直美が握っているナイフは本物。
 対して、明菜は携帯電話以外何も持っていない。丸腰だ。
 動揺を見せないように演技するだけで、今の明菜には精一杯だった。

「言っとくけど、ここで私を刺したら、あんた破滅よ。
 今まで演じてきた優等生としての自分、成績、友達からの信頼、全部失うことになる」
「うん。そうだよね」
「わかってて、そうしてるの?」
「もちろんだよ。そうでなくちゃ、わざわざこんなものを持ち出したりしない」
 朝倉直美は自分の顔の前にナイフを持ってくると、その刀身を見つめた。
「もう、私決めたんだ。テツ君と、ずっと一緒にいようって。夏休みの間、テツ君に会えなくて寂しかった。
 私はずっと前からテツ君のことが好きだったんだもん」
「ふーん……それ、いつから?」

 明菜は1センチ、いや1ミリずつ動くようなつもりで後ろに下がった。
 急な動きを見せたら朝倉直美が襲いかかってくるかもしれない。
 刺激させないように会話しながら、距離をとって、逃げるしかない。
 今の朝倉直美に対抗する手段は、明菜にはないからだ。

「一年生の一学期の頃。あの時からテツ君のことが好きだった」
「へえ……なんかきっかけでもあったわけ?」
「あの時の私の成績、覚えてる?」
「今と同じ、学年トップでしょ。全部で何点とってたかは覚えてないけど」
「そう。そうなると周りの人たち……先生達はどう思うかな?」
「さあ? 逆の意味で学年の女子で一位の私には経験が無いもんで」
「そっか。……実は私ね、あの頃先生に呼び出されたことがあったんだ。
 内容は、大学の進学先についてのお話……っていうより、お願いかな。
 どこかレベルの高い大学に入って欲しい、先生も協力するから、ってことだった」
「あんたは最初からそうするつもりだったんじゃないの?」
「ううん。私本当は、インテリアデザイナーになりたかったの。
 だから、自分では専門学校に通うつもりだった。そのことについては、一年生の最初の頃にアンケートで答えてた。
 けど、先生はそれが気に入らなかったらしくてね。命令するようなしゃべり方で、大学へ行けって言われた」
「ふうん。で、それとテツ兄がどう関係するの?」
「放課後ね、先生にくどくど言われた後、教室に戻ったの。かばん置いたままにしてたから。
 もう最悪の気分だった。自分のやりたいことを否定されたんだもん。
 どうしてもデザイナーになりたかったわけじゃないけど、お父さんみたいに弁護士にはなりたくない。
 だから自分が興味を持てることを見つけたっていうのに、先生は否定した。
 嫌な気分で教室に戻ったらね……テツ君が居たの」



145 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:27:51 ID:D6MoraIH
 朝倉直美が、ここで顔を上げた。いつもと変わらない笑顔で笑っている。
 たった今右手にナイフを持っているというのに、まったくそのことを意識していないようだ。
 普段明菜が目にしている朝倉直美、そのままだった。
 しかし、普段と変わらないことがかえって明菜の恐怖を煽った。
 普段と変わらない日常の中に、狂気が潜んでいる。
 朝倉直美の中には、狂気が棲み着いている。

「そのころの私、テツ君とはただのクラスメイトとしてしか意識してなかった。
 ただちょっとだけ成績のいい男の子、ぐらいにしか思ってなかった」
「そういえば、そうだったわね」

 一年前、哲明と明菜と朝倉直美は同じクラスにいたのだった。
 明菜は哲明をずっと見ていたため、哲明によく接近する女をすぐに見つけることができた。
 そして、一年生の一学期のころまで哲明と朝倉直美はほとんど接点がなかった。
 哲明と朝倉直美が仲良くなり出したのは、一年生の二学期ごろからだった。

「もちろんそこでテツ君に会ったからってなにかがあったわけじゃないよ。
 ただね、先生にいろいろ言われたあとで見るクラスメイトの顔は、なんだか安らぐなあ、って思っただけ」
「テツ兄の顔を見てると平和ボケしそうなのは事実だから、それも無理無いかもね」
「その次の日も、私は先生に呼び出されて進路についての指導を受けた。
 でも、その日の放課後もテツ君は教室にいた。どうしてなのかは、わからないけど」

 明菜はふと思い出した。
 哲明が放課後に残ることはよくある。それは姉から呼び出しを受けているからだ。
 なぜか知らないが必ず下駄箱に手紙を入れる、という形で哲明に呼び出しをかける姉は、
放課後の教室を待ち合わせの場所に指定していた。
 明菜は無論姉の行動を止めようとしたのだが、知らぬ間に手紙を入れていく姉のせいでいつも失敗している。
 姉が哲明を呼び出すという行為がまさかこんな展開を生み出すとは、明菜にとっては予想外だった。

「もしかしたらテツ君は、誰かに呼び出されて教室に残っていたのかもしれない。
 それはもしかしたら女の子からの告白の待ち合わせだったのかもしれないけど――私はそれでもよかった。
 先生に何か言われても、放課後になればテツ君に会える。それが嬉しかった」
「なるほど。それからテツ兄のことが好きになりだしたってわけね」
「違うよ。テツ君に進路のことで相談するようになってから。
 私、どうすればいいのかわからなかったんだ。自分の就きたい仕事は夢というほどじゃない。
 だったら、先生の言うとおりにしてもいいんじゃないかな? って、テツ君に言ったの。
 そしたら、テツ君なんて言ったと思う?」
「私が知るわけ無いでしょ」
「自分のやりたいことをしたほうがいい、って言ってくれたの。
 簡単な答え、ありふれた答え、って思ったけど、私にとってはそれが一番聞きたかった言葉だった。
 お父さんとお母さんは何も言ってくれないし、先生は進路を押しつける。
 私の味方をしてくれたのはテツ君だけだった。――だから、私はテツ君のことが好きになったの」

 誇るように、朝倉直美は言った。



146 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:28:49 ID:D6MoraIH
「だから、テツ君を手に入れるためなら、私はなんだってするつもりなの。
 それこそ、明菜ちゃんをこの場で傷つけてでもね」

 朝倉直美は右手を持ち上げた。ナイフの先端が、明菜へと向けられる。
 その刃は震えることなく、離れた位置にいる明菜の顔の中心を捉えていた。

「本気……みたいね」
「うん。どうしようもなく、本気。どうなったっていいもの。優等生としての評価も、進学も。
 テツ君がいたから今まで持ち続けていられたものばかりだから」
「私が死んだ、って聞いたら、テツ兄悲しむだろうなあ」
「最初のうちはそうだろうね。だけど……すぐに忘れさせてあげるから大丈夫。
 明菜ちゃんのことも、先生のことも。私のことしか考えられないようにしてあげるの。
 テツ君を私の部屋に閉じこめて、ベッドに縛り付けて、一緒に寝るの。
 私、いっぱい、いっぱい勉強したから、絶対に毎日満足させてあげられる」
「あんたなんかに、テツ兄がなびくとでも思ってるの?」
「もちろん。証拠だってあるよ」

 朝倉直美は自分の携帯電話を取り出すと、明菜に向けた。
 画面に表示されているのは、哲明と朝倉直美が腕を組み合っている画像。
 写真の中の朝倉直美は、今このときと同じ笑顔を浮かべていた。

「ほら、この写真」
「その写真は、あんたが無理矢理テツ兄と腕を組んだ写真でしょ? それが何の証拠に……」
「この時のテツ君の顔、照れてるでしょ?」

 朝倉直美の言うとおり、画面に映っている哲明の顔は困った顔をしていたが――顔色は赤くなっていた。
 そして目線はカメラではなく、あらぬ方向へ向けられている。
 哲明が照れている様子は、しっかりと写真に写っていた。

「わかるでしょ? テツ君が、私に抱きつかれて喜んでいるってこと。
 2人はどんな関係? って写真撮ってくれた人に聞かれて、私が恋人です、って答えたら、
 テツ君すっごく恥ずかしそうにしてたもん」
「なによ、そんなの。私なんか、テツ兄に昨日の夜抱いてもらったのよ?」
「それ、証拠ないじゃない。さっき明菜ちゃんが送ってきた写真、あれなんかテツ君が寝てるときに簡単に撮れる。
 そこにテツ君の意志があった? 本当にテツ君から抱きしめてくれた?」
「う……」

 明菜は言葉をつぐんだ。否定できない。朝倉直美の言葉は真実だ。
 明菜がひるんでいる隙に、朝倉直美が言葉を続けていく。



147 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:30:17 ID:D6MoraIH
「兄妹って、本当にずるい。子供のうちはずっと一緒に居られるし、自立するまでは一緒に住まなきゃならない。
 しかも、明菜ちゃんは双子。テツ君とそっくりの顔をしてる。実はね、私それが一番許せないんだ。
 テツ君とほとんど同じだなんて、許せない。先生以上に、許せないよ。
 ……ねえ、明菜ちゃん。私、お願いがあるんだ」
「なに、よ」
「明菜ちゃんの中の、テツ君を全部頂戴。テツ君の記憶、テツ君とそっくりの顔、テツ君と同じ血」
「はあ……っ?!」
「そうでもしなくちゃ、おさまらないもん。この、汚い嫉妬心。
 ……今まで我慢してたのになあ。一度吐き出すと、止まらないね」
「私の中のテツ兄を、全部あんたに……?」
「そう。大丈夫、痛いのは少しの間だから」
「ふっ……ふふっ、あっはははは……」

 明菜の口から笑い声が漏れた。口を押さえてはいるが、それでも声は抑え切れていない。
 こらえきれず、明菜は廊下に手と膝をついた。
 突然笑い出した明菜を見下ろして、朝倉直美は顔をしかめた。

「何がおかしいの、明菜ちゃん」
「何がおかしいって……? あんたの言ったことの、ふっくくく……馬鹿さ加減がね……あはははははっ!」
「私、本気だよ? 本気で明菜ちゃんを壊しちゃうよ? できないとでも思ってる?」
 朝倉直美の言葉には応えず、明菜は首だけを振った。
「そうじゃない。そうじゃなくってさ。――久しぶりに思い出したのよ。この感覚」
 わけがわからない、といった顔で朝倉直美は首をひねる。
「私の中のテツ兄を奪う? 私からテツ兄を奪う? そんなこと、絶対にさせないから」

 明菜はゆっくりと立ち上がった。
 正面から朝倉直美のナイフと向き合う。先ほどまで残っていたはずの恐怖心など、微塵も感じられない。

「テツ兄は私と姉のものだけど、本当は私、テツ兄を独占したいのよ。だって、昔はそう思っていたんだから。
 テツ兄のお願いで3人一緒に仲良くしてるけど」
「テツ兄テツ兄って、軽々しくテツ君のことを呼ばないで」
「軽々しいのは、あんたの方よ。朝倉直美」

 明菜が一歩足を動かした。後ろではなく、朝倉直美の方向へ向かって。
「テツ兄にくっついていいのも、テツ兄とデートしていいのも、全部私だけ。――いえ、私と姉だけ。
 気に入らないのよ。相談したのがきっかけで惚れたとか、そんな理由でテツ兄に近づいてっ!
 あんたなんかに…………あんたなんかに、テツ兄は渡さない!!!」

 2人の会話はそこで終わった。
 片方は哲明が欲しい。そしてもう片方も哲明が欲しい。
 どちらもそれを譲るつもりはない。
 こうなってはもう、どちらかが諦めるしかない。
 そして、朝倉直美も明菜も諦めるつもりはない。

 だから、2人は単純な形での決着を望んだ。
 ――最後まで生き残った人間の勝ち。
 朝倉直美はナイフを順手に握り、体の前に構えた。
 明菜は飛び込んできた瞬間に携帯電話を投げ牽制し、取り押さえようと待ち構えた。
 そして沈黙。場に遠くから聞こえてくる生徒達の声と――階段を駆け上がってくる音が響く。
 2人はその足音を気にも留めなかった。場の緊張感が、下手に動くことを許さなかった。
 だから、足音の主の正体に気づくのが遅れた。



148 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:31:15 ID:D6MoraIH
 その人物は、階段を上がり切った途端に、明菜と朝倉直美の間に流れる尋常ではない緊張感に気づいた。
 女2人がにらみ合っていて、しかも片方はナイフまで持ち出しているのだ。
 2人に関係の無い人物であれば、その場で回れ右して階段を下りていったことだろう。
 だが、階段を上ってきた人物は、引き返すどころか2人の間に割って入ったのだ。
 明菜と朝倉直美が驚きの表情を見せる。

「テ、テツ兄! ……なんで、ここに……」
「テツ君…………」
「明菜……朝倉さん」

 闖入してきたのは、哲明だった。
 朝倉直美と向き合い、明菜に背を向ける形で両手を広げて立っている。
 その顔は緊張感に満ちている。2人の間に流れている空気を敏感に感じ取ったからだった。

「2人が教室にいないから探しに来たんだよ。5時限目は自習だったから」
「なんで、わざわざ探しに……」
「さっき、俺と明菜が……キスしようとしてる画像を見せられてさ。明菜を問い詰めようと思ったんだ。
 あんな写真、明菜じゃないと撮れないだろ? だけど送ったのは明菜じゃなくて俺だって言うから、
 わけがわかんなくってさ。おかげで探しにくるきっかけになったから、いいけど」
「来ない方がよかったのに。今の朝倉の様子を見れば、今がどんな状態かわかるでしょ?」

 明菜の言葉に対して、哲明は振り向かないままうなずいた。
 正面に立つ朝倉直美の右手、そこに握られているナイフを見る。
 あまりにも小さなナイフだった。だが、そのナイフの存在だけでもこの場の緊張感を説明するには十分すぎた。

「朝倉さん」
「なに、テツ君」
「どうしてこうなったとか、どっちが悪いのか、とかは後で聞く。そのナイフを、俺に渡してくれ」
「……どうして? あ、テツ君が明菜ちゃんを壊してくれるの?」
「壊す?」

 哲明の顔が疑念に歪む。朝倉直美の言っていることの意味がわからなかった。
 しかし、壊すという言葉と、ナイフを明菜に向けている状況から、意味はすぐに浮かんできた。

「そんなこと、俺はしない」
「妹だから?」
「妹じゃなくても誰が相手でも、人を傷つけたりはしない――したくない」
「そうだよね、それが普通。でももう、今は普通の状態じゃない。異常なんだよ」
「……いや、まだ戻れる。朝倉さんがそれを手放せば」
「戻らないよ。私、明菜ちゃんが羨ましくて、憎くて、どうしようもないんだもの。変わりようがないよ」
「その気持ちは変わらなくてもいい。ただそのナイフを放してくれるだけでいいんだ。それだけで、いつも通りに戻れる」
「……いつも通り?」

 朝倉直美はここで、唐突に悲しそうな顔を見せた。
 薄く笑い、目を細めた。視線は哲明の目に固定されている。



149 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:32:17 ID:D6MoraIH
「テツ君は、いつも通りが好き?」
「うん」
「私は嫌い。だっていつも通りって、テツ君の隣に明菜ちゃんがいる、あの状態でしょ?
 私ね……今まで黙ってたけど、テツ君のこと好きなんだよ」
「……え」

 突然の告白に、哲明は驚いた。驚かざるをえなかった。
 朝倉直美が自分の恋人だったらいいかもしれない、と考えたことは何度かある。
 だがそれは諦めを込めた想いだった。憧れからくる想いのようなものだった。
 その相手に告白、ましてやこんな状況でそれをされるとは思わなかった。

「好きで、好きで、好きで。どうしようもないの。テツ君の隣にずっといたいの。
 だけど、テツ君の隣にはいつも明菜ちゃんがいる。そしてテツ君は明菜ちゃんにとっても優しい。
 そんなの、もう見てられない。耐えられないもん」
「だけど、それは兄妹だから当然のことで」
「関係ないよ。兄妹だけど、テツ君は男。明菜ちゃんは女。男と女が一緒にいる。
 私にはそういうふうにしか考えられない。ましてや、担任の先生がお姉さん。
 しかも、2人ともが兄、または弟を見る目をしてない。もうめちゃくちゃだよ」
「……考えすぎだ」
「私の考え過ぎだったら、本当によかった。でもそんなことはない。考えすぎだなんてことないんだよ、テツ君」

 朝倉直美がナイフを哲明へ向けた。足を一歩踏み出すと同時、凶刃が哲明へ近づく。
 その行動がどういう意味なのか、哲明にはわかっていた。
 ――そこをどかなければ刺す。

 だが哲明は妹をかばうように両手を広げているだけで、顔色を変えない。
 一歩もそこから動かない。

「やめてくれ。どんな理由があろうと……明菜が傷つけられるのを放ってはおけない」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
「ますます許せないな……そんな必死なところを見せられたら。
 どかないんなら、テツ君を気絶させてでも、私はやるよ」
「俺を刺してっていうこと?」
「そうだね、そうしてもいいよ。テツ君が生きて居さえすれば、それでいいもん」
「なっ……! 朝倉っ! あんたいい加減にしろ!」

 明菜が哲明を強引におしのけて前に出た。
 明菜の睨みと怒号が、朝倉直美へ向けられる。

「あんたテツ兄の気持ちをなんにも考えてない! 生きてさえいればそれでいい? ふっざけんじゃないわよ!」
「だって……そうでもしなければ、テツ君は私のこと見てくれない。
 全部明菜ちゃんと、先生のせいだよ……2人がいなければ! テツ君は私のこと見てくれる」
「人を傷つけるような女になびくほどテツ兄は馬鹿じゃない! 甘く見るな!」
「そんなの……テツ君が私だけを見てくれるようにすればいいだけ」



150 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:33:02 ID:D6MoraIH
 突き出されていたナイフが、唐突に後ろへ引いた。
 しかしそれは刃を収めるためのものではない。
 朝倉直美が威嚇するのをやめたのだ。
 すなわち、その刃を振るうための準備だった。

「そのために、こうするの。明菜ちゃん、バイバイ」

 ナイフを腰に構えたまま、朝倉直美が突進した。
 進路の先にいるのは、明菜。
 だが、最初から気が立っていた明菜は突然の動きにも反応することができた。
 足を一歩引き、朝倉直美との距離を離す。
 目の前に迫るのは、うつろな目をした無表情。
 朝倉直美を迎え撃とうと、明菜は拳を構えた。

 ――一瞬の既視感。

 明菜の身に、寒気と後悔が甦ってくる。
 このままぶつかり合えば、どうなるだろう。
 刃物を持っている人間、素手で待ちかまえる人間、どちらが倒れるだろう。
 答えはどちらでもなかった。
 明菜は、どちらも倒れはしないと気づいた。
 今も昔も、目の前の空間に飛び込んでくる人間がここにいると、その人間は必ずそうするのだと、思いついた。

 目の前に、兄の背中が見えた。
 握りしめていた拳から力を解こうとするわずかな時間。
 その短い時間に、哲明の体がわずかに揺れた。

「テ、ツ……君……?」

 朝倉直美の声が聞こえた。声は固かった。そして震えていた。
 突然、視界が開けた。哲明の体が倒れたのだ。
 視界の中にいるのは朝倉直美だった。
 彼女の右手も、左手もからっぽだった。朝倉直美は何も持っていなかった。
 代わりに、赤い液体が手に付いていた。

 それが血であると気づいた瞬間、明菜は膝の力を抜き、その場にくずおれた。
 声は出ない。右手を、倒れている兄の背中へと伸ばすだけ。
 今の明菜にはそれしかできなかった。

「……テツ、にい……ちゃん……?」

 兄が倒れている姿を見るのは、2回目だ。
 1回目は、かつて自分が兄を刺してしまった。
 そのときの兄は、苦しそうな顔をしていた。お腹から大量に血を流していた。
 兄の血は、まだ小さかった自分の手を真っ赤に染めていた。
 今の朝倉直美の手がそうであるのかは確認しようがない。
 また兄が倒れてしまった。きっと血を流している。早く助けなければ。
 けれど、明菜の膝は折れたまま動こうとはしてくれなかった。



151 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/21(火) 23:34:42 ID:D6MoraIH
 朝倉直美はふらふらと、後ろへと下がっていた。
 その背中が、手すりに付く。
 離れた位置にいるのは、哲明と、彼の妹の明菜。
 哲明はうつぶせに倒れたままで動かない。明菜は膝をついて力なく手を伸ばすだけ。

 自分の手を見下ろし、何も持っていないことに気づき、朝倉直美は目を疑った。
 あれだけしっかり握っていたはずなのに、どこへいってしまったのか。
 いや――わかる。
 いきなり目の前に飛び込んできた哲明。自分は止めようもないまま、勢いよく右手を突き出した。
 その結果、哲明は倒れた。自分の手には、哲明の血が付着した。
 つまり。

「私が、テツ君を……刺した……」

 朝倉直美は自分のしたことに後悔するのではなくて、この結果を信じなかった。
 自分は明菜に刃を突き立てようとした。
 あの薄い左胸に突き刺せば、心臓まで刃が達するはずだった。
 しかしそうはならなかった。
 実際は、哲明の腹にナイフが刺さった。
 もしかしたら、腹ではなくみぞおちかもしれない。
 朝倉直美は全力で刃を突き出したのだ。
 必ず、胴体のどこかに刺さったはずだ。

 こうなるはずではなかった。
 今頃、哲明の倒れている場所には明菜が倒れているはずだった。
 自分はその結果を導くために行動したのだ。

「なんで、うまくいってないの……?」

 朝倉直美の行動は、一つも思い通りの結果をもたらさなかった。
 哲明との既成事実を作るために、何度も考えて練った策は、明菜に見破られた。
 明菜に向けて振るったナイフは、哲明の腹部を貫いた。
 何かがおかしい。朝倉直美はそう思った。

「嘘だよ、こんなの。現実じゃないよ。きっと、そう――夢だよ、これは」

 朝倉直美は現実逃避した。
 そうすれば、倒れている哲明も、顔面蒼白の明菜も、夢の産物だと考えることができた。
 首だけで後ろを振り返る。背後にあるのはコンクリートでできた手すり。
 身を乗り出して見た視線の先――下には、地面があった。
 現実であれば、そこに向かって落ちれば死ぬだろう。
 だが、自分は夢を見ているのだ。
 だから、落ちて、目を覚ました時、そこは自分の部屋のはずだ。
 そこまで考えて、朝倉直美は手すりの上に乗った。
 手すりの上で立ち上がり、目を閉じる。
 夢の中とはいえ、やはり落ちるのは怖い。
 けれど、落ちるのは一瞬だ。それさえ過ぎれば、いつもの柔らかいベッドの上で目を覚ます。
 だから、穏やかな気持ちで、朝倉直美は後ろへ向かってジャンプした。

 その瞬間、彼女は愛しく想う男の声を聞いた。
 男の声に深い安らぎを覚えながら、朝倉直美の意識は闇へと落ちていった。

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最終更新:2007年10月21日 00:16
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