273 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:42:17 ID:8cxbbeuc
白いベッドに白い天井、病室を思わせるような高校の保健室。
朝倉直美が目を覚ました場所はそこだった。
眠気まじりの心地のまま、辺りを見る。
寝ている場所は保健室のベッドの上。体の上には重さを感じさせないタオルケットが掛かっている。
右側には壁。左側には、白い布がベッドを覆い隠すようにしてそびえ立っていた。
朝倉直美は、まず首をひねった。
「あれ……? なんで、私ここに……?」
ついさっき見た、嫌な夢。
頭をひねって考えた、哲明を手に入れるための策を、明菜に見破られてしまった。
逆上した自分が明菜に襲いかかった瞬間、目の前に割り込んできた哲明に誤ってナイフを刺してしまった。
何もかもが自分の思い通りに進んでいない。その瞬間、これは夢だと思った。
だから、目を覚ますために3階の渡り廊下の手すりの上から、飛び降りた。
目を覚ましたとき、毎朝起きるように自宅にあるベッドの上で目を覚ますはずだったのだ。
それなのに、自分は学校の保健室にいる。
朝倉直美は混乱した頭を使って状況把握に努めた。
そして、すぐに気づいた。さっき自分が見ていた光景は現実だったのだ、と。
明菜にナイフを向けたことも、哲明にナイフを刺したことも現実。
「そんな……! 私、本当にそんなことを……」
両手を見下ろし、もう一度思い出す。
自分が持っていたナイフは――望まなかったことだが――哲明に向かって、全力で突き進んだ。
腰だめにナイフを構えていたため、自分の体と哲明の体はぶつかった。
その結果に驚いて体を離したとき、手の中にナイフはなかった。
代わりに、赤い液体――おそらく哲明の血液が付着した。
そして、目の前で哲明は倒れた。膝をついてから、前のめりに倒れていた。
倒れていた哲明の後ろには明菜がいた。明菜はへたり込んだまま、その手を哲明へ向けて伸ばしていた。
全てがはっきりと思い出せた。間違いなく自分が、哲明を傷つけたのだ。
哲明を傷つけた。それを理解した瞬間、朝倉直美は自分の体を抱きしめた。
明菜と口論した際、哲明を傷つけても構わない、とまで自分は口にしていた。
だがそれは、なにかが違っていた。
「嫌、嫌だ……わた、し……テツ君になんでそんなこと……」
震える口から出る言葉が、偽りなき心を語る。
「そんなことしたら、嫌われるに決まってるのに……!」
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。
一度も、一瞬たりとも、そんなことは考えたことはなかった。そんなことは気持ちのかけらも思ったことはない。
あの時気が立っていたからだろうか? それとも、明菜へ脅しをかけるつもりだったからか?
だがどのようなつもりだったとしても、すでに哲明へ告げてしまった。
哲明を傷つけても構わない、と言った。そして、実行した。
「嫌、だよ……いや……いやあああああああァァッ!」
274 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:43:57 ID:8cxbbeuc
頭を抱えて、ベッドにうつぶせになる。体の震えが止まらない。止められない。
がちがちと歯が鳴る。唇から唾液が垂れて、枕を濡らす。
涙は出ない。だが、しばらくして悲しみが心を犯せば、涙がとめどなく溢れてくる。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
テツ君を刺してしまった。この手に持っていたナイフでテツ君のお腹の皮膚を、肉を、内臓を貫いた。
テツ君は生きているの?誰かに手当をしてもらったの?それともまだ別校舎にいるの?
もし、死んでしまったとしたら。
「あ、あああ、うわあああああああああああ、ああああああああっ!」
もう会えないの?もう二度とお話もできないの?
テツ君がいたから頑張れたのに。どんな気分のときも胸を張って、笑うことができたのに。
たった一時の嫉妬心で、取り返しのつかないことをしてしまった。
ごめんなさい――いえ、謝ってももう遅い。どうしようもない。結果が出てしまった。
私がテツ君を傷つけた。死んでしまったかも……しれない。
朝倉直美は声を出さずに泣いた。唇を閉じて、顔を枕に押しつけた。顔を枕に擦りつけた。
涙を止めたかった。自分は泣く資格がない。悲しむべきは哲明の姉と妹だ。
わかっていたが、今の朝倉直美の心を苛む罪の意識は慟哭を吐き出させ続けた。
泣き続ける少女のの背中に、声がかかる。
「……起きたか、朝倉直美」
朝倉直美はびくり、と体を震わせた。驚きで起こったしゃっくりが嗚咽を止めた。
聞き覚えのある声だった。そして今は聞きたくもあり、また聞きたくもなかった声だった。
首を曲げて見上げたその先に、哲明の姉であり、また自身のクラス担任でもある教師がいた。
「先、生……」
「運がよかった、と思うべきだろうな」
「え?」
それはどういう意味だろう、と朝倉直美は思った。
――あ、もしかして!
「テツ君が……?」
顔を輝かせて、朝倉直美はリカを見た。
運が良かった。それはもしかしたら哲明のことを言っているのかもしれない。
だが、期待は裏切られた。
女性教師が口にした言葉は、朝倉直美自身のことを語っていた。
「お前が3階から飛び降りて助かったのは、たまたまお前達の声を聞いた私が2階にいたからだ。
落下してきたお前の足を私が掴めたのは、神のきまぐれ、というやつだろう」
「……あの、先生」
「何だ」
「テツ君は……?」
どうなんですか?無事ですか?という意味を込めて、朝倉直美がリカに問いかけた。
275 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:45:18 ID:8cxbbeuc
リカの顔が曇った。顔は斜め下に向けられている。
何を言うべきか迷っているような様子だ。
沈黙が場を支配して、数十秒。リカがぽつりと呟いた。
「……面会謝絶」
「面会謝絶?」
「今、テツは面会謝絶の状態にある。……それだけしか、お前には言えない」
「嘘……教えて、教えてくださいよ! だって、私、私が……テツ君を!」
朝倉直美が、リカの肩を掴んだ。言葉を続ける。
「私が、テツ君を……あの時に……」
「言わなくてもいい。話は明菜から聞いている。まったく……とんでもないことをしてくれたものだ」
「……ごめんなさい」
「謝るなら、私ではなくテツにしろ。それと……手を離せ。スーツにシワが寄る」
リカがそう言うと、朝倉直美は手から力を解いた。
知らぬ間に、リカの肩を強く握りしめていたようで、しばらくスーツに指の跡が残っていた。
肩のシワを直し、朝倉直美と向き合う。
「今回、お前が起こした傷害事件について、だが」
「……はい」
「学校側からは何も言われていない。だから、私からは何も言うことはない」
「え。どう、して……?」
「その辺りのことは知らない。事を公にしたくない、という判断なのかもしれない。なんにせよ、今回のことは忘れることだ」
「そんな……そんなのって、ないですよ!」
「静かにしろ、朝倉。ここは保健室だ」
「そんなの関係ないです! それより――」
「静かにしろと言っているだろう! 黙れ!」
リカの一喝が、朝倉直美を萎縮させた。
「今回のことで私が何も思っていないと、お前は思うのか? 私が怒っていないとでも?
弟が、テツが――怪我をしたというのに、怒らない姉がいると思うのか?」
「あ……うっ……」
「どうなんだ、朝倉直美!」
「……怒らないはずが、ないですよね」
「わかっているのなら、私の神経を逆撫ですることを言うのはやめろ。……代わりに、私から言うことがある。」
リカは両手を組み合わせ、肘を膝に乗せた。教師の顔で、朝倉直美に言う。
「私はお前のように、男を刺して後悔した女のことを知っている」
朝倉直美が目をしばたたかせた。てっきり説教か何かだろう、と思っていたからだ。
「その女は、とにかくその男のことが好きだった。だから、男を独占したかった。
しかし、男は他の女を見ていた。自分のことなど、少しも見てくれなかった。
だから、男をたぶらかす女を刺し殺そうと、刃物を持ち出した」
じっとしたまま、朝倉直美は続きを待った。教師の語る女の姿が、自分とそっくりだったから。
276 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:48:41 ID:8cxbbeuc
「女が刃物を突き出した瞬間だった。突然目の前に男が飛び出してきた。
その女は憎い女を殺すつもりだったから、手加減をしていなかった。もちろん、刃は止まることなく男に突き立った」
「うそ……」
そんなところまで、同じなんて。
「男はどうにか命を保つことができた。それから、男は……どうしたと思う」
朝倉直美は首を振った。
刺された男が、女を許すわけがない。男は女を憎んでいる。
似たような境遇にある哲明と自分。話の中の女と自分を照らし合わせると、話の中の男と哲明が重なった。
そして、自分を強い憎しみの込もった目で睨み付ける哲明の顔までが勝手に浮かんできた。
哲明に嫌われたくない。その一心で朝倉直美は首を振っていた。
「……男は、女を恨まなかった」
ぴたり、と朝倉直美が動きを止めた。乱れていた髪が、落ち着きを取り戻す。
「男は女を許した。生死の境をさまようほどの大怪我であったにもかかわらず。
それがなぜかというと――男が、その女のことを好きだったからだ」
「……刺されたっていうのに?」
「そうだ。刺されたというのに、男はその女を好きなままでいた。
それは男が優しい性格の持ち主だったからだというのもある。だが、それ以上に男は女のことをわかっていた。
女が刃物を持ち出したのは、自分を思うがゆえのことである、と男は納得した。
それから……その女は、男と憎かった女の2人と一緒に過ごすようになった。めでたしめでたし」
「そう、なんだ……」
「だからどうした、というわけではないのだがな。……明菜から聞いたとき、この話を思い出した。それだけだ。
別に話の中の女と朝倉を比べているわけではない。それに、テツが許すかどうかも、わからないしな」
「……そうですよね。テツ君が許すかどうかなんて、本人に聞かなくちゃ」
「話は終わった。私は帰る。……朝倉、明日も学校に来るんだぞ」
リカは椅子から立ち上がり、朝倉直美に背を向けた。
ベッドの周りを囲っていたシーツを手でどけて、リカは立ち去った。
残された朝倉直美は、また泣いていた。
今度は悲しみからくる涙ではない。希望からくる涙だった。
――哲明が許してくれるかもしれない。
それは小さな希望。もしかしたら道路に浮かぶ陽炎のように儚く、実体のないものかもしれない。
しかし、それだけで今の朝倉直美の心は満たされた。
――テツ君に会いたい。
朝倉直美はそう思って、笑いながら、泣いた。
277 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:53:58 ID:8cxbbeuc
リカは学校を出ると、病院ではなく自宅へと向かい、つつがなく帰宅した。
朝倉直美と会話しているとき、哲明は面会謝絶の状態にあると言っておきながら、なぜ病院へ向かわないのか?
その理由は、たった一つ。
家に、哲明がいるからだった。
「テツ兄のアホ! マヌケ! 頭いいけど人類史上最高の馬鹿!」
「ご、ごめん……」
「謝って済むとでも思ってんの?! 私があの時どれだけ心配したと思う? 死んじゃったかも、って思ったわよ!」
「いやでも……あのときはああするしか」
「だ、か、ら…………その行動がダメだって言ってるんでしょうがっ!」
リカが自室へ戻る際、哲明と明菜が言い争う――正確には明菜が一方的に攻めている――声が聞こえた。
2人を止めようと思い、罵声を吐き出し続けるドアに手をかけた。
だが、結局開けることはせずにそのまま自室へと戻った。
なぜ哲明が無事なのか、説明しよう。
あの瞬間、哲明は朝倉直美の振るうナイフの進路上に割り込んだ。
ナイフは哲明の方向へ向かっていった――が、胴体に刺さることなく、制服をわずかに切る結果に終わった。
ここからが、問題だった。ここで哲明のやったことが勘違いの元になった。
朝倉直美とぶつかった瞬間、哲明はナイフを握りしめた。
もちろん手探りで握った。右手で握ったナイフの部位は、切れ味鋭い刃だった。
当然哲明の手のひらは切れた。哲明の指に数ミリほど刃が食い込んだ。
だが、哲明はナイフを放さなかった。ここで放してしまったら、明菜の身に危険が及ぶと思ったからだ。
左手にナイフの刃を持ち替え、血に濡れた右手の指で朝倉直美の手を握る。
左手を動かしてナイフを奪い取る。朝倉直美の体が離れると同時、握っていた右手を放す。
そして最大の問題点は次。
哲明は、その場でわざと倒れた。
それは賭だった。自分がここで倒れてしまえば、明菜と朝倉直美の喧嘩が収まる、と考えたのだ。
昔に腹を怪我したときのことを思い出して、倒れる演技をしたわけではない。
哲明はそのつもりだった。
その行動が、事実を知らない明菜に昔のトラウマを思い出させる結果になってしまったとは知らない。
278 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:55:26 ID:8cxbbeuc
哲明の問題行動はその後もさらに続いた。
顔を上げた哲明が見たものは、目をつぶり、両手を広げ、手すりの上に乗っている朝倉直美の姿だった。
哲明は跳ねるように飛び起きた。その時には朝倉直美はすでに飛び降りていた。
必死に伸ばした手で、朝倉直美の手を掴んだ。しかし、支えきれずに哲明も引きずられるように落下した。
運良く2階にいたリカのおかげで足を掴まれ、朝倉直美は宙づりになりながらも助かった。
だがこのとき、哲明は朝倉直美の手を掴んでいたのだった。
動きを止めた朝倉直美を支点にして、哲明は回転。
そして、運がいいのか悪いのか、1階の通路へと落下した。床にたたきつけられ、哲明は気絶した。
事の顛末は以上。嘘のようだが本当だ。
哲明の行動は間違ってはいない。間違ってはいないが、明菜を怒らせるには十分なことをした。
――ということがあって、哲明は明菜によってかつてないほどになじられているのだった。
「何なのよ! 朝倉なんかのためにあそこまでして!」
「おい、俺がああしなかったら今頃朝倉さんは」
「今はテツ兄のことを言ってんのよっ! 黙って叱られなさい、このペテン師!」
「ペテン師って……そこまで言うか普通?」
「それなら詐欺師でもいいわよ! あほあほあほあほあほっ! テツ兄のアホったれ!」
リカは自室でスーツから部屋着へと着替えながら、哲明と明菜の声を聞いていた。
これでは私の出る幕は無いな、と思いながら。
明菜の怒声が治まったのは、夕飯の時刻をとうに過ぎたころだった。
279 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:56:44 ID:8cxbbeuc
夜の11時。蝉の鳴き声の代わりに、リリリリリ……という虫の音の聞こえる頃。
明菜とリカは、寝静まった哲明を置いて、リカの部屋に集合していた。
「今回はとんでもなく疲れたわ。まさか朝倉があそこまでするなんて思わなかったから」
「やはり、要注意人物だった、ということだな」
「まったくよ。まあ、二度と変なことはしてこないでしょうけど」
「そうだな」
白い丸テーブルの上に乗っているのは、お茶とオレンジジュースがそれぞれ入っている2つのグラス。
明菜が飲んでいるのがお茶。リカの分はオレンジジュース。
他にはチョコやポテトチップスなどのお菓子類が乗っている。
2人は朝倉直美との対決に勝利したことを記念し、ささやかな祝杯をあげているところだった。
「テツ兄の馬鹿っぷりにはほとほと呆れるわ。私がどれだけ心配したかまだわかってないみたいだし」
「あれ以上やる必要はあるまい。3時間以上は怒鳴りっぱなしだったぞ?」
「全然足りないわよ! 私、テツ兄が倒れたとき本当に心配したんだから……」
「……そうだろうな」
リカはグラスの中身をあおると、テーブルの上にグラスを置いた。
グラスの縁に指先で触れ、いじりながら言う。
「あの時のこと、まだ後悔しているか?」
「どうだろ。あのことが無ければ今みたいに姉兄妹仲良くなってなかっただろうし、
かと言って、テツ兄に怪我をさせちゃったことが良かったとは断言できないし、ね」
「私は……こう言ってはなんだがな、あのことがあって良かったと思っているよ。
テツは、私と明菜が喧嘩しているのを見るのが嫌だっただろうからな」
「……私もどちらかと言えば、そうよ」
「それに、明菜と喧嘩し続けているのもあまり面白くはなかった」
「……変なものでも食べた? いきなり気持ち悪いこと言わないでよ。私ソッチの気はないわよ」
「私だって無い。私はテツ一筋だ」
「当然じゃないの。初めては絶対テツ兄にもらってもらうんだから」
明菜はお茶を飲もうと、グラスを持ち上げた。
しかし中身は空だった。おまけにペットボトルの中身も空。
仕方なく、グラスをテーブルの上の、水滴でできた輪の上に置く。
「朝倉、学校やめちゃうのかな」
「なんだ、やめてほしくないのか?」
「違うわよ。
なんとなく……聞いてみたいだけ」
「何を聞く?」
「テツ兄を刺した時の気持ちと、あと……」
「あと?」
「あとは……」
280 双璧 ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 04:57:43 ID:8cxbbeuc
しばらく黙り込んでから、明菜はふっ、と息を吐いた。
「なんでもないわ。朝倉、学校とっととやめちゃえばいーのにね。自動的に私の成績も上がるし」
「それはない、と断言しようか」
「ふふん、今までは朝倉がいたから学年平均が高かったけど、これからはだいぶ下がるはずよ。
あれだけのことがあったんだもん。どう転がっても成績は下がるわ。
最大のストレスが減った今、私の成績が上がり調子になることは間違いなし!」
「さて、それはどうかな? そう上手くいくと思うか?」
そう言って、リカが笑った。楽しそうに、面白そうに、明菜の顔を見つめる。
「……何? その意味深な笑い」
「誰かさんを見ているとな、かえって元気になるのではないか、と思ってな」
「誰かさんって誰よ。……もしかして私? 朝倉と私が似てるって?」
「そうは言っていないさ。私の勘だよ。気にするな」
「あっそ」
明菜は壁に掛かっている時計を見た。
まもなく日付が変わるだろうという時刻だった。
明菜は立ち上がり伸びをすると、1回だけあくびをした。
「じゃ、私寝るわ。おやすみ、リカ姉」
「おやすみ。……寝ているテツを起こして説教するなよ」
「しないわよ」
「枕元で説教したりもするなよ」
「あ、それいい……なんてね。今日は気分がいいから言わないであげるわよ。じゃあね」
「ああ」
こうして、夜の宴は終了した。
同時に、明菜とリカにとって最大の標的である朝倉直美という女との戦いは、姉妹の勝利で幕を下ろした。
そう、終わったのだ。――と、姉妹は思っていた。
281 双璧~エピローグ~ ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 05:02:13 ID:8cxbbeuc
9月9日、日曜日。天気は快晴。
空に浮かぶ太陽の放つ日差しがプールサイドをじりじりと焦がしていた。
「熱いな……」
「……熱いね」
リカの運転する車で30分ほど走り、明菜とリカは民営の屋外プールへとやってきていた。
このプールは町外れにあるため、敷地が広く設備も充実している。
水の流れるプールや巨大な滑り台、さらには噴水まである。
敷地の周りには背の高いヤシの木が生えていて、造りが充実していることを感じさせてくれる。
今日は今年最後の営業日らしく、夏休みでないにもかかわらず客の入りが多かった。
明菜とリカは2人ともが水着を着ていた。
明菜はスクール水着。胸元に名前などは貼られていない。
起伏の少ない体ではあるが、かえってそれが繊細な体であることを強調していた。
リカの着ている水着は無地のワンピースタイプの水着。一見するとスクール水着だ。
明菜とは対照的に、胸元と尻がウエストより大きい。いわゆる、ボンキュッボンというやつだ。
2人はパラソルの下にあるベンチで、日差しを避けるように座っていた。
今は2人しかいないが、もちろんこのプールには哲明も一緒に来ている。
だというのに哲明がいないのはどういうことか、というと。
「その友達とやらはどこにいるんだ。明菜、なにか聞いていないか?」
「なにも。なにやってんのよ、テツ兄のやつ……今日はいっぱいくっつくつもりだったのに」
「ほう……」
「なによ。その、ほう、ってのは」
「くっつく、というとあれか。その細い体をテツの腕や体に擦り付ける動きの事か?
そんなことをしたらテツの腕が洗濯板で洗われたように荒れてしまうだろうな」
「誰のどこが、洗濯板ですって……?」
「明菜の胸が、だ。お前は止めておけ。代わりに私がやろう。
ふふ……プールの中でくっついて、固くさせて……プールから上がれないようにしてやろう」
「はん、そんな無駄にでかい乳ごときでテツ兄がどうにか…………?」
リカと向かい合って座っている明菜の目が、リカの後ろを見つめていた。
表情がおかしい。最初は額に軽く皺を寄せる程度だったのに、時が経つにつれて怒りの色を濃くしていく。
しまいにはぎりぎりと歯軋りまでする。
リカはさすがにこれはおかしい、と思った。
明菜は先ほどから自分の後ろを見つめている。自分の後ろに何かがあるのだろうか。
くるりと、振り返る。
リカが振り返って見た、その場所には、哲明が居た。
年相応に膨らんだ筋肉、締まった体。その体を隠しているのはトランクスタイプの水着だけ。
しかも下半身だけしか隠していない。上半身は丸見えだ。
これにはたまらずリカも興奮した。動悸が早くなり、少しずつ体が落ち着かなくなっていく。
しかしその興奮は、哲明の左手を見て萎えていった。
左腕に余計なものがくっついていた。不要なものと言い換えてもいい。
哲明の左腕に、自らの腕を絡ませている――ビキニを着た、知らない女がくっついていたのだ。
282 双璧~エピローグ~ ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 05:03:20 ID:8cxbbeuc
「テツ、遅かったな。……で、その女はなんだ。そいつが友達か?」
「私達を待たせておいて、女を連れてくるなんて、テツ兄もいい度胸してるね……?
どう見ても、友達には見えないよね。ただの友達は腕を組んだりしないもんね?」
「遅れてごめん。悪かったけど……そんなに怒るなよ」
哲明が笑顔を浮かべてそう言った。が、真剣みの無い謝罪は姉妹の怒りに燃料を注ぐ結果にしかならない。
明菜はわなわなと頭と肩を震わせ始めた。リカは双眸をきつく絞り哲明を見た。
「待たせておいて、その言い方はないんじゃないの? 誠意ってもんが足りないよ、テツ兄には」
「いくら私でも我慢できないことというものがある。……答えろ、どういうつもりだ、テツ」
「えー……っと、あのー……」
答えられない哲明の代わりに、答えるものがいた。哲明の左腕にしがみついている女だった。
「見てわかんないんですか? 先生、明菜ちゃん。その目で見た、そのままの意味ですよ」
「先生……?」
「明菜ちゃんって、あ! あんた、まさか……!」
明菜が女を指で差した。女が、応える。
「せ・い・か・い。朝倉直実だよ。一発で気づかなかったね。やっぱり、これの効果かな?」
そう言って、朝倉直実は自身の髪を撫でた。
リカと明菜がわからなかった理由は、その髪にあった。
長かった髪が、ばっさりと切られていたのだ。
「長い髪もいいけど、たまには短いのもいいよね。重くないしさ」
「……ふーん。テツ兄に失恋したから切った、ってわけね。殊勝な心がけじゃない。
それなら潔くその手を離しなさいよこの泥棒猫」
「い、や、よ」
「い、や、よ……嫌ですって?」
「だって私、まだテツ君のこと諦めてないもん」
朝倉直実の手が、哲明の左手を握った。目を瞑り、頬ずりなどしている。
「気づいたんだ。きっと、からめ手でいったから失敗したんだよ。
正面から行けば、きっと上手くいくはずだもん。ね? テツ君?」
「いや。ね、と言われても。朝倉さん、手を離して……」
「あん。直実って呼んで。な、お、み」
猫なで声で朝倉直実が哲明を誘惑する。だが、哲明はその誘惑に負けなかった。
強固な精神力で耐えたわけではない。甘い誘惑を掻き消す辛口の視線に気づいたからだ。
283 双璧~エピローグ~ ◆Z.OmhTbrSo sage 2007/08/24(金) 05:05:25 ID:8cxbbeuc
「ぐ……ぎぎ……この、凶器女が……っ!」
「よくも、テツにそんな真似ができたものだな……誰のおかげで今生きていられると思っている」
「テツ君の愛のおかげです。テツ君、私を止めようとしてくれたもんね。大好きよ……テツ」
テツ、と朝倉直実が言った瞬間、二匹の獣が叫んだ。
それには女が、いや人間が出せるとは思えないような類のおぞましさが篭っていた。
姉妹に本能的な恐怖を感じた哲明は、思わず後ずさった。
そんな哲明の手を掴む者がいた。朝倉直実だ。
「さー、行こうテツ君! 最初はあの滑り台から!」
「え、ちょ、今、好きって、えええ?」
「ほらほら、早く行かないと二度と乗れなくなっちゃうよ? あっはははは!」
言い終わると、朝倉直実は哲明の手を取って走り出した。
予想以上の速さで引っ張られながらも、哲明はどうにかついていく。
少しだけ、後ろを見た――すぐに顔を戻した。
後ろからは、当然のように明菜とリカが追いかけてきていた。
明菜もリカも、とても見られるような顔をしていない。あれなら般若の面の方が可愛いくらいだ。
人ごみをかき分け、制止の声を振り切り、足をもつれさせながらも哲明は走り続けた。
そして、思う。
こうして朝倉直実が居て、明菜が居て、リカが居る。
それはきっと幸せなことなのだろう。あまりにも危険が多い幸せだが。
帰ったら絶対に姉妹にどやされるだろうな。やっぱり今日朝倉直実を誘ったのは失敗だっただろうか。
答えるものは居なかったが、姉妹の叫び声や呪詛の声や怒号を聞いていると、答えは自ずと知れた。
「待てえ! 待たんかっ! テツぅぅぅぅぅぅっ!」
「今止まれば、3回だけで終わらせてやるわ! だから待ちなさいよ! テツ兄っ!」
「あはははははははっ!」
朝倉直実の笑い声は、元気だった。
また明日からあの元気な顔がクラスで見られると思うと、嬉しくなった。
ただ、自分が今日生きてプールから帰れるのか、ということだけが哲明には心配だった。
この日、このプールで起こったトラブルは、1人の少年が溺れるだけだったという。
こうして、ある民営のプールは、つつがなく夏の営業を終えたのだった。
おしまい
最終更新:2007年10月21日 00:50