463 【偏愛 第二章・里穂(1)】 sage 2008/01/31(木) 23:44:12 ID:avpWEtMR
お兄ちゃんがおばあちゃんに連れて行かれた日、里穂はずっと泣き通しだった。
いつもなら里穂が泣けばすぐ慰めに来る筈のママは来なかった。
そのほうが里穂にはありがたかったけど。
お兄ちゃんを里穂から取り上げたママの顔は見たくない。
ママは嫌い。おばあちゃんも嫌い。
里穂を置いてきぼりにしたお兄ちゃんも嫌い。
里穂は優しいお兄ちゃんが好きなのに。
……ママが悪いんだ……
いつからだろう。ママはお兄ちゃんに優しくなくなった。
だからお兄ちゃんも里穂に優しくなくなった。いつも怖い顔をするようになった。
パパが生きていた頃は家族四人が仲良しだった。
パパが亡くなっても最初の頃はママは子供たちみんなに優しかった。
パパの分までママが幸弘(お兄ちゃんの名前)と里穂を守るねと言ってくれた。
それなのに……
どうしてみんな優しくなくなったんだろう?
夕方、里穂が泣き疲れた頃、リビングで電話が鳴るのが聞こえた。
お兄ちゃんから電話が来る約束だったのを思い出した。
涙を拭い、急いでリビングへ行くと、ちょうどママが電話を切ったところだった。
「間違い電話よ。失礼しちゃうわね」
そう言ってママは笑う。
里穂は、じっとママの顔を見つめた。
嘘はダメといつも言っているママだけど、ママ自身も嘘をつくことがあると里穂は知っている。
朝、おトイレの前で顔を合わせたお兄ちゃんは、ほっぺたを腫らしていた。
前の日の夜はパパの書斎に電気を消して閉じ籠もっていたので気づかなかった。
「どうしたの!?」
びっくりして訊ねた里穂に、お兄ちゃんは最初「何でもない」としか答えなかった。
それで里穂がママにお兄ちゃんのことを話すと、ママは言った。
「お友達と喧嘩したんでしょう。放っておきなさい」
でも里穂は心配だった。お兄ちゃんが痛そうだったから。
それでもう一度、お兄ちゃんに言った。
「ほっぺたのこと、ちゃんとママに言った? お医者さんに連れて行ってもらおうよ」
「あの女が自分で殴ったのに、医者に連れて行くわけないだろッ!」
その答えは里穂にはショックだった。
お兄ちゃんがこんなことで嘘をつくとは思えない。
でも、ママがお兄ちゃんをぶったとも思いたくなかった。
何か理由があったんだ。ぶたれちゃうほどママを怒らせることをお兄ちゃんがしたのかも。
だけど、どんなに悪いことをしても、ほっぺたが腫れるほどお兄ちゃんをぶつなんて……
里穂のせい?
里穂が勝手にお兄ちゃんを捜しに行って、遅くまでおうちに帰らなかったから?
でも原因は何であれ――ママは自分でお兄ちゃんをぶったのに嘘をついたのだ。
464 【偏愛 第二章・里穂(2)】 sage 2008/01/31(木) 23:45:23 ID:avpWEtMR
いまもまた嘘をついたのかも。本当はお兄ちゃんからの電話だったのに。
……ママは嫌い……
里穂は涙がこみ上げてきたが、それに気づかなかったようにママは微笑んだ。
「ちょうどよかったわ里穂、お話があるの。こっちにいらっしゃい」
ママは里穂をソファに座らせて自分も隣に腰掛けた。
里穂の手をとり、言った。
「ママはね、病気なの」
「病気?」
里穂はびっくりした。ママが嫌いだなんて気持ちは吹き飛んだ。
ママは里穂の眼を見つめて、
「胸が痛くなる病気よ。里穂のことが心配で」
「里穂が心配で……?」
「里穂はパパに甘えられない代わりに、お兄ちゃんにべったり甘えてるでしょう?」
「……違うよ……」
お兄ちゃんとパパが違うことくらい里穂はわかっている。
パパが生きていた頃から里穂はお兄ちゃんが大好きだった。お兄ちゃんはパパの代わりではない。
でもママは首を振り、
「違わないわ。里穂は甘える相手が欲しいの。まだ二年生だし仕方ない部分もあるけど」
里穂の両肩に手を置いて、
「いつまでも甘えん坊さんじゃパパも安心して天国に行けないでしょう?」
「パパ、まだ天国に行ってないの?」
「そうよ。甘えん坊の里穂が心配だから」
「里穂、甘えん坊じゃないよ……」
「だったらもうお兄ちゃんのことで泣かないで。パパだけじゃなくてママも里穂が心配なのよ」
里穂は何も言えなくなった。
パパが天国に行けないと言われて何の反論ができるだろうか。
「言うことを聞かないお兄ちゃんが、おばあちゃんのおうちに行って、ママの胸が痛いのも少し楽になるわ」
ママは里穂の頭を撫でた。
「だからママ、働きに出るの。里穂と一緒に美味しいものを食べたり、里穂が欲しいものを買ってあげるため」
「里穂、欲しいものなんてないよ……」
お兄ちゃんと一緒にさえいられるなら物なんて欲しくない。
でも先回りするようにママは微笑んで、
「里穂はいい子ね。お兄ちゃんのこと以外では我がまま言わないものね」
お兄ちゃんのことだって里穂は我がままのつもりはない。
大好きなお兄ちゃんと一緒にいたいと思うのが、どうしていけないの……?
なのにママはお兄ちゃんを里穂から取り上げようとする。
せっかくお兄ちゃんから毎日電話をもらえる約束なのに、ママは里穂を電話に出させてくれないだろう。
電話に出ない里穂をお兄ちゃんは嫌いになっちゃうかも……
それでも里穂は何も言えなかった。
まだ幼い里穂にとってママに逆らうなど考えの及ばないことなのだ。
466 【偏愛 第二章・里穂(3)】 sage 2008/01/31(木) 23:49:41 ID:avpWEtMR
ママが働き始めたので、里穂は学童保育へ通うことになった。
学校が終わったら児童館へ行き、夜七時過ぎにママが迎えに来るまで過ごす。
学童保育には一年生から五年生まで十五、六人の子供がいた。
男女は半々だが互いに仲が悪く、さらに女子の間では四年生の一人が仲間外れにされていた。
五年生のリーダー格の子に気に入られなかったという理由で。
幸いにも里穂はリーダーの子から可愛がられたが、仲間外れに同調させられるのは嫌だった。
ママが働きに出てもお兄ちゃんがおうちにいれば学童保育に通わなくて済むのに……
口には出さなかったが、里穂のお兄ちゃんに逢いたい気持ちは募るばかりだった。
声だけでも聞きたかったけどママが電話を取り次いでくれない。
自分からかけるには、おばあちゃんの家の番号がわからない。
お兄ちゃんが家からいなくなって、ママは里穂の前で笑顔を絶やさなくなった。
仕事は忙しいけど、やり甲斐があって楽しいと言っていた。
結婚前の会社勤めの経験を活かした「ケイリ」の仕事だそうだ。何をするのか里穂にはわからなかったけど。
ママのためには、お兄ちゃんが家を出てよかったのだろう。
でも里穂が喪ったもの――お兄ちゃんそのもの――は大きすぎた。
年の瀬が近づいて「お友達に出してあげなさい」とママから年賀状を二十枚渡された。
だが里穂が一番、年賀状を送りたい相手はお兄ちゃんだった。
それで思い出した。
今年、おばあちゃんから年賀状をもらっていたことを。
里穂は机の引き出しにしまっていたそれをランドセルのジッパー付きの内ポケットに移した。
以前、お兄ちゃんのランドセルの同じ場所に入れた携帯ゲーム機はママに見つかってしまった。
でもママは里穂のことは何も疑っていない筈だった。
翌日の学校帰りに友達の家に寄らせてもらい、おばあちゃんの家の住所宛てでお兄ちゃんに年賀状を書いた。
漫画が好きで絵が上手な友達で、彼女に教えてもらいながらイラストを描いた。
雪だるまの兄妹が仲良く寄り添っている絵で、可愛らしく描けたと友達は褒めてくれた。
お兄ちゃんが喜んでくれたら嬉しいと思ったけど返事は期待しなかった。
せっかくお兄ちゃんから郵便が届いてもママが隠してしまうだろうから。
おばあちゃんからの年賀状はそのままランドセルにしまっておいた。
それがお兄ちゃんと里穂を結ぶ絆のように思えたから。
春になり、里穂は三年生になった。
新しいクラスで戻川千代美(もどりかわ・ちよみ)という子とクラスメートになった。
千代美はすらりと背が高く、服装はいつもお洒落で、五年生か六年生みたいに大人びて見えた。
一緒にクラスの図書係になったので里穂は千代美と仲良くなった。
「里穂ちゃんって綺麗な髪してるね。千代美が美容師になったらお店のモデルになってね」
そう言って千代美は毎日、昼休みに里穂の髪をブラシで梳かしてくれた。
そして日替わりで色の違うリボンを結んでくれるのが習慣になった。
467 【偏愛 第二章・里穂(4)】 sage 2008/01/31(木) 23:53:01 ID:avpWEtMR
一方、学童保育ではトラブルが起きていた。
いままでのリーダー格の子が学童保育をやめ、仲間外れだった子が最上級生として新しいリーダーになった。
彼女はこれまでの仕返しのようにイジメの煽動を始めた。
日替わりか週替わりで一人を標的に選び、ほかの子をそそのかして仲間外れにしたり悪口を言うのだ。
里穂は幸い標的にされなかったが、リーダーの気まぐれ次第でこの先どうなるかわからない。
やがてイジメの横行は先生たちの知るところとなった。
リーダーは学童保育をやめさせられた。
ほかの子の保護者には先生たちから謝罪があったが、里穂はママの意向で学童保育をやめることになった。
「もう三年生だもの、一人でお留守番できるわよね?」
里穂にはクラスの友達と放課後に遊べるようになったのが嬉しかった。
一番の遊び相手は千代美だった。
千代美の両親は駅前で美容室を経営していて帰宅が遅い。
里穂が千代美と一緒に留守番をしてくれれば安心であるらしい。
千代美には四つ違いの兄がいるが、黙ってふらりと出かけることが多く留守番役としては期待できない。
その兄は千代美とよく似て背が高く、綺麗な顔立ちの少年だった。
しかし眼鏡の奥から里穂に向ける眼差しは、ぞっとするほど冷たかった。
ママに怒られてばかりいた頃のお兄ちゃんよりも暗い、深い落とし穴みたいな眼。
彼が留守がちであることが里穂には救いだった。
家にいても自分の部屋に閉じ籠もっていることが多いが、ときどき用もなく妹の部屋を覗いてくるのが怖い。
「千代美ちゃんのお兄さんって、ちょっとおっかないよね……」
里穂が言うと、千代美は笑うばかりだったけど。
「そうかな? ただのオタクだよ。いまは喧嘩したら千代美が勝っちゃうくらい大人しいし」
ある日の留守番のとき、里穂は自分たち兄妹の事情を千代美に話した。
ずっとお兄ちゃんに会えずにいて寂しいと言うと同情してくれた。
「ママに内緒で会いに行っちゃえば?」
「えっ……、でも里穂ひとりじゃ……」
「大丈夫だよ、もう三年じゃん。千代美がついて行ってもいいけど、水入らずの再会を邪魔したくないし」
「おばあちゃんの家の行き方もわからないよ」
「住所も知らないの? それさえわかれば、お兄(にい)に行き方を調べさせるけど」
里穂はおばあちゃんの年賀状をランドセルから出して千代美に渡した。
千代美は里穂を連れて兄の部屋へ行き、パソコンに向かっていた彼に年賀状を見せた。
「この住所への行き方、教えてあげて」
千代美の兄はパソコンを巧みに操り、すぐに電車の乗り換えと駅を降りてからの道順を調べてくれた。
「里穂のママが仕事から帰るのが七時でしょ、それまでに行って戻って来られるように時刻表も調べて」
追加の要求にもすぐに応え、それぞれプリンターで印刷したものを年賀状と一緒に里穂に渡してくれた。
その眼差しは相変わらず冷たかったけど。
ママの仕事は平日だけなので、里穂がお兄ちゃんに会いに行けるチャンスは夏休みだ。
それまでにお小遣いを貯めて電車賃を準備する計画を立てた。
最終更新:2008年02月04日 23:48