356 __(仮) (1/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:19:58 ID:edh8iYVB
中間考査明けの五月の最後の土曜日。梅雨入りの気配を感じさせる前日の曇天からうってかわって、
抜けるような青空と、やわらかな陽光の差す澄み切った空気の中。
秋巳と葉槻透夏は、電車に揺られていた。電車の中はこれから行楽地に向かうのだろうか、
家族連れや学生らしき人たちのグループが陽気にはしゃぐ姿、恋人同士が寄り添っている姿がちらほらと散見された。
そして、秋巳と葉槻透夏もご多分に漏れず、その集団のなかの一員であった。
どのカテゴリに属するかについては、両者の間で意識のずれがあったかもしれないが。
ふたりで電車のドアに寄りかかるように並んで立っていると、葉月透夏が車両の前方を指さす。
「ねーねー。秋くん。ほら、あそこ見てあそこ。あのふたり、
電車の中にもかかわらず、ちゅーしてるよ、ちゅー」
「ちょ、ちょっと。透夏さん。指ささないで下さいよ。
それと、いくら離れてるからって、聞こえたらまずいでしょう」
万が一、向こうに聞こえていちゃもんでもつけられたら堪らないとばかりに、彼女の腕を慌てて下げる秋巳。
「うんそうだね。こっちも負けてられないよね。はい、秋くん」
と瞳を閉じると秋巳のほうを向き、んー、と口をつきだす葉月透夏。
「人が見てますよ」
「だいじょぶ。だいじょぶ。周りの人は、
ジャガイモか南瓜かなんかだと思っておけばいいから」
そう言って姿勢を崩さず、葉槻透夏がさらに秋巳のほうへ身体を傾けようとしたそのとき。
まもなく駅へ到着することを知らせるかのようにブレーキがかかり、慣性の法則に従って、葉月透夏は秋巳のほうへつんのめってしまう。
結果、慌てて前方に差し出した両手は秋巳の肩へ、そして頭は身長差のため秋巳の首元に収まり抱きつく形になる。
「ほら。人をからかっている暇があったら、
ちゃんとしっかり捕まってくださいよ」
後ろへ一歩たたらを踏んで、葉月透夏を支えた秋巳が、彼女を元の位置に戻すように軽く押し返す。
それと同時に電車が駅に到着し、秋巳たちの寄りかかる場所とは反対側のドアからさらなる乗客たちが乗り込んでくる。
「ふー。危なかった。あやうく私のファーストキスが、
電車の運転手さんに奪われちゃうとこだった」
「運転手さんって、訳判んないですよ。それにそんなに気にするなら、
そういう冗談はやめたほうが良いですよ」
「ちょ、ちょっと! 秋くん。おねえちゃん、いま、かーなーり!
重要なキーワード言ったよ! ねぇ! つっこむところ違うよね!
あ! でもやっぱり初めてだから、入れる場所間違えちゃうのはしょうがないのかな?」
「とりあえず、落ち着いて。日本語はなしてください」
「もう! 秋くんの意地悪!」
意地悪なのは透夏さんでしょう。秋巳はそうつっこみたかったが、黙って溜息を吐いた。
そもそもふたりで出かけることになったきっかけは、葉槻透夏からのお誘いであった。
中間試験最終日の翌日。例のごとく様子を見に来た葉月透夏は、三人での夕食時、
秋巳と椿が食べ終えるのを見計らったように、話を切り出した。
曰く、今週の土曜日に水族館に遊びに行かないか。
たまたま無料招待券をもらったのだが、その期日が五月一杯なので、
今週中にいかないと券が無駄になっちゃうし、勿体ない。
だから一緒にどう?
そう彼女はふたりに誘いをかけた。
椿が用事で行けないと告げると、秋巳は「大学の友達でも誘ったらどうですか?」と提案した。が。
「ぜーんぶ断られましたー!」
とふてくされたように言う葉月透夏をまえに、秋巳が付き合うことになったのであった。
と、そこまでが秋巳の認識である。
357 __(仮) (2/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:21:40 ID:edh8iYVB
しかし、実際のところ葉槻透夏に水族館のチケットを渡し、秋巳を誘うように提案したのは、椿であった。
その日、椿と葉槻透夏がふたりで夕食の準備をしている最中のことである。
「ねえ。透夏さん。水族館の無料招待券が二枚あるのですが、
よかったら兄さんと一緒に行ってきませんか?」
「え? 水族館って、先月ぐらいにオープンした?」
「ええ。そのオープン記念のチケットが、今月一杯で期限が切れてしまうんですよ」
「ふーん。でも、椿ちゃんは行かなくて良いの?」
「あら、私『も』行っていいんですか?」
「う……」
言葉に詰まる葉槻透夏。
椿は知っているのだ。彼女が秋巳と『ふたりだけ』で行きたいと思うことを。それこそ何年も前から。
だからこそ、こうやって協力してくれる。
「ふふ。ごめんなさい。ついつい意地悪言ってしまいました。
それに、チケットはふたり分しかないので」
「そっか……」
「それに、いまさら遠慮することではないでしょう?」
これまでも何度か同様のことをしてきているのだから。葉槻透夏の気持ちを知って。
「うん。いつもありがと! 椿ちゃん」
「いいえ。礼には及びませんよ。私がしたくてしてることですし」
「うーん。誤解しないで欲しいけど、私は別に椿ちゃんのことを嫌っているわけじゃないからね。
っていうか大好きだし!」
もう何度目になるか判らない台詞を、いつものごとく口にする。
それは葉槻透夏にとって、まぎれもない本心であった。
葉槻透夏は、秋巳に対して身内としての愛情、男女間の愛情、彼女の持ちうる愛情の全てを向けていたが、
椿に対しても男女間のそれがないだけで、『姉妹』としての情を持っている。
彼女自身はそう思っていたし、それは決して間違いではなかった。
ただ、葉月透夏は自覚していなかったが、秋巳に向ける情念と、椿に向けるそれは、
明らかに強さの度合いも質も異なっていた。
いま葉槻透夏が椿に対して、愛情を向けられるのは、彼女が自分の想いを脅かすような立場にないから。
彼女が秋巳に向ける強い情念――それこそ、恋慕という表現では弱すぎるような――を知った上で、自分に協力をしてくれるから。
秋巳を奪われないと思っているから。『妹』だったから。
これが、もし自分と血のつながった妹だったら。
葉槻透夏は、おそらく、こんな穏やかな気持ちで椿に接することは出来なかったであろう。
自分と同じ、秋巳と恋愛関係に発展して、結婚まで出来る可能性があるのだから。
が、彼女は、椿に自分の想いを告白してからというもの、そんなことをそもそも想像しなかった。
秋巳と椿をちょっと訳ありだがあくまで普通の『兄妹』として捉えており、
彼女の中で秋巳と椿は同じ天秤に乗ることはなかったのだから、気づく術はないのも当然であろう。
秋巳のためなら、椿を切り捨てられることを――。
だから、彼女の言葉は、彼女自身も気づかないその隠れた不安を打ち消すためのものだったのかもしれない。
そうなる可能性はない、と。
すまなそうな顔を見せる葉槻透夏に対して、椿は野菜を刻むその手を止め、口を開く。
彼女の抱える漫然とした不安を取り除いて安心させるように穏やかに瞳を細めながら。
「ええ。それも理解してます。透夏さんには、充分愛されていることを。ただ、それ以上に――」
手にしていた包丁をまな板の上に置く。
「――兄さんのことを、愛しているだけですよね」
だから、大丈夫ですよ。そう言わんばかりに椿は相好を崩した。
358 __(仮) (3/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:23:52 ID:edh8iYVB
その後、秋巳をどう誘うべきか悩む葉槻透夏に対して、椿は提案をした。
自分と秋巳のふたりを誘う形をとり、自分の都合が合わないという事情で、ふたりで行くことにすれば良いのでは、と。
葉槻透夏はその案に頷いた。
確かにはじめから秋巳ひとりを誘えば、彼は妹の椿が仲間外れにされているように感じ、気にするであろう。
結果として仕方なくふたりで行くということになれば、秋巳も誘いに乗りやすいのではないか。
そういう形式でしか誘えないのは、葉槻透夏にとっては若干不満ではあったが、椿との約束もある。
かつて、彼女が自分の気持ちを椿に伝えたときに言われたことを思い出す。
妹の立場としては、透夏さんのような人に兄と付き合ってもらえるのなら、喜ばしいことである。
応援したいと思っている。
ただ、兄はいまそういう気分が起こるような精神状態ではない。
だから、無理をせずに気長に秋巳のことを振り向かせて欲しい。もし、透夏さんの気持ちが変わらないのであれば。
あの兄が心から透夏さんのことを好きになり、そしてふたりが想い合う形で結ばれて欲しい。
きっとそうなるであろうから。
自分としては、あの兄に素直に好意を抱けないけれど、それでも憎んだり、嫌っているわけではないから。
自分の『肉親』だから。
それに、それが自分の大好きな透夏さんにとっても幸せであるんじゃないかと、思っているから。
椿はそう告げた。
その椿の言葉を聞いたとき、葉槻透夏は嬉しさと安堵の気持ちで一杯だった。
椿が自分の幸せを願ってくれている。
自分を応援してくれる、と。
そして、それまで葉槻透夏の脳裏にかすめていた『ひょっとしたら』を打ち消してくれた。
だから、葉槻透夏は椿とのその約束を守っている。
自分としても、秋巳を無理やりどうこうしたいとまでは考えていない。理性の上では。
自身の強すぎる情動に、時折、『暴走』をしてしまいそうになるが。
それでも彼の不幸を望むわけではない。秋巳には、幸せになってもらいたいと思っている。
それゆえ、秋巳の嫌がるようなことは、極力しなかった。
自分の想いは、普段の軽い言動の中に紛れ込ませて。秋巳が冗談だと思えるように。
でもいつかは振り向いてもらえるよう、願いを込めて。
「ほらほら。秋くん。早く入ろう!」
秋巳と葉槻透夏が家を出てから電車を乗り継いで一時間弱。
正確には、彼女の家まで秋巳が迎えに行ってから、ほぼ一時間後。ふたりは目的地である水族館のまえについた。
葉槻透夏が上機嫌ではしゃぐようにに秋巳の手を引き、『開館オープン記念:五月末まで入場料半額』と
書かれた垂れ幕のかかる建物入り口を潜ると、受付へ向かう。
事実、葉槻透夏は浮かれていた。
それまで、秋巳とふたりで出かけること自体あまりなかった。
行ったとしても、それは精々買い物とか日常生活の延長でしかなかった。
それは、秋巳が女の娘とふたりで出かける、いわゆるデートのようなものを好まなかったこともあるし、
葉槻透夏もそれを知っていたから無理に秋巳を誘うといったことはしなかった。
秋巳が葉槻透夏の家を出てしまってからは、秋巳に会いたいときには彼の家に行くか、自分の家に呼ぶか。
幸い両親が、秋巳たちに対して、定期的な訪問の約束をしていたから、口実には事欠かなかった。
彼女は、自分がその役割をやりたいと両親に懇願した。そして、受験が終了してからというもの、
それを建前にことあるごとに葉槻透夏は秋巳の家へ訪れていた。
359 __(仮) (4/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:26:36 ID:edh8iYVB
しかし、彼女とて、普通の男女がするようなデートをしたいという願望がなかったわけではない。
彼女は、秋巳といられるだけで満足ではあったが、日々想いは解消されるどころか募っていった。
彼と一緒に楽しいことをしたい、彼と恋人同士のように触れ合いたい、彼に抱かれたい――。
だから、その日、葉槻透夏は自分を完全には抑えきれなかった。人前で目立つことを秋巳が嫌うと判っていても。
彼女は幸福の絶頂にいた。
触れ合う手から彼の熱を感じる。
腕を組んだらもっと幸せな気分になれるのではないか。
ああ。この手で自分の身体に触れて欲しい。頬に、髪に、首に、肩に、腕に、胸に、腰に、足に、そして、大事なところに。
彼の手と口が自分の体中隅々まで、至る所を這う。
それはどんなに素晴らしいことであろうか。どれほどの快楽を得られることだろうか。
秋巳の口に触れた指で自らのモノを慰めたときの悦楽を思い出す。きっとあんなもの比べ物にもならないのだろう。
透夏は夢想する。
先ほど、彼に勢い余って抱きついてしまったとき。鼻をくすぐった秋巳の香り――いや、匂いといったほうが相応しい――それを思い出し、
彼に抱かれたら、どれほど愉楽に浸れるのであろう。彼の全てを感じたい。自分の全てを感じて欲しい。
『あやうく私のファーストキスが、電車の運転手さんに奪われちゃうとこだった』
この言葉は、葉槻透夏にとって嘘でも冗談でもなかった。秋巳とキスはしたい。でも、秋巳からしてもらわなければ意味がない。
突発的な事象で、それこそ自分の意志も秋巳の意志も介在しないところで、接吻という結果だけ得ても仕方がない。
それでもやはり幸福感には飲み込まれるだろうが、自分は秋巳の心までも欲しいのである。
だからこそ秋巳との『初めて』はすべて彼に与えられなければ意味がない。
「透夏さん? 透夏さん!」
秋巳は受付で処理を終えると、ぼーっとしている葉槻透夏を呼び覚ますように、声をかける。
「……えっ? あ、な、なにかな。秋くん」
「なにかなって、早くって催促したのは、透夏さんじゃないですか。
ほら、入れますから行きましょう」
そう言って、葉槻透夏にチケットの半券を手渡す秋巳。
「う、うん。そうだったね。あ、ね、ねえ! 秋くん。
いまからここの中だけで『恋人ごっこ』しようか!」
そう提案し、秋巳の腕に絡みつく葉槻透夏。
ああ。また彼の匂いに包まれる。
「ちょ、ちょっと透夏さん?」
「まーまー。いいじゃない。こんなところに知り合いがいるわけでもなし。
いつか秋くんが、本当のデートをするときに備えて、そのときにあたふたしないようにね」
当然そのときの相手は自分だけれど。
なんの疑いも持たず、そう信じる葉槻透夏。
「もう。透夏さん。意地が悪いですよ。そうやって、
女の娘に免疫がない男を、からかって楽しむんだから」
秋巳は、そもそも他人の感情の機微に疎いほうではない。
だが、彼女がそう思うように仕向け、それが、秋巳自身の考えのベクトルにあっている限り、秋巳にそれを疑う余地はない。
「ふーんだ。そう思ってるなら、もっとあたふたしておねえさんを楽しませてよ」
(――そして、自分を意識してよ)
葉槻透夏は自分の気持ちに嘘をつくようなことは言わない。大事なところは言わないだけ。
「趣味悪いですよ」
そう苦笑する秋巳。
葉槻透夏は思う。
そんなこといわれなくても判ってる。いまだに自分に関心をそれほど向けてくれない年下の男の子に、これほど惚れぬいて。
それこそ自分のすべてを引き換えにしてでも欲しいと望んでいることに。
「よーし! じゃあ、今日は秋くんを三回動揺させたら、ミッションクリアだー!」
「なんのミッションですか……」
「人生の、よ」
そう満面の笑みを湛えながら、呟く透夏。
360 __(仮) (5/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:29:51 ID:edh8iYVB
「ほらほら、秋くん。あーん」
水族館内の、巨大な水槽に面した喫茶ルームにて。葉槻透夏は注文したパフェを、秋巳はコーヒーを口につけていると。
ふと思いついたように、葉槻透夏が、パフェを一さじすくって、秋巳のほうへ突き出した。
「これも『恋人ごっこ』の一環ですか……?」
もうすでに諦め、吐く溜息も尽きてしまったかのごとく言葉を返す秋巳。
「そうそう。恋人だったら、これくらいの羞恥プレイには耐えられないとね」
「あの、パスはなん回まで?」
「拒否権はありませーん!」
楽しそうにころころと声をあげる葉槻透夏。
椿も、恋人が出来たらこういうことをするんだろうか。複雑な気持ちで考える秋巳。
「あ。ほら。ジンベイザメですよ。透夏さん」
そしてその考えを打ち消すように、水槽のほうへ眼を向けると話を逸らすためにそちらを差す。
「うん。ほんとだね。あれ、二頭いるうち、追っかけてるほうがメスかな?」
「いや、普通はオスじゃないですか?」
「うんうん。そうだよね。はい、あーん」
「まったく逸らされませんね」
「うん。秋くんには、逃げの一手もないから」
そのまま、にこにこと態勢崩さない葉槻透夏。
もう、これは自分がこれを食べるまで続くんだろうなと思った秋巳は、観念したように口を開く。
「はい」
よくできましたとばかりに、葉槻透夏は秋巳の口へスプーンを差し入れる。
秋巳が口を閉じたタイミングで、引き抜かれると思ったそれは、
葉槻透夏が愉快そうにさじをくるくると秋巳の口内で回すという結果に裏切られる。
「ちょ……」
慌てて頭を後ろに逸らし、無理やりスプーンを引き抜いた秋巳は、彼女に抗議の声を上げる。
「どんな嫌がらせですか、それは」
「んー? それは心外なこと言うね。おねえちゃんが、
秋くんに嫌がらせするわけないじゃん」
「もう一杯されてますけど……」
「ひどいっ! 秋くん、そうやって乙女心を傷つけるんだから!」
「どうしろと……」
困り果てる秋巳であった。
透夏は、そんな秋巳を見て楽しそうに微笑むだけ。
(まあ、いいのかな……)
秋巳は思う。
葉槻透夏が自分をからかって、それで楽しんで満足するのなら。
彼女は『恩人』なのだから。
絶望の闇の中から、自分に手を差し伸べ拾い上げてくれたのだから。
なにより椿を救ってくれたのだから。
このくらいで、彼女が満足するなら、自分はきっと我慢すべきである。
自分にとって、このくらい生易しい『義務』ではないか。
秋巳はそう考えた。
「もう秋くんはね、乙女心をもうちょっと勉強すべきだよ!
そんなんじゃ好きな女の娘ができたときに、その娘を悲しませちゃうよ」
(――だから、あたしを悲しませないで)
「透夏さんが、僕に女心を判らなくさせてる筆頭なんですが」
きっとそんなときが来ることはないのだろう、そう思いながら秋巳が応える。
「乙女心はミステリアスなの! ブラックボックスなの!
シュレディンガ―の猫なの! 観測したら死んじゃうんだから!」
「じゃあ、箱をあけないでそっとしておきますよ」
「ダメ! 観測しなきゃ、生ける屍なんだから」
「僕に殺しをしろと?」
「うん。秋くんは、女殺しだから」
そう言って、葉槻透夏はスプーンを見ながら満悦そうな表情を浮かべた。秋巳の唾液がたっぷりと付着したそれを見て。
葉槻透夏は疑問を持たない。秋巳が自分を振り向くようになることについて。
だって、自分がいたからこそ、いまの妹思いの秋巳があるのだから。
それが彼女の自負だった。
361 __(仮) (6/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:31:51 ID:edh8iYVB
* * * * * * * *
秋巳が小学生の頃。彼は、どこにでもいるごくありふれた普通の少年だった。
中流よりは裕福といえる家庭に生まれ。両親と妹、四人家族でごく平凡と呼ばれる生活を送ってきた。
毎日、遊びの時間と給食を楽しみに学校へ通い。
家では、妹の椿をからかってむくれさせたり。
そのくせ、椿がその僅かに他の人と異なる容姿のため他所の子にいじめられているのを見ると、
自分より年上だろうが、体躯が立派だろうが食って掛かった。
自分も椿と同様にその見かけが周囲と多少異なることを理由に、からかわれたり、
小学生特有の無邪気な悪意の言葉に傷つけられることはあったが、
それでも、それについて現在のような劣等感を持つまでには至らなかった。
傷だらけの姿で椿をあやす光景を父親である如月凍也(きさらぎ とうや)に頭を撫でながら誉められたときは、
なんとも言えない照れくささを覚え、なぜか悪いことをしたわけでもなかったのに、
今度は見つからないようにしようと考えた。秋巳が小学五年のころである。
また、秋巳が水無都冬真と知り合ったのは、小学三年のとき。
水無都冬真はいまとは違う性格をしていた。明るいヤツ、楽しいヤツ、暗いヤツ、むかつくヤツといった
小学生ならではの単純な分類で言うなら、彼は『暗いヤツ』に分類された。
その頃は、まだ他人の悪意を疑うといった思考をもたなかった秋巳は、
校庭の片隅でつまらなそうにぼーっと突っ立っている水無都冬真に対して声をかけたのであった。
「ねぇ、そんなとこでなにしてるの?」
秋巳は純粋な疑問から問う。
「…………」
水無都冬真は秋巳の質問に答えない。無視をした。
ここで大抵の小学生ならば『変なヤツ』、『根暗なヤツ』と決め付け、それ以降話し掛けることもしなかったであろう。
現に、いつもひとりでいた水無都冬真に対し、好奇心から彼にからかい半分で声をかける人間はいた。
そして、彼が秋巳にしたときと同じような態度をとると、すぐに興味を無くしたように去っていき、
精々陰で彼のことを貶めるぐらいのものだった。
しかし、秋巳はそれでも、気にした様子も無くさらに彼に話し掛ける。
「ねえ。面白い遊び教えてもらったんだけど、一緒にやらない?」
「…………」
水無都冬真はそれでも返事をしない。ただ、黙って秋巳を見つめているだけだった。
(なんで、こいつは他の奴等とおなじような反応をしないのだろう……?)
彼は不思議だった。
「ねぇ。ほら、行こうよ」
水無都冬真の手を掴んで、ブランコの方へ歩き出す秋巳。それこそ、水無都冬真に断られるなんてことを想定していないように。
「ほら、こうして枠を書いて、陣地を作るんだ。あと一個石ころを用意してね……」
ブランコのところまで来ると、教えてもらったという遊びの説明をする秋巳。
「でさ、ブランコを漕ぎながら、相手が自分の陣地に置いた石を取れなくなったら、負けなんだ。ね、ほら、やろうよ」
(なんなんだ……? こいつは?)
水無都冬真は戸惑いながらも、秋巳に押されるままブランコに腰掛ける。
「じゃあ、俺から置くからね」
秋巳がそう言い、勝手に遊びを始めてしまう。水無都冬真は、秋巳に流されるまま、その言葉に付き従うだけであった。
それが、秋巳と水無都冬真が仲良くなる切っ掛けであった。
水無都冬真は、それからも休み時間、放課後と秋巳に引きずられるだけだったが、家に帰っても両親の喧嘩や、
互いの愚痴を聞くだけであったので、家に帰るよりは秋巳といたほうがましだった。
その『まし』だったことが、いつしか『楽しみ』になり、『望み』になったころ、彼の性格も変わっていた。
どちらかといえば、明るくお調子者で、クラスの笑いを取るような『人気者』としてのキャラクター。
そうなるまでには、二年の歳月が経っていた。
362 __(仮) (7/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:33:42 ID:edh8iYVB
だが、秋巳にとってのそんな当たり前の光景が続いたのは、秋巳が小学六年の夏までであった。
そろそろ夏休みを迎えるにあたって、クラスの生徒たちの話題も夏にどこへ行くなんてことが上り始めた頃。
秋巳が六年になってからクラス替えでできた新しい友達と、小学生らしい下らない話で盛り上がっていたところ、
急に担任に呼び出されて、いますぐ帰宅するように命じられた。
碌に事情も説明されないまま家に帰ると、出迎えてくれたのは、葉槻透夏の父であり、秋巳にとっては父方の姉の夫、
いわゆる伯父である葉槻栖一(はづき せいいち)であった。
出迎えてくれた葉槻栖一に、いきなり抱擁され、しっかりするんだよと囁かれ。
訳も判らないまま連れて行かれたのは病院だった。
そこで伯母に連れられた妹の椿とともに知らされたのは、父である如月凍也の死。
秋巳は一瞬なにを言われたのかさっぱり判らなかった。理解できなかった。
あの優しく自分の頭を撫でてくれた父がいない?
いや、いないのではなく、亡くなった――死んだ、と言われた。
なにを言っているのだ、伯父さんは。
父さんなら、朝、普通に会社に行ったではないか。いつものように、行って来ます、と。
だから、夜にならなければ、帰ってこないはずではないか。こんなところにいるわけがない。
なぜ伯母さんは泣いているのか。手を繋いでいる椿が不安げな顔をしているじゃないか。
父さんと約束したじゃないか。妹を守るって。おにいちゃんなら妹を守ってやれって。
それでも、秋巳からは「あ……」という呻き声のようなもの以外、一切の言葉は発されなかった。
いや、そもそも口を開こうという意志すらなかった。
薄暗く夏だというのに冷たい霊安室で、動かなくなった父と対面したときも、ひと言も喋らず、
その静かな部屋に響き渡っていたのは、伯母のすすり泣くような声だけだった。
「おにい……ちゃん……」
擦れるような声とともに、腕を引っ張られる感触に反射的に振り向くと、
自分と同じくなにが起こっているのかも判らないような無表情の椿の顔があった。
「悲しいの……? お父さん、死んじゃって、泣きたいの……?」
「あ……だ、大丈夫。おまえは大丈夫だから!」
秋巳は自分でもなにを言っているか判らずに、叫んだ。それは、最早口癖に近かった。
椿がまだ小さく、転んで泣きそうになったとき。
椿がいじめられて、学校へ行くのを泣いて嫌がったとき。
椿が親に叱られて、部屋に閉じこもったとき。
「大丈夫。大丈夫だから。兄ちゃんがなんとかしてやるから」
そう妹の頭を撫でながら元気付けてきた。励ましてきた。
だから、椿がその言葉に事情が飲み込めないまま、表情を歪めたその刹那。
自分ですら状況が理解できていないのに、反射的に叫んでしまった。
「おまえには、兄ちゃんがいるからな……!」
伯母である葉槻東(はつき あずま)のすすり泣く声がより一層大きくなる中、そう言って椿の肩を抱いた。
そのとき秋巳は気が動転していたため、疑問を抱かなかった。葉槻栖一や葉槻東に尋ねなかった。
なぜ父凍也が死んだのか。なぜ母の如月茜(きさらぎ あかね)がここにいないのか。
葉槻栖一と東も伝えなかった。幼いふたりの兄妹のことを慮って。
如月凍也が殺されたこと。そして、殺したと思われる母の妹である永津みなみ(ながつ みなみ)が自殺していること。
茜が警察に事情を訊かれていることを。
363 __(仮) (8/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:36:24 ID:edh8iYVB
だが、伯父夫妻の配慮は結果的に裏目に出た。醜聞好きな周囲からの歪められた情報を以って。
曰く、如月凍也は永津みなみと不倫の関係にあった。
曰く、愛憎の末、心中に近い形で永津みなみ――つまりは、秋巳の叔母――に殺された。
そして、哀れな母親と、幼いふたりの兄妹が取り残された、と。
一ヶ月程病院に入院していた母親は、家に戻ってきたとき、人が変わったようになっていた。
それまでは、基本的にあまり子供に干渉せず、どちらかといえば放任主義であった。
如月凍也が休みの日などは、四六時中彼にべったりで、子供が危ないことをしたり、
他人に迷惑をかけたりしない限り、好きにさせていた。
それ以前に葉槻栖一・東夫妻が遊びに来たときなど、あまりのその如月夫婦仲の良さに、
からかい半分やっかみ半分で「妬けるわねぇ」などと言って、葉槻東は、夫の腕を抓っていた。
だが、如月凍也の死から一ヶ月、退院してきた如月茜は必要以上に子供に構うようになっていた。
いや、正確には、子供に、ではなく、秋巳に、であった。
秋巳が出かけるたびに、どこへ、だれと、なにをしに行くのか、なん時に帰ってくるのか、しつこく訊ねる。
秋巳が家にいれば、必要以上に触れ合い、子は親に甘えるものよといって放さない。
そして、椿はそれに反比例するように前以上にほったらかしにされるようになった。
単に放置するだけではなく、半ば敵意をもったような態度をとるようになった。
椿が母である如月茜に呼びかけても返事をしない。なにかしてくれと頼んでも聞いてくれない。
椿が秋巳にひっついていると、なにかと用事を言いつけて、それを聞かないと怒り出す始末。
秋巳はそんな妹に対して、頼みは自分の出来る範囲で叶えてやり、用事を言いつけられれば一緒に手伝ってやるなど、
なにくれとなく助けてあげていた。そんな秋巳の態度が、如月茜を余計に苛立たせる結果になろうとも。
それが、如月茜による椿への虐待へ至るまで、そう時間は必要なかった。
秋巳は、母親の気持ちも判るだけに、その理不尽な態度に対しても、面と向かって対立は出来ずに、
自分が見つけられる範囲で椿を庇うのみであった。
周囲の醜聞を鵜呑みにするしか出来なかった秋巳は、父親を憎み、恨んだ。いままで父凍也を尊敬できる人として慕っていただけに、
不倫などという自己中心的な欲望で、母に、妹に、自分にこんな仕打ちを与えた父親を許せなかった。
だが、そんな異常な生活は長くは続かない。発端は、椿に対する虐待の跡を伯母である葉槻東が発見したことであった。
父親が亡くなり、母親が入院してからというもの、兄妹の面倒を見てやり、
母親が戻ってきてからもなにかと様子を見にきてくれていた伯父夫妻が、この家庭の奇異を見つけることになったのは、
必然の出来事といえた。
椿の身体にあるいくつかの痣について、葉槻東が椿本人に問いただし。
それが母の仕業であることを否定しないと言う形で、椿が肯定したとき。
葉槻夫妻は、如月茜に対して、なんとかして対処をする必要があることを、まざまざと実感させられた。
憐れな如月茜に対して、事を荒げたくないと考えた葉槻夫妻は、母親が落ち着くことを願って、まず彼女に対して再婚を奨めた。
如月茜は器量も良く、若くしてふたりを生んだこともあり、例えふたりの子持ちであることを差し引いても、
本人さえ望めばいくらでも相手はいると思われた。
葉槻夫妻の提案に対し、にべなくつっぱねる如月茜に対して、ふたりは会うだけ会ってみればと度々半ば強引に何人かの男性を紹介した。
しかし、彼女が誰と会おうとも、如月家の生活はなんら変わらない。
秋巳とすれば、母親に必要以上に干渉されるのは窮屈であったが、それでもそれは母の愛情だと感じられたし、
妹の椿にも同じように愛情を注いでくれるのならば、なにも文句はないと考えていた。
父親に捨てられたと感じている秋巳にとっては、歪んだ形であっても家族の愛情を感じられる『いま』を手放したくなかったのかもしれない。
父が自分たちを捨てたのなら。
父が母を捨てたのなら。
自分たちに父は要らない。
家族は三人だけなのだ。
そう思いたかったのかもしれない。
だから、母には椿を疎んじてもらいたくなかった。妹を無視しないで欲しかった。彼女を虐めないで欲しかった。
364 __(仮) (9/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:39:24 ID:edh8iYVB
だが、そう願う秋巳に対して、衝撃を与える出来事が起こる。
秋巳が学校から帰宅すると、いつものように抱きしめて迎える如月茜。その彼女の口がこう紡いだのだ。
「おかえりなさい。凍也さん」
秋巳は言われたことを理解できなかった。いま母はなんと言ったのだ。自分に向かって。
あの男の名前を呼んだのか。
「か、母さん……?」
「どうしたの? 凍也さん。今日は、あなたの好きなシチューを作ってますから。
さ、あの女が来ないうちに食べましょう」
「な、なにを言ってるの? 俺は、秋巳だよ! ねえ、あの女って誰?」
「あの女って……、この家に居座っているあの女でしょう?
私から、凍也さんをとろうとする、あの泥棒猫! みなみ!
あの女、どれほど遠ざけようとしても、しつこくあなたに絡んでくるのよ。
あなたからも、言ってやってくれない? いいかげんにこの家から出て行きなさいって」
そう冷たい表情で、冷徹な言葉を吐く如月茜。
秋巳は理解不能であった。
母はなにを言っているのか。
あの女? この家にいるのは、あとは椿だろう? 叔母さんじゃない!
それに自分は、如月秋巳なんだ! 父さんじゃない。
秋巳は幼いながらも悟った。
母がなぜ必要以上に自分にべたべたしてくるのか。母は自分を見ているんじゃない。
『如月秋巳』を見ているんじゃない。母が自分に見出しているのは、『如月凍也』なのである。
そして椿のことは『永津みなみ』、自分の妹のことと思い込んでいる。
秋巳は、絶望した。
自分のなかで唯一の親であると思っていた、如月茜は、もう自分を見ていない。母の中に自分はいない。椿はいない。
あの憎い如月凍也と永津みなみだけなのだ。
唯一縋った縄を、その結んである根元から切られてしまったかのごとく、秋巳は真っ暗闇の地獄に再び叩き落された。
それと前後して、このまま放置をすれば、椿の命にも関わると危機感を抱き、
もはや自分たちの力だけでどうにかなるものではないと悟った伯父たちによって、如月茜は再び病院へ舞い戻ることとなった。
「ねえ、お母さんは……?」
母が再び入院したその日、学校から帰ってきた椿の第一声がそれだった。先に帰っていた秋巳に向かって。
「お母さんはね。ちょっと身体の調子を崩しちゃって、
いま、お医者さんのところで、それを治しに行ってるのよ。
だからね、ちょっとの間この家を離れるけど、またすぐ戻ってくるから、
おばさんたちのおうちでお兄ちゃんと一緒に待ちましょうね」
秋巳と一緒にいた葉槻東がそう優しく椿を諭す。
秋巳は信じられなかった。なぜ母のことを案じる。おまえは、母親に『永津みなみ』を投影され、疎んじられ、虐げられ、迫害されたんだぞ。
それなのに、なぜ気にする。母がいなくなったのに、なんでほっとした表情を見せないんだ。
秋巳の心はそのとき、ぎりぎりの限界のところまで擦り切れていた。
365 __(仮) (10/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:41:32 ID:edh8iYVB
さらに、その二ヵ月後、如月茜が病院内で自殺をしたと聞いたとき、その心情は振り切れた。
母まで自分を裏切るのか。自分を捨てるのか。
だったら、もう、家族など要らない。自分の家族など、自分を不幸の底へ突き落とすだけではないか。
自分には家族などいない。だから、いなくなっても自分は傷つかないんだ。
秋巳が幼い精神を守るためには、そう思い込むしかなかった。
だから、椿を『いないもの』とした。椿がなにを話し掛けてきても無視をした。
かつて、彼の母親がそうしたように。
それでも、椿は諦めることを知らないかのように、健気に秋巳に付き従った。無視されようとも。存在を否定されようとも。
ただ、やはり、幼い心にそれは耐えがたいことだったのかもしれない。
父に捨てられ、母に捨てられ、それは、椿も秋巳と同様なのである。
その上、兄にまで見捨てられた形になったのだから。
秋巳が椿の存在を否定してから、約一年。彼女は、それでも兄を『兄』として接していたが。
秋巳の心が落ち着き、かつてとは異なるけれども、それでもやっと『妹』の存在を再び認められるようになったとき。
椿の秋巳への呼び方は、かつての『おにいちゃん』から『兄さん』になっており、
そして、実の兄に敬語で余所余所しく接するようになっていた。
秋巳はいまでも後悔をしている。かつての自分を呪い殺したいほどに。椿の存在を殺した自分に。
それでも『秋巳』を殺さなかった椿に対して、彼はなにをしても償いきれないのだろうと考えている。
そして、彼には『恩人』ができた。葉槻夫妻とその娘である、葉槻透夏。
秋巳が不幸に見舞われる前から、葉槻透夏は秋巳に対して恋心を抱いていた。彼女にとって初恋だった。
不幸の当事者からは僅かに外れ、秋巳より二歳年上の葉槻透夏は、
その精神においても秋巳より多少成熟していた。
それ故、彼を癒すことができたのだと葉槻透夏は思っている。
幸いにして、秋巳は葉槻透夏に対しては、ある程度まともに接していた。
世の中全ての人間を忌避するようになった秋巳であったが、彼にとって、葉槻透夏は『家族』ではなかったため、
無視する存在ではなかった。それと同様に葉槻夫妻に対しても。
秋巳の心の中でガチガチに固まった氷塊を、葉槻透夏は根気良く溶かしていった。
彼に疎まれるような態度をとられようとも。嫌われているような言動をされようとも。
秋巳が、かつての自分を取り戻すことを信じて。
それは彼女の執念だった。普通の人間であれば諦めていただろう。
なにをしてもこの子の心は取り戻せない。このままだと、椿の心も壊されるのではないか。
葉槻夫妻ですらそう心配した。
それでも葉槻透夏は諦めなかった。親子の愛や、男女の愛を説くつもりなど毛頭無かった。
ただ、このままでは秋巳が幸せになれない。
秋巳の幸せを。それだけが葉槻透夏の願いであった。
他のことは二の次に、秋巳のことだけを第一に行動した。
それが実を結んだのだと、葉槻透夏は信じている。いまの秋巳があるのは。
彼女にとって、いまや、秋巳は自分の全てであった。葉槻透夏の存在意義。それは、秋巳とともにあった。
秋巳がいなければ、自分のいる意味など無い。いまの秋巳が自分の存在を認めてくれるのだと。そう思うようになっていた。
秋巳が他の女の娘とくっつくなんて考えられないし、秋巳の幸せは自分とともにあることなのだ、と。
366 __(仮) (11/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:43:53 ID:edh8iYVB
だから、秋巳が椿とともに葉槻夫婦の家を出ると言ったときも、葉槻透夏はなんとか耐えることが出来た。
そこまでの信念が無ければ、おそらく、取り乱し、秋巳に縋っていたであろう。
なぜ、自分を置いて出るのかと。
秋巳から、その訳を聴いたときもなんとかこう返すことが出来た。
「そっかー。秋くんも、そこまで考えてるなら、おねえちゃんに是非はないよ。
秋くんが思うとおりにやってみるといいよ。
おねえちゃんは秋くんの幸せをいつでも願ってるから」
秋巳が葉槻夫妻の家を出たいと言った理由。悪夢で上書きされ、良い思い出が残っているとは言い辛いはずの、
かつての如月家に戻りたいと言った故は、再び入院した如月茜へ椿から送っていた手紙であった。
そこに綴られた内容を見たとき、秋巳は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
早く、秋巳と母の三人で暮らした生活に戻りたい。
きっとお父さんも帰ってくる。
だからお母さんも早く帰ってきて。お父さんに会いたいでしょう。
自分は会いたい。お父さんに。お母さんに。お兄ちゃんと一緒に、あの家で。
お母さんは、お父さんに会いたくないの? 早く帰ってきて。
そんな内容の手紙を椿が書いていたことに、秋巳は動揺を禁じえなかった。
あれほど虐待されたのに。あれほど疎まれたのに。兄にすら、その存在を消し去られたのに。
それでも『家族』四人の生活を望んでいる椿の想いを知って。
椿の家族に対する『愛』は、弱い自分の心など計り知れないほど巨大なものなのだと実感させられた。
そして、決意した。
いまでも椿が、あの家に帰ることを望むのなら、戻ろう――。
帰るはずの無い、父と母を待ちつづけよう。
それが少しでも椿への償いとなるのなら。
ある日の深夜。
秋巳は椿に割り当てられている部屋のドアをノックした。
「はい」
部屋の中から返る声。
「椿。僕だけど。ちょっといいかな」
秋巳の自身の呼び方は、他人への興味が薄れていくとともに、いつのまにか『僕』と呼ぶようになっていた。
「兄さん? こんな遅くにどうしました?」
ドアを開け、兄である秋巳を迎え入れながら、訊ねる椿。
勧められるまま椅子に腰掛け、椿に話を切り出す秋巳。
「なあ。椿。おまえは、いまでもあの父さんと母さんが好きか? あの家が好きか?」
恐怖ゆえ、秋巳はその質問の中に自分を含めない。
「どうしたんですか。急に」
「椿の思っているところを教えて欲しい」
「そんなこと――」
椿はいまさらなにを、とでもいいたげな表情で返す。
「決まっているでしょう。好きですよ。父さんも母さんも。
そして、『家族四人』で暮らしたあの家も」
「そうか……」
秋巳にとっては、その回答は想定の内であった。
「じゃあ、いまでもあの家に戻りたいか……?」
椿は、迷うところなど一切みせずに即答する。
「家族ならば、自分の家で過ごすのはあたりまえでしょう?
ただ、私たちは伯母さんたちの好意に甘えて居候させてもらっているだけで」
その答えだけで秋巳にとって充分であった。
だから、戻ろう。我が家に。自分の代わりに冷えてしまった椿の心を取り戻すために。
たとえ、椿が自分を嫌っていたとしても。椿がそれを望むのなら。
そうして、秋巳が高校一年の夏、椿が中学三年の夏、あの悪夢のような出来事から四年経って。
如月家での兄妹ふたりの生活が始まった。
367 __(仮) (12/12) sage New! 2008/01/27(日) 14:46:58 ID:edh8iYVB
* * * * * * * *
秋巳との水族館デートを終え。その後、映画館、食事などに行ったが、葉槻透夏は、
当初の約束どおり水族館を出てからは恋人のように接することは無く、終始いつもの秋巳に対する態度であった。
駅で秋巳と別れてから、ひとり街頭に照らされる街並みを歩く葉槻透夏。
ひたすらに今日の余韻に酔いしれていた。
なんて甘い蜜であったのだろう。あの味を知ってしまったら、もう戻れない。まさに麻薬のごとき中毒性ではないか。
彼女は、自分の、いや、人としての欲深さを思い知らされる。
一度味を占めてしまうと、同じモノでは満足できなくなる。もっと質の高いものを、より多く、求めたくなる。
葉槻透夏の理性は、自身に注意を喚起をする。
――焦ってはいけない。
――急いてはいけない。
自分が優先するのは秋巳の幸せではないか。自分ひとりの幸せではない。
――慌ててはいけない。
自分の幸せは秋巳とともにあるのだから。
だが、それと相反する気持ちが自分のなかで抑えきれなくなってきていることも自覚している。
だって、あんな幸せを与えられてしまったのだから。感じてしまったのだから。
ほら。あそこを歩く恋人同士なんて、あんなに仲睦まじげに腕を組みながら、
お互いこれ以上の幸福はないといえる笑顔を向け合っているではないか。
あれは、近い未来の自分と秋巳の姿だ。そう信じている。
そんな葉槻透夏の思索を邪魔するように、背後から声がかかる。
「あれ? 葉槻さん? 葉槻さんじゃない?」
後ろを振り向くと、ひとりの男が立っていた。男の出で立ちは一般的にいって『お洒落』と分類されるものであり、
髪型や眉などにも気を遣っている様が一目で見て取れ、その顔立ちも男前といって申し分ないものであった。
「あ。やっぱり。葉槻さんでしょ? いや、吃驚した。
大学で見かける様相と全然違うんだもん。
どうしたのそんなにお洒落しちゃって?」
「え……いや」
葉槻透夏の返事など待たないように、男が続ける。
「いつもさ、キャンパスで見かけるとき、もっと地味な格好してるでしょ?
俺もさ、周りの男どもと言ってたんだよ。葉槻さんって、
派手に着飾ったりしないからなかなか気づきにくいけど、
お洒落したらめちゃくちゃ美人だよなって。
いまのこの格好で大学行ったら、男どもがほっとかないよ?」
(なにを言っているのだろう、この男は――)
葉槻透夏は思う。
秋巳のいないところで、お洒落して、どうでもいいような男たちの目を引いて、自分になんの得があるのか。
「ってか、ひょっとしてデートだった?」
「……いえ」
この目の前の男に、先ほどまでの幸福の一時を『デート』などと括られると、秋巳との思い出を汚されたように感じる。
「葉槻さんって、大人しくてあんまり目立たないから、勿体無いよ」
なんで、あなたたちになんかに愛想を振り撒かなければならない?
「あ、これから時間ある? なんなら、俺と遊びに行かない?」
「いえ。ごめんなさい。ちょっと、急ぐもので……」
「あー。そうなんだ。そりゃ残念。あのさ、じゃ、今度遊びに行こうよ!
いきなりふたりってのは抵抗があるなら、他の仲間たちも誘ってさ!」
「……ええ。機会があれば」
一生無いだろうけど。
「あ! そんときは、いつもの格好でもいいよ。
他のヤロウどもに、葉槻さんのこと意識してもらいたくないしさ」
あなたにもね。葉槻透夏は、心の中で付け加える。
「ごめん。急ぐんだったよね。じゃあ、また、キャンパスで」
そう言って、その男は、葉槻透夏とは逆の、駅の方角へ手を振りながら歩き出す。
「ええ」
葉槻透夏は、それだけ返事して踵を返すと、わずらわしいものから開放されたように、再び家路へと足を向ける。
それから、ふと思い出したように呟いた。
「いまの人、誰……?」